忘れ物喫茶ルーメン

西乃音伽

忘れ物喫茶ルーメン

 商店街のいちばん端は、陽が傾くにつれて、ゆっくりと静かになっていく。

 コンビニの白い光が途切れた先、さびたシャッターが並ぶあたりに、その店はひっそりとある。


 喫茶「ルーメン」。


 入口をくぐると、カラン、と鈴が鳴る。

 少し古びた木のテーブルと、深い色のソファ。壁にはどこの街かもわからないモノクロ写真が掛けられている。大きな窓からは、色褪せたテントの影がゆるく落ちていた。


「おはよう」


 カウンターの向こうで、マスター――高瀬さんが短く笑う。五十代くらい。いつも白いシャツの袖を二回折っていて、前髪が少し目にかかっている。


「佐伯くん、今日も頼むよ」


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


 アルバイトを始めて、そろそろ半年。まだ名字に「くん」付けで呼ばれているのが、少しくすぐったい。


 この店には、忘れ物専用の棚がある。

 扉の近くの壁一面に、古い本棚をそのまま置いたような、高さのある棚だ。そこに、紙袋、折りたたみ傘、マフラー、手袋、帽子……いろんなものが並んでいる。


「全部、お客さんの忘れ物なの?」


 初日にそう聞いた時、高瀬さんは少しだけ笑って、答えを濁した。


「ここに置いていかれたものはね、忘れ物、って呼んでるけど、本当はちょっと違うんだよ」


「違うって、どう違うんですか?」


「さあ。君が働いてるうちに、なんとなくわかるかもしれない」


 そう言って、高瀬さんはそれ以上何も説明しなかった。


 それからの日々、私は放課後になると、自転車で商店街を抜け、この少し照明を落とした店でエプロンをつける。ラテを運び、ケーキを切り、カップを洗いながら、あの棚をなんとなく横目で見てきた。


 ただの忘れ物に見える。

 でも、時々、少しだけ気になるものがある。



「すみません、昨日ここでマフラーを忘れてしまって」


 ある日の夕方、ドアベルの音と一緒に、息を切らした四十代くらいの女性が入ってきた。仕事帰りらしく、首には代わりの細いストールを巻いている。


「色や特徴はどのようなのでしょうか?」


「えっと、生成りで、ちょっと分厚くて……あ、端の糸がほつれてて」


 私は棚に視線を走らせる。

 傘の並び、紙袋の奥、帽子の陰──あった。


「これですか?」


 取り出して、両手で広げて見せる。

 冬用の、生成りのマフラー。端のほうに、細い糸がいくつか飛び出している。


「あ……それです。良かった……」


 女性はマフラーを受け取ると、その場でぎゅっと胸に抱きしめた。

 その瞬間、ふわりと何かが揺れた気がした。店の空気が、ほんの少し、温度を変えたような。


「大事なものですか?」


 思わず口をついて出た私の問いに、女性は照れたように笑う。


「……母の、手編みなんです。もう、いないんですけど」


「あ……」


「毎年、冬になると『まだそれ巻いてるの?』って笑われて。ボロボロなんですけど、なんか、手放せなくて」


 女性はマフラーを指でなぞりながら、ほつれた糸のあたりを見た。


「実は、昨日、ここに来た時も、心のどこかで『そろそろ新しいのにしようかな』って思ってたんです。でも……こうやって戻ってくると、やっぱりもう少しだけ、一緒にいようかなって思っちゃいますね」


 カウンターから、高瀬さんが、いつもの調子で言う。


「お返しできて良かったです」


 女性は何度も頭を下げて、店を出ていった。ドアベルが揺れて音を立てる。


 私は空になった棚の一角を見つめる。

 さっきまでそこにあったマフラーがなくなっただけなのに、その場所だけ、少しだけ眩しく見えた。



 そんなことが、何度かあった。


 コンサートチケットの半券を忘れた男性は、それを受け取った瞬間、「もう二度と行けないんだよな」とぽつりと言って、折り目を伸ばすように指で撫でた。

 スーツケースタグを忘れた女性は、「これを無くしたら、あの人と旅したことまで消えそうで」と笑いながら泣いた。


 みんな、忘れ物を取りに来て、少し泣いたり笑ったりして、軽くなった顔で帰っていく。


 高瀬さんはいつも、特別なことは言わない。ただ淡々と、預かりカードを出して、「お預かりしてました」と手渡すだけだ。


「マスター、本当に、ただの忘れ物なんですよね?」


 ある夜、閉店作業をしながら、私は改めて聞いた。


 高瀬さんはカップを拭く手を止めて、棚を見やる。


「ここに置かれるもののほとんどはね、『忘れ物』って言われてる。でも、本当は『忘れたいのに忘れられないもの』なんじゃないかなと、僕は思ってる」


「忘れたいのに……」


「人は本当にどうでもいいものは、そもそも忘れたことに気づかない。わざわざ取りに来たりはしないでしょう?」


 私は、今日も持ち主が現れなかった古いハンカチに目をやる。

 角が擦り切れて、色も少しくすんでいる。預かりカードには、「六月十二日」という日付と、短いメモだけが走り書きされている。


「じゃあ、取りに来ない人は……?」


「その人にとっては、まだ触れられないもの。あるいは、ここに置いていったままでいたいもの」


 高瀬さんは淡々と言う。

 まるで、天気の話でもしているみたいに。


「ここは、そういう“忘れ物”を、しばらく置いておく場所なんですよ。光に当てて、少しだけ温めて。それで、持ち主が取りに来るか、そのまま色あせていくかを、静かに待つ場所」


「光……ですか?」


「ルーメンって、光の単位でしょう?」


 からかうように片目をつぶって見せる高瀬さんに、私は曖昧に笑った。


 正直、よくわからなかった。

 でも、この店にいると、時々、胸の奥のほうがきゅっとする。忘れていた何かを、不意に思い出しそうになる。


 私はその感覚を、無意識のうちに、遠ざけていたのかもしれない。



 その日は、雨だった。


 放課後のチャイムが鳴るのと同時に、窓を叩く雨粒の音が強くなる。私は濡れないように校門から小走りで自転車を出し、急いで商店街へ向かった。


 テントの下をくぐると、ルーメンの看板が、雨粒ににじんで見えた。


 店に入ると、今日は珍しく、高瀬さんの姿が見えなかった。

 カウンターの中には、「仕入れに出ています。戻るまでごゆっくりどうぞ」と書かれた紙がぶら下がっている。


「え、私ひとり?」


 時計を見ると、まだ開店時間の少し前だ。

 ひとりで店内の電気をつけ、チェアを整え、ポットにお湯を沸かす。誰もいない店は、いつもより少し広く感じた。


 ふと、棚に目をやる。


 いつもと同じ、はずだった。


 ほんの少し、違うものが視界に引っかかった。


「……あれ?」


 私は思わず、棚の前まで歩み寄る。


 そこにあったのは──小さな、ぬいぐるみだった。


 両手で包めるくらいの、白いクマのぬいぐるみ。

 丸い目と、青いリボン。少しだけ片耳がへこんでいて、毛並みの一部が、逆立つようにつぶれている。


 見た瞬間、胸の奥が、きゅう、と締め付けられた。


 知っている。

 私は、このぬいぐるみを知っている。


「……なんで」


 震える指先で、そっとぬいぐるみを持ち上げる。

 綿の軽さ。少し古びた布の手触り。細かいところまで、全部わかる。


 裏返すとお腹の縫い目が少し曲がっていて、そのすぐ横に、細い黒い糸で、下手くそな星のマークが縫い付けられていた。


 ――あの日、私が、初めて縫った星だった。


 呼吸が浅くなる。

喉の奥に、遠い花火の匂いが蘇る。蝉の鳴き声。湿った夏の空気。川べりの草むらの緑の匂い。


『おいていかないでよ!』


 小さな女の子の声が、耳の奥で響いた気がした。


 私は慌ててぬいぐるみを棚に戻す。

 指先が、汗ばんでいた。


 そのとき、ドアベルの音が鳴る。


「おっと、間に合わなかったか。ごめんね、佐伯くん、仕入れが少し押しちゃってさ」


 高瀬さんが、紙袋を提げて入ってきた。濡れた前髪を指でかき上げながら、私の様子を見て目を瞬く。


「どうしたの? 顔色、悪いよ」


「いえ……あの、その……」


 言葉が出てこない。

 棚を一瞬ちらりと見てしまう。そこにちゃんと、あの白いぬいぐるみがいるのを、確認してから。


「マスター、この……ぬいぐるみ、今日から増えたんですか?」


「ぬいぐるみ?」


 高瀬さんは棚に目をやる。


 数秒の沈黙。


 そして、ほんの少しだけ目を細めた。


「ああ……今日、見えるようになったんだね」


「見えるように、って……」


「そこにあったよ、ずっと前から。ただ、君が今日まで、見ないようにしてたんだと思う」


 胸の奥が、ざわりと揺れた。

 暑いのか寒いのか、自分でもわからない感覚が、背中のあたりに薄く残る。


「これ、誰の忘れ物なんですか?」


 私の声は、自分でも驚くほど強張っていた。


 高瀬さんは棚からぬいぐるみをそっと取り上げる。

 手慣れた動作で、カウンターの引き出しから一枚のカードを取り出した。


 そこには、日付と、特徴を書く欄と、名前を書く欄がある。

 この半年間、高瀬さんが何枚も受け取るのを見てきた預かりカードと同じもの。


 でも、そのカードの名前の欄には──


「……佐伯 陽菜」


 自分の名前が、そこにあった。

 私の筆跡で、震えたような文字で。


「嘘……こんなの、書いてません」


「書いたんだよ。ここで働き始める前にね」


 高瀬さんは、カードとぬいぐるみをそっとカウンターに置いた。


「君がここで働きたいって言った日、覚えてる?」


 思い出す。

 テストの結果表を握りしめて、将来どうするか考えたくなくて、ふらふらと自転車を走らせていたあの日。商店街の端で、たまたま見つけた『アルバイト募集』の紙。


 カウンター席に座らされて、「ここはね、忘れたいものがある人が、それごと置いていく店なんですよ」と説明されたこと。

 高瀬さんが、白いカードを一枚差し出したこと。


『どうしても手放せないのに、持っているのがつらいものがあったら、特徴と名前を書いて、その物と一緒にここに置いていく。そうすると、少しだけ楽になる人もいるんです』


 その日、家を出る前、私は久しぶりに机の引き出しを開けた。

 奥のほうに、あの小さな段ボール箱がしまい込まれている。引っ越しの少しあとに届いた、小包。差出人の名前を見て胸が跳ねたあの日から、ずっと見ないふりをしてきた箱だ。


 ふたに指をかけたまま、私は中身を確かめなかった。

 開けなくても、そこに何が入っているかは知っている。白いぬいぐるみと、読まないまま押し込んだ手紙。


 その日はなぜか、その箱を引き出しから取り出し、何も考えないふりをして、丸ごとカバンの底に突っ込んできていたのだ。


 ――そんなことを、今になって思い出す。


 そのとき私は、「そんなもの、ないです」と笑って首を振ったはずだった。

 それなのに、カバンの中のぬいぐるみを意識した瞬間、胸がきゅっと痛んで。


 ――気づいたら、ペンを握っていた。


 名前欄に自分の名前を書き、特徴欄に『白いクマのぬいぐるみ 青いリボン』と記していた。

 カードを渡すと、高瀬さんに「よろしければ」と促されて、私はカバンからぬいぐるみを取り出し、棚の隅にそっと置いた。


 カードと一緒に、ぬいぐるみを置いていった。

 その肝心な部分だけが、記憶から、すっぽり抜け落ちていた。


「ここで働く条件はひとつ。店の“忘れ物”にちゃんと向き合ってくれること。それを聞いて、君はうなずいて、このカードを書いた」


「そんなの、覚えてません」


「覚えてないくらい、忘れたいことだったのかもしれない」


 高瀬さんの声は淡々としているのに、耳の奥で、やけに響いた。


「……このぬいぐるみ、どこから来たか、わかる?」


 私は視線をそらした。

 見たくない。思い出したくない。


 でも、閉じたまぶたの裏に、夏の光景が鮮やかによみがえる。


 川べりの堤防。

 花火大会の日。浴衣姿の人たちの間を、私と、あの子は走っていた。


『ねえ、陽菜。星、上手に縫えた?』


『当たり前よ。見て驚かないでね』


 私は得意げに、白いぬいぐるみのお腹を見せた。

 ぶかぶかの縫い目で、曲がった星がひとつ。あの子は、それを見て目を丸くして、それから声を上げて笑った。


『陽菜の星、ちょっと変だね』


『もうっ、初めてなんだから仕方ないでしょ』


『でも、かわいい。すごくかわいい』


 あの子は、そのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

 幼稚園から一緒だった、隣の家の女の子。小学校の高学年になっても、いつも私の後ろをついてきた。


 その年の夏。

 彼女は、遠くの町に引っ越すことになった。


『引っ越しても、友だちだよね?』


 最後の日、彼女は涙目でそう言った。

 私は「当たり前だよ」と笑って、そのぬいぐるみをもう一度抱きしめた。お守りみたいに、星の縫い目を指でなぞりながら。


 けれど、引っ越しの日。


 私は、行かなかった。


 宿題があるから、とか。

 向こうの家はきっと忙しいから、とか。

 頭の中でいくつも言い訳を並べながら、本当は、自分でもわかっていた。


 泣いてしまうのが怖かった。別れを、ちゃんと別れとして認めるのが怖かった。


 前の日の夜、誰も見ていないのを確かめて、門の前のポストにそのぬいぐるみを入れ、『今までありがとう』とだけ書いた紙を添えた。


 当日の朝、カーテンの隙間から、引っ越しトラックの背中を見ていた。

 玄関のドアに手をかけることもなく、ただ、エンジン音が遠ざかるのを聞いていた。


 それで、全部終わったことにした。


 ――終わった、はずだった。


 しばらくして、小さな段ボール箱が届いた。

 差出人の名前を見て、心臓が跳ねる。開けると、中にはあのぬいぐるみと、折りたたまれた手紙が入っていた。


『ポストの中で見つけたよ。本当は、直接渡してほしかったけど……ありがとうを言いたかったのは、私のほうかもしれないね』


 ところどころ、インクがにじんでいる。

 私は最後まで読まずに手紙を畳み直し、箱をそのまま閉じて、引き出しの奥に押し込んだ。


 時間が経つほど、あの夏が怖くなっていった。

 あの箱の存在を意識するたびに、喉の奥が痛んで、目をそらした。


『おいていかないでよ!』


 あのときの、自分の泣きそうな顔を思い出すたび、胸が痛くてたまらなかった。


「……どうして、私はここに預けたんですか」


 掠れた声で、私は呟いた。


「それは僕にはわからない。君がここへ来るまでの道筋や、あの日、箱を引き出しから取り出そうと思った理由まではね」


「……え?」


 高瀬さんは、カードとぬいぐるみに視線を落としながら言う。


「ただ、ルーメンにあるということは、まだ完全には手放されていない、ってことだよ」


 ぬいぐるみのお腹の、曲がった星を見つめる。


 あの時、ちゃんとあの子に会いに行かなかったこと。

 送られてきた手紙を、見ないふりをしたこと。

 ぬいぐるみを棚に置いて、見なかったことにしたこと。


 全部、私の中で、なかったことにしたまま、ここまで来た。


「これはね、佐伯くん」


 高瀬さんが静かに言う。


「君の“忘れ物”なんだと思うよ。本当は、忘れたことにしておきたかったもの。でも、忘れきれなかったもの」


 喉の奥が熱くなった。

 何か言おうとしても、声が出ない。


「返しますよ」


 高瀬さんは、そう言って、ぬいぐるみをそっと私のほうに近づけた。


 私は、反射的に後ずさろうとした。

 けれど、足が床に貼り付いたみたいに動かない。


「……いらない、です」


 やっと絞り出した言葉は、情けないくらい小さかった。


「本当に?」


 高瀬さんの問いは、淡々としていた。


「ここに置いていけば、きっとまた、少しずつ色あせていく。君が見ないふりを続けるなら、それもひとつの選択だよ」


 それでもいい、と言いかけて、喉に詰まった。


 あの夏の夕暮れ。

 カーテンの隙間から、ただトラックの背中を見送っていた自分。

 玄関のドアに手を伸ばせなかった自分。


 あの時と同じだ。

ここでまた背を向けたら、私はきっと一生、同じところをぐるぐる回り続ける。


 それでも、怖い。

 受け取った瞬間、何かが決定的に変わってしまいそうで。


「……もし、受け取ったら」


 私はやっとの思いで聞いた。


「何か、変わるんですか」


「何が変わるかは、君次第だよ」


 高瀬さんは、真っすぐに私を見つめる。


「ここで渡せるのは、きっかけだけ。忘れ物を持って、どこに行くか、誰に会うか、何を書くか。そういうのは、全部持ち主の仕事だから」


 ぬいぐるみの黒い目が、じっとこちらを見ている。

 青いリボンが、少しだけ揺れた気がした。


 私は、そっと手を伸ばした。


 指先が、白い毛に触れる。

 冷たいと思っていたのに、ほんのり温かい。

 掌の中に収まるその小ささが、どうしようもなく愛おしかった。


 気づけば、両手でぎゅっと抱きしめていた。


 胸の奥で、何かがほどけていく。

 涙が一粒、ぬいぐるみの耳に落ちた。


「……ずっと、怖かったんです」


 自分の声が震えているのがわかる。


「会いに行かなかったことを、謝るのが。手紙を読まなかったことを、認めるのが」


 高瀬さんは何も言わない。

 ただ、静かにそこにいる。


「今さら連絡したって、迷惑かもしれないって。向こうはもう忘れてるかもしれないのに、勝手に思い出して、勝手にごめんって言うのはズルいんじゃないかって」


 言葉にすると、思っていたよりもみっともなく聞こえる。

 でも、そのみっともなさに、少しだけ笑いそうにもなった。


「それでも」


 私はぬいぐるみを胸に抱えたまま、顔を上げる。


「それでも、何か……したいんです。あの子に、ちゃんと『ありがとう』って言いたい。『ごめん』も言いたい」


 高瀬さんの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。


「じゃあ、そうすればいい」


「どうやって、って言われても、わかんないですけど」


「手紙でもいいし、会いに行ってもいい。会いに行くのが怖いなら、駅まででもいい。駅が怖かったら、彼女が昔住んでいた路地まででも」


 高瀬さんは、カウンターの椅子に腰かけながら続ける。


「大事なのは、君が『何もしないまま』でいるのをやめることじゃないかな。ここは、そういうふうに少しだけ背中を押すための店なんだよ」


 ルーメン。

 店内の灯りが、ぬいぐるみの白い毛を柔らかく照らしている。


 私は涙を乱暴に拭った。


「……バイト、終わったら、少し抜けてもいいですか」


 高瀬さんは驚かなかった。

 むしろ、そう言うのを待っていたみたいに、うなずいた。


「もちろん。今日は早めに閉めようか」


「でも、お店は……」


「一日くらい、光を節約しても、店は消えないよ」


 冗談めかして笑う高瀬さんに、私は小さく笑い返した。



 閉店時間より少し早く、店の灯りを落とした。

 雨は上がっていて、アスファルトには街灯がぼんやりと映っている。


 ぬいぐるみをリュックに入れようとして、やめた。

 抱きしめたまま、店の外に出る。


 夕方と夜の間の、薄い青色の空。

 商店街の端から先は、住宅街だ。家々の明かりの向こうに、昔、あの子と並んで歩いた道の続きがある気がする。


 引っ越してしまった今、あの子の家は、もうここにはない。

 それでも、あの夏の路地の匂いや、角の電柱の傷は、きっとどこかに残っている。


 スマホを取り出して、連絡先一覧をスクロールする。

 あの夏、引っ越しをきっかけに、ずっと開かなかった名前。


 ――星野 彩。


 指が、震えた。


 メッセージの画面を開く。

 白い入力欄に、文字が浮かんでは消える。


『久しぶり。覚えてる?』


『覚えてないかもしれないけど』


『あの時、行けなくてごめん』


 何度も消して、結局、最初の一文だけ残した。


『久しぶり。佐伯陽菜です。覚えてる?』


 送信ボタンを押すのは、思っていたよりも簡単だった。

 ぽん、と軽い音がして、メッセージが相手の欄へ飛んでいく。


 すぐに返事が来るとは思っていない。

 既に使われていない番号かもしれない。


 それでも、何もしないままよりは、ずっといい。


 胸の前でぬいぐるみをぎゅっと抱く。


「行ってくるね」


 誰にともなくそう言って、私は商店街を歩き出した。



 その夜、ルーメンの棚から、白いぬいぐるみは消れていた。


 代わりに、小さな紙切れが一枚、棚の隅に挟まっている。


 ──『預かり物 返却済』


 高瀬さんはそれを見つけて、少しだけ微笑んだ。


 彼女は自分の“忘れ物”を受け取りに行った。

 かつてカードと一緒にここへ預けていった記憶を、もう一度、自分の手で抱きしめ直しに行ったのだ。


 翌日、また別の誰かが、何かを置いていくだろう。

 新しい「忘れ物」が棚を満たし、いつの日かそれを取りに来て、少し軽くなった顔で帰っていく。


 そうやって、商店街の端の、小さな喫茶店の光は、今日も誰かの後悔や未練を、静かに照らし続ける。


 いつかまた、棚のどこかに、忘れたくない想いが並ぶかもしれない。

 そのとき私は、きっとこう言うだろう。


「お預かりしてますよ。ここは、忘れ物の喫茶店ですから」


 カラン、とドアベルが鳴る。

 薄暗い店内に、あたたかい光が満ちていく。


 その光は、派手でも強くもない。

 けれど、迷った誰かが足もとを確かめるには、十分な明るさだった。

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