第2話
表向きは再開発地としてバリケードで囲われているダンジョン、
周囲を取り囲む他の探索者たちから、どよめきと畏怖の声が上がる。
「おい、見たかよ……あの『ファイア・ドレイク』を一撃だぞ」「特務機関の『ワルキューレ』……やっぱ格が違うな」「あのパーティ、無傷かよ。化け物か」
称賛、羨望、そして恐怖。最強の剣士として崇められる少女、
「……最悪」
彼女の視線の先には、ドラゴンの最後のあがき――捨て身のファイアブレスによって、無残に炭化して縮れ上がったセーラー服のスカートがあった。
◆
カランコロン、とドアベルが鳴った時、俺はカウンターで角砂糖をピラミッド状に積み上げていた。
暇なのだ。この店『純喫茶・ハイカラ』は、駅の裏通りという立地も相まって、平日の午後はもっぱら時間の墓場と化している。
「いらっしゃいませ」
崩れかけた角砂糖の塔から視線を上げると、また彼女が立っていた。先日、店を間違えたと言って飛び出していったセーラー服の少女だ。
彼女はカウンター席に座るなり、ぺこりと頭を下げた。
「先日はどうも。あの、これ」
彼女は右手の人差し指を差し出した。そこには、俺があげたキティちゃんの絆創膏がまだ貼られている。端が少し捲れているが、大切にしていたようだ。
「おかげで、呪いも受けずに完治しました。防御バフ、優秀ですね」
「……それはよかった。お役に立てて何よりです」
俺は微笑んだ。やはり、律儀な子だ。すると、彼女は少し居住まいを正し、真剣な眼差しで俺を見た。
「それで、訂正しておきたいんですけど」
「訂正?」
「はい。前回もらった電話番号。DV相談センターでしたけど、私、彼氏いませんから。親にも暴力は振るわれてません」
彼女はきっぱりと言い放った。その瞳に迷いはない。しかし、あの傷は明らかに……
俺は布巾でグラスを磨きながら、心の中で静かに頷いた。
なるほど、そういう段階か。明確に交際しているとは言いづらい関係性なのかもしれない。
あるいは「これは暴力ではなく愛の鞭だ」と自己完結しているケース。
役所時代にもよく見た。被害者が一番最初に口にするのは、いつだって「私は被害者じゃない」という言葉なのだ。
「そうですか。それは失礼しました。フリーで、平穏な生活を送っているということですね」
自分は話を合わせた。否定すると、彼女は心を閉ざしてしまうだろう。
「はい。毎日が平和そのものです」
彼女は満足げに頷いた。
しかし、俺の視線は、来店時の彼女の脚、正確にはスカートの汚れのようなものを捉えていた。
平和そのものだと言う彼女の、セーラー服のスカートの裾が、炭化していたからだ。プリーツのひだが、不自然に欠け、黒く焦げていた。
「……お客さん」
自分は指差した。
「スカートの裾、最新のダメージ加工ですか? ずいぶんと……パンクですね」
「あ……これですか」
彼女は自分のスカートの裾をつまみ、パラパラと灰を落とした。
「回避が遅れました。予備動作なしで吐いてくるとか、マナー違反もいいところです」
「……吐いてくる?」
俺の手が止まる。やはり、DVじゃないか。熱い何かを、足元に、吐いてくる。激昂した「彼氏じゃないやつ」が、火のついたタバコを押し付ける。あるいは、ライターの火をスカートの裾に近づけて脅す。どちらにせよ、まともな人間の所業ではない。
「お直し出した方がいいですよ。それか裁縫セットでも持ってきましょうか?」
「や、所詮は消耗品なんで。ちょっと熱い吐息を浴びただけですから」
「……吐息で服が焦げるのは、ゴジラかモラハラ男くらいですよ」
俺は皮肉を込めて返した。愛の言葉が熱すぎて火傷する、なんて比喩は昭和の歌謡曲の中だけにしてほしい。物理的に服が焦げるほどの「熱」を向けてくる男なんて、愛情表現の方向性が根本的に間違っている。
「ふふっ。あながち間違ってないですね」
彼女はふぅ、とため息をついた。
「爬虫類顔でしたし」
「……爬虫類顔」
俺の脳裏に、蛇のような目をした男の顔が浮かぶ。冷酷で、執着心が強く、一度噛みついたら離さない。そして、キレると火を吹く。一番女を殴りそうなタイプの顔を思い浮かべる。
「しつこい男だったんですね」
「……はい。ガードが硬くて、こちらの攻撃が全然通じないんです。そのくせ、口を開けばファイアですから」
つまり、話が通じなくて激昂するタイプということか。
「……議論ができないタイプですか。一番厄介だ」
俺は氷を入れたグラスをカウンターに置いた。
「アイスコーヒーでいいですか?」
「あ、はい。でも、今日はお金が……」
彼女がポケットを探ろうとしたので、俺は手で制した。
「いりませんよ」
「え?」
「前回、五百円置いていかれたでしょう。あれ、コーヒーを出す前だったんです。慌てていたので覚えていないかもしれないですが」
俺はポットから、濃いめに抽出したコーヒーを注いだ。カラン、と氷が涼やかな音を立てる。
彼女は目を丸くして、それからふわりと表情を緩めた。
「覚えてなかったです。すみません、変なことしちゃって。ありがとうございます」
彼女はグラスに口をつけ、ストローでゆっくりと液体を吸い上げた。喉が鳴る音がして、彼女がほう、と息をつく。
「ん……美味しい」
その言葉には、実感がこもっていた。さっきまでの、焦げたスカートや爬虫類顔の男の話が嘘のように、彼女の顔から険しい色が消えていく。
「生き返ります。やっぱり、ポーションより豆の汁ですね」
「……コーヒーと言ってください。豆の汁だと、味噌汁みたいだ」
「焦がした豆の汁じゃないですか」
「ローストしてるんですよ。後、豆と呼びますが種なんです」
「へぇ……そうだったんですね」
俺は苦笑した。彼女はグラスの結露を指でなぞりながら、窓の外をぼんやりと眺めた。
「服が焦げたとき……熱かったんです、本当に。視界が真っ赤になって、肌が焼ける匂いがして……もう駄目かと思いました」
ぽつりと、彼女が漏らした。それは比喩でも冗談でもなく、命の危機を感じた人間の言い方。俺は胸が締め付けられる思いだった。彼女は「彼氏はいない」と言ったが、現実問題、彼女は追い詰められている。
「……ここは涼しいですから。ゆっくりしていってください。自分ができることはコーヒーを出すか、ナポリタンを作るくらいですけど」
「はい……あの」
彼女は空になったグラスを見つめたまま言った。
「また来ても、いいですか? ここ、誰もいなくて静かなんで」
「喫茶店ですから。いつだってお客様は歓迎しますよ」
彼女は嬉しそうに頷き、最後の氷をガリりと噛み砕いた。
「よし。MP回復しました。行ってきます」
彼女は勢いよく立ち上がった。
「これからどこへ?」
「リベンジです。あのトカゲ、また出たらしくて。首を落としてきます」
「……別れ話は、人目のある場所でしてくださいよ。個室は危ない。どちらにとっても」
「ふふっ。任せてください」
彼女は慌てて設定を修正し、焦げたスカートをひるがえして、颯爽と出口へ向かった。
その背中は、悲劇のヒロインには見えなかった。どちらかと言えば、魔王を倒しに行く勇者の背中だ。
俺は、彼女が置いていった空のグラスを片付けながら、ため息をついた。爬虫類顔の男か。もしその男がこの店に来たら、一番熱いコーヒーをぶっかけてやるくらいの気概は持っておこう。
窓の外では、陽炎が揺れていた。彼女の言う「ドラゴン」が吐く熱気が、この街のどこかでまだ燻っているような気がした。
◆
店の外に出ると太陽の光に思わず目を細めた。灼熱のダンジョンとは違う、穏やかな午後の日差し。口の中に残るコーヒーの苦味と香りを確かめるように、小さく舌なめずりをする。
「……変な人」
ふと、店長の真剣な眼差しを思い出した。的外れな心配と、妙なお節介。でも、あのコーヒーの味だけは、どんな高級な回復薬よりも深く身体に染み渡った。
「でも、この場所……嫌いじゃない。店長、良い人だし。ん……それだけだし」
誰にも聞こえない声でそっと呟いた。焦げたスカートの裾が、風に揺れていた。
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