第四話『観覧車の見える部屋で』

 真田との出会いから、三年目の春。

 二人は定期的に会っては、さまざまな議論を交わした。

 他愛ない雑談でも、激論でも、どんな時間も梶には新鮮だった。


「人はなぜ嘘をつくんやと思う?」

「うーん。自己最適化、かな。嘘は、生きるためのコスト削減に繋がる」


 真田がコーヒーに入れた砂糖をかき混ぜながら言った。まったくそうは見えないのに、彼は意外と甘党だった。


「梶はどう考えてる?」

「俺は……嘘をつくんは、怖いからやと思う」

「怖いって何が?」

「人を傷つけたくない時も、自分が傷つきたくない時も、嘘をつくことがあるやろ。でも、どっちも守りたいもんがあるのは変わらん」

「ふうん。理屈じゃなく、感情の問題か」

「感情を無視したら、人なんか動かんやろ」

「なるほど。すごくいい視点だね」


 議論はいつも、そんなふうに終わりのない環へと流れた。


 真田は繰り返し「もっと人間に興味を持て」と言った。

 そして、人間を観察するとき、映画というのは良い題材だった。

 梶はすっかり映画の構造分析にハマり、何かを見つけては真田に報告をするようになった。


「たしかに、映画の構造分析は興味深いわ。頭のええ燃料になる」

「ははっ。だろ? 映画の見方って、ひとつじゃないんだよ」


 遠くでチャイムが鳴る。

 夕陽が校舎の壁を赤く染め、二人の影を長く伸ばしていった。


「あ、そうだ。梶に会わせたい人がいるんだよ。いつなら時間がある?」

「会わせたい人? ……俺は誰にも会いたくないんやけど」

「まあまあ。高いお肉奢ってくれるっていうし、警戒しなくていいよ。おかしな人ではないから」


 あまり気は進まない。

 だが、真田が自分を陥れたり、曲がったことを薦めるような人間ではないことも理解していた。


「まあ、奢りならええけど……」


 梶の言葉に、彼はやさしく目を細めた。


 それから一ヶ月後の夜。

 肉が焼ける音と、炭の匂いが狭い個室に満ちていた。

 高層階の窓の外では、都会のネオンがゆらいでいる。

 梶は目の前の得体の知れない中年を、胡散臭いものを見る目で見ていた。

 高級そうなスーツに、その上からでもわかる、鍛えられた体。

 顔はいいが、どことなく暑苦しい空気を感じる。

 全体的に細身でスタイリッシュな真田と並ぶと、重役とその秘書という風情だった。


 その男はグラスの水をひと口飲み、テーブルに置いた。


「……で、君が例の学生か」


 梶は、真正面からその視線を受け止める。

 相手は、自らを海堂仁と名乗った。


 渡された名刺には、大企業の部長職の肩書きが記されている。

 海堂の眼差しには人をまっすぐに射貫こうとする強さがあり、今まで会ったことがない種類の人間であることが伝わってきた。


「例のって、なんの話ですやろ」

「真田のお気に入り。天才の皮を被った変人」

「……初対面で人の悪口を言うのはあかんって、亡くなった祖父が言うてましたよ」

「失礼。褒めているつもりだが?」


 海堂は声にだけ微かな冗談めいた色を乗せた。

 だが瞳の奥は、動かず、こちらを値踏みしたままだった。


「君は、人の心を数式に置き換えたいらしいな」

「置き換えたいわけやあらへん。そう見えてるだけです」

「じゃあ、梶くんはこの先、何がしたい? 失礼だが、将来は決まっているのか? 大学で研究を続けるのも、限界があるだろう」


 梶は冷めかけた肉を目の前に、言葉を探した。


「……人は、嘘つくやないですか」

「ああ、そうだな」

「その嘘が、なんのためにあるんか。どこから生まれるんか。

 それを見逃さへんモデルを作りたい……」


 頭の片隅に、母が家を出て行った日のことが蘇る。

 母の嘘は、家族を壊した。

 その嘘を暴いたのは、自分。

 いったい誰が一番悪かったのか、今も時々考える。


「もちろん、無理やとわかってるんやけど。そんなことに金を出す企業はないやろうし、大学で続けるんも限界があるて」


 海堂の眉がわずかに動く。


「なぜ嘘を見逃さないものを作りたがる?」

「それは……人が壊れる瞬間って、大抵そこやと思うから」


 部屋の空気が少し止まり、真田が小さく、唇の端を上げた。

 まるで「ほら、言ったでしょう」と海堂に伝えるように。

 海堂は組んでいた腕をほどき、グラスを手元に引き寄せた。


「……君は、自分の研究が役に立たないと思っているのか?」

「役に立つとか立たへんとか以前に、金にならへんやろなあと」

「金にならなくても、その研究を続けたい?」


 問いの形は鋭いが、声は静かだった。

 梶は眉をひそめ、少しだけ考える。


「続けたいとか、そんな立派な話やないです。

 ただ……見えたらええのにって思うだけで」

「何が見えたらいい?」


 梶は、箸の先で少し焦げた肉を押しながら考える。

 海堂は質問の手を一切緩めない。

 ここで誤魔化すのも、嘘をつくのも、すべきではないと思った。


「……人が嘘をつく前の、小さな揺れ。

 自分でも気づかんうちに、心が折れそうになる瞬間。

 ……ああいうの、誰でも、ありますよね?

 人が壊れる前に、『ここが痛い』って見えるようなモデル。

 たぶん完璧なんて無理やけど、気づくための手がかりくらいなら、作れるかもしれへんなって……」


 海堂と真田の視線が、一瞬だけ交錯した。


「君、面白いことを考えるな」

「面白いですか? それならよかったですけど……。俺からしたら、ただのコンプレックスみたいなもんやし」


 海堂の瞳が、ふっと和らいだ。


「コンプレックスが研究動機になるのは、悪くない。むしろ強い」

「強い……?」

「金だけで動く研究者を、俺は信用できない。だが、自分のために研究を続ける人間となら、うまくやっていける。なぜなら、自分の傷を理解しようとする人間は、他人の痛みにも誠実でいられるからだ」


 梶は返す言葉が見つからず、黙った。


 海堂はゆっくりグラスを持ち上げ、「真田が上機嫌になる理由が、やっとわかったよ」と呟いた。

 真田は肩をすくめ、苦笑しながら言う。


「だから言ったでしょう。

 梶はただの変人じゃないんです。

 心が折れる瞬間の匂いがわかるタイプの人間なんですよ」

「そもそも変人とちゃいますけどね」


 梶が苦情を伝えると、海堂の表情はもう仕事の目になっていた。


「もし君が本当にそんなモデルを作りたいなら……うちで続きを、やってみないか?」


 部屋の空気が、静かに変わった。


 差し出されたその手は、神のものなのか、悪魔のものなのか。

 梶にはわからなかった。

 にもかかわらず、右手は勝手に持ち上がり、握手を返す。


「虎穴に入らずんば虎子を得ずって、じいちゃんが言ってたんで」

「蛇の道は蛇とも言うよ、梶」

「ここで使うなら、地獄の沙汰も金次第じゃないか?」


 三人の言葉が、煙の向こうで重なり合う。

 海堂は、瞳の熱を隠さずに言った。


「地獄に堕ちるのは構わない。問題は、そこから何を持って帰ってくるかだ」


 タンが焼ける匂いと、グラスの氷が溶ける音。

 その夜の笑いは、集まるべくして出会った三人の最初の呼吸になった。



 暑い夏の盛りに連れてこられたのは、横浜市西区関内の高層マンションの一室。

 海堂の投資用物件だと言う。

 夜を映す窓からは、みなとみらいの大きな観覧車が回っているのが見えた。


「どうした、梶。窓の外ばっかり見て」

「観覧車って、ええなあ」

「たしかに、風情があるよね」

「そやのうて、あんなデカいもんを、たった一点の軸で支えてるやろ。

 しかも、人を安全に乗せたまま、一定の速度で動かし続ける。

 バランスが狂ったら一瞬で終わるのに、それでもちゃんと回ってる。……ほんま、すごいよなあ」

「おーしおーし。あとでおじちゃんが遊園地連れてったるから、今はコード書こうなー」


 海堂の言葉に、呆れたように鼻で笑った。


「アホかい。あれは乗るもんちゃう。遠くから構造を眺めるもんや」

「……本当にお前は技術者の鑑だな」

「そんなんちゃうけど……力の偏りを逃すための遊びが、あの巨大な円を支えてるんやろ?

 たぶん、……人も企業も、ほんまは同じやないかなって」


 観覧車を見て、祖父がつくる日傘を思い出した。

 骨の一本一本が、支え合ってひとつの形をつくる。

 無理をせず、たわみながら全体を保つ。

 ……あの手の中にも、同じ構造があったのだ。

 そう思うと、観覧車が視界に映るこの部屋は、まるで祖父が見守っているようで、梶は密かに気合いを入れ直した。


「ここを、開発拠点にするんですか?」


 真田がスーツの上着を脱ぎ、床に鞄を置く。


「ああ。俺たち三人の意見のすりあわせを、しばらくはここで行いたい。会社は敵も多いからな」

「大企業は大変ですね」


 テーブルの上にはノートPCが三台。

 コーヒーの香りと、少し焦げた基板のにおいが混じる。


「プロジェクト名は、MONOLITHだ」

「……古典名作SF映画を穢さんといてくださいよ」


 海堂が堂々とした態度で告げ、梶が面倒くさそうにぼやく。


「そうか。名付けた後藤田さんに伝えておくわ」

「誰ですか?」

「アペックスのCEOだよ」

「はあ? やめてくださいよ」


 真田が笑いながら、マグカップを置いた。


「モノリスはないよな? あれって何十年前の映画だっけ?」

「俺はバルタザールがいいって言ったんだけどな」

「それはそれで、散々擦られすぎて、たいして面白くもないんやけど」

「海堂さんは、アニメ派ですか?」

「アニメは日本の伝統芸能だろ」

「……ちゃう気ぃがする」


 笑いが小さく重なって、空気が柔らかくなる。

 海堂がマーカーでホワイトボードに線を引いた。


“この会社の理念を、構造で作る”

“Project MONOLITH — Day 1”


「その前に、梶にはこれを書いてもらいたい」


 差し出されたのは、守秘義務契約書。


「学生相手に、ずいぶん物々しいんやね」


 そうこぼすと、真田が苦笑した。


「企業の研究部門に出入りするなら当然だよ。今日から梶は、社外協力者として扱われることになる」

「真田さんは?」

「俺は、先月正式に、正社員として採用された。

 俺の専門はAI倫理だろう? でも、研究室にいるだけじゃ、人は救えない。

 だから企業の真ん中で、倫理を武器にしたかった」

「梶が大学院を卒業したら、そのまま正式に採用できれば助かるが、どうだ?」

「……そら、ありがたい話やけど……」


 海堂の誘いに返事をしたが、未来のことを想像するには、あまりにも遠い。

 自分にこんな大きな看板を背負えるのか──その不安の方が、いまは強かった。


 梶は黙ってペンを取り、署名欄に名前を書く。

 インクの跡が、薄い紙の上でわずかに滲んだ。

 大学の研究棟で交わす報告書とは違う緊張が、胸の奥に残る。


「これから作ろうとしている反応モデルは、単なる学問じゃ終わらない。

 うちは人の判断を構造化できるAIを探してる。

 人事も、経営も、全部人の選択で動くからな」


 契約書を閉じたあと、海堂は少し黙った。

 窓の外では午後の光が傾き、街のざわめきが遠くに霞んでいく。


「……うちの会社はな、成長しすぎたんや」


 海堂の声は静かだった。

 ときどき混じる関西訛りが、彼の心の揺らぎを表しているようだった。


「人が多すぎて、誰が何をしてるか誰にも見えん。

 努力してるやつより、声がでかいやつが評価される。

 理念も、仕組みの中で磨耗する。

 せやから、正しい構造をもう一度作りたい。俺たちの手で」


 彼は掌を組み、机の上を見つめた。


「AIに会社を任せたいんじゃない。

 社員が本当の意味で働きやすい会社にすることが、会社の未来を守る。

 モノリスは、そのために必要な骨組みになる」


 真田がゆっくり頷く。

 梶は、自分の胸の奥で何かが確かに動いたのを感じた。


 その夜、三人の希望はまだ名もなかった。

 ゆっくりと回る観覧車だけが、その始まりを静かに見届けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る