美人ギャングに育てられてたら強くなりすぎた

@RCOM

第1話 血に染まった家と赤い髪の女

俺が“あの日”を思い出すとき、いつも最初に蘇るのは血の匂いじゃない。


 あの日の朝のことだ。


「ほら、急がないと保育園のバス行っちゃうよー!」


 母さんの声は、いつもみたいに明るかった。


いつもみたいに、テーブルの上には焼きたてのトーストとスクランブルエッグとちょっと薄めの牛乳。


「おかわりー!」


 兄ちゃんが、口の周りにケチャップをつけたまま皿を差し出す。


 中学生になったばかりのくせに、やたら食うやつだ。


「空、見てごらん。」


「お兄ちゃん、またケチャップつけてる」


 母さんが笑って、台ふきんを持った手を伸ばす。

 

兄ちゃんは「え、どこ」と言いながら舌でぺろっと舐めて、ごまかしてみせる。

 

父さんは新聞を片手に、コーヒーを飲みながら苦笑していた。


「お前ら、朝からうるさいぞ。」


「……じいちゃんたち、起きてくる前に片付けとけよ」


「また“最近の若いもんは〜”って言うからな!」


 兄ちゃんがじじくさい真似をして、わざと背中を丸めて歩いて見せる。

 

僕は兄が面白くて、牛乳を吹き出しそうになった。


「こら、テーブルでふざけない!」


 母さんに軽く頭をはたかれて、「いってぇ」と笑いながら、俺はトーストをかじる。


 あのときは、まさかこの“どうでもいい朝の風景”が、

一生忘れられない宝物になるなんて、思ってもなかった。


 

 保育園での一日は、いつもどおりだった。

 

砂場で泥団子を作って、友達と取り合いになって、先生に怒られて。


 昼寝の時間はなかなか眠れなくて、隣の子の寝息を数えていた。


 帰り道、園バスを降りたところで、道端に小さな花が咲いているのに気づいた。


 白くて、まん丸で、頭がポンポンみたいな形の花。


(これ、母さん喜ぶかな)


 なんとなくそう思って、僕はそれを一本だけ摘んだ。

 

少し茎が短くなっちゃったけど、手の中に乗る小さな白い花が、なんだか誇らしかった。


「ただいまー!」


 玄関のドアを開けながら、いつもどおりに叫ぶ。


 いつもなら、その声に重なるように色んな音が返ってくる。


 台所から聞こえる、鍋の蓋がカタカタ鳴る音。


 テレビのワイドショーの音。


 兄ちゃんがゲームのコントローラーをガチャガチャ動かす音。


 じいちゃんの咳払い。


ばあちゃんの「おかえり」の声。


 でも、その日は――何も、聞こえなかった。


「……?」


 僕は手に持った花を見下ろした。


 玄関は少し薄暗くて、いつもより空気が冷たい気がした。

 

靴を脱いで、一歩廊下に踏み出したとき――

 

足の裏が、ぬるん、と滑った。


「え?」


 何か液体を踏んだ、そんな感触。


 思わず足を引っ込めて、床を見た。


 赤かった。


 ペンキみたいな、絵の具みたいな、でもずっとどろりとしていて、光を鈍く跳ね返す赤。


 その正体を理解するより先に、鼻にツンと刺さる匂いが届いた。


 鉄みたいな、さびたスプーンを舐めたときのような、気持ち悪い匂い。


 喉の奥がカーッと熱くなって、息がうまく吸えなくなる。


「……おかあさん?」


 声が勝手に震えた。


 返事は、ない。


 リビングの方から、なにかが“どさっ”と落ちる音がした気がした。


 心臓が、“ドクン”と変な動きをする。


 嫌な予感、なんて言葉、6歳の僕は知らない。


 でも、そのときの胸の中には、確かにそれが渦巻いていた。


「おかあさん!」


 僕は廊下を駆け出した。

 

廊下の先にも、赤い飛沫が点々とついていた。

 

壁にも、ドアにも、見慣れない赤がついている。

 

息が浅くなる。

 

足がもつれる。

 

それでも、リビングのドアを思い切り開けた。


 世界が、ぐにゃりと曲がった。


 テレビは倒れ、テーブルはひっくり返り、ガラスの破片が床に散らばっている。


 その上に、見慣れた服が横たわっていた。


 母さんの、エプロン。


 父さんの、スーツの袖。


 兄ちゃんの、いつも着ていたジャージの膝。


 全部、赤に塗れていた。


「……ぁ……」


 声が出なかった。


 いや、きっと出ていたんだと思う。


 でも、自分の耳には届かなかった。


 頭がしびれて、視界が遠くなって、色だけがやけに鮮明だった。


 (じいちゃんとばあちゃんは…)


 座敷の方でじいちゃんがばあちゃんを庇うように倒れていた。

 

いつも俺にみかんをくれる手が、動かない。


「お、おかあ……さん……?」


 やっと絞り出した声は、自分のものじゃないみたいに頼りなかった。


 返事は、やっぱり返ってこない。


 母さんの顔にそっと手を伸ばす。


 肌に触れた瞬間、ゾクリとした。


 冷たかった。


 さっき、保育園に行く前に触れた手は、あんなにあったかかったのに。


「やだ……やだやだやだやだやだ……っ!」


 胸の奥が焼けるみたいに痛くなって、息の仕方が分からなくなる。


 何度も何度も呼んだ。


「おかあさん! おとうさん! 兄ちゃん! じいちゃん! ばあちゃん!」


 誰も起きない。


 いつもなら「どうした、どうした」とうるさがるくらい抱きしめてくれる家族が、誰も返事をしない。


 その事実が、頭に染み込んでくるたび、足元の世界が崩れていった。


「いやだ……いやだよ……っ」


 泣きじゃくっているうちに、自分がどこに座っているのかも分からなくなった。


 床には血が広がっていて、ズボンも靴下も赤く染まっていた。


 涙で視界がぼやけて、鼻水がかんだ覚えもないのに垂れてくる。


 どれくらいそうしていたのか、覚えていない。


 時間というものが、あの部屋から消えていた。



「――うるせぇな」

 

背中から、しわがれた低い声がした。


 心臓が、ひときわ大きく跳ねた。


 振り向きたくなかった。


 でも、勝手に身体が動いた。


 そこにいたのは、知らない男だった。


 髪はぼさぼさで、顎にはまばらなひげ。


 細い目が、笑っているのか怒っているのか分からない形で歪んでいる。


 服はところどころ破れていて、ところどころ赤く染まっていた。


 右手には、金属の棒みたいなものが握られている。


 それも濡れていて、床に赤い滴をこぼしていた。


「おまえが最後のガキか」


 男は、じろりと俺を見下ろした。

 

身体が石みたいに固まる。


 逃げなきゃいけないって、頭のどこかで分かっているのに、腕も足も全然動かない。


 喉だけが勝手に震えて、変な音を漏らしていた。


「はぁ……めんどくせぇ」


 男は吐き捨てるように言って、ゆっくりと一歩、近づいてきた。


 床の血を踏むたび、靴裏がぬちゃ、と嫌な音を立てる。


(あ、死ぬんだ)


その瞬間、男の首に何かのマークが見えた

 

男は腕を振り落とす


「もう、いい」という諦めに近い感覚がじわじわ広がっていく。

 

家族がいない世界なんて、想像できなかった。

 

このまま、この赤い部屋で全部終わってしまっても、いいのかもしれないと、どこかで思っていた。

 

鈍く光る鉄の棒が、照明の光を弾く。

 

そこから先の景色が、スローモーションみたいにゆっくりになった。

 

男の口がニヤリと歪む。


 棒が振り下ろされる軌道が、俺の視界いっぱいに広がる。


 ――その瞬間。

 

世界が砕けた。



 ドゴォッ!! 


という音が、頭の中まで突き抜けた。

 

風圧で、僕の身体が横に押し飛ばされる。


 頬が床にぶつかって、視界の端でテーブルの脚がぐらりと揺れた。

 

何が起こったのか、分からなかった。

 

痛い。怖い。息がうまくできない。

 

でも、“死んだ”感覚はなかった。

 

恐る恐る顔を上げる。

 

さっきまで僕の目の前にいた男がいなかった。

 

代わりに、向こうの壁がひびだらけになっていた。

 

その壁に、人の形の穴が開いている。


 穴の中心に、さっきの男が半分めり込むようにして、ぐったりと垂れ下がっていた。


 口から、赤いものを吐きながら。


 意味が分からない。


 ただ、ひとつだけ分かったのは――


 僕を殺そうとした男が、もう動かないということ。


「はぁ……ギリギリ」


 ため息混じりの声が、リビングの入り口の方から聞こえた。


そこに立っていたのは、赤い髪の女の人だった

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