第3話 泥沼とシャッタースピード

午前 6 時 40 分朝六時四十分、桜の花弁が朝露の湿気を帯びて、公園の桜の木の下に静かに落ちていた。私は待ち合わせのいつもの場所に立ち、カメラが入ったキャンバス地のバッグを無意識に握りしめ、指先に力を入れたため関節が白くなっていた。バッグの中のカメラはわざわざ持ってきたもので、本体はひんやりとしていたが、私の心に込み上げる暖かさには及ばなかった——昨日、佐藤と約束したのだ。今日の放課後、郊外の公園に行き、彼に「自然な感じ」の写真を撮ってもらうことになっている。そして、私はそれよりずっと密かな期待を胸に秘めていた。


私は佐藤の住むB 棟の方向を見上げた。路地の入り口は空っぽで、あの丸々とした姿は見えなかった。陽光は次第に高くなり、桜の枝の間から細かな光の斑となって差し込み、私の足元のローファーに落ちていた。靴の表面は朝露で濡れ、淡い光沢を放っていた。十分が過ぎても、佐藤はまだ来なかった。


当初の期待は、次第に不安に取って代わられていった。私は携帯電話を取り出しては時間を繰り返し確認した。画面の数字が跳ねるたびに、一秒一秒が引き伸ばされたようだった。昨日、彼の下ネタをからかったのが度を過ぎて、気分を害してしまったのだろうか。それとも、彼が急な用事ができて、私に知らせるのを忘れたのだろうか。イライラして足元の小石を蹴ると、石は桜の木の根元の穴に転がり込み、かすかな音を立てた。風が吹くと、桜の花びらがしとしとと落ち、私の髪や肩に積もったが、そんなことに構う余裕はなく、ただ頻繁に腕時計を見つめるばかり。心臓はまるで見えない手に握りしめられるように、どんどんきつくなっていく。


六時五十五分、ついに遠くから急な足音と、荒々しい息遣いが聞こえてきた。私ははっと顔を上げると、佐藤が息を切らして走ってくるのが見えた。彼の額には細かい汗がびっしりと浮かび、丸っこい頬を伝って流れ落ち、胸の白いTシャツを濡らしていた。手には、上品な淡い青色のお弁当箱を固く握りしめていた。私の前まで来ると、彼は腰をかがめて大きく息をし、なかなか一句の言葉も続けられなかった。「ご、ごめん…… 美咲…… 遅刻しちゃって……」


口にしようとした不満は、彼の姿を見た瞬間に飲み込まれてしまった。彼の左手の指先には真新しい絆創膏が貼られ、その縁には乾ききらない接着剤が少々付着している。右手の甲には新しくできた火傷の赤い跡がくっきりと残り、皮膚が少し腫れていて、見ているだけで胸が締め付けられる思いだった。


「手、どうしたの?」 私は無意識に手を伸ばし、彼の甲の赤い跡にそっと触れた。指先が温かい肌に触れた途端、彼は思わずびくっと身を縮こませた。


「大丈夫、大丈夫!」 佐藤は慌てて手を振り、朴訥とした笑みを浮かべながら、手に持っていた弁当箱を私の前に差し出した。「朝食にキャラメルプリンを作ってあげようと思ったんだけど、キャラメル層がなかなかうまく焼けなくて、何度も試しているうちに、うっかり火傷しちゃって…… 時間がかかって、待たせちゃった?」


彼に握られて温かくなった弁当箱を開けた瞬間、濃厚なキャラメルの香りがふわりと漂い、黄金色のキャラメル層が魅力的な光沢を放ち、縁は少しだけ反り返っていて、完璧に見えた。私の心は一瞬で蕩け、先ほどまでの焦りと不満は瞬く間に消え去り、代わりに胸がいっぱいになるような切なさが込み上げてきた。私はプリンを受け取らず、彼の手を引き寄せ、その火傷をじっと見つめた。「痛いでしょ? 次からはそんなに無理しないで。普通の朝食でいいから。」


「痛くないよ!」佐藤は首を振り、瞳をきらきらさせながら、ランドセルからもう一つ油紙の包みを取り出した。「君の好きな海塩小豆パンも持ってきたよ。早く食べて、さもないと冷めちゃうよ。」


私が小豆パンを受け取って一口かじると、ねっとりとした小豆の餡がほんのりとした海塩の味とともに口の中で広がり、甘すぎず、しつこくない。桜の木を透過した陽光が彼の笑みを浮かべた顔に降り注ぎ、そのやけどの赤い跡が殊更に目立つが、それによって彼の優しさがより具体的なものに感じられた。「放課後の公園での約束、行く?」私はそっと尋ね、期待を込めた目で彼を見つめた。


佐藤は力強く頷き、瞳を星のように輝かせて言った。「もちろん行くよ!もう準備万端だよ!」


午前の最初の授業は国語で、景色を描写した随筆を扱っていた。教壇の先生が「土の香りと自然の解放感」を感情を込めて説明していたが、私は聞く気になれず、ペン先でノートに無意識に泥の沼の輪郭を描いていた。頭の中には郊外の公園の様子が繰り返し浮かび、先生が私に指名したことにも気づかなかった。佐藤が机の下でそっと私の腕を突つくまで、私は我に返らず、慌てて立ち上がり、顔が火照っていた。


<think>

「土を描写している那句、第三段落の二行目。」佐藤は声を潜め、指先でそっと私の教科書を指さした。その眼差しには、笑いをこらえた優しさがあった。彼の指し示す通りに私は文を音読し、なんとかやり過ごした。席に着くと彼を睨みつけたが、思わず口角が緩み、ノートに歪んだカメラを描いて彼の方に渡した。


二時間目は写真の選択授業で、佐藤が最も得意な分野であり、二人にとっての「秘密の準備レッスン」にもなっていた。教壇の先生が様々なテーマの作品を紹介し、「自然の質感のクローズアップ」というシリーズの写真が現れると――雨後のぬかるんだ田んぼの畦道、湿った土のつま先、踏み潰された枯葉が写っている――先生は解説した。「この種の作品は感覚的なディテールを捉えている点が素晴らしい。土の湿り気や物の変形が、独特のリラックス感を伝えてくれる。とてもニッチながら、温かみのあるテーマです。」


私は胸がどきりとし、無意識に佐藤の方を見た。ちょうど彼もこちらを見ており、二人は途端に目を逸らし、そっと耳の根が赤くなった。授業後、先生は「ニッチな写真テーマの創作アイデア」についてグループで話し合うようにと言った。佐藤はすぐに私を教室の隅に引き寄せ、声を潜めて言った。「さっき先生が言った質感のクローズアップ、君が行きたい場所と似てない?マクロレンズで土の模様を撮って、スローシャッターと組み合わせれば、君が望む感じが出せると思うんだけど。」


「マクロじゃないと、明らかすぎる?」私は少しためらい、指先で服の裾を握りしめた。「やっぱり自然に撮りたいんだ。あんまり作為的には。」


<think>

「大丈夫、方法があるよ」佐藤は胸を張って、鞄から小さなレンズアクセサリーを取り出した。「ソフトフィルターを持ってきたんだ。映像がもっと柔らかくなって、不自然にならないし、部分的にピントを合わせることもできる。例えば、かかとと土が触れる部分みたいにね」彼はそう言いながら手で説明し、手の甲の火傷の赤い跡が動きに合わせて微かに揺れた。私は急いで彼の手首を押さえ、静かに言った。「まだ手が治ってないじゃない」


佐藤は一瞬きょとんとしたが、すぐに朴訥とした笑顔を見せ、アクセサリーを鞄に戻した。「わかってる、大丈夫」


昼休み、私は教室後ろの空席に座り、母が用意してくれた二段弁当をそっと開けた。上段には黄金色でふっくらとした玉子焼きと、外はカリカリで中はジューシーな唐揚げが。下段にはさっぱりした漬物と雑穀米が敷き詰められ、蓋の裏には母が書いた「食べ終わってね」というメモが貼ってある。汁物はなく、典型的な日本の家庭弁当だ。箸を取ったかと思うと、同級生の小林優子が山田奈奈を連れて駆け寄ってきて、二人は食堂で買ったおにぎりを手に、私の向かいの椅子にぎゅうぎゅう詰めに座った。


「美咲、お母さん、料理上手すぎ!」山田奈奈は私の弁当をじっと見つめ、目を輝かせた。「この唐揚げ、すごくおいしそう!食堂のより百倍おいしそう!」


小林優子はお弁当を食べる気もなく、肘をテーブルにつけて私に身を乗り出し、その口ぶりはまるで噂話ばかり。「さっき写真の授業の入口で、佐藤君と一緒にヒソヒソ話してるの見たよ。カメラのアクセサリまで出して。もしかして、何かこっそり撮りに行くつもり?」


私の頬がカッと熱くなり、慌てて玉子焼きを一口頬張り、もごもごと答えた。「ただの撮影指導だよ。パラメータの調整を手伝ってもらっただけ。」


「普通の指導で、隅っこで話す必要があるの?」 小林優子は眉をひそめて問い詰め、私のテーブルの隅にあるキャンバスバッグを指さした。「朝からこのバッグ背負ってるの見たけど、きっとカメラでしょ? 放課後、一緒に撮りに行くんでしょ?」


山田奈々もそれに乗っかって、柔らかい口調で言った。「もしへき地公園に行くなら、西側の工事現場は避けたほうがいいわよ。先週そこを通ったら、水たまりができてて、靴が汚れやすいの。」


その言葉はまさに私の考えどおりで、私は思わず咳き込み、耳の根がさらに熱くなるのを感じて、慌てて手を振った。「まだどこに行くか決めてないし、靴のことも気をつけるから!」


小林優子は何かを思い出したように、パンと太ももを叩いた。「あ、そう!開始初日の登校日、校門の前で水撒き車が通り過ぎた直後に泥の水たまりができてて、落ちた消しゴムを拾おうとして、新しいローファーが汚れちゃったの。その時『ふかふかした泥に足を踏み入れるの、結構気持ちいい』なんて言ってたじゃない。今回もまた我慢できずに『解放しちゃう』なんてことないようにね!」


山田奈奈も笑って頷いた。「佐藤君はそんなに細やかそうだし、きっとあなたの靴の面倒も見てくれるよ。今朝はあんパンまで届けてくれて、本当に優しいよね。二人が付き合ったら、ご馳走してねって」


私は箸を握る手に力を入れ、遠くで男子たちと談笑している佐藤をこっそりと見つめた。ちょうど彼もこちらを見ていて、視線が合うと、すぐににっこりと素朴な笑顔を浮かべ、手にしたプリンのカートンを少し持ち上げて、半分ほど残しておいたことを知らせた。


休み時間になると、佐藤がまたこっそりとメモを一枚渡してきた。そこには歪なカメラの絵が描かれており、隣には「放課後、カメラの設定を手伝うよ。絶対に素敵な写真が撮れるようにしてあげる!それに、君のカメラと同じモデルの予備バッテリーも持ってきたから、電池切れの心配はないよ!」と書かれていた。メモに描かれた子供じみた絵を見て、思わず笑いがこぼれ、こっそりと後ろを振り返ると、彼は机にうつ伏せになり、こちらににっこりと素朴な笑顔を向けていた。彼の髪の毛に陽の光が当たり、ふわふわとした頭がとても可愛らしかった。


3 時間目は数学で、退屈な関数の公式に教室の半数以上の人が睡魔に襲われていた。しかし、私は選択授業での準備やお昼休みの冗談もあって、放課後の予定をますます楽しみにしていた。佐藤は私のそわそわした様子に気づいたのだろうか、原稿用紙にプリンの絵を描き、「撮ったら同じキャラメルプリンを買ってあげる」と書いて見せた。彼の仕草に思わず「ふふっ」と笑ってしまい、前の席のクラスメートたちに振り向かれてしまったため、急いで口を押さえたが、心の中ではその優しさをそっと刻み込んだ。


放課後、佐藤と私が校舎を出たばかりの時、門の前にあるコンビニの看板に目を引かれた。私は彼の腕を引いてコンビニへ向かった。「まずは何か飲み物を買っておこうね。写真を撮るのには喉が渇くでしょ。今日は私がおごるわ」


佐藤は慌てて手を振った。「いいいい、大丈夫。水があるから」そう言うと、佐藤はミネラルウォーターの半分が残ったボトルを取り出して私に見せた。


「それでも買わないと。そのついでに、他にも何か買っておいてあげるよ。」彼の言うことは聞かず、私はコンビニにまっすぐ入った。まず冷たいウーロン茶を2 本手に取り、棚を漁って、最後に火傷の軟膏を手にレジに向かった。


佐藤は軟膏を見て一瞬戸惑った。支払いを済ませてコンビニを出ると、私が渡した軟膏とウーロン茶を受け取り、少しばかり気まずそうに言った。「わざわざこんなものを買ってくれるなんて……」


「当然でしょ?」私は自分のウーロン茶を開けて一口飲むと、軟膏を彼の手に押し付け、つま先立ちで念を押した。「帰ったらすぐ塗ってね。1 日に最低 3 回。面倒がらないで。感染したらもっと大変よ。それに、この数日はお湯に触れないように。手を洗うときもぬるま湯で。わかった?」


佐藤は私に小言を言われて耳まで赤くし、頭をかきながら小声でつぶやいた。「君は母さんよりうるさいな。」


私はすぐに足を止め、眉をひそめて彼を見つめ、わざと声を張り上げて言った。「どうしたの?私が遅いって?それじゃあ、私をあなたのお母さんにしてあげようか?早く『お母さん』って呼んでごらん。」


佐藤はたちまち顔を真っ赤にして、慌てて手を振りながら公園の方へ歩き出した。足取りもいつもより少し速くなっていた。「冗談はやめて、早く公園に行こうよ。遅くなったら光線が悪くなるよ!」


彼の逃げるような後ろ姿を見て、思わず声を出して笑ってしまい、早足で追いかけた。手にしたキャンバスバッグが足取りに合わせて軽く揺れ、心は軽やかな暖かさに満たされていた。


ようやく佐藤と郊外の公園に到着すると、私はキャンバスバッグからカメラを取り出し、佐藤に手渡した。「お願いします。パラメータの調整はあまり得意じゃないんです。」佐藤はカメラを受け取ると、手慣れた様子で電源を入れ、指をボタンの上で素早く動かした。その眼差しは集中して真剣で、普年の朴訥として気恥ずかしい彼の姿とは全く似つかわしくなかった。


公園の奥、水道管の水漏れでできた泥濘が目に入った――表面は乾いて亀裂の入った殻のように固まっており、陽の光が当たって土のような黄色い輝きを放っている。そっと足を踏み入れると、その殻は「カサッ」と音を立てて砕け、中からは潤いを含んだ湿った土が現れ、青草と土が混じったかすかな香りが漂っていた。


「ここはいい感じだな。」私は足を止め、目を輝かせながら佐藤の方を向いた。「ここで撮ろうよ。」


佐藤は頷き、カメラのパラメータを調整し続けながら言った。「適当にポーズをとってくれればいい、私が撮る瞬間を狙うから。」


彼の指示に従い、私は泥濘のそばを行き来し、時にはかがんでそばの野草に触れたり、空を見上げたりした。撮影の合間に、わざと泥濘の奥へと少し足を運ぶと、足元の乾いた殻が瞬く間に砕け、ローファーの踵が潤いを含んだ土に沈んだ。その柔らかく湿った感触が靴底を包み込み、私は瞬時にリラックスし、肩の力が自然と抜け、自分でも気づかない静かな表情が浮かんだ。


佐藤は止めると言わず、ゆっくりとカメラの角度を調整し、レンズはずっと私を追いかけていた。彼は私が泥にはまった後の様子を見つめ、その目には探求心と好奇心が宿っていた。しばらくして、ようやく静かに口を開いた。「ここ…… 感覚が違う、だろう?」


私は胸が締め付けられる思いだった。彼が何かに気づいたのだとわかった。深呼吸すると、彼の方を向き、背筋を伸ばした。私の目は澄み切り、決意に満ちており、後がない覚悟があった。陽の光が私の顔を照らし、温かくまぶしかった。私は静かに言った。「佐藤さん、私は遊んでるんじゃない。こういうのが好きなんです。柔らかくて、湿ってて、形が変わるものに足を踏み入れるのが。これが私に…… 本当の自分でいられる感じをくれるんです。ネットではWAMって呼ばれてる。変だとわかってます」


言い終えると、私は息を殺し、彼の反応を静かに待った。胸の中で心臓がどきどきと激しく鳴っていた。彼の驚き、嫌悪、またはよそよそしい目を見るのが怖かった。そんな目をされたら、私は一瞬でどん底に突き落とされるだろう。


佐藤はカメラを下ろし、ゆっくりとしゃがみ、手を伸ばして、私の足元の泥をそっとつついて、その感触を確かめた。泥は彼の指先でくぼみ、形を変えた。彼は顔を上げ、その目は真剣で優しく、少しの驚きも嫌悪もなかった。「変じゃないよ。例えば…… ビニールプチプチを潰すのが好きな人がいたり、ニキビを潰す動画を見るのが好きな人がいたりするのと同じだ。これはただ、特別な感覚の好みなんだよ」


彼は言葉を切り、頬がかすかに赤らみ、耳まで熱くなったのか、彼の声はさらに小さくなり、恥じらいを帯びていた。「それに…… 実は、見るのが好きなんだ。靴が、特に…… 汚れていく様子が。とても…… 生き生きとしてるって思う。」


私は呆然とし、心にあった重い石がたちまち落ち、温かいものが込み上げてきて、目の奥がじんわりと熱くなった。彼が拒絶するどころか、私を理解し、さらには似たような秘めた嗜好を共有してくれているなんて、思いもよらなかった。


佐藤は再びカメラを構え、指で数回操作して動画撮影モードに切り替えると、創作への意欲が目に輝きを放ち始めた。「美咲、僕たち…… 撮ろう。写真じゃなくて、動画だ。『踏み込む』感覚を記録するために。僕は君の足と土だけを撮って、様々なアングルや光を研究して、泥が絞り出される様子や、その音までも…… 記録しよう。これはまるで…… 僕たち二人だけの秘密のドキュメンタリーだ。」


彼の提案は一筋の光のように、私の心を照らした。それは単なる受容ではなく、もっと深いレベルでの関与と共鳴だった。私は力強く頷き、目に笑みを浮かべて答えた。「いいよ!」


これからの時間、佐藤はすっかり「監督」の役に没入した。彼は地面に腰を落とし、カメラのアングルを調整しながら、柔らかくもプロフェッショナルな確かさを秘めた声で言った。「はい、今からゆっくりと踵を上げて……そう、そしてゆっくりと踏み下ろしてください。泥が溢れ出す瞬間をスローモーションで撮影します」


彼の指示に従い、私は軽く足を上げ、ゆっくりと泥濘に踏み込む。「ぐちゅっ」という音とともに、湿った土が靴の隙間から溢れ出し、太陽の光を浴びて繊細な光沢を放った。佐藤のレンズは私の足を密着させ、泥が変形し、溢れ出し、靴の表面に張り付くまでの、あらゆるディテールを捉えていた。


「角度を変えて、横から撮ります」彼はゆっくりと位置を移動し、レンズを私の靴の側面に向けた。「もう少し強く踏んで。泥を靴にくっつけてください」


言われた通りにすると、足元の泥濘が「ざあっ」というはっきりとした音を立て、泥は押し潰され、引き伸ばされ、細い粘着の糸を無数に作り出した。その糸は空中に束の間留まった後、またゆっくりと落ちていった。私はこの許され、注目されているという喜びに浸っていた。初めて、これほど坦然と自身の趣味を探求し、そばにいる佐藤は彼のレンズで、これらの瞬間を永遠に定着させていた。


夕日が沈み、夕焼けが空を優しいオレンジ色とピンク色に染めていた。私たちは荷物をまとめ、帰支度を始めた。佐藤がカメラからメモリーカードを取り出すと、大切そうに自分のポケットにしまい、カメラを私に返した。「美咲、メモリーカードはまず僕が持って帰るよ。僕の家のパソコンの方がスペックが高いから、ビデオや写真の転送が早いんだ。今晩、処理したら送るよ。」


私は頷いて笑い、カメラを布袋に入れた。「うん、お願い。」


夕日が沈み、夕焼けが空を優しいオレンジ色とピンク色に染めていた。私たちは荷物をまとめ帰支度を始めたが、私のローファーはすでに厚さ不均一の泥に覆われ、靴の隙間には細かい泥粒が入り込み、かかとには濡れた泥の塊がこびりついて、靴表面の光沢すっかり見えなくなっていた。


すると佐藤は突然、リュックサックから未開封のウェットティッシュを取り出すと、さらに半分しか残っていない水筒を取り出し、少し離れた木製のベンチを指さした。「まずあそこに座って。靴を拭いてあげるから。そうしないと、帰ったらおばさんに絶対しかられるよ。」


<think>

言われる通りに長椅子に腰を下ろし、足を上げようとした瞬間、佐藤にすねを押さえられた。「動かないで、僕がやるから。」彼は私の前に片膝をつき、まずウェットティッシュを一枚取り出し、靴の表面についている乾いた泥を慎重に拭き取った。指先は湿った泥の塊を避け、まるで何かを驚かせてしまうかのように、その動作はとても軽やかだった。しかし、乾いた泥は靴の表面に付着した湿った泥と混ざり合い、ウェットティッシュは二、三度拭いただけで汚れてしまい、全くきれいにはならなかった。


「やっぱり水で流さないと。」佐藤はつぶやき、水筒の蓋を開けると、まず私の靴のつま先に向かってゆっくりと瓶を傾けた。冷たい水の筋が靴の表面を滑り落ち、まずつま先の乾いた泥を洗い流した。濁った泥水が靴の表面の模様に沿って流れ落ち、その一部が靴の縫い目に染み込んでいく。私は思わず足の指を丸めたが、反応する間もなく、佐藤は水流をかかとの方にずらした。さらに多くの水がかかとの泥の塊を洗い流し、温かい泥が冷たい水と混ざり合って、靴の縁から靴下の中へと侵入してきた。


その感覚は奇妙だった。まず、冷たい水が足首の皮膚を濡らし、土の微かな匂いを運んできた。すぐに続いて、湿った冷たさが靴下の口から伝わり、足の指を少しずつ包み込んでいく。靴下はもともと乾燥して温かかったが、水に浸された瞬間、その湿って粘つくような冷たさに軽く身震いした。しかし、冷たい水が残った泥の粒と共に足の裏に張り付いたとき、不思議と心地よい暖かさが芽生えた。それは朝露の乾かない草地を踏んでいるようであり、また、温かく涼しい浅い瀬に浸かっているようでもあった。撮影中に感じた高ぶりと共に、その感覚は全身に広がっていった。


水流が靴下の底の模様に沿って溜まっていくのを感じ、足の指は湿って冷たい靴下の中で無意識に丸まるものの、それから逃れたいとは思わなかった。佐藤の横顔が私の膝のすぐそばにあった。彼は水を注ぐ角度を集中して調整し、手の甲にある火傷の赤い跡が夕日にひときわ目立っていた。時折、水滴が彼の手の甲に飛び散っても、彼はほんの少し身を縮めるだけで、靴の縫い目の中の泥の粒を注意深く洗い流し続け、靴底のギザギザの模様までも見逃さなかった。


「冷めちゃうかな?」彼はふと顔を上げて尋ね、瞳に心配そうな色を浮かべ、手にした水筒も動かを止めた。


私の頬は熱く、慌てて首を振った。「い、いえ、冷めてません。ちょうどいいです」


ようやく彼は安堵のため息をつくと、今度はきれいなウェットティッシュを取り出し、靴の表面の水滴を一つひとつ丁寧に拭き取っていく。その仕草は、とても優しくて信じられないくらいだった。彼がやっと手入れを終えた頃には、私の靴下は半分ほど濡れていて、肌に触れる部分はひんやりとしていたが、それでも言葉にできない安心感に包まれていた。


佐藤はさらに、鞄から小さな木製のキーホルダーを取り出し、私の前に差し出した。「これ……あげる。彫りは上手じゃないけど……記念に」


それは小さな木製カメラのストラップで、ナイフでシンプルな桜の模様が彫られていた。縁は少しざらついているものの、彫った人の丁寧さが伝わってくる。私がストラップを受け取ると、指先に木の温かみが伝わってきて、心がほっこりとした。「素敵だね、ありがとう。」


家に帰り、私がカバンを置いたか置かないかのうちに、佐藤からメッセージが届いた。「メモリーカードをPCに挿したから、今エクスポート中。まずは数枚写真を送るね!」と、末尾には可愛いピカチュウのスタンプが添えられていた。(佐藤家のPCは私のよりスペックが高く、彼が強く申し出て、メモリーカードを渡して編集を手伝ってもらっていた)


私はその温かい木製のカメラストラップを握りしめ、畳の上に座って、食事をする気もなく、ひたすらスマホの画面を見つめていた。時折、チャット画面を更新する。30 分後、スマホが「ピロン」と鳴り、佐藤から動画ファイルが送られてきた。文面には「動画編集完了!気に入ってくれるといいな!簡単なBGMもつけてみたよ~」とあった。


私はすぐに動画を再生した。指先が震えている。動画の冒頭は、一つのアップショットだった——私のローファーが乾いた泥の層の上にそっと置かれ、「パリッ」という音とともに、層が瞬時に砕ける。カメラはそれに合わせてゆっくりと下に移動し、靴底が柔らかな泥に沈んでいく様子を捉えていた。佐藤はスローモーションを効果的に使い、靴の隙間からゆっくりと染み出る泥の様子がくっきりと映し出されている。細やかな泥の粒子が靴の表面に付着し、夕日に照らされて淡い暖かい光を放っている。その美しさは信じがたいものだった。


すぐさまカメラは横に切り替わり、私がかかとを上げてから再び力強く踏み下ろす瞬間を記録していた。湿った土が押し出されるように外側に溢れ、細い粘土の糸を引く。それは空中にしばし留まった後、ゆっくりと垂れ落ち、その映像は癒しに満ちた緊張感にあふれていた。ビデオの後半では、佐藤はさまざまな角度からの撮影を加えていた。俯瞰のショットでは、靴が泥濘の中に濃淡の異なる足跡を残し。クローズアップでは、靴底のギザギザの模様が泥土に埋め尽くされ、持ち上げられると再びゆっくりと剥がれ落ちていく。さらにはローアングルのショットまであり、泥が跳ね上がる際の微細な粒子が、陽の光を浴びてきらきらと輝く様子を捉えていた。


さらに私を驚かせたのは、ビデオのBGMが穏やかなインストゥルメンタルだったことだ。ピアノの音色と泥濘の発する「ぐちゃ」「しゃりしゃり」という音が完璧に融合し、静謐で癒やされる雰囲気を醸し出していた。ビデオの最後では、カメラがゆっくりと引き、泥濘の中に立ち、自分の靴を見つめている私の後ろ姿で映像は終わる。夕日が私の影を長く伸ばし、その画面は温かく、そして静かだった。


私はこのビデオを何度も何度も再生した。画面から目が離せなかった。佐藤は、私が最も心惹かれる細部――土の柔らかさ、溢れ出す瞬間、靴底と泥の触れ合い――を的確に捉えていた。彼はプロの映像表現で、私の秘めた趣味を極めて美しい芸術作品へと昇華させたのだ。強い幸福感が込み上げてきて、私の口角は無意識に上がり、目の奥もじんわりと熱くなった。


私は佐藤にメッセージを返した。「動画、すごく素敵!もう十回以上見ちゃったよ、ありがとう!」と、その後にはハートの絵文字をたくさん付け加えた。


まもなく、佐藤からの返信が届いた。「気に入ってくれてよかった!いくつか短いクリップも編集したから、明日送るね~」


私はスマートフォンを握りしめ、画面の映像を見つめ、胸の木製カメラストラップをそっと撫でた。心には、今まで感じたことのない満足感と期待が満ち溢れていた。この夕暮れは、私が自分の秘めた趣味を素直に受け入れられただけでなく、理解され、大切にされているという温かさを感じさせてくれた。佐藤と一緒に、私たちだけの「秘密のドキュメンタリー」をもっとたくさん作りたいと、私は心から待ち望んでいた。

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