2
翌朝。まだ日も昇っていない時間。
朝と呼ぶには早すぎる時間にジェームズは体を起こした。
隣で心地よさそうに寝息を立てるビクターを起こさないように静かにベッドから出ると、小さく伸びをする。肺の空気を入れ替えるように深く息を吸うと、朝露を含んだ寒さが体に沁みた。
明瞭になった意識とともに、寒さで固まりそうになる体を動かして洗面所に向かう。
顔を洗い、ふたたび寝室に戻るとビクターがちょうどベッドから出てきたところだった。
「ああ、おはようございます。起こしてしまいましたか」
「おはよ、ジェームズさん……」
「まだ暗いですから、寝てても良いのですよ」
「いや、せっかくだし起きるよ。たまにはこういうのも悪くないしね」
ビクターは瞼をこすり、完全にベッドから脱出すると深く息を吸った。
「ジェームズさんはどこか出かけるの?」
「列車の様子を見に行こうかと思いまして」
「職業病ってやつか……ねえ。その散歩、いまから準備しても間に合うやつ?」
「おや、一緒に来てくれるのですか?」
「もう一回寝るような気分でもないしね、すぐに整えるからまってて」
ビクターはそういうとすぐに支度を整えた。ジェームズの用意した朝ごはんをかき込むと、慣れた手つきでネクタイをゆるく締める。
「おまたせ。そうだ、僕のマフラーって……」
「ああ、それでしたらここに。昨日はありがとうございました。支度が整ったのなら行きましょうか」
玄関で隣に並んだふたりの靴。ジェームズはこれが普通になる日が来るのかもしれないと、密かに期待した。
「にしても早いね、冬だし真っ暗だよ。まだ日も昇ってない」
感覚的には朝だと言うのに、月が蹂躙しているせいでどうも調子が狂ってしまう。
「駅から海のほうへ行く列車が出ているのでそれに乗れば綺麗な景色が拝めると思いますよ」
「それ凄く素敵。三文の徳ってこういうことか」
地面を踏む音が重なる。
「では海の方まで行きましょうか。この時期ですから水には入れないですけど、きっと綺麗ですよ」
「ジェームズさんはエスコートが上手だよね。一緒にいるとワクワクしちゃう」
「ワクワクしているのは私もですよ。ビクターと一緒に出掛けることはそう多くないですから」
他愛もない話をしつつ、しばらく経つと駅が見えてきた。改札とホームがあるくらいのこじんまりとした駅だ。
改札に立つ駅員がジェームズに声を掛ける。
「クラークさん、おはようございます。今日はおひとりではないのですね」
「ビクターです、ジェームズさんのカフェでお世話になってます」
「今日は海のほうまで行こうと話していましてね。切符を二枚いただけますか」
「ああ噂の!どうぞおふたりで楽しんできてください」
駅員からふたり分の切符をもらうとそのままホームへと向かう。
しばらくしてから始発列車に乗り込んだ。
「ええと、海はアドミスト駅か。わかってはいたけど見事に誰もいないねえ。貸し切りだよ」
ふたりは列車に乗り込んで青いシートに腰掛けた。正面の窓は広く、景色を取り込む額縁のようだ。やがて列車は発進し景色はゆっくりと進んでいく。見慣れた景色は遠く馴染みのない屋根たちが右から左へと流れていった。
「あのビクター。少しだけ昔話をしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん、聞かせてほしいな」
「こんな年寄りの話ですから、冗談半分で聞き流してください」
ジェームズが誰にも打ち明けることなく、墓場まで持っていこうと決めていた話。
己をさらけ出すことが怖く、むき出しの心を冷たい言葉が刺すのを恐れて何重にも重ねて隠していた話。
自然と目線が下がってしまうのを自覚したが、ビクターの反応を受け止めるほどの余裕はなく結局顔は伏せたままだった。
「……私は笑顔を運びたくて、車掌という仕事に就きました。幼いころに自分が憧れたように、誰かを笑顔にしてあげられたら、人々のために生きられたらと、そう願っていたのです……恥ずかしい話ですがそれは最後まで叶いませんでした。笑顔を運ぶことはできなかった。それどころか、涙を拭いて差し上げることも、なにか言葉をかけて差し上げることもできなかったのです」
目の前の自由さえ取り零してしまう痛みは壮絶なもので、何年も経って克服したと思っていた傷がぶり返した。
――機関車はきらい!
けれど、それもすぐに馴染んでいく。
慣れは、恐ろしいものだ。
「私は臆病者で、どう言葉を選ぶべきか分からなかった……決して、誰かの笑顔を奪いたかったわけではないのです。私は自由を運びたい、人を笑顔にしたいんです。ビクター、どうすれば良いのでしょう……? 何度考えても分からないのです……私には掬えなかった」
――お兄ちゃんを連れていくんだもの! 不幸ばかり運ぶんだものッ!
「現実を変えることはできぬまま、私は駅舎を離れました。なにも、なにもできなかった。ただ、己が無力であることを痛いほど自覚しただけでした」
――僕もいつか皆の笑顔を運びたいなあ。
「……答えのないことだとはわかっています。ですが、答えがないからといって納得できる性分でもなくってですね……ビクター、私はどうするべきだったのでしょうか……」
それは救いを乞うひとりの男だった。フクロウの瞳はプリムラの紫を掴んで離さない。
「僕は……」
言葉が出てこない。何と言ってあげれば良いのだろうか。
――願うなんて。
このひとりの男を。
――願ってしまいたいと思うなんて。
馬鹿真面目にすべての人生を祈る男を。
――どうか、幸いで。幸いで溢れてくれ。
安らぎを祈ることすらも自分のエゴだといってしまう男を。
――私には何もできないから。
慈悲深いと言うにふさわしい、ジェームズ・クラークという男を。
――何も。
彼を救う言葉は、どこにあるのだろうか?
「……僕にも、わからない」
助けてと、白い指先を震わせて涙をこぼす男を包み込む言葉をビクターは知らなかった。
その細い四肢から精一杯の力を振り絞り、自己犠牲を厭わない彼はその優しさ故に自らの心を重く潰していってしまう。
「僕は、人を泣かせてばっかりだったから……だから、ジェームズさんが望む答えは持ち合わせてない。ジェームズさんに幻滅されたくなくて余裕こいてるけど、僕は、ぼくはまともじゃないからさ……なんか、うまくいかなくてミスってこけちゃって、愚かで馬鹿げた人間で……だから、人を笑顔にする力は持ってない。ごめんね……」
ビクターはずっと後悔していた。今さら許されたいと、そんなことは思っていない。
「……けどね」
これは自己満足だ。
偽善かもしれない。
けれど、あの子の笑顔のためだったらなんだってしてみせる。
「ジェームズさん、あなたはね。僕を笑顔にする魔法を持ってる。気づいてないだけだ」
僕は、あなたのために生きているんだ!
「ジェームズさんの底なしの優しさに、僕は何度も救われたよ。ジェームズさんは人の自由を奪ってなんかいないよ。答えには足らない言葉かもしれないけど、知っていてほしんだ」
ビクターの強い言葉が朽ちたジェームズの心を一つ一つ拾い上げつなぎ合わせていく。
ジェームズはそのプリムラに宿る熱に、心臓を、この身を、人生を、預けてみたいと思った。
「……ビクター」
「僕が笑顔でいられるのはジェームズさんのおかげなんだ。悲しくて悔しくて、目の前が真っ暗でどうしようもないとき、あなたの笑顔だけが僕を照らしてくれた。僕は、ジェームズさんを目印に、生きてきたんだ!」
ビクターの言葉はジェームズを掬う魔法だった。
「大袈裟だって思うかもしれないけど。本当に、ただ、ジェームズさんだけが光で……だから僕は、ジェームズさんにそんな顔してほしくないって思うの……その笑顔が人を笑顔にする魔法だと思うから」
静かに頬を伝う白銀を指先で拭う。
ふたりは目を合わせ、自然と込み上げてくる思いを噛み締めた。
「ビクター、私は今上手く笑えてるでしょうか……」
「うん、すっごく可愛い」
「ビクター」
「なあに、ジェームズさん」
「私はあなたの隣にいて良いのでしょうか」
「もちろん、隣以外どこにいる気なの?」
「……」
「ねえ見て」
ビクターの声につられ顔を上げる。
車窓の向こうの空は茜色だった。
「ジェームズさんが教えてくれた朝日。どう?」
暖かい朝日に照らされて、ビクターの髪が金色に光った。
「綺麗です、とても」
ふたりは静かに抱き合った。
少しだけしゅんとするジェームズとは対照的に、ビクターは妙に心が透明なのを自覚していた。
ジェームズが自身を頼ってくれたことが、ビクターをより強く成長させたのだ。少し背伸びして大人の彼に合わせていたが、今なら子供でいても良いかもしれない。
「恥ずかしい所をお見せしてしまいました……ですが、少しだけ分かった気がします。あの方にかけるべき、然様ならの言葉が」
「……それならよかったよ」
ふたりの隙間を風が通り抜けた。
『次はアドミスト、アドミスト。お出口は左側です』
小旅行も終わりが近づいている。
がたりと立ち上がると、手を繋いで列車を降りた。
「ほら、ついたよ。ジェームズさん、行こう」
「はい」
ホームに人影は見当たらない。潮の波打つ音とふたり分の足音だけが目覚めたばかりの町に響いた。
駅員に切符を渡し、改札を通り抜ける。
「わお、こりゃ絶景だ」
風が吹く。じんわりとした緊張感も潮風に流されていった。階段を下りると、目の前には朝焼けが広がっていた。一面の海と真っ赤な太陽。
ゆっくりと登る太陽に空が白く輝いていた。無限の水平線が一面に広がっている。
「やはり、自然の生み出す景色は心に沁みますねえ」
深く息を吸うと、潮の匂いが肺に充満した。
「これをあなたと、ビクターと見たかったのです。溜息が出るほどに美しい景色を」
カモメが空を飛んでいった。雲一つない空がだんだんと朝日で紅く照らされていく。
「うん。僕、これすごく好き……こんな景色初めて見た」
影がふたつ、伸びていく。ふたりは静かに手を繋いだ。指を絡ませ、二度と離れてしまわぬように強く握る。
過去に生きたふたりが、息を重ねる。影がひとつになって伸びていく。
「ジェームズさん、僕のパパになってよ」
「もちろんです、ビクター。クラーク・ビクター。私だけの息子です」
myfamily @irono00xx
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