第3話
「キキッ!ギャギャッ!!」
耳障りな金切り声が、鼓膜を直接やすりで削るように響く。御剣凛子は、愛刀を一閃させ、三匹のゴブリンを同時に首断ちにした。
「……鬱陶しい」
斬っても斬っても、次から次へと木の陰から湧いてくる。一匹の戦闘力は大したことはない。だが、この圧倒的な物量は、精神力をじわじわと削り取っていく。
その時だった。死角から飛びかかってきた一匹が、凛子の剣を避けるために無理な体勢を取り、口から泡を吹きながら絶叫した。
「ブギィイイイ!!」
ビチャッ、と湿った音がした。ゴブリンの口から撒き散らされた白濁した粘液――興奮と威嚇の混じった唾液が、凛子のセーラー服のスカートに直撃した。
「……あ」
凛子の動きが止まる。紺色のプリーツに、ねっとりとした白い液体が張り付いている。その瞬間、彼女の中で「仕事」のスイッチが「私怨」へと切り替わった。
「……汚い。死んで」
彼女の瞳からハイライトが消え、樹海に冷徹な剣閃の嵐が吹き荒れた。
◆
カランコロン、とドアベルが鳴った時、俺はカウンターの中でスプーンの曇りを延々と磨き続けていた。
暇なのだ。この店『純喫茶・ハイカラ』の午後の静寂は、もはや禅寺のそれに近い。俺が悟りを開くか、店が潰れるか、どちらが先かというチキンレースの真っ最中だ。
「いらっしゃいませ」
俺は磨き上げたスプーンに自分の疲れた顔を映しながら、顔を上げた。そこに立っていたのは、いつもの彼女だった。
セーラー服の少女だが、今日の彼女は、前回の「焦げたスカート」の時よりも、さらに生気がなかった。幽霊が足をつって溺れかけたような、絶望的な疲労感が全身から漂っている。
服は何やら、鳥の糞のような白い汚れがついている。
彼女はカウンター席にたどり着くやいなや、突っ伏した。
「……あう。ちゅかれた」
短い呻き声と共に、彼女の頭がマホガニーの一枚板に沈む。
「今日はまた、随分と顔色が悪いですね」
自分はお冷やを出しながら声をかけた。
「……や、数がね」
彼女は顔を伏せたまま、うめくように言った。
「数?」
「数が、多すぎた」
「一体何が……?」
「小さいのがワラワラと……質より量で囲んで攻めてくるタイプで。斬っても斬っても湧いてくるんだよね」
彼女はゆらりと顔を上げ、虚ろな目で俺を見た。
「一匹一匹は大したことないんだけど、集まると厄介で。耳障りな声でギャーギャー喚き散らして、こっちの服を引っ張って」
「……はあ」
俺は濡れタオルを渡しながら、脳内で検索をかけた。小さいのがワラワラ。ギャーギャー喚く。服を引っ張る。そして、この疲労困憊した様子。
敬語を使う余裕もないくらいに疲弊しているらしい。
「……こっそりタメ口にしてみたんだけど」
「あぁ……わざとだったんですね。疲れ果ててそれどころじゃないのかと思いましたよ」
「店長さんももっと砕けてよ。じゃないと話しづらいし疲れが取れないじゃん」
「はぁ……お客さん。ギャーギャーうるさかったっていうのは、ひょっとして、保育士さんの実習でも始めたの?」
俺の推測に、彼女はタオルで顔を覆いながら、深いため息をついた。
「……や、違うよ。けど、知能レベルは同じくらいかも。言葉も通じないし、本能のままに襲ってくるし」
「子供は怪獣だからねぇ……けど子供じゃないんだ?」
「ん。幼稚園児と違うのは、全員が棒を持ってること」
「……棒?」
俺の手が止まる。棍棒を持った、知能の低い、集団。幼稚園ではない。俺の脳裏に、荒れ果てたコンクリートの建物が浮かんだ。非行少年の更生施設。あるいは、治安の悪い地域の不良グループの下っ端たちだ。
いや……棒ってまさか男のシンボルのことじゃないだろうな……!?
俺は来店時のスカートの汚れ具合を思い出す。白濁した液体がかかったような汚れ。あれはまさか……数が多いっていうのはそういう意味で……本能のままに襲う!? もう確定だろうこれは。
「……バットとか、そういう類のもの? その……隠語的な?」
「隠語?」
「あぁ……いや、本当。言える範囲でいいんだけど……服が変に汚れてたから……」
「隠語……バット……」
彼女は自分の服の汚れを確認すると、バッと顔を上げた。真っ赤になった顔で「ちっ……違う!」と声を大にする。
「ほっ、本当……そういう意味の棒とかじゃなくて……もっと粗末な木の棒で、殴られたんだって!」
彼女は自分の二の腕をさすった。そこには、うっすらと青あざのようなものが見える。
「集団リンチじゃん!? ヤバすぎるって! 今すぐ役所に行くべきだよ!」
「や……だけど、これが仕事だから。あいつら、繁殖力が凄くて。放っておくとすぐ群れを作るし」
「繁殖……」
「……っ! エッチな話じゃないから!」
「ごめんごめん……さっきの流れでどうしてもね……」
俺が謝ると、彼女は何やら思いついたようにニヤリと笑った。
「ま……けど、飛ばしてくるんだよね、汚い汁。避けたんだ、少しついちゃって。カピカピになっちゃった」
彼女はハンカチで乱暴にそのシミを擦った。
「えっ……ど、どっちが本当なの?」
「ふふっ。どっちも嘘。けど、店長さんっていい人だよね。こんなに心配してくれるなんてさ」
「前職が市役所の福祉系だったんだ。縦割り組織に嫌気が差すまでは、DV被害者のところを回ったり相談を受けたりしてたんだ」
「へぇ……だから私もDVされてると思われてるんだ?」
「君は何かもっと大きなことに巻き込まれてそうな感じがするけどね」
「ふふっ。どうだろう?」
「からかうんじゃないよ。ま……だから困ったことがあればいつでも相談してよ。パイプはまだあるから」
「ん。ありがと。困ってることと言えば……話し相手がいないことかな。一人暮らしでさ」
「高校生なのに?」
「や、私20歳」
彼女はVサインを見せながらそう言った。
「えっ……」
じゃあこの制服は? コスプレなのか?
「あ、この制服はね。なんていうか……ユニフォームなんだ。私はこれが落ち着くから」
「普段から……?」
「や、普段は普通の服を着てるよ。仕事の時だけセーラー服なんだよね」
「別に何の仕事でもいいんだけど……夜関係?」
「あ……ふふっ。違うよ、全然違う。単に服装が自由なんだ。可愛いじゃん? セーラー服って」
「まぁ……」
コスプレ服の店か、そういうコンカフェで働いているんだろうか。
客のことを深掘りするのはいいことではないため、そこで話を打ち切る。
だが、彼女はまだ話足りないとばかりにカウンターに肘をついて「ね、店長さん」と言った。
「何?」
「名前、なんていうの?」
「『純喫茶・ハイカラ』だよ」
「ふふっ……や、違う違う。店長さんの名前」
「店長でいいよ」
「あ、名前を聞くなら自分から名乗れとかそういうやつ? 私は
「勝手に名乗られても……
「ん。わかったよ、店長さん。私のことは気軽に御剣様でいいから」
「気軽さの欠片もないね!?」
「ふふっ……そうかもね」
人気のない店内に俺達の笑い声だけが響く。御剣さんは来店した時の疲れ具合が嘘のように楽しそうに話し続けていたのだった。
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