第3話
「オルハ!」
アミアカルバの声が飛ぶ。
そこにはいつもの彼女らしからぬ、緊張感があった。
「貴方はいいから、下がってなさい! 危ないわよ!」
「姫様!」
「くっそ~っ! ウリエルどこ消えたのよ! あんたがいないと私たち精神体だから地上じゃほどなくして消滅するんじゃなかったの⁉」
「あの【メルトドラゴン】が出現した時に、強い魔力の渦を感じました。
それと同時にウリエルが消えたので、何かこの一帯のバランスが崩れたのでしょう。
彼女は【四大天使】の一人でもある魔術師ですから、大丈夫だとは思いますが……。
【エデン天災】後、地上にはこうして異質な魔力が吹き出す地があるのだと。
それを放っておくと、再びそこから【次元の狭間】のような災厄が起こる可能性があるとセフィラで聞きました」
「大ごとじゃないのよ~~~~ッ!」
アミアカルバが怒鳴り声を上げた。
それがきっかけになったかは分からないが、毒沼の底から瘴気を纏って出現した巨大ドラゴンが三頭のうちの一つを、アミアカルバに向けて突き出して来た。
「だあああっ! もう! 早いとこ撃破して【天界セフィラ】に撤退するしか道はないわね! 行くわよ! 野郎ども‼」
アミアカルバが大弓に矢を番い、連撃を繰り出したが、ドラゴンの固い鱗に弾かれてしまう。
「ダメか……、くそ~~っ! リュティス―――ッ!」
最後の最後に望みを掛けるように義弟の方をアミアカルバは見遣ったが、リュティスは腕を組んだまま、フードを深く被ってジッとドラゴンの動きを見ているだけだ。
「……ここは闇の力が強い。俺の力とは相容れぬ故に貴様でどうにかしろ」
「ハァァァァ――ッ⁉
あんた、こんなにか弱い私だけ戦わせる気ッ⁉
あんたそれでも男なの! この腐れ男!
わたしが死んだ時に、あの世にいるグインにあんたの素行の悪さ全部言いつけてやるわよこの役立たず! 死んじまえてめえ!」
湿地帯にドラゴンの咆哮と元女王の怒声が響く。
「くっそ~! 【ウリエル】あいつやっぱなんか変よね! 戦いになるとすぐ調子悪くなってセフィラに帰るし! 四大天使の中でも一番の貧乏くじ引かされたんじゃないのわたしたち!」
ドラゴンが再び咆哮を挙げる。
空気が震える。
オルハが両耳を押さえて、よろめいた。
そこに、ドラゴンの激しい牙が迫った。
「オルハ!」
「きゃっ!」
アミアカルバがオルハを突き飛ばし、大弓を投げ捨て剣を構え、ドラゴンの一撃を受けようとしたが、固い鱗に覆われた巨大なの身体が薙ぎ払われる。
アミアカルバの身体は後方に吹き飛んで樹に叩きつけられた。
「アミアさまっ!」
「……ああもう……こっちはこんなことする為に蘇ったんじゃないってのに……」
アミアカルバは痛打した肩を押さえて呻く。
「【ウリエル】! ウリエル来てください! アミア様が……!」
「いいのよオルハ……ウリエルや【天界セフィラ】の魔術師連中がエデンから連れて来た新兵のことなんか便所の紙か斬っても斬っても湧いて出てくるバットくらいの価値にしか思ってないサディストな天使様だってことくらいわたしはとっくに分かってるから……」
「リュティス王子、アミア様に回復魔法を……」
オルハは急いでアミアカルバに回復魔法をかけているが、自分の力だけでは駄目だと悟り、まだ黙ってそこに立っているリュティスの背に話しかけたが、リュティスは振り返ることも無かった。
「いいのよオルハ……うちの義弟、凶暴な魔法は山ほど使えても簡単な回復魔法は一つも使えないっていう役立たずなのは昔から知ってるから……」
重傷を負っても到底当分死にそうにないアミアカルバの愚痴はこの際無視して、リュティスは顔を上げた。
この大地。
この地は元より、魔力を強く集めやすい場所なのだ。
それゆえに古の時代に信仰の場所となり遺跡が建てられた。
長く人の踏み込む機会が遠ざかった結果、この地に集う魔力は地に深く染み込み、大地を汚した。
魔力を循環させる風の精霊がこの地には存在しない。
闇と火の精霊の支配が強く、風の精霊がこの地を嫌っているからだ。
こうした閉鎖された空間は厄介だ。
限定された精霊法しか適応しないからである。
リュティスは少しアミアカルバの方に視線をやった。
軽口をしばらく叩いていた彼女だが、今は本当に肩を抱えたまま、顔を痛みに歪めて地に伏せている。
「チッ、役立たずが……」
ローブの中に隠していた手をようやく出し、印を切った。
リュティスの指がなぞった空に、光が複雑な紋様を描く。
これは『扉』だ。
精霊界と人間界を一瞬の煌めきで繋ぐ。
扉を開くべき、呪文をリュティスは唇に乗せた。
精霊のざわめき。
閉じていた右目に痛みが走る。
開いた瞳が縦に細く変容し、魔性の色を帯びる。
宙に浮かび上がった魔法陣が輝き、セクイエス湿地帯に激しく降り注ぐ雷を、呼び寄せ、飲み込んでいく。
白い閃光が魔法陣の中で変色していく。紫暗の輝き。
アミアカルバがハッと顔を上げた。
リュティスは高く掲げた手を、合図のように打ち下ろす。
白い瞬きが走る。
魔法陣から吹き出した紫闇の雷が、凄まじい咆哮と共に【メルトドラゴン】の三つ首のうちの二つを半ばから吹き飛ばした。
「っ……!」
あまりの振動と、轟音に、アミアカルバとオルハは動けなくなった。
相手が化物なら、加減をしてやる義理も無い。
リュティスは自分の内から吹き出して来る、憤怒にも似た激情に突き動かされるように、黄金色の瞳を大きく見開いた。
その瞬間、リュティスの周囲の空間に亀裂が走り、傷痕の様に裂けたそこから、炎が噴き出した。
「リュティス!」
リュティスの所有する【
それは怒鳴った、と言っていいほどの激しいものだった。
「邪魔だ!」
叩きつけられるように返される、炎のような激情。
首を失ってもがき苦しむメルトドラゴンの、再生をしようとする首の断面を、火の竜の様に荒れ狂う炎が焼き払う。
毒沼がマグマのように沸騰し、周囲の木々が瞬く間に延焼し、黒い灰となって朽ち果てて行く。
全てを炎が飲み込んで行く。
魔物のもがき苦しむ咆哮が、今まで雷と雨の物音しかしていなかった湿地帯に響き渡る。
その声は、この闇の属性の深い地を、好んで居着いた魔物達さえ震え上がらせた。
竜と交わった血に伝わる、業。
いつもは眠り諌め続けるその凶暴な性が、【天界セフィラ】という異界に目覚めて以来、ずっとリュティスの内に燻り続けていた火種に火をつけ、突然の業火となって吹き出していた。
こうなれば、自分であっても止めることは出来ない。
……以前はそうではなかった。
自分はサンゴールというあの国の、王子だったのだから。
守護という使命を負う為、いついかなる時も自身を制御し、破壊に走ってはならなかった。
だが今はその任からも解かれ、望みもしない所業に呼び覚まされ、得体の知れない魔術師たちに使役される身に堕ちたのだ。
国を守るという理由すら失われて、
ただこの身に残った【魔眼】という負荷をどのように使うかくらい、自分で決められるようになった。
リュティスが醒めた目で更なる魔術を繰り出そうと前方を見据えた瞬間。
突然、リュティスの魔力で支配されていたその一帯の空気が変わった。
この空気の流れは、恐らく魔術師しか読めなかっただろう。
業火の色、その一色で染め抜かれていた一帯に、吹き込んで来る。
『【
リュティスの目前を、白い雷が一閃した。
その眩しさに、リュティスは一瞬見開いていた【魔眼】を細めていた。
そして素早く、自分の邪魔をした魔力の根源へと視線をやる。
メルトドラゴンの出現した沼地を見下ろす高台に、淡い光を纏うその姿が見えた。
舌打ちと共に敵意を向けたが、記憶にも残る、生前、自分を見る時に見せていた怯えたような、探るような、暗さを含んだ表情を何故かその時鮮やかに思い出した。
子供時代の姿だ。
しかしすでに成人を果たした青年の姿で、魔法を繰るメリクは、リュティスの方すら見なかった。
以前は、自分の前で魔術を披露することすら怖がっていた子供だったというのに。
それに。
リュティスが敵意を向ければ、必ずメリクは瞳を伏せて逃げ出していた。
そして、思い出す。
今、この男には視覚がないことを。
【魔眼】は、魔力を媒介する扉の役目だ。
言うなればリュティスの場合、瞳自体が魔法陣と同じ役目をしているようなものであり、強力な魔法陣は開くと、一定の間、一定の域にある精霊と魔力を自らのもとに集約することが出来る。
リュティスが人と【魔眼】を合わせた時、その人間の身体に帯びている精霊と魔力、その二つを自らのもとに引き寄せることが出来る。
つまり、リュティスとその人間の間に魔力の道が直結し、その道が届く限り、リュティスは一方的に瞬き一つでその人間を魔法で薙ぎ払うことが出来た。
しかし、今、目が見えないメリクはリュティスの敵視にも気づくことなく、巨大ドラゴンの方に向かって真っすぐに指先を向けている。
……そう、この男のこの、
鈍感さすら、リュティスは生前から忌み嫌っていたのだ。
辺境出の孤児の分際で、王宮に存在して臆することも無い、その厚かましさを。
【清き水の精霊よ】
【冷厳なる檻にしばしその身を留めて沈黙に凍れ】
白い雷によって、
その一帯を厚く帯のように取り巻いていた火の精霊の波が断ち切られた。
四方に走った雷が、新たなる領域を速やかに形成する。
雷の精霊に、反発の性を発するはずの水の精霊だが、
彼らの領域を形成させないほどに、精密に雷の術に組み込めば、
瞬く雷の閃光を水の精霊がその身で受け止め、強力な魔力の柵を形成する。
メリクはまず、自らの望みのままに、他の精霊の介入を許さない領域を形成した。
そして。
【凍れる時は残酷なる傷を隠し】
【三界の剣が寄り集うことを許さん】
澱みなく唱えられるのは、氷の古代魔術。
【七つ花の咲く】
【いかなる大地にも】!!
リュティスの記憶の中で、何故かその時脳裏に浮かんだのは、涙を零しながら魔術の原歌を読む少年の小さな姿だった。
――――【
光と共に、メリクの構築した領域内が下から凍り付き、メルトドラゴンの身体を沼底から凍らせていく。
毒竜の咆哮が上がり、首元まで凍る直前に、竜は苦しみ紛れにメリクの方に向かって炎のブレスを吐き出した。
「メリク!」
飛んだのはアミアカルバの声だった。
彼女は弓を番えかけたが、すぐに激痛に呻き、もう一度地に倒れてしまった。
アミアカルバはメリクが優秀な魔術師であるが、竜の炎は防げまいと咄嗟に思ったのである。
何とか助けねばと尚ももがこうとした彼女を、誰かが助け起こす。
「動かないで。すぐに回復を施します」
合流すべく戻って来た、エドアルトだった。
「エドアルト、あんた……」
彼は瞳を輝かせて、場違いなような、明るい顔をして笑ってみせた。
「メリクなら心配しないで。あの人なら大丈夫だから」
青年の言葉を問い返す間もなく肯定するように、もう一度見上げたアミアカルバの視界の中でメリクが自分の前に氷の壁を形成し、毒竜の炎を防ぐ姿が見えた。
苦しみの雄叫びを上げながら、氷の内に封じられドラゴンが動きを止めた。
――――キィンッ!
そこに、すかさず閃いた、斬撃。
メリクの後方から身を躍らせたエヴァリスが、氷漬けになったドラゴンの残っていた最後の首の一本を一閃し、叩き落としたのである。
彼女の剣は赤い光を帯びて輝いている。
エヴァリスは竜の身体を両断すると、氷の足場を器用に飛びながら、アミアカルバのもとへと駆けて来た。
「アミア、大丈夫?」
「姉さんってば相変わらずバッサリ斬り捨てるわねぇ……」
「血が出てるわよ。ほら、ちゃんと見せて」
「平気よ。すぐ【天界セフィラ】に帰るし。向こうなら精霊が濃いから、あっという間にこんな傷治療できる」
「ならいいけど。過信は禁物よ。私たち地上では【ウリエル】からの魔力を供給しないと最悪消えることになるんだから」
「ハイハイ、分かりましたよ。
リュティス! あんたは私がピンチになるまで戦わなかったからあとでお説教よ!」
拳を突き上げて、暴走しかけた気配を見せた義弟を脅そうとしたが、振り返った場所にすでにリュティスの姿は無かった。
「あ、あれ?」
「あ……。リュティス王子ならエヴァリス姫がドラゴンの首叩き落とした瞬間、あっちの方にフラッと行っちゃいましたけど……」
エドアルトが恐る恐ると声を掛ける。
「……あっそ」
アミアカルバはそう言って、もう一度地にバタっと伏せてしまった。
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