名駅前乾杯ハイボール

成海。

名駅前乾杯ハイボール

​ 名古屋駅、通称「名駅(めいえき)」。

 この街の玄関口は、いつからこんなに空が高くなってしまったのだろうか。

 桜通口を出ると、JRセントラルタワーズが二本の巨塔として夜空を突き刺し、その向かいにはミッドランドスクエア、大名古屋ビルヂング、JPタワーが城壁のように聳え立っている。かつての雑多で平たい駅前の記憶は、再開発という名の重機によって更地になり、ガラスと鉄骨の摩天楼へと生まれ変わっていた。


 見上げると首が痛くなるほどの高さから、無数のオフィスの窓明かりが降り注いでいる。その光の粒の一つ一つに、今の自分と同じように残業し、あるいは成功し、あるいは失敗して頭を抱えている誰かがいるのだろうか。


​「……はあ」


​ 湊健太みなとけんたは、その日何度目かわからない溜息を吐いた。

 吐き出した息は白く濁り、またたく間にビルの谷間を吹き抜けるビル風にさらわれて消えた。

 入社三年目。中堅商社の営業職。二十五歳。

 世間では若手と言われる年齢だが、社内ではもう「新人」という免罪符は通用しない。


 ──はぁ、今日のミスは痛かったなぁ……


 来季の主力商品の発注数。エクセルの桁を一つ間違えたまま、先方の担当者に送信してしまったのだ。送信ボタンを押した瞬間の、あの背筋が凍りつくような感覚。すぐに気づいて訂正の電話を入れたが、担当者の呆れたような声色は、鼓膜にへばりついて離れなかった。『湊さん、疲れてるんじゃないですか? しっかりしてくださいよ』


 上司にはこっぴどく絞られ、始末書を書き終えて会社を出たのは二十一時を回っていた。

​ リニア中央新幹線の工事が進む駅前は、終わらない工事現場のように白いフェンスで区切られている。迷路のような通路を、家路を急ぐ人々が足早に通り過ぎていく。誰もが明確な目的を持ち、自分の帰る場所を知っている顔をしていた。


 健太だけが、この巨大な駅の引力に捕らわれたまま、どこへ向かえばいいのか分からずにいた。真っ直ぐアパートに帰って缶ビールを開ける気にもなれない。かといって、同僚を誘って愚痴をこぼす気力も残っていない。

​ 気づけば、足は名鉄百貨店の方へと向いていた。

 名古屋の待ち合わせの聖地といえば、駅構内の「金時計」か「銀時計」が相場だが、健太にはもう一つ、個人的に心を許している場所があった。

 名鉄百貨店メンズ館前。

 巨大な顎の下まで歩み寄り、健太は足を止めた。


​「よお、ナナちゃん。あんたはいつも立ちっぱなしで大変だなぁ」


​ 身長六メートル十センチ。巨大マネキン人形「ナナちゃん」。

 一九七三年生まれの彼女は、半世紀近くもの間、この場所で変わりゆく名古屋の街を見つめ続けてきた。季節ごとに水着になったり、サンタクロースになったり、時には映画の宣伝のために顎が外れたりゴジラに踏まれたりと、体を張った芸で道行く人を楽しませている。


 今日のナナちゃんは、何かのキャンペーンなのだろう、全身金色のスパンコールドレスを纏っていた。派手だ。名古屋の夜に負けないくらい、圧倒的に派手で、そしてどこか孤独に見えた。

 多くの人がスマホを向けて写真を撮っていくが、ナナちゃんは無表情で一点を見つめている。

 その視線の先にあるのは、再開発の工事現場か、それとも遥か未来の名古屋か。


​「俺もさ、ナナちゃんみたいにデカくて強ければ、失敗の一つや二つ、笑って飛ばせたのかな」


​ 独り言が口をついて出た。

 金色のドレスの裾を見上げながら、健太はポケットの中のネクタイを緩めた。その時だった。


​「あんた、えらく辛気臭い顔しとるねぇ」


​ 突然、背後から声をかけられた。

 ハッとして振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

 年齢は五十代半ばだろうか。仕立ての良いクリーム色のスーツを着こなし、首元には鮮やかなスカーフ。手には上質そうな革のバッグ。髪は綺麗にセットされ、漂ってくる香水の香りは、すれ違っただけで振り返りたくなるような上品なものだった。

 ただその眼光だけが妙に鋭い。

 獲物を狙う鷹のような、あるいはすべてを見透かす占い師のような目だった。


​「は、はい?」

「だから、辛気臭いって言っとるの。せっかくの金色のナナちゃんが、あんたの溜息で曇ってまうわ」

「す、すみません……」

「謝らんでええ。謝る暇があったら、景気づけの一杯でも飲みに行かんね」

「えっ?」


​ 展開が読めなかった。新手のキャッチだろうか。いや、身なりを見る限りどこかのマダムにしか見えない。


​「ちょうど連れが来れなくなってまってね。予約した店、一人じゃ入りにくいんだわ。あんた、付き合いなさい」

「いや、僕はその、明日も早いですし……」

「若者が明日の心配なんかしてどうするの。明日の活力は今日作るもんやろ?」


​ 女性は健太の返事も待たず、スタスタと歩き出した。その背中には、有無を言わせない強烈なオーラがあった。

 断るタイミングを完全に逸した健太は、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、彼女の後をついていく羽目になった。


 女性は、ミッドランドスクエアのような高級店へ向かうかと思いきや、くるりと踵を返し、地下街への階段を降りていった。



​ 名古屋駅の地下街は、巨大な迷宮だ。

 サンロード、メイチカ、テルミナ、ユニモール、エスカ……。昭和の時代から増築を重ねてきた地下通路は、網の目のように広がり、初めて訪れる者を容赦なく惑わせる。

 女性は慣れた足取りで人混みを縫い、サンロードからさらに奥まった、少し照明の落ちた通りへと入っていった。


 そこは「駅西」の猥雑な空気とはまた違う、昭和のサラリーマンたちが愛した「酒場」の匂いが漂う一角だった。赤提灯と暖簾が並び、紫煙と笑い声と焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが混然一体となって通路に溢れ出している。

​ 彼女が立ち止まったのは、「大衆酒場 かぶきや」と書かれた、煤けた看板の店だった。

 ガラス戸越しに見える店内は満席に近い。サラリーマン、OL、学生、作業服姿の男たち。皆一日の労働の垢をアルコールで洗い流している。


​「ここ、美味しいんですか?」

「味はそこそこ。でもね、元気がいいのよ」


​ 女性はガラリと戸を開けた。

 途端に、「いらっしゃいませー!」という野太い声が四方八方から飛んでくる。

 店員に案内されたのは、奥の狭いテーブル席だった。丸椅子に座ると、隣の席の会話が丸聞こえになる距離感だ。だが、不思議と不快ではない。この喧騒そのものが、一つのBGMのように心地よく響いている。


​「お姉さん、注文いい?」


​ 女性が手を挙げると、元気な店員が飛んできた。


​「とりあえず、どて煮と串カツ、味噌とソース五本ずつ。あと手羽先三人前。飲み物は……あんた、何飲むの?」

「あ、えっと、ビールで」

「ダメよ。今日はこれにしなさい」


​ 彼女はメニューを指差した。そこには太字でこう書かれていた。


 『名物! 男前メガハイボール』


​「えっ、メガですか? そんなには……」

「男前二つ!」

「はいよ! 男前二丁!」


​ 店内にオーダーが響き渡る。健太は小さく肩をすくめた。

 目の前の女性は、上着を脱いで椅子にかけると、白いブラウスの袖を軽くまくり上げた。その所作一つ一つに無駄がない。


​「私は塔子とうこ。一応、会社経営やっとる」

「あ、僕は湊健太といいます。商社で営業を……」

「やっぱり営業か。顔に『ノルマ未達』って書いてあるわ」

「……そんなにはっきり出てますか」

「出とるね。それも、ただの未達じゃない。何かやらかした顔だ」


​ 図星だった。この人はエスパーか何かなのだろうか。


​「まあ詮索はせんわ。来たよ、男前が」


​ ドン、とテーブルに置かれたのは、もはや凶器と呼んでも差し支えないサイズの巨大なジョッキだった。通常の三倍はあるだろうか。中には琥珀色の液体がなみなみと注がれ、氷が涼しげな音を立てている。炭酸の気泡が、底から次々と湧き上がり、水面で弾けている。


​「さあ、持ちなさい」


​ 塔子に促され、健太は両手でジョッキを掴んだ。重い。ずしりと手首にくる重さだ。これはただの酒の重さではない。今日一日の疲れ、失敗の後悔、上司の叱責、それらすべてがこの液体の中に溶け込んでいるような気がした。


​「乾杯はね、こう言うの」


​ 塔子は自分のメガジョッキを軽々と片手で持ち上げると、健太のジョッキにガチンとぶつけた。


​「お疲れさん!」

「……お、お疲れ様です!」


​ 健太は意を決して、巨大なジョッキに口をつけた。

 冷たい。そして強烈な炭酸が喉を直撃する。

 ウイスキーの香ばしい樽の香りと、レモンの酸味、そして弾ける炭酸の刺激が、一気に食道を駆け下りていく。

 

 ゴクゴクと喉が鳴る。渇き切っていた体に、アルコールが染み渡る。

 プハァ、と息を吐くと、熱くなっていた目頭の奥が少しだけ冷えたような気がした。


​「いい飲みっぷりだ」


​ 塔子はニヤリと笑い、自らも豪快にハイボールを煽った。上品な見た目とは裏腹に、その飲み方は男勝りだ。

​ すぐに料理が運ばれてきた。

 八丁味噌の濃厚なタレにくぐらせた「串カツ」。茶色い見た目は武骨だが、一口かじれば、サクッとした衣の中から豚肉の脂と甘辛い味噌が溢れ出す。

 牛すじをトロトロになるまで煮込んだ「どて煮」。一味唐辛子をたっぷりかけて口に運べば、ハイボールが進んで止まらなくなる。

 そして、スパイシーな胡椒が効いた「手羽先」。骨から身を外すのに夢中になると、自然と会話が途切れるが、その沈黙すらも心地よい。

​ アルコールが回るにつれ、健太の口も軽くなっていった。

 気づけば、今日あった出来事を洗いざらい話していた。桁を間違えたこと。上司に怒鳴られたこと。自分が情けなくて、ナナちゃんの前で立ち尽くしていたこと。


​「……で、もうクビかなって、本気で思ったんです。たった一個の数字の間違いで、信用って一瞬で消えるんだなって」


​ 健太は半分ほど減ったメガジョッキを見つめながら言った。

 塔子は串カツの串を皿に置き、静かに言った。


​「あんた、名古屋駅の地下に何があるか知っとる?」

「地下街……ですよね?」

「もっと下。もっと深いところだ」


​ 塔子はテーブルをトントンと指で叩いた。


​「この名駅の地下にはね、何重にも杭が打ってあるの。ここは元々、地盤が弱くて水が出やすい土地だった。そこにこれだけの高層ビルを建てるために、人間は必死になって知恵を絞って、見えないところに莫大なコンクリートと鉄を埋め込んだんだわ」

「……」

「表に見えるキラキラしたタワーズやゲートタワーは、その泥臭い基礎の上に立っとる。失敗も後悔も、言ってみればその『基礎』だわ。埋めてしまえば見えんくなるけど、それがなきゃ高いビルは建たん」


​ 塔子は健太の目をじっと見据えた。


​「桁を間違えた? そりゃ大きなミスだ。でもな、会社が傾いたわけじゃないんだろ? だったら、それは『頑丈な基礎』になるチャンスだ。次からは二度と確認を怠らんようになる。その恐怖を知らん奴より、知っとるあんたの方が、五年後にはよっぽどいい仕事をするようになるわ」


​ 塔子の言葉は、味噌カツのように濃厚で、ハイボールのようにスカッとしていた。

 慰めではない。叱咤でもない。ただの事実として、すとんと胸に落ちた。


​「ハイボールを見てみや」


​ 塔子はジョッキを掲げ、店内の照明にかざした。琥珀色の液体がキラキラと輝く。


​「ウイスキーだけじゃ苦いしキツい。炭酸水だけじゃ味気ない。苦い原酒を、シュワシュワの泡で割るから、こんなに爽やかで美味いんだわ。仕事も一緒。苦い失敗を、終わった後の笑い話や、こういう美味い酒で割って飲み干すの。そうやって明日への活力に変えるんだ」


​ 健太の胸の奥で、何かがカチンと音を立てて嵌まった気がした。

 そうだ。自分はまだ、原酒の苦さを舐めただけで、吐き出そうとしていただけだったのだ。

 飲み干せばいい。

 喉元を過ぎれば、それは熱となり、酔いとなり、力になる。


​「……ありがとうございます」

「礼はいい。その代わり、残さず飲みなさいよ」

「はい!」


​ 健太は残りのハイボールを喉に流し込んだ。

 先ほどよりも、ずっと美味しく感じた。

 炭酸の泡が、胃の中で弾け、体中の血管を駆け巡り、縮こまっていた手足の先まで血を通わせていくようだった。

​ 店を出た時には、日付が変わろうとしていた。

 地下街のシャッターが次々と下ろされ、清掃員たちがモップをかけ始めている。

 地上に出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。

 人通りはまばらになり、タクシー乗り場には長い列ができている。


​「さて、私はこっちだから」


​ タクシー乗り場の方へ向かおうとする塔子に、健太は慌てて頭を下げた。


​「あの、お代! 払わせてください!」

「いいのいいの。今日は私の『接待』ってことにしておくから」

「接待って……僕、何もしてませんよ」

「将来の有望な取引先への投資だわ。……あんたの会社、〇〇商事だろ?」


​ 健太は目を見開いた。社名を言った覚えはない。


​「胸の社章。見えとったよ」

「あ……」

「うちはね、あんたの会社の下請けで部品を作っとる工場の社長やってんの。いつも無理難題押し付けられて大変なんだから。……でもまあ、あんたみたいな真面目な子が苦しんでるなら、まだ日本のモノづくりも捨てたもんじゃないかもね」


​ 塔子は悪戯っぽくウインクをした。


​「湊健太くん。偉くなりなさいよ。偉くなって、いつかうちにでっかい仕事の発注書を持ってきなさい。その時は、桁を間違えずにね」


​ そう言い残すと、彼女は手を挙げてタクシーを止め、颯爽と乗り込んでいった。

 テールランプが夜の闇に吸い込まれていくのを、健太は呆然と見送った。

 名前を聞くのも忘れていた。いや、「塔子」という名前と、あの強烈なハイボールの味があれば、きっとまたどこかで会える気がした。もしかしたら、次の商談の相手が彼女かもしれない。そう考えると少し背筋が伸びた。



​ 健太は再びナナちゃん人形の前に戻ってきた。

 金色のスパンコールドレスを着た巨大な彼女は、相変わらず無表情で立ち尽くしている。だけどさっき見た時とは少し違って見えた。

 その巨大な足は、しっかりと名古屋の大地を踏みしめている。六メートル十センチの身体を支えるために、どれだけの基礎が足元に埋まっているのだろう。

 彼女もまた、雨の日も風の日も、酔っ払いに絡まれる日も、じっと耐えてここに立っているのだ。


​「……よし」


​ 健太は自分の頬を両手でパンと叩いた。

 乾いた音が、深夜のコンクリートの谷間に響いた。

 明日は朝一番で会社に行き、もう一度先方に謝罪の電話を入れよう。そして、正しい数字の見積もりを持って、直接頭を下げに行こう。

 怒られるかもしれない。また恥をかくかもしれない。

 でも今夜飲んだあのハイボールの炭酸のように、弾けて、割って、飲み干してやろう。

​ 見上げれば、二つのタワーズの頂上付近に、赤い航空障害灯が点滅していた。それはまるで、街全体がゆっくりと呼吸をしている鼓動のように見えた。

 名古屋の夜はまだ終わらない。


 そして健太の仕事もまだ始まったばかりだ。

​ 健太はネクタイを締め直し、地下鉄の入り口へと向かう階段を一段飛ばしで駆け下りた。

 体の中にはまだ微かにハイボールの黄金色の火が灯っていた。

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名駅前乾杯ハイボール 成海。 @Naru3ta

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