chapter 1-2
これは夢だ、と彼女は自覚する。
銀髪の幽霊が恨めしそうな目を床に落として隣に立っていたからだ。
慣れ親しんだ夢に、彼女はもう驚くこともない。
銀髪の幽霊は若い女で、もしかしたら顔立ちは案外整っているかもしれない。白い布きれ――ただし、それなりに上等な生地の――を巻いたような妙な服を着て、そこにいるだけ。遠くにいたり、正面にいたり、部屋の隅で座っていたり。今回のように、肩が触れるくらいそばに立っていたり。でも、それだけだ。害はない。
夢には、他には幼い自分が登場する。
幼い自分は母のスカートを掴みながら泣いている。
なぜ泣いているのだろうか。
過去の出来事か、眠った頭脳のわずかな活動が見せる幻影か。
しばし考えると、それが覚醒を促す効果をもって夢の世界がおわりはじめた。
ああそうか、と手を打ったときには、彼女の青い瞳は現実を写していた。それも彼女の機嫌を伺うような青年を映して。
「お目覚めですか、姫さま」
「最悪ね。起き抜け一番にあなたの顔は」夢のなかの彼女のと同様、現実の自分も瞳に貯まった涙を拭う。「エドマンド……」
「緊急の要件です」エドマンドは邪険にされるのも覚悟で――、というよりもそれが自らの立ち回りと心得ているのだろう様子で無遠慮に少女に近寄った。
「あとにして」少女はに眼も合わせず断る。
足先がくすぐったい。
ベッドから半身を起こすと、足元では、侍女が彼女のためにネールを塗っていた。
そうだった、ジェルネールの最中に眠ってしまっていたのだった。
彼女はアートの出来映えを確認し、小さく嘆息する。
「この色、先週と同じじゃない」
言われた侍女は頭を下げて、慌てた様子でどのネールを選ぶか手を泳がせる。
「お遊びが過ぎるようで」
「わたくし動けないの、わかる」彼女は塗りおえたばかりの足先をエドマンドに向けて、蠱惑的な視線を送った。
「ならば」エドマンドは強引に、少女の背と両足に手をまわす。そして、彼女を抱えたまま、もと来た道を歩いた。
「ちょっと、騎士の分際をわきまえなさい」少女はエドマンドの胸に細い拳で叩いて抗議する。「なんの許可があっての非礼かしら」
「ケント伯がお呼びです」エドマンドは、少女にそっと耳打ちした。
「おじさま」少女は小首を傾げる。「担ぎ上げてでもつれてこいって、命令なの」
エドマンドは口をひらかなかった。
「ケントおじさまの騎士って、随分、仕事熱心なのね」
「恐縮です」
「褒めてないわ」少女は閑念したのか、吐息を漏らす。「で、用件は」
「ケント伯が、倒れられました」
わずかな沈黙。
もちろん、エドマンドの足はとまらない。
「いつの話だ」彼女の口調は、まるで侍女と戯れていた少女と同一人物とは思えぬ鋭いものに変わっていた。
「今朝方。日が昇っても現れぬ主を不審に思ったメードが寝室を覗くと……、床を這うように倒れたままだったとか」
「怒るぞ」
「報告が遅れました。しかし、用件が用件だけに、こちらに耳を貸す気配のない姫さまになりますれば――」
「お尻触らないで」
「……そちらですか」
「ほかになにか」
「いくらでも」エドマンドは、ちらりと胸の中の少女に眼を向ける。「驚かれないのですね」
「相応の歳だもの。こればかりは致し方ないわ。くわえ昨今、なにやらヴェロナ事件関連に手を出しているらしいし。そちらに生気を注ぎすぎたのでしょう……。そのあたり、おじさまの筆頭騎士エドマンドとしてはどうなの」
「どう、とは」
「あなた、女が苦手でしょう」
「得意でもありません」エドマンドは表情を変えずに言った。
「わかった。逃げないから放して」
エドマンドは言うなり、彼女をそっとおろした。
少女は素足で床に立つ。
「それで、わたしになにをしろっての。その事業に絡んだ話題かしら」
「詳しくは、なんとも」
「ぼくの口からは話せませんって」少女は挑発的に言う。「ふん、まあ十中八九、それでしょうけれど。ただ可愛い可愛いしたいだけなんてこと、あのケント伯にはありえないわけだし。読めぬおじさまね」少女は自分のカラフルな両足に視線を落とした。「そう、このセンスの欠片もないペディキュア並に読めないおじさまだわ……」
気まぐれ姫に似合わぬネールアートを施した侍女は、無残にも転職を考えさせられるかもしれない。もっとも、そのほうが彼女達も気が楽かもしれないが、と同情するエドマンドである。
「一つ聞くわ」すでに一つも二つも聞いている少女が訪ねる。「お姉様方には、このことは」
「権限はすべてケント伯に」
「はは、おもしろい」少女の笑みはもはや少女の笑みではなく、その顔に黒い、幾千の野心を伺わせた。「聞かせてもらおうじゃあない。自身に下った勅命を、このコーディリアに横流しするわけとやらを」
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