第三章:職人という名の資産、プライドという名の負債
エリザベートに与えられた、新たな領地。 『男爵領(バロニー)』と呼ぶには、それは、あまりにも荒涼とした土地だった。
父である辺境伯の領地の、南端。クレスタ共和国との国境線にほど近い、緩やかな丘陵地帯。これまでは、戦略的な緩衝地帯として、意図的に開発が見送られてきた場所だ。乾いた風が吹き抜け、背の低い灌木と、名前も知れぬ野草が、どこまでも続く。時折、風に乗って、土埃と、微かに鉄の匂いが運ばれてくる。それは、すぐそこにある国境の匂いだった。
その、何もない土地の中心に、急ごしらえの、巨大な天幕(テント)が、いくつも張られていた。 一つは、押し寄せる難民たちを、一時的に受け入れるための居住区。 そして、もう一つが、この地の未来そのものである、『職業訓練所』兼『工房』となるべき場所だった。
その、だだっ広い工房予定地の天幕の中に、二つの集団が、まるで睨み合う獣のように、距離を置いて対峙していた。 片や、辺境伯領の、伝統工芸ギルドの職人たち。その先頭に立つのは、ギルド長のヴァレリウス だ。その他、いずれも、己の腕一本で生きてきた、気難しく、誇り高い顔つきの男たちが、腕を組んで、敵意に満ちた視線を送っている。 そして、もう一方が、共和国から逃れてきた、難民の中から選び抜かれた、技術者たち。彼らもまた、故国では、相応の地位にあったのだろう。その身なりはみすぼらしくとも、その瞳には、己の技術に対する、揺るぎない自負の色が宿っていた。
エリザベートは、その、一触即発の空気の中心に、静かに立っていた。 彼女の後ろには、レオンハルトが、万が一に備え、硬い表情で控えている。
「――さて、皆さん。今日、こうしてお集まりいただいたのは、他でもありません。この地で、これから始める、新たな事業について、ご説明するためですわ」
エリザベートの、凛とした声が、天幕の中に響いた。 だが、その声に応えたのは、冷たい沈黙だけだった。 沈黙を破ったのは、ギルド長のヴァレリウスだった。その、節くれだった指を組み合わせ、地の底から響くような、低い声で言った。
「…エリザベート様。いえ、今や、男爵閣下、とお呼びすべきですかな。先の海産物事業の折には、我々の声を無視し、今度は、何の目的も知らされずに、このような場所に集められるとは。一体、我々をどうなさるおつもりか。まずは、そのご説明を願いたいもんですな」
その言葉には、敬意の皮を被った、棘が含まれている 。根深い不満が、まだ、彼の胸には燻っているのだ。
「ええ、もちろん。単刀直入に申し上げますわ、マスター・ヴァレリウス。あなた方、我が領地が誇る職人たちには、この事業の『教官』となっていただきたいのです」
「教官、だと…?」
「はい。そして、生徒となるのが――」 エリザベートの視線が、反対側の集団へと、静かに移る。 「――こちら、クレスタ共和国から来られた、技術者の皆さんですわ」
その瞬間、天幕の中の空気が、爆ぜた。
「ふざけるなッ!」
ヴァレリウスの怒声が、天幕を揺るがした。
「冗談にも、ほどがある! なぜ、我々が、長年、命を懸けて守り、磨き上げてきた、このギルドの秘伝の技を、昨日まで、我々に剣を向けていた、こいつらに、教えねばならんのだ!」
「その通りだ!」
「敵に塩を送るような真似が、できるか!」
ヴァレリウスの言葉に呼応するように、職人たちから、怒りの声が、堰を切ったように溢れ出す。
それに対し、共和国の技術者たちも、侮蔑の色を隠そうともしなかった。 彼らの中から、リーダー格の、銀髪の老人が、一歩、前に進み出た。その顔には、深い疲労の色が刻まれているが、その背筋は、一本の鋼のように、まっすぐに伸びている。
「…ほう。随分と、時代遅れなことを仰る。我々とて、あなた方の、古臭いだけの技術など、願い下げだ。我々が持つのは、魔力と金属を融合させる、最新の『付与魔術』の技。あなた方には、到底、理解もできぬ領域でしょうな」
老人の、静かだが、刃物のような言葉に、今度は、ヴァレリウスの顔が、怒りで朱に染まった。
「なんだと、てめえ…!」
もはや、収集がつかない。 レオンハルトが、前に出ようとするのを、エリザベートは、手のひらで、そっと制した。 彼女は、まるで、この混沌とした状況を、楽しんでいるかのように、その唇に、微かな笑みさえ浮かべていた。
(――なるほど。資産と資産を、ただ、同じ場所に置いただけでは、何の価値も生まない。むしろ、互いに反発しあい、新たな『負債』を生むだけ、か。面白いわね)
彼女は、ゆっくりと、両者の間に進み出た。 そして、懐から、小さな、二つの物を取り出した。 一つは、ヴァレリウスのギルドで作られた、見事な銀細工のブローチ。伝統的な、植物を模した、精緻な彫金が施されている。 もう一つは、共和国の老人が、なけなしの道具で作ったという、小さな鉄の板。それ自体には、何の価値もない。だが、それには、微かな魔力が付与されており、触れると、ほんのりと、温かい。
「マスター・ヴァレリウス。あなたの、この技術は、素晴らしい。まさに、我が領地が誇るべき、伝統の極みですわ」
彼女は、まず、ヴァレリウスを讃えた。
「ですが、これは、あくまで『装飾品』の域を出ない。これを欲しがるのは、一部の、富裕な貴族だけです」
次に、彼女は、共和国の老人に向き直った。
「そして、長老殿。あなたの、この『付与魔術』も、実に興味深い。ですが、正直に申し上げて、このままでは、ただの『大道芸』ですわ。これに、金を払う人間は、どこにもいないでしょう」
二人の顔に、屈辱の色が浮かぶ。 だが、エリザベートは、構わなかった。
「あなた方のプライドという名の『負債』は、よく理解できました。では、今度は、あなた方の技術という名の『資産』が、いかにして、新たな『利益』を生み出すのか。その可能性を、お見せしましょう」
彼女は、二つの品を、両者の前に、並べて置いた。
「マスター・ヴァレリウス。あなたの、その腕で、最高のブローチを、もう一つ、作っていただきたい。ただし、それは、まだ、未完成でいい」
「…どういう意味だ」
「そして、長老殿。あなたには、その未完成のブローチに、あなたの持つ、最高の付与魔術を、施していただきたいのです。例えば、そう…『持ち主の体温を、常に、一定に保つ』というような、実用的な魔術を、ね」
二人が、息を呑んだ。 伝統工芸と、付与魔術の、融合。 それは、彼らが、考えたこともなかった、禁忌の領域。
「できるか、できないか、ではありませんわ。『やるのです』」
エリザベートの声は、静かだったが、絶対的な、意志の力が、込められていた。
「これは、あなた方、双方にとっての、試験(テスト)です。この、小さな試作品(プロトタイプ)一つ、作れないようなら、この事業は、今、この場で、終わりにしましょう。あなた方は、それぞれの場所で、緩やかに、時代に忘れ去られていくでしょう。…ですが、もし」
彼女は、一度、言葉を切ると、その灰色の瞳で、両者を、射抜いた。
「もし、あなた方のプライドを、一時、脇に置き、互いの資産を、正しく『投資』し合うことができたなら。――あなた方は、この国で、誰も見たことのない、全く新しい『市場』を、その手で、創造することになるでしょう」
天幕の中に、重い沈黙が落ちた。 乾いた風が、天幕の隙間から吹き込み、砂埃を、小さく舞い上げる。 ヴァレリウスと、共和国の老人は、互いに、厳しい視線を交わしたまま、動かない。 彼らのプライドと、職人としての未来。その二つが、今、天秤の上で、激しく、揺れ動いていた。
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