鎖は見えずとも 天正夜影取調《てんしょうやかげとりしらべ》
不思議乃九
鎖は見えずとも 天正夜影取調《てんしょうやかげとりしらべ》
【第一部|犯行:沈黙の茶室】
天正十年。
清水の坂を外れた草庵の奥、灯も揺らがぬ小さき茶室にて、
又三郎は己が掌の温さを、確かめるように見つめていた。
眼前には、大商人・甚兵衛の亡骸。
つい先ほどまで、人の声を宿していたはずの身体は、
いまは静かに土へ帰る準備を始めている。
「……これでよい」
声は細くとも、揺らぎはない。
絞め殺しを選んだのは、血の穢れで茶室を汚したくなかったためである。
首の痕も、揉み合いの末にできた傷として紛れるはず。
甚兵衛が秀吉への口利きを盾に、又三郎の命を削って集めた明の茶器を奪おうとした以上、
争いは避け得ぬ宿命であった。
作為は万端……ただ一つを除き。
甚兵衛が最期に身じろいだ折、
又三郎の懐から越中の葉茶が、ごくわずか畳の目に落ちた。
(まずい……)
水差しを取り、畳へ大胆に撒く。
水は広がり、葉茶を奥へと押し沈めた。
水漏れと誤認させようという作為。
だが、水を浴びた葉茶は香りを強める。
焦りから、又三郎は炉に伽羅を多くくべた。
ふさわしき雅香は、むしろ濃すぎて場の均衡を破るほどに満ちた。
(これで……戻ったはずだ)
そう念じ、草庵を後にする。
だが又三郎は知らぬ。
濡れて膨張した葉茶は、畳を外せば容易に見つかることを。
焚きすぎた伽羅は、清浄のためではなく、むしろ“作為”の痕跡として鼻を打つことを。
沈めたものは、やがて浮かびあがる。
────────────────────────
【第二部|捜査:伽羅の濁り】
二日後。
京の監察方・土岐宗順は草庵に足を踏み入れた。
人々は口々に言う──
「水漏れ騒ぎの最中、甚兵衛殿が倒れた」と。
だが宗順は、茶室に一歩入った瞬間、その“静けさの乱れ”に気づいた。
「……香が濃すぎるな」
伽羅本来の気韻ではない。
何かを覆い隠そうとして焚いた者の、手つきの匂い。
宗順は濡れた畳を外させ、
その隙間から越中の葉茶の残滓を丁寧に回収した。
取り調べの席で宗順は、葉茶の位置を指し示す。
「甚兵衛殿の左手から半間足らず。
人が人の息を看取る、その距離です。
あなたが去った後に誰かが来たというなら、
なぜ葉茶は死体の真横に落ちているのでしょうか?」
又三郎は、微動だにせず応じる。
「……その葉が、私のものだと、なぜ断じられる」
宗順は淡々と告げた。
「越中の葉茶を懐に忍ばせる者など、この京でも数少ない。
それに、この茶室を甚兵衛殿の直前に出入りしたと確かめられたのは、あなただけ」
そして宗順は、三つの証を挙げる。
1. 物証──死体の至近に落ちた葉茶。
犯行時の姿勢でなければ落ちえぬ位置。
2. 作法──水の撒き方、伽羅の過剰。
匂いを覆おうとした焦りの痕跡。
3. 時──畳下の木組みから立ちのぼる、発酵した葉茶の香り。
水が撒かれてから半日は経たぬと出ぬ匂い。
すなわち、あなたがこの場に長く留まった証。
「沈めたつもりの匂いが、あなたの手つきそのものを語っているのです」
宗順の声は、微笑すら含まぬ静けさであった。
────────────────────────
【第三部|真相:沈香の底に宿るもの】
取調の間。
又三郎の前に置かれたのは、明の名器「虚空」。
甚兵衛が奪おうとした、又三郎の魂とも言うべき茶器。
宗順は器を指で軽く叩き、低い音の余韻を聞いた。
「甚兵衛殿が欲したのは、この器そのものではない。
乱れたあなたの心でございます」
又三郎の目がわずかに動く。
「甚兵衛殿は、茶室の“生の匂い”を何より嫌った。
衣の匂い、怒りの匂い、欲の匂い──
人の濁りが、病んだ身には堪えたのでしょう。
あなたの乱れは、香を焚こうと、水を撒こうと、
消えるものではありません」
宗順は、畳の下から回収された葉茶をひとつ摘んだ。
「沈めたつもりの葉は息を吹き返し、
伽羅の底を破って立ちのぼった。
それこそが、あなたの焦り、憎しみ、殺意の匂いです」
長い沈黙が落ちる。
やがて又三郎は、絞るように言った。
「……清めようとして、かえって己の罪を刻んだか」
敗北とも救いともつかぬ声。
宗順は調書を閉じる。
草庵にはまだ伽羅の香が残る。
だがその底から、別の匂いがわずかに息をしている。
越中の葉茶が土の湿りと混じり、
ゆっくりと蘇らせた“生”の名残。
それは、証拠を超え、作法を超えた、
人が人を裁く場に宿る最も古い匂いであった。
◼︎おわり
鎖は見えずとも 天正夜影取調《てんしょうやかげとりしらべ》 不思議乃九 @chill_mana
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