Side Kaji:一瞬だけ時間が止まった

 役員フロアの仮眠室は、どこか病室に似ていた。

 白を基調とした静かな個室が並び、照明は最低限の間接光だけで、影だけがゆるやかに揺れている。

 まるで、心を休ませる場所ではなく、壊れた頭脳を一時的に保管する棚のような空間だった。


 アラームが鳴る直前にはっと目を覚まし、きっちり四時間半の睡眠を取れたことを時計で確認する。

 自分の身体は、追い詰められたときほど正確に動くのが皮肉だった。


 時刻は八時前。そろそろ会社が動き始める。温いシャワーで脳を完全に起こし、身支度を整えて外に出ると、不安げな顔をした杉本が待っていた。

 普段は冷静な男の眉が、わずかに寄っている。


「おはよお、杉本くん」

「おはようございます。……あの、朝から大変申し訳ないのですが、鏑木室長から至急技術戦略室に来るように内線が入っておりまして……」

「んー。なんやおっかないなあ。無視してもええやろか?」

「いえ、それは……」


 すると、背後から冷えた気配が漂ってきた。


「──……誰が、なにを、無視するのかしら?」


 振り返るまでもない。ヒールを履きながら足音も立てず、人の背後に回れる女性はそうはいない。


「おはようさん、鏑木室長。朝から何の御用やろ」

「……用件がわかっていて聞いているのよね。よかったわ。話が早くて。杉本さん、悪いけどしばらくの間、彼を借りていくわね」


 反論を赦さない圧でこちらを制し、絢香はついてこいと言わんばかりに顎で行き先を指し示した。

 杉本は無言で肯首しながら、気の毒そうな顔をした。


 連れてこられたのは、役員フロアの小ミーティング室。

 重厚なドアが閉まると、外のざわめきがすべて遮断され、世界が狭くなる。

 景色は良いが、空気は重い。


「座って。いくつか確認したいことがあるから」


 乾いた声が落ち、彼女は対面に腰を下ろす。

 声は怒りを含んでいるが、表情は諦めに近い。


「まず確認するわ。──深夜のGSCへの三点同時攻撃。あれは、どういうつもり? いえ、聞き方を変えるわね。

 いきなりこんな手段に出る、あなたの目的は何?」

「そら簡単な質問やね。もちろん、エリック・ゴールドマンを潰すためや。逆に聞くけど、他になんかあるか?」


 机に頬杖をつき、わざと軽薄な答え方をしても、そんな挑発に絢香は乗らない。

 ただ、目の奥だけが鋭く光り、こちらの目の動き、瞳孔の揺れ、眉間や額の緊張──すべてを細かく観察していた。


「そう。……外資が報復に来るって、すべてわかっててやったのね?」

「さあ、どうですやろ。俺は鏑木室長と違うて、全体を俯瞰するより一点突破を目指すタイプやし、未来よりは目先の復讐のが楽やったんよね」


 彼女は深く息を吐き、静かに、しかし芯のある声で続けた。


「……勘違いしないで。あなたが花さんを失うのは、ただの自業自得なの。会社やゴールドマンのせいだけじゃない。

 己が招いた失態に、これ以上アペックスを巻き込まないでちょうだい」


 その言葉が脳を素通りするように通過して、乾いた笑いが自然と出た。


「ははっ。そらたしかに、会社にはちょっとばかし迷惑かけるかもしれんけど、それこそそっちの過失やろ。……いや、あんたの過失やな」

「……わたしが、何かしら?」

「CTOなんてたいそうな立場、俺には向いてへんって最初にちゃんと断ろうとしたやん。せやのにそっちが押し切って、結果、社内の全アクセス権を与えてもろた。……まだあれから一月ひとつきも経ってへんし、さすがに覚えてはるやろ?」


 絢香がはじめて、怒りを込めてこちらを見た。


「まあでも、多少は会社にも配慮して、最小限の合法範囲で押さえたわけやし、むしろ褒めてほしいけどな」

「──最小限? これが? あなたの最小限は、会社にとっての全面戦争だって理解してる?」

「はははっ。甘い甘い。あんさん、案外見積もり下手なんやねえ。

 ゴールドマンがこの程度でビビるわけないやん。

 むしろこっからやろ。俺も、あいつも」


 彼女は短く舌打ちをし、苛立つように吐き捨てた。


「初恋をこじらせた男の厄介さを、わたしは甘く見ていたようね」

「なんやそれ。鏑木室長の新しいエッセイのタイトルやろか。発売したら教えてや。記念に一冊買うたるさかいに」


 その言葉に絢香が反応を示した瞬間、まるでレフリーが止めに入るように、壁際の内線が鳴った。

 彼女は静かに立ち上がり、「はい、鏑木です」と応答する。全身から苛立ちのオーラが溢れていて、前哨戦はまずまずだと、隠れてそっと息をついた。


 すると、それを見透かしたように、彼女が恐ろしい目でこちらを振り返る。


「梶CTO。海堂常務からの呼び出しです。いますぐ常務室へ向かってください」


 ……だるう。後半戦の開始が、想像より早いやん。


 昨日に引き続き、海堂との話し合いもそれなりに長引いた。

 毎度のことだが、最終的には強引にこちらの希望を伝え、渋々納得してもらう。

 そのあとは杉本に頼み、すべての予定をリスケして、作業部屋へ閉じこもった。時間はいくらあっても足りず、脳を限界まで引き絞って作業を続けた。


「……じさん。…………梶さん。大丈夫ですか?」


 ──肩に触れられて、急に思考が現実に引き戻された。

 焦点を合わせると、心配そうな顔をした杉本が、目の前にいた。


「顔色が悪いですよ。水分は? 朝からほとんど食べてないですよね?」


 机の上の、一口も手がつけられていない昼食を見て、杉本がため息をついた。


「……あ、ああ。すまん。いま、何時やろか?」

「もう十八時を過ぎています」

「定時過ぎたやん。俺に断らんくても、勝手に帰らはってええのに、悪いことしたなあ」

「まさか、そんなことしませんよ。……それより、先ほど但馬専務の秘書から、連絡がありました」

「ほんまかあ。あー、面倒くさ……。なんの用か聞いた?」

「梶さんに、十九時に専務室まで来てほしいそうです」

「……最終ラウンドまであるんやねえ」

「え?」

「いや、こっちの話や。それよか、杉本くんはそろそろ上がってええよお」

「梶さん、新しい食事を用意していますから、先に食べませんか?

 社食でおにぎりと味噌汁をもらってきました」

「……あんた、ほんまにようできる秘書やね」


 殺伐とした時間の中で、彼の気遣いが有り難かった。



「──どうぞ。お入りください」


 指定された時刻に向かうと、背の高い秘書が、すぐに部屋に通してくれた。

 初めて足を踏み入れる専務室は、部屋全体に、くたびれた男の哀愁が漂っている。


 棚から溢れんばかりの資料、壁に掛けられた数々の賞状、机に積み重なった紙の束。観葉植物さえもインテリアというよりは、少し乾いた葉の質感が、但馬の現在地を示すバロメーターのように見える。

 ブラインドがすべて下ろされ、眺めの良いはずの東京の夜景は何も見えない。


 積み重ねてきた栄光よりも重く濃い疲労の影が、この数年の彼の負担を静かに物語っていた。


 広い室内の大きなデスクで、但馬は集中したように、何か書き物をしていた。

 声を掛けたら悪いだろうと、断りを入れることなく、勝手にソファに腰を下ろす。

 だが、そのまま十五分が経過した頃、さすがに飽きて、第一声を上げた。


「専務いうんは、お忙しいんやろ。用があるなら出直すさかいに、そろそろ帰ってええやろか」


 そこで今日初めて、彼はまっすぐに顔を上げた。以前見たときより、頬のしわが深くなり、眼光の鋭さが増していた。


「五歳児じゃないんだ。声を掛けるまで、そこで待っていなさい」

「ほなちょっと、独り言を始めてもよろしおすか?」

「……黙ってろと言ってるんだが、言葉が通じないのか?」

「呼び出されてちゃんと顔出したっちゅうのに、こんだけ待たされたら、ぼやきくらい出るやろ。……そしたら、代わりになんや書くものを貸してくれはらへん? おとなしゅうするさかいに」

「はあ……まったく海堂の教育はどうなっている? そのテーブルにある紙を勝手に使えばいいだろう」


 ローテーブルの上に置かれたメモパッドを、勝手に拝借することにした。


「ありがとお。専務、案外やさしいお人なんやね」

「……案外は余計だ」


 ジャケットから、いつもの癖で万年筆を取り出し、一瞬だけ時間が止まった。

 竹と和紙を重ねた漆塗りの万年筆が、手の上で鈍く光る。


 見なかったふりをしてそれを元に戻し、ローテーブルの上にあるペンを拝借した。

 書くことはそれほど長くはないが、短くもない。


『未来予測モジュールには、真田さんが残した逆流抑制(倫理ブレーキ)があるため、倫理のない判断だけ、わざと精度が落ちる。

 GSCにバレないよう細工済み。交渉カードに使ってください。詳細は秘書の杉本に。

 ※GSCには特殊な盗聴スキルあり。内緒話は必ず端末ゼロ空間で』


 但馬の机に近づき、彼の視界に届く範囲に、黙ってメモを置く。

 彼はそれを不機嫌な顔で取り上げて、目をこらすように眺めた。


 ……あかん。老眼には細かい文字は読めへんのかな。気遣いが足りんかったわ。


 だが直後、但馬は、はあ……とため息をつき、一言呟いた。

「…………なるほどな。道理で」

 そして即座に、メモをシュレッダーにかける。

 盗聴に思い当たる節でもあったのだろうか。


「あのお、専務。ええ加減、退屈やし、そろそろお暇してよろしいやろか」

「いや、ダメだ。お前には新しい辞令がある」

「……また辞令かあ。今度はどこやろ。アラスカ支店とか嫌なんやけど」


 だが、こちらの軽口を無視して、但馬は一枚の紙を差し向けた。


「梶雪斗CTO。

 貴君は社内での重大な倫理違反行為により、即時解任を申しつける。日付は──昨日付だ」

「……重大な倫理違反なんか、しましたかいなあ」


 わざとらしく首を傾げると、但馬は書類を一枚、机の上で二本指で押さえた。


「二年前、社員情報を抜き出して改竄ログを残した件だ。

 そしてもう一件。半年前にも、女性社員の個人情報にアクセスした形跡がある」

「ああ──……そっちかあ」


 花だけでなく、湯山志帆の情報を抜いたことも、鏑木絢香は把握済みらしい。

 但馬はさらに書類をめくった。


「他にも、こちらが支給したタワーマンションへの社員の無断宿泊、報告義務違反。……まったくお前は、やりたい放題だな」

「え? 役員って自宅に女性連れ込んだらあかんの? ほんまに?

 但馬専務も、女性連れ込んだら報告するん?

 ってかその場合、誰にするん? 鏑木室長? それとも後藤田CEOやろか?」


 普段、滅多に動かない男の眉が、はじめてぴくりと跳ねる。


「……わたしは既婚者だ」

「せやったなあ。忘れとったわ」


 わざと大げさに手を打った。

 但馬のこめかみに浮かぶ血管が、あからさまに怒りを刻む。


「とにかく──貴君の解任は決定事項だ。それに伴い、すべてのシステム権限は停止する。

 引継業務が終了次第、ビルの入退室カードも返却してもらう。そのつもりで」

「ほな、出禁ってことやね。これでも御社には、散々尽くしてきたつもりなんやけど……けっこうな待遇どすなあ」

「ふざけるな。いったいうちが、お前からどれほどの迷惑を被ったと思っている。

 損害賠償を請求されないだけ、有り難く思え。これは、後藤田CEOの温情措置だ」

「……後藤田CEOは、今日はおらんの?」

「彼は今、スイスだ。──ダボス会議で、しばらく帰らん」


 机の上のペンが、カチリと音を立てた。

 それだけで、室内の温度が一度下がったように感じる。


 だが、今このタイミングで、祖父の面影が過る後藤田に会わなくて済むのは、正直ありがたかった。


 ……心が弱らんで済むわ。


 伏し目がちだった顔を上げ、目の前の男とまっすぐに対峙する。


「一応聞くけど──……俺がおらんようになったら、誰がモノリスを守るん?」


 但馬が、目だけで一瞬俯いた。

 しかし、それは答えよりも雄弁だった。


「……優秀な技術者なら、いくらでもいる」

「そおどすかあ。ほな安心やね。

 アペックスのますますのご発展と、ご多幸を心からお祈りしときますわ」


 軽く一礼して、但馬と最後に数秒だけ視線を交わした。


 この会社を守り抜くという覚悟を持った男の顔は、深い眉間のしわと、固く結ばれた口元に、苦悩の色を滲ませていた。

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