同情の詩

 酒場を後にし、成り行き任せで見つけた宿屋の中に入った彼女は、その、ほろ酔いを一気に目覚めさせた。受付の主人に宿賃を支払おうと、包みを開いた瞬間、少女の目に飛び込んできたのは、紙幣でも硬貨でもなく、一冊の古びた本であり、その表紙には、まさしく「霞の抄」と書かれてあった。

 少女の両親が、例の詩歌集を発見したとき、どうしても堪忍ができなかった母親は、その本を破り捨ててしまったらしい。

 当時、そんな事実は、少女にとって心底どうでもよかったのである。

 しかし、消えたはずの本が戻ってくる、などという怪奇が、少女の、その本への興味を再起させたという事実は必然の結果であり、少女の脳裏をたちまちによぎったのは、紛れもなくタヅマエであった。彼女は、疑う余地もなく、彼の仕業だと思った。

 主人の、不審がる様子には目もくれず、少女は、その場で本を取り出してみた。やけに荒れた表紙は、明らかに、少女の元所有物のそれ、ではなかった。それは、舞い戻りの奇跡などではなかった。それは、師範からの最後の試練であったに違いない、少女は本を包みに戻さないまま、勘定を済ませ、自室で本の初めの頁を捲ったのだった。


 行く当てが決まっていないというのは、一部の人間にとっては幸せなことなのかもしれない。

 この国の民衆は、やっとの思いで職に就き、意地でも、その生活を手放さまいと、質素な贅沢にすがりついてきた。それこそが、彼ら彼女らに残された唯一の生き方であった。

 カディウスの故郷には、吟遊詩人という職業があるらしく、彼らは、世界各地を巡っては、詩を披露したのだという。あるときは、その土地の人々を魅了し、あるときは人々に活気をもたらし、あるときは人々と共に悲しみを共有したりもした。

 

 吟遊詩人の朝は早かった。彼女は、周囲の雰囲気を逸する派手な服装で、道を闊歩していた。宮廷の方面から遠ざかっていけばいくほど、は閑静になっていき、まち並みは粗末になっていったが、彼女の気分が落ち込んでいくことはなく、胸の高鳴りを抑えながら、どこか、交歓に頃合いの場所はないものかと、キョロキョロと辺りを見回しながら考え事をしていた。というのは、詩人は前日の夜、新しい詩を完成させていたからであり、その詩の内容というのも、彼女にとっては全く経験のない類のもので、そして、それは、きっと民衆に気に入ってもらえるだろうという意気込みがあったからであり、そして、なによりも、吟遊詩人の初舞台が今日であったからである。

 詩人は、舗装すらされていない幅の広い通りまで出ると、手当たり次第に、付近の人々に声を掛け始めた。吟遊詩人は舞台の場所を選ばない。しかし、何人に声を掛けようが、取り合ってくれる人間は見つからなかった。詩人は、その才能を発揮できないことを不満に思った。

 嘗て、少女の詩を称えなかった者など存在しなかったからであるか、詩人は、些か自信をなくしてしまったようであったが、それは、単に、民衆が、詩人としての自身の実力を見くびっているからであろうと考えた彼女は、一層のこと、この場で詩の披露を始めてしまおうという結論に至った。そうすれば、民衆は、すぐに節操を変えて、自分を歓待してくれるに相違ない、そう思い立つと、詩人はジャングラを構えて、なんの前触れもなく、道の一番真ん中で、華麗な歌声と弦声とを周囲に響かせた。

 道行く人、商売人、家内で仕事をしていた人、様々な人々が一斉に動きを止め、彼女に、完全に注意を奪われた。


 どうやら、民衆というのは、飢えに苦しめられているらしい、病に、そして、寒さにも苦しんでいるらしい。

 詩人の手腕を問われるときに欠かせない事項のひとつに、世間に対する造詣の深さがある。

 その世間知らずを克服するために、新米の吟遊詩人は、夜の霞に耽っていたのだった。少女が長い歳月をかけた偉業を、詩人は、一晩のうちに成し遂げてしまった。涙さえ出ることはなかったが、彼女は、宿の自室で、その本を読んで、悲しみと憐憫の気持ちと、私こそ力になることができるという自負を得た。そうして、彼女は民衆に訴えかけたのである。


 しかし、その憐れみを乗せた力作の旋律は、詩人にとって、全く、想定外の駄作に終わった。

 周囲の視線が彼女に向かい、一瞬、呆気に取られたのかと思えば、彼女を見る目は、たちまちに、奇異と憎悪とを含ませた目に一変し、次の瞬間には、詩人の八方から罵声が飛んできたのだった。

 その場に居合わせた民衆の誰もが、貴族が自分たちを見下しにやってきたのだと思った。彼女の想いは、ひとつとして伝わらず、代わりに、民衆からの色々の罵詈雑言を直に受け取って、彼女の美声と音色は、一瞬のうちに怯んでしまった。詩人の声が完全に止んで、やがて、華美な布と華奢な身体に、石ころまでもが飛んできたとき、彼女の目から涙が溢れてきた。目の前の罵声、今までの歓声、その全てが頭の中で共鳴し合い、自分の積み上げてきた詩が、一気に崩れた感覚を覚えた。同時に、自身を支える力も抜け落ち、詩人は足元から地面に崩れ落ちた。

 きっと、こんなときにタヅマエが居たならば、少女は泣かずに済んだのだろう。きっと、タヅマエの弟子になってさえいなければ、少女が吟遊詩人になることはなかっただろう。きっと、あのときタヅマエが現れずに、そのまま泣き続けていたならば。

 一際、大きな石ころが詩人のジャングラに命中した。ジャングラは、パチンという音を立てて、その弦を千切れさせ、その弾ける炸裂音の余韻が次第に小さくなって、彼女のすすり泣きのほうが、より明瞭に聴こえるようになってきた頃、ようやく民衆は詩人の前から去っていき始めた。

 遠ざかっていく足音のなか、ひとつだけ近づいてくる音があった。


???

「おやおや、怪我をしているようだね、直してあげよう」


 詩人は顔を上げることもできないまま、その場で俯いたままであった。すると、かすれ声の老紳士は、その人差し指を詩人の額に宛てがって、容易に彼女の顔を上に向けた。彼女の顔面に広がった涙と、ひきつった表情とを見ると、その老人は、彼女の感情を一蹴する勢いで、彼女の袖を引っ張り上げた。


老人 

「泣いてなんかいるんじゃないよ。ほら、ついてきなさい」


 老人は、尚も俯く詩人の頭に、軽く手を添えて撫でてやると、次に、彼女の、楽器の持っていないほうの袖を引っ張り、道を歩き始めた。

 途中で細道に入って、さらに、数分も歩くと、老人は、一軒の古びた家の前で立ち止まり、そのまま、詩人を中に招いた。それまで、一切、二人は言葉を交わすことはなかったが、それは、彼女が泣き終わりの過呼吸を発現していたからであり、老人も、彼女の落ち着かないのには、困っていたようであるが、玄関を上がったとき、遂に、その沈黙は破られた。

 奥のほうから、威勢のよい、やや低い声の、老年と思われる女性の声が聴こえてきた。詩人は、おそらく彼女は老人の妻だろうと思った。詩人からも老紳士からも、女性の姿は見受けられなかったが、彼は、自分の妻に一声掛けると、詩人を、すぐ隣の部屋に案内した。

 内装の薄汚いのとは一線を画して、特に目立っていた物が、詩人の目に飛び込んできた。彼女が、その部屋の片隅に小さく佇んでいた弦楽器を見つけると同時に、老人は、久しぶりに彼女に声を掛けた。


老人

「ほら、ジャングラを渡しなさい」


老人は楽師であった。

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2025年12月12日 19:00
2025年12月12日 19:00

熟れない吟遊詩人 つにお @Tsunio

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