Side Kaji:花ちゃんの世界で、

 ECHOは何の問題もなく、佐々木花に受け入れられた。

 思わずこちらが心配になるほど、あっさりと。

 個人情報やプライバシーは確実に守られていること、第三者に傍受される心配が一切ないことも重ねて伝えたが、「そうなんですか? さすがですね!」という軽い返事が返ってきて、脱力しそうになる。

 けれど、小学生の女の子と話しているような、あの気の抜けた感じが妙に心地いい。


 ……花ちゃんは、バイノーラルビートみたいなもんやね。

 左右の耳にわずかに違う音を流すと、脳が勝手に揺らぎを作って落ち着く音響法。

 彼女との会話で生まれる心地よさは、不思議とそれに似ていた。


 気がつけば、ECHOを通したやり取りが、生活の一部になっていた。

 仕事の合間に何気なくアプリを開くと、彼女の小さなつぶやきが届いている。


 「今日、社食でカレー食べました」「午前中の会議、空調が寒すぎました」といった、ただの日常報告なのに、なぜか読むとふっと力が抜ける。


 こちらも、返信のついでに写真を一枚、送るようになった。


 通勤途中で、烏丸御池の交差点を早朝に渡るとき、朝の光がガラスビルに反射して、古い町家の瓦に重なった風景を切り取る。

 夜の帰り道では、提灯の赤と、遠くの自動販売機の青が光の対比になっているのをカメラに収めた。

 人工光のノイズが、意外と温度を伝えている。


 それに対する花の「わあ、きれい!」とか「写真を撮るの、うますぎませんか?」というコメントが、いちいち面白かった。

 誰にでも言える言葉だが、彼女はまっすぐに本心から伝えているのが、なぜかわかる。


 六月のある日。

 ふと、昼休みに気分転換で入ったコンビニで、玄米おにぎりを売っているのを見つけ、なんとなく手に取った。


『梶さんが玄米が好きって言ってたから、最近、わたしも玄米生活を始めました。すっごく宮沢賢治の気分!』


 少し前に、彼女から届いたECHOを思い出し、思わず吹き出した。


 ……花ちゃん、あかんて。

 なんやねん、宮沢賢治の気分て。

 たかが玄米でその気分になれるて、感受性の角度おもろすぎひん?


「……ほんま、どないな子やねん。やたら気になるわ」



 昼下がりの休憩スペース。

 紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気の中で、誰かが笑った。


「結局あの件、梶さんが謝らはったんやろ?」

「自分のミスでもないのに、ようあんな冷静でおれるわ」

「ていうか、逆に怖ない? 普通ちょっとは怒るやん」

「何考えてはるんか、わからんもんなあ。俺らのことなんか、目に入ってへんのやろ」


 笑い声の奥に、戸惑いと警戒が混ざっていた。

 彼らにとって、怒らない人間は理解不能らしい。


 ウォーターサーバーでマグカップに白湯を足す。

 その音で、彼らがこちらに気づき固まったのを横目に捉える。


「……逆に聞きたいんやけど、問題解決するのにそないに怒る必要ある?」


 そう伝えてから少し間を置いて、「ミスが起きたんなら、処理するだけやろ」と淡々と返すと、空気がさっと冷える。

 誰もものを言わず、会話が不自然に途切れた。


 それ以上何かを伝える必要もないと判断し、黙って給湯室を後にする。

 理解されないことに慣れすぎて、いつからか、説明する労力の方が無駄だと感じるようになっていた。


 ただ、その沈黙の中で、心のどこかが静かに疼く。


 おそらく、自分は何かが欠けている。

 他人が共感というもので繋がるとき、自分だけが外の世界に置き去りにされている気がした。それは子供の頃からずっと変わらない。


 こういう人間が、一体どうして心の閾値なんてものに目を向けてしまったのだろうか。

 己が理解できないものを、AIに理解させるなど、途方もない無駄に思える。


 マグカップに残る白湯を、一息に飲み干す。


「……なんや、ぬるいな」


 いつもなら大して気にしないことを、誰にも聞こえない声で呟いた。


 その次の日、九月の満月が空に浮かぶ夜。

 ECHOから花の声が流れてきた。


『梶さん、今日すごくきれいな満月ですよ!』


 外では通知を切るが、家にいるときは効率化を優先して、彼女のECHOは、AI音声で流れるように設定していた。


 机の端に、卵のような白いデバイスが置いてある。

 表面は半透明で、音に合わせて小さな光が脈打つ。

 コード上では単なる音声出力装置にすぎないが、再生のたびに、そこに息のような揺らぎが生まれる。


『京都でも、見えますか?』


 花の声も、その卵の殻の奥から聞こえてくる。

 まるで、声がデジタルを通り抜けて、生身の温度を取り戻していくみたいに。


 カーテンの隙間から、空を見上げた。

 檸檬色の月が、夜空に煌々と光を放っている。


「ほんまやん。今にも落っこちそうな風情やな」


 彼女とのやり取りは、ECHOでも、映画部のDMでも、ほとんど音声入力だ。タイピングより早いし、間を壊さずに話ができる。


『……わたしはつくづく思うんですけど、梶さんって本当にやさしいですよねえ』


 AIの少し高い声が、しみじみとした口調で語りかける。


『わたし、梶さんと話してると、もっとわたしも人にやさしく対応しなくちゃって反省するんですよ』

「……そんなことあらへんやろ」


 こちらの返答に、「ありますよ!」と力強く反応が返る。


『前に、わたしの名前、花あられとひなあられを親が勘違いしたって話したじゃないですか』

「……ああ、覚えとるよ。ひな祭り生まれの花ちゃんやんなあ」


 生まれた日までかわいらしいなと思っていた。

 そもそも、ひな祭りじゃなく、ひなあられから名前をとる発想に笑ってしまった記憶がある。


『あのとき、梶さんは「ひなより花のが華やかでかわいい」って褒めてくれたけど、あとから思ったんですよ。

 きっと梶さんは、わたしの名前がもしも、ひなだったら、花よりひなのが響きがかわいいとか、そんなふうに褒めてくれたんだろうなって』


 AI音声の柔らかいイントネーションで、それでも妙に生身のように聞こえた。


『ね? ほら、やさしい!』

「ふっ。……あははっ」


 音声のせいだろうか。

 彼女の子供っぽさがより強調されて、つい笑ってしまう。


「ほら、やさしい! ってなんやねん。結論早過ぎひんか。しかもそれ、花ちゃんの推測ベースやし」

『推測じゃないですよ。梶さんなら、絶対にそう言うって確信がありますもん』

「いや、せやからそれが……」


 推測なんやけど──……。

 そう言いかけて、言葉を切った。

 これに反論する意味なんて、あるのだろうか?

 彼女の世界で、やさしい人間であると断定されるのなら、それが正解のような気がした。

 きっとどんな反論をしたところで、彼女が丸く収めてしまうのだろうから。


「そっかあ。花ちゃんの世界で、俺はやさしい人間なんやね」

『……誰の世界にとっても、そうだと思いますよ』


 机の端のECHOが、静かに光を返す。

 画面に目を向けると、その言葉はゆっくりと花びらに変わり、残るのは波紋だけ。それはいつもより、柔らかい響きで拡がっていた。

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