閑話:プロビデンスの冬③

 白石夕貴ゆうきは、元警視庁刑事部SITの優秀な女性捜査官だ。

 二十代後半にして異例の抜擢を受けるほどの人材だった。


 だが十年前、池袋東口の雑居ビルでの立てこもり事件で、白石が最短の救出を狙って進言した突入ルートは、薬物で錯乱した犯人の予測不能な移動によって破綻した。

 被害者は救出できたが、混乱した交戦の中で、最前線の部下が被弾し、重傷を負った。


「判断を誤ったのは私です。隊に残る資格はありません」


 責任のすべてを自分一人で引き受けるように、白石は周囲の慰留を振り切り、辞職願を静かに提出した。


 しかし、その責任感と判断の鋭さは、当時刑事部の重鎮だった鏑木恭一警視長の目に留まった。


 娘の絢香は幼い頃から、羨望と嫉妬を背景に、執拗な付きまといやストーカー被害を受けてきた。

 実害は防いできたが、恭一にとって、娘の安全を脅かす存在は、すでに許容の範囲を超えていた。


 絢香の帰国を機に、恭一は白石を鏑木家に招き入れる。

 表向きは家政スタッフ。だが実際には、鏑木絢香の専属護衛兼オペレーターだった。


 絢香にはじめて会った日のことを、白石は強烈な印象として覚えている。

 女優と見まがうほどの美しさに、意志の強い瞳。

 長い睫毛が午後の日差しを受けて頬に影を落とし、薔薇色の唇から紡がれる声は、女性である自分ですら一瞬、聞き惚れるほどだった。


「はじめまして。絢香お嬢様。白石と申します」


 警察官特有の癖で敬礼をすると、絢香は薄く微笑み、ゆっくりとかぶりを振った。


「絢香でいいわ。お嬢様なんて呼ばないで」

「いえ、それは……鏑木警視長から叱責されます」

「あなたの雇い主は父よ。でも──忠誠を捧げる先は誰? わたし? それとも、父?」

「……絢香お嬢様です」

「だったら、わたしの言うとおりにして。

 あなたの仕事は、わたしを守ることでしょう?

 なら、わたしを『絢香お嬢様』なんて長ったらしく呼ぶ時間は、有事には足かせになる。

 名前は短く呼ばれる方がいいわ。合理的でしょう?」


 白石は一瞬だけ沈黙し、呼吸を整えた。


「……でしたら、お嬢様と……」

「言ったでしょう? 様は要らないの。あなた、耳は聞こえてる?」

「──……了解しました。……お嬢」

「ええ、それでいいわ。白石」


 その日から、白石の忠誠を誓う先は、市民ではなく、鏑木絢香ただ一人になった。


 彼女は非常に勤勉で、努力家だった。

 白石が警察で培ってきた観察力や交渉技術、体術、さらには犯罪心理学にまで強い関心を示し、終いには「犯罪者特有の行動の癖」を教えてほしいと、本気で頼んできたほどだ。


 実際に指導してみると、絢香はその時点で、警察に迎え入れることも可能なほど、必要な素養をすでにバランスよく身につけていた。

 子供の頃から父親に教え込まれてきた武芸の心得と、人を見る目が、確かに活かされている。


「お嬢はなぜ、警察官を目指さなかったんですか?」

「あら、警察官にならないとだめかしら?」

「いえ。ただ……民間企業よりも、お嬢の資質に向いているように思います」


 そう言うと、少し困ったように微笑まれた。


「……アペックスでしかね、できないこともあるのよ」


 そしてその言葉を示すように、彼女は傍で見ていても、異例なほどの速さで上層部へ食い込んでいった。

 何か目的があってそこにいるのだと、その頃にはもう気がついていた。


 政治、経済、語学、情報処理。

 彼女の知識欲は衰えることを知らず、仕事も休みも関係なく、常に何かを貪欲に学び続ける姿勢。


「わたしのような弱者にはね、知識は最大の武器なの」


 彼女のどこが弱者なのかと、笑うことはできなかった。

 絢香は常に、自分の中の脆い部分を正確に見つけ、その穴を埋めるための努力を惜しまない。

 その必死さは、時に気の毒なほどで、何が彼女をそこまで駆り立てているのか、白石にはいまでもわからない。


「わたしはきっと、凡人でも努力次第で天才に勝てると、証明したいのよね」


 そう微笑む絢香を、この先も赦される限り、自分の手で護りたい。

 退官後も、自分の額に刻まれたまま消えぬ警官の紋章を、白石は絢香にだけ捧げている。



 一月の中旬。鏑木家で、ある女性を保護することになった。

 対象者名は佐々木花。二十代後半。小柄で痩せ型、性格は大人しく、従順に見える。

 特に際立った特徴のない、普通の市民そのものだ。


 彼女にどんな事情があって保護されたのかは不明だが、絢香が護れと命じた以上、理由の如何に関わらず、それが白石の仕事になる。


 だが、彼女を保護して一週間後の夜、事態は突然変わる。

 絢香はアペックスへ向かう前、白石にこう言った。


「……なんでそう思うのか、わたしにもよくわからないのだけど、彼女をアペックスの地下に連れて行きたいのよね」

「……何か目的があるのですか?」

「目的と言うより……答えを得るための手段かしら。

 ただの勘だけど、無視してはいけない勘ってあるじゃない?」


 その感覚は、よくわかる。

 犯人と対峙するとき、たまに起こる直感のようなものだ。

 なぜそれを自分が選んだのか、後になって考えてもわからないのに、それこそが正解だったという道筋を、偶発的に掴むことがある。


 絢香が言っているのは、そういうことだ。

 正解かどうかはわからないが、いま、そうすべきだと己の勘が言っている。

 だから機密を犯してまで、彼女をそこに連れて行くのだと。


 そして事実、アペックス地下のサーバールームに入ってから起こった一連の出来事で、絢香の視線は決定的に変わった。


 それまで、佐々木花はただの保護対象だった。

 だが、いまの絢香は完全に、分析官の眼で彼女を見るようになっている。

「対象者」ではなく、「現象」を扱うときの、あの冷静で鋭い視線で。


 モノリスという、不気味な質量を持つAIが何なのか、白石は知らない。

 また、知る必要もない。


 だが、その部屋で、佐々木花のスマホが突如光り、彼女が「ECHO」と小さく呟いたとき、白石は見てしまった。


 人の顔を持たないモノリスAIが、正確に、照準を合わせるように花を捉えた瞬間を。


 光でも音でもない。

 訓練を受けた者だけが気づく、標的に定められたときの、あの静電気のような圧。

 呼吸の温度が一度だけ落ちる、あの気配。

 訓練所で幾度も教え込まれた、狙われた瞬間の感覚。


 デジタルにも、コードにも、理屈にも還元できない。──あれは、意志の類いだ。


 反射で思わず、絢香と花の前に立ち、襲撃に備えて警戒心をむき出しにする。

 そうしながらも、今見たものがあまりにも異様で、白石は背中がひやりとした。


 背中にかばいながら、佐々木花がただの一般市民ではないことを、取り調べるまでもなく理解した。


 サーバールームで倒れた花を、助手席のシートに寝かせ、ドアを閉める。

 絢香はその様子を見守り、声を潜めた。


「白石。……さっき見たものは……」

「もちろん、口を閉ざします」

「……あの子、どこまで知っていると思う?

 あれが演技ってこと、あり得るかしら?」

「……表情を読む限り、何も知らないというよりは、己が知っていることの価値を理解していない、というのが正しいかもしれません」

「そうね。わたしもそう思うわ……。

 気は進まないけれど、あの子が起きたら尋問ね」


 その声には、ほんのわずかに苦みが混じっていた。

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