相性値99の彼女
余花 律
プロローグ『あの日、渋谷で』
光、光、光。
どこを見ても、暴力的なほどの光があふれていた。
巨大なビルの壁面を流れる極彩色の映像。
夜空を焦がすようなネオンサイン。
全方位から降り注ぐ、爆音のような喧騒。
渋谷のスクランブル交差点を歩きながら、私は目を回していた。
まるで街全体が、一つの巨大なコンサート会場みたいだ。
『お父さん、見て! ビルが全部光ってる! 音楽もあちこちから聞こえる!』
『ああ、すごいな。これが東京か』
父が圧倒されたように苦笑いを浮かべる。
私は夢中で周囲を見回した。
生まれ育ったノルウェーの、あの静かで厳かな街とは何もかもが違う。
母が、私の銀色の髪を愛おしげに撫でた。
『楽しそうね、トゥーネ』
『うん! 日本、すごい! 大好き!』
十四歳の夏。
家族旅行で初めて訪れた日本。
この国の、この街の熱気に、私は心から魅了されていた。
胸が高鳴り、足取りが軽くなる。
もっと見たい、もっと知りたい。
——しかし。
その瞬間は、唐突に訪れた。
(……え?)
空気が、変わった。
バチッ、バチチッ。
周囲のネオンが不規則に明滅し始めた。
さっきまで耳をつんざくほどだった雑踏が、とぷん、と水に沈んだように静まり返る。
「きゃあああああああああッ!?」
誰かの悲鳴が、静寂を引き裂いた。
一つ、二つ。
やがてそれは、無数の絶叫へと変わる。
私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
気づいたとき、世界は一変していた。
夜空は不気味な紫色に染まり、ビルの輪郭が溶け出したように歪んでいる。
華やかだった街並みは、渋谷の様相は残しつつ悪夢のような別世界へと変貌を遂げていた。
ネオンは毒々しい赤や紫に明滅し、見慣れたはずの看板の文字が、見たこともない異形の記号に書き換わっている。
体が妙に、軽い。
重力が消失したかのような、浮遊感。
自分の体が自分のものではないような、強烈な違和感。
『トゥーネ!』
母が私を抱きしめた。
痛いほどに強い力。その腕が、小刻みに震えている。
父も私たちを庇うように、前に立った。
『何が起きている……? ここは、どこだ?』
父の声が上擦っている。
いつも冷静で頼もしい父が、怯えている。
その事実が、私を何よりも恐怖させた。
——グルルルルゥ……。
低い獣の唸り声が響く。
黒い影が、アスファルトから滲み出るように現れた。
人の形をしていない。
獣のようで、虫のようで、そのどちらでもない。
名状しがたい、異形の怪物。
暗闇の中で、赤い光を宿した双眸だけが、ギラギラと飢えた色で輝いている。
「うわあああッ! 来るな! 来るなぁッ!」
逃げ惑う人々が、次々とその影に飲み込まれていく。
悲鳴。骨が砕ける音。肉が裂ける音。
阿鼻叫喚が、歪んだ街に反響する。
一匹の影が、私たちに気づいた。
ゆっくりと、こちらへ向かってくる。
『来るな!』
父が叫び、私たちの前に立ちはだかった。
だが、影は無慈悲だった。
腕のような触手が振るわれ、父の体を容易く弾き飛ばす。
ドガァッ!
『ぐあッ……!』
『お父さん!』
アスファルトに叩きつけられ、父が動かなくなる。
母が悲鳴を上げた。
影が、邪魔者を排除したとばかりに、私へ視線を移す。
死ぬ。
殺される。
足が震えて、一歩も動けない。
喉が張り付いて、声も出ない。
影が大きく口を開けた。
鋭い牙が、私の喉元に迫る。
(やだ……死にたくない……ッ!)
私は目を瞑った。
——ザンッ!!
鋭利な斬撃音が、空気を切り裂いた。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
目の前の影が、一刀のもとに両断されていた。
黒い霧となって霧散していく怪物の残骸。
その向こうに、一人の青年が立っていた。
深紅の刀を持った青年。
燃えるような、深紅の髪。
宝石のように透き通った、深紅の瞳。
まるで炎そのものが人の形をとったかのような、鮮烈な存在感。
黒を基調とした和風の戦闘装束が、風になびいている。
「——大丈夫か?」
低く、落ち着いた声。
日本語だ。意味はわからない。
けれど、その響きには不思議な安心感があった。
ドゴォンッ!
続いて、重い衝撃音が響く。
金髪の青年が、巨大な盾で別の影を弾き飛ばしていた。
こちらは勇者のような洋風の鎧を纏った、逞しい戦士だ。
彼は明るい笑みを浮かべながら、剣を一閃させ、影を消滅させた。
「和樹! 民間人を先にゲートへ!」
「わかってる!」
二人の動きは、洗練されていた。
背中を預け合い、互いの死角をカバーし合う。
言葉など不要と言わんばかりの、完璧な連携。
戦場に咲く花のように、残酷なまでに美しかった。
深紅の青年——カズキと呼ばれた人が、私を見た。
その瞳に射抜かれ、私は息を呑む。
彼は私に向かって、力強く手を差し伸べた。
「こっちだ、転送ゲートがある。そこを抜ければ安全だ」
言葉はわからなくても、意志は伝わる。
父が痛む体を起こし、母の手を引いた。
私も、二人の後を追う。
「お嬢ちゃん、振り返るな! 前だけ見て走れ!」
金髪の青年が、殿(しんがり)を務めながら叫んだ。
その声に背中を押され、私はただ無心で走った。
心臓が早鐘を打っている。
息が苦しい。
でも、止まれない。
前方に、青白く、神々しく輝く光の渦が見えてきた。
ゲートだ。
ゲートの手前で、カズキが立ち止まり、顎で先を促す。
「ここからは安全だ。先に行け」
私は……思わず、彼の袖を掴んでいた。
なぜそんなことをしたのか、自分でもわからない。
ただ、このまま二度と会えなくなるのが、たまらなく怖かったのかもしれない。
『あなたたちは……?』
震える声で、精一杯の問いかけ。
彼は少しだけ驚いたように目を見開き、ふっと口元を緩めた。
それは、張り詰めていた空気が一瞬だけ和らぐような、優しい表情だった。
「俺たちはダイバーだ。……早く行け」
「おい和樹、急げ! 奥からデカいのが来る!」
「ああ、行くぞ悠介!」
金髪の青年の切迫した声に、カズキが表情を引き締める。
彼は私の手を優しく振りほどき、踵を返した。
父に抱えられ、私はゲートへと飛び込む。
視界が白く染まる直前。
私は振り返った。
深紅と、金色。
二つの背中が、絶望に覆われた街へと、並んで駆けていく。
それは、あまりにも。
あまりにも、眩しい光景だった。
◇
あの日、私は命を救われた。
深紅の剣士と、金色の戦士。
あのアニメのヒーローみたいな二人の姿が、今も瞼の裏に焼きついている。
いつか、あの人たちのようになりたい。
強くなりたい。
誰かを守れる人になりたい。
そう誓った、十四歳の夏。
——そして五年後。
私は再び、この街を訪れていた。
あの人を、探すために。
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