第2話

 表向きは再開発地としてバリケードで囲われているダンジョン、深淵アビスの第15階層、「灼熱の回廊」。そこには今、巨大な竜の巨体が地響きと共に沈もうとしていた。


 周囲を取り囲む他の探索者たちから、どよめきと畏怖の声が上がる。


「おい、見たかよ……あの『ファイア・ドレイク』を一撃だぞ」「特務機関の『ワルキューレ』……やっぱ格が違うな」「あのパーティ、無傷かよ。化け物か」


 称賛、羨望、そして恐怖。最強の剣士として崇められる少女、御剣みつるぎ凛子りんこは、勝利の余韻に浸ることなく、ただ無表情で自分の足元を見下ろしていた。


「……最悪」


 彼女の視線の先には、ドラゴンの最後のあがき――捨て身のファイアブレスによって、無残に炭化して縮れ上がったセーラー服のスカートがあった。


 ◆


 カランコロン、とドアベルが鳴った時、俺はカウンターで角砂糖をピラミッド状に積み上げていた。


 暇なのだ。この店『純喫茶・ハイカラ』は、駅の裏通りという立地も相まって、平日の午後はもっぱら時間の墓場と化している。


「いらっしゃいませ」


 崩れかけた角砂糖の塔から視線を上げると、また彼女が立っていた。先日、店を間違えたと言って飛び出していったセーラー服の少女だ。


 彼女はカウンター席に座るなり、ぺこりと頭を下げた。


「先日はどうも。あの、これ」


 彼女は右手の人差し指を差し出した。そこには、俺があげたキティちゃんの絆創膏がまだ貼られている。端が少し捲れているが、大切にしていたようだ。


「おかげで、呪いも受けずに完治しました。防御バフ、優秀ですね」


「……それはよかった。お役に立てて何よりです」


 俺は微笑んだ。やはり、律儀な子だ。すると、彼女は少し居住まいを正し、真剣な眼差しで俺を見た。


「それで、訂正しておきたいんですけど」


「訂正?」


「はい。前回もらった電話番号。DV相談センターでしたけど、私、彼氏いませんから。親にも暴力は振るわれてません」


 彼女はきっぱりと言い放った。その瞳に迷いはない。しかし、あの傷は明らかに……


 俺は布巾でグラスを磨きながら、心の中で静かに頷いた。


 なるほど、そういう段階か。明確に交際しているとは言いづらい関係性なのかもしれない。


 あるいは「これは暴力ではなく愛の鞭だ」と自己完結しているケース。


 役所時代にもよく見た。被害者が一番最初に口にするのは、いつだって「私は被害者じゃない」という言葉なのだ。


「そうですか。それは失礼しました。フリーで、平穏な生活を送っているということですね」


 自分は話を合わせた。否定すると、彼女は心を閉ざしてしまうだろう。


「はい。毎日が平和そのものです」


 彼女は満足げに頷いた。


 しかし、俺の視線は、来店時の彼女の脚、正確にはスカートの汚れのようなものを捉えていた。


 平和そのものだと言う彼女の、セーラー服のスカートの裾が、炭化していたからだ。プリーツのひだが、不自然に欠け、黒く焦げていた。


「……お客さん」


 自分は指差した。


「スカートの裾、最新のダメージ加工ですか? ずいぶんと……パンクですね」


「あ……これですか」


 彼女は自分のスカートの裾をつまみ、パラパラと灰を落とした。


「回避が遅れました。予備動作なしで吐いてくるとか、マナー違反もいいところです」


「……吐いてくる?」


 俺の手が止まる。やはり、DVじゃないか。熱い何かを、足元に、吐いてくる。激昂した「彼氏じゃないやつ」が、火のついたタバコを押し付ける。あるいは、ライターの火をスカートの裾に近づけて脅す。どちらにせよ、まともな人間の所業ではない。


「お直し出した方がいいですよ。それか裁縫セットでも持ってきましょうか?」


「や、所詮は消耗品なんで。ちょっと熱い吐息を浴びただけですから」


「……吐息で服が焦げるのは、ゴジラかモラハラ男くらいですよ」


 俺は皮肉を込めて返した。愛の言葉が熱すぎて火傷する、なんて比喩は昭和の歌謡曲の中だけにしてほしい。物理的に服が焦げるほどの「熱」を向けてくる男なんて、愛情表現の方向性が根本的に間違っている。


「ふふっ。あながち間違ってないですね」


 彼女はふぅ、とため息をついた。


「爬虫類顔でしたし」


「……爬虫類顔」


 俺の脳裏に、蛇のような目をした男の顔が浮かぶ。冷酷で、執着心が強く、一度噛みついたら離さない。そして、キレると火を吹く。一番女を殴りそうなタイプの顔を思い浮かべる。


「しつこい男だったんですね」


「……はい。ガードが硬くて、こちらの攻撃が全然通じないんです。そのくせ、口を開けばファイアですから」


 つまり、話が通じなくて激昂するタイプということか。


「……議論ができないタイプですか。一番厄介だ」


 俺は氷を入れたグラスをカウンターに置いた。


「アイスコーヒーでいいですか?」


「あ、はい。でも、今日はお金が……」


 彼女がポケットを探ろうとしたので、俺は手で制した。


「いりませんよ」


「え?」


「前回、五百円置いていかれたでしょう。あれ、コーヒーを出す前だったんです。慌てていたので覚えていないかもしれないですが」


 俺はポットから、濃いめに抽出したコーヒーを注いだ。カラン、と氷が涼やかな音を立てる。


 彼女は目を丸くして、それからふわりと表情を緩めた。


「覚えてなかったです。すみません、変なことしちゃって。ありがとうございます」


 彼女はグラスに口をつけ、ストローでゆっくりと液体を吸い上げた。喉が鳴る音がして、彼女がほう、と息をつく。


「ん……美味しい」


 その言葉には、実感がこもっていた。さっきまでの、焦げたスカートや爬虫類顔の男の話が嘘のように、彼女の顔から険しい色が消えていく。


「生き返ります。やっぱり、ポーションより豆の汁ですね」


「……コーヒーと言ってください。豆の汁だと、味噌汁みたいだ」


「焦がした豆の汁じゃないですか」


「ローストしてるんですよ。後、豆と呼びますが種なんです」


「へぇ……そうだったんですね」


 俺は苦笑した。彼女はグラスの結露を指でなぞりながら、窓の外をぼんやりと眺めた。


「服が焦げたとき……熱かったんです、本当に。視界が真っ赤になって、肌が焼ける匂いがして……もう駄目かと思いました」


 ぽつりと、彼女が漏らした。それは比喩でも冗談でもなく、命の危機を感じた人間の言い方。俺は胸が締め付けられる思いだった。彼女は「彼氏はいない」と言ったが、現実問題、彼女は追い詰められている。


「……ここは涼しいですから。ゆっくりしていってください。自分ができることはコーヒーを出すか、ナポリタンを作るくらいですけど」


「はい……あの」


 彼女は空になったグラスを見つめたまま言った。


「また来ても、いいですか? ここ、誰もいなくて静かなんで」


「喫茶店ですから。いつだってお客様は歓迎しますよ」


 彼女は嬉しそうに頷き、最後の氷をガリりと噛み砕いた。


「よし。MP回復しました。行ってきます」


 彼女は勢いよく立ち上がった。


「これからどこへ?」


「リベンジです。あのトカゲ、また出たらしくて。首を落としてきます」


「……別れ話は、人目のある場所でしてくださいよ。個室は危ない。どちらにとっても」


「ふふっ。任せてください」


 彼女は慌てて設定を修正し、焦げたスカートをひるがえして、颯爽と出口へ向かった。


 その背中は、悲劇のヒロインには見えなかった。どちらかと言えば、魔王を倒しに行く勇者の背中だ。


 俺は、彼女が置いていった空のグラスを片付けながら、ため息をついた。爬虫類顔の男か。もしその男がこの店に来たら、一番熱いコーヒーをぶっかけてやるくらいの気概は持っておこう。


 窓の外では、陽炎が揺れていた。彼女の言う「ドラゴン」が吐く熱気が、この街のどこかでまだ燻っているような気がした。


 ◆


 店の外に出ると太陽の光に思わず目を細めた。灼熱のダンジョンとは違う、穏やかな午後の日差し。口の中に残るコーヒーの苦味と香りを確かめるように、小さく舌なめずりをする。


「……変な人」


 ふと、店長の真剣な眼差しを思い出した。的外れな心配と、妙なお節介。でも、あのコーヒーの味だけは、どんな高級な回復薬よりも深く身体に染み渡った。


「でも、この場所……嫌いじゃない。店長、良い人だし。ん……それだけだし」


 誰にも聞こえない声でそっと呟いた。焦げたスカートの裾が、風に揺れていた。

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