コアラのもみほぐし屋さん
ほねなぴ
よれたスーツも直さずに
金曜の夜。
終電一本前の満員電車から吐き出されるように外へ出ると、佐藤(32)は自然と駅前の喧騒を避けて歩き出した。
アスファルトが途切れ、湿った土の感触が靴裏に広がる。
……腹が減っている気もするが、それ以上に心が減っている。
今の俺に必要なのはカロリーではなく、静寂だ。
森の奥で、小さなランプの光が揺れていた。
『リラクゼーション・ユーカリ』
扉の前で、佐藤は一度深く息をつく。
もみほぐしというやつは、アロマだの環境音だの雰囲気でごまかされがちだ。
だが、俺が求めているのは実利だ。
きれいなお姉さんの優しいタッチより、武骨な親父が全体重で押し込む確かな指圧。
愛想はいらない。筋肉を正しくほぐしてくれればそれでいい。
……当たりならいいが。
古い木の扉を押し開く。
——そこで、佐藤の思考が止まった。
受付カウンターの向こうに、
コアラがいた。
灰色の毛、丸い耳。
本物の動物園にいるあのコアラだ。
しかも2本足で立っている。
サイズは人間の子供くらい。
そして胸元には小さな名札。
『店長・モグ(人間勉強中)』
……何なんだここは。
しばらく凝視したまま固まっていたその時。
「いらっしゃい……ませぇ……」
喋った。
日本語で。
喋るのか……? コアラが?
いや、そもそも何なんだこの店は
……まあ、いいか
驚きすぎると、人間は逆に思考を閉じるらしい。
佐藤はその境地に到達していた。
店長と名札にあるコアラ——モグは、佐藤をじっと観察し、足元で目を丸くした。
「お客様……なんと立派な……鱗をお持ちで……」
鱗?
あぁ、革靴か。
まあ、コアラにはそう見えるのだろう。
「ここでは殻を脱ぎましょうねぇ……」
促されて靴を脱ぐと、白いビジネスソックスが現れた瞬間——
「お、お客様…! 脱皮が……失敗しているではありませんか……!」
靴下を剥け残りの皮膚と判断したらしい。
脱皮か……化学繊維だと言っても野暮なだけかもしれない。
「……少し、剥きづらくてね」
差し出すと、モグは使命感に燃えた瞳で頷いた。
「お任せを……! 私が、剥きますからねぇ……!」
ズルッ。
開放感が走る。
裸の足に空気が触れた。
モグは感動したように手を合わせた。
「まあ……なんて綺麗な新しい皮……。この古い皮は、あとで丁重に埋葬しますねぇ……」
洗濯機のことだろう。墓場によろしく
丸太ベッドに案内され、うつ伏せになる。
モグの手が触れた瞬間、佐藤の体が震えた。
「つ、冷たい……!」
「ああ、冷え性でね」
「冷え性……? いえ、これは……」
モグは顎に手を当て、人間勉強中らしい真剣な顔で推理を始めた。
「わかりました……。お客様……変温動物なのですね……?」
「……変温動物?」
「トカゲさんやヘビさんと同じ……。自分で熱を作れない体質……。日向ぼっこ不足で、完全に冷えてます……」
まあ、否定はできないな。
ずっと太陽を浴びずモニターの光に寄生して生きているようなものだった。
その時、スマホが鳴り、静寂を裂いた。
佐藤の体が反射的に強ばる。
モグはビクッと背後に隠れた。
「天敵ですかっ……!?」
画面にはクライアントからの修正依頼。
まあ……確かに天敵だ。
今は戦わなくていい。今は週末だ。
スマホを置くと、モグは恐る恐る触れ、熱に驚いた。
「……ああたかい……
ああ……そうか……これで体温を保っていたんですねぇ……。
天敵に怯えながら……健気に……」
胸にじんわりくる。
「ですが……石の熱だけでは足りません……」
モグはベッドに這い上がった。
「失礼しますよぉ……」
のそり。
背中に覆いかぶさるコアラの体重。
そして、冬眠前の獣のような、生きた熱。
「コアラ式……湯たんぽ療法です……。
私が……あなたの太陽になります……」
頬が首筋に触れ、呼吸が耳元で揺れた。
「外が寒いのは……あなたのせいじゃありません……。
寒い時は……誰かの熱を借りればいいんですぅ……」
外が寒いのは、俺のせいじゃない……
視界の奥がじわりとほどけた。
「……あったかいな」
ぽつりと言うと、モグは嬉しそうに鼻を鳴らした。
「えへへぇ……全部あげますからねぇ……」
やがて、背中の上から小さな寝息。
「……スピー……」
コアラが寝た。
重みと熱が、心の武装を一枚ずつ外していく。
佐藤はスマホを伏せた。
人工の熱はもういらない。
背中に太陽がある。
意識は静かに沈んでいった。
「……お客様……」
起こされると、夜は深まっていた。
体は驚くほど軽い。
玄関には、ぴかぴかの革靴。
モグが差し出した。
「鱗のお手入れも終わっていますよぉ……」
「ありがとう」
革靴を履く。
拘束感は戻ったが、もう嫌ではない。
明日また戦場へ向かうための、大切な鱗だ。
「人間さん……。冷える前に……また来てくださいねぇ……」
「ええ」
森の夜風は冷たい。
だが、スーツの内側にはまだ太陽の余熱が残っていた。
俺は変温動物だ。
冷えたらまた、ここに熱を借りに来ればいい。
カツ、カツ。
黒い鱗が夜道を踏みしめる。
悪くない夜だ。
佐藤はわずかに笑い、駅の灯りへ歩いていった。
コアラのもみほぐし屋さん ほねなぴ @honenapi
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