ある老人の一日

こふい

第1話

 老人にはもう、時間なんてあってもなくても同じようなものだった。春のあとには夏が来て、次に秋、冬と来て、また春が来るだけのことだった。振出しに戻る、だ。一日にしても、同じことだ。ただ、晴れの日と雨の日と、その間にそうでない日とが混じるだけであった。


 真夏のある日、黄ばんだ小さい窓を通して入り込んでくる弱い陽の光の中、目を覚ました。暑いはずであったが、空気の温度にさえ感じ方が鈍くなってきていた。実際のところ、汗をかくことも少なくなってきていたのかもしれない。

 部屋には、なんだか酸っぱい匂いと、アルコールと煙草の吸い殻の入り混じった匂いが充満していた。部屋の奥の布団から見る、玄関の扉までの薄暗い景色は、物であふれ、まるで険しい岩場のようだった。

 老人は、布団の上に胡坐をかき、ちゃぶ台の上に乗った物をどかしてセブンスターの箱を取り上げると、プラスチック製の黄緑色のライターで煙草に火をつけた。深く吸い込み、煙を吐き出すと、部屋の中にその灰色の煙はゆっくりと天井の方へ登っていく。煙は老人の皮膚にも染み込み、深いしわの一つひとつには煙草のヤニがびっしりとこびりついているかのようだ。

 腕を伸ばし老人はラジオをつけた。雑音の混じるラジオからは、昔の歌謡曲が流れてきた。老人は煙草の煙を2、3度吸っては吐き出すと、吸い殻で溢れたアルミ製の灰皿に煙草をへし折るように押し付けた。

 腹は減っていなかった。胸のあたりにいつもと同じ重いむかつきがあるだけだった。

 突然、玄関のドアをたたく音がした。手を拳にハンマーのようにしてたたくと出るときのような、鈍くてかすれた音だった。

 老人はただ、自分のはだしの脚を見ていた。ひざ下までの白い下着から伸びた脚は、下着のそれよりも白く見え、筋肉がそげて痩せた脛には骨がはっきりと浮かび上がっていた。じっと動かずにいると、再び扉が強くたたかれた。


 「杉下さん、市役所の正木です。杉下さん」


 老人は舌打ちをし、顔を上げた。ゴミやがらくたをかき分けながら玄関へ向かいながら、


 「開いてるよ」


 と、しわがれた声で叫ぶ。

 若い半袖のワイシャツ姿の男が玄関の扉を開けて顔をのぞかした。と、同時に扉がガタンと外れ、部屋の中に倒れてしまった。


 「すいません」


 若い男は、あわてて扉を戻した。


 「ええねん。もとから壊れてるんやから、もう開け放っといてくれてええわ。暑いから・・・」


 老人は言った。


 「わかりました。でもいいんですか? 壊れてたら物騒じゃないですか?」


 老人は、口をゆがめた。もしかしたら少し笑ったのかもしれない。


 「誰もこんなとこ、入ろう思わへんわ」


 若い男は、部屋と反対側のアパートの鉄柵を見やった。老人の部屋はアパートの2階部分だった。アパートの通路はとても狭く、白骨のような色をしている。コンクリートが微妙に盛り上がり、錆びついた鉄の階段までに行くのにもなんとなく斜めに傾いているように感じた。見ると、隣の部屋の扉も壊れていた。


 「まあ、上がりや」


 老人は若い男を部屋の奥へと招き入れた。部屋のきつい臭気に若い男は顔をしかめた。


 「なんでいっつも連絡もなしに急に来るんや? なあ、正木さんよ」


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