第二章:御前会議という名の最終プレゼン

 王城の、最も奥深く。 『翠玉(すいぎょく)の間』と呼ばれるその謁見室は、訪れる者に、王家の絶対的な権威と、この国の永い歴史を、否応なく知らしめる場所だった。

 床に敷き詰められているのは、磨き上げられた一枚岩の大理石。一歩足を踏み出すごとに、革靴の踵が、静かで、しかし、どこまでも響き渡るような硬質な音を立てる。壁を彩るのは、神話の時代から続く、歴代の王たちの肖像画。その無数の瞳が、冷徹に、そして、厳格に、今を生きる者たちを見下ろしている。天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、無数の魔光石を光源としており、その光は、部屋の隅々にまで行き渡り、いかなる影の存在も許さないという、王の意思の現れのようでもあった。

 その、あまりにも荘厳で、人の心を圧する空間の中央に、エリザベートは、たった一人で立っていた。 彼女の正面、一段高い場所に設えられた玉座に座すのは、この国の頂点に立つ、国王アルブレヒト三世。壮年を過ぎ、その目元には深い思慮の色が浮かんでいるが、背筋は、老いなど微塵も感じさせないほど、まっすぐに伸びている。 その左右を固めるのは、宰相であり、この国の頭脳と称されるエックハルト公爵。そして、国王の弟であり、王家の血を引く、イザベラの父、アークライト公爵。その他、国の重鎮たちが、重々しい礼装に身を包み、まるで彫像のように、無言で席に連なっている。

 その、居並ぶ怪物たちの中に、父、ヴィルヘルム辺境伯の姿もあった。彼は、末席に近い場所に座ってはいるが、その武骨な存在感は、誰よりも強い圧を放っている。その視線は、心配と、不満と、そして、ほんのわずかな期待が混じり合った、複雑な色をしていた。

(――さて、と)

 エリザベートは、内心で、一つ、深呼吸をした。 これは、ただの謁見ではない。 彼女が立ち上げた、新規ベンチャー事業に対する、最終投資家(ファイナル・インベスター)たちへの、プレゼンテーションだ。そして、彼女が求めるのは、金銭的な投資ではない。国家の承認という、最も価値があり、最も手に入れるのが困難な「信用」という名の、資本だった。

「――では、エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。リヒトハーフェン辺境伯より、前代未聞の、そして、実に興味深い提案があると聞き、こうして場を設けた。そなたの考え、存分に、儂に聞かせてみよ」

 国王の、静かで、しかし、腹の底に響くような声が、部屋に満ちた。 エリザベートは、優雅に、深く一礼した。

「はっ。御前での発言の栄誉、賜りましたこと、心より感謝申し上げます、陛下」

 顔を上げた彼女の声は、先日、父の前で見せた甘えなど、一片も残っていない、凛とした響きを持っていた。 彼女は、セバスチャンに運ばせた、三つの巨大なイーゼルを指し示した。それぞれに立てかけられた大きなボードは、揃いの、深緑色のビロードの布で覆われ、その内容を窺い知ることはできない。

「まず、こちらをご覧ください。これは、今回のクレスタ共和国の飢饉が、我が国に与える、今後五年間の脅威度を、軍事的、経済的、そして、政治的側面から分析したものです」

 そう言うと、彼女は、一枚目の布を、さっと引き抜いた。 現れたのは、複雑なグラフと、無数の数字。それは、見る者の目を眩ませるような、情報の奔流だった。

 彼女は、脅威(リスク)から語り始めた。感情論ではない。ただ、淡々と、事実と、そこから導き出される、未来の予測を述べていく。難民の流入が、国境付近の治安を悪化させ、その対策費用が、国庫をどれだけ圧迫するのか。共和国の混乱が、両国の交易を停止させ、我が国の商人に、どれだけの損失を与えるのか。その全てが、具体的な数字として、冷徹に示されていく。 重臣たちの間に、小さな動揺が走った。これまで、彼らが肌感覚でしか捉えていなかった「危機」が、初めて、誰の目にも明らかな「損失額」として、可視化された瞬間だった。

「そして、この脅威を、最小限に抑え、なおかつ、これを好機へと転換するための戦略が、この『国境経済特区』構想です」

 彼女は、二枚目の布を、引き抜いた。 現れたのは、特区の完成予想図と、そこで行われる事業の、詳細なフローチャート。その緻密さに、何人かの重臣が、思わず息を呑んだ。

「これは、人道支援ではございません。あくまで、我が国の国益を最大化するための、『事業』です。難民を『保護』するのではなく、彼らを『雇用』し、新たな『価値』を生み出す、労働力と見なします。そして、彼らが生産した製品を、食糧と共に共和国へ『輸出』する。これにより、共和国は、我が国への経済的な依存度を、決定的に高めることになりましょう」

「待たれよ」

 低い声が、エリザベートの言葉を遮った。アークライト公爵だった。その怜悧な瞳が、氷のように、エリザベートを見据えている。

「エリザベート嬢。あなたの言うことは、確かに、理路整然としている。だが、それは、全てが、あなたの計画通りに進んだ場合の話だ。敵国の、それも、飢えて、統制の取れていない人間を、何千人も領内に入れる。そこで、反乱が起きれば、どうする? 我が国の技術が、盗まれれば、どうする? あなたは、あまりに、リスクを軽視しているのではないかな」

 痛烈な指摘。宰相も、他の重臣たちも、同意するように、静かに頷いている。 だが、エリザベートの表情は、一切、変わらなかった。

「ご指摘、感謝いたします、アークライト公爵様。もちろん、そのリスクは、全て織り込み済みですわ」

 彼女は、最後の一枚、三枚目の布に、手をかけた。

「こちらが、今後十年間の、事業計画と、収支予測です。貸借対照表(バランスシート)に、損益計算書(プロフィット・アンド・ロス・ステートメント)、そして、キャッシュフロー計算書。全ての事業リスクは、発生確率と共に、数値化してあります。そして、そのリスクを相殺してなお、この事業が、我が国に、どれだけの経済的利益と、長期的安全保障という『リターン』をもたらすか。――この数字が、その何よりの証拠ですわ」

 最後の布が、滑り落ちた。 そこに現れた、緻密で、圧倒的な数字の奔流は、その場の全ての人間を、沈黙させるのに、十分な力を持っていた。 彼女は、ただの貴族令嬢ではなかった。 この国に、これまで、いかなる人間も持ち得なかった、全く新しい「武器」を持つ、恐るべき戦略家だった。

 国王アルブレヒト三世が、玉座の上で、初めて、身じろぎをした。その目に、明らかに、強い興味の色が浮かんでいる。 だが、彼は、まだ、決断を下しかねていた。あまりに、前例のない話だった。あまりに、革新的すぎる。そして、何より、これを動かすのが、まだ、十六歳の少女であるという事実。

 その、張り詰めた沈黙を、破ったのは、予想外の人物だった。 ずっと、黙って、父の隣に座っていた、イザベラ・フォン・アークライトだった。

「――陛下。わたくしからも、一言、よろしいでしょうか」

 全ての視線が、イザベラに集まる。父であるヴァレンシュタイン公爵が、咎めるような視線を送るが、彼女は、まっすぐに、国王だけを見つめていた。

「申してみよ」

「はい」

 イザベラは、静かに立ち上がると、エリザベートの隣に、並ぶようにして立った。

「わたくしは、エリザベート様が、今、ご説明されたような、難しい数字のことは、よく存じません。ですが、わたくしは、彼女が、どのような人間であるかは、誰よりも、存じ上げております」

 彼女の声は、数字も、ロジックも語らなかった。 彼女が語ったのは、友情と、信頼だった。

「彼女は、一度、やると決めたことは、必ず、成し遂げる方です。そして、その行いの全ては、決して、私欲のためではございません。この国の未来を、そして、そこに生きる人々を、誰よりも、深く、想っている方です。彼女が、これほどの覚悟を持って、この場に立っている。その『想い』に、わたくしは、この身の全てを、賭けてもよろしいと、そう、信じております」

 王家の血を引く、公爵令嬢からの、魂からの推薦。 それは、エリザベートが提示した、いかなる数字よりも、雄弁に、国王の心を、揺さぶった。 論理(ロジック)と、感情(パッション)。 その二つが、完璧な形で融合した瞬間だった。

 国王アルブレヒト三世は、ゆっくりと、その重い瞼を閉じた。長い、長い沈黙が、翠玉の間に落ちる。 やがて、その目が、再び開かれた時、そこには、王としての、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「――面白い」

 王は、そう、一言だけ、呟いた。

「エリザベート・フォン・リヒトハーフェン。そなたが、かつて『海鮮男爵』の称号を得たことは、記憶に新しい。あれは、そなたの功績を讃える、名誉の称号であった。だが、今、儂が与えようと欲しているのは、単なる称号ではない」

 王は、言葉を区切ると、威厳に満ちた声で、続けた。

「そなたに、本物の『男爵(バロネス)』の爵位を、新たに授ける。そして、そなたが申請した、国境付近の未開拓地を、そなた自身の、独立採算の領地として、与えよう。その地で、そなたの思うまま、その『事業』とやらを、やってみるがよい」

「…! 陛下…!」

「ただし、条件がある。国からの、一切の資金援助は、行わん。そして、万が一、この事業が、我が国の安全を脅かすと儂が判断した場合は、即刻、全ての権限を剥奪し、そなたを、国家反逆罪で裁くことになる。…それでも、やるか?」

 それは、あまりにも、過酷な条件だった。成功すれば、前代未聞の栄誉。しかし、失敗すれば、待っているのは、確実な破滅。 だが、エリザベートは、一瞬の逡巡も見せなかった。 彼女は、その場に、深く、深く、膝を折った。

「――その儀、謹んで、お受けいたします。我が身、我が魂の全てを懸けて、必ずや、陛下の御期待に、応えてみせますことを」

 その声は、静かだったが、翠玉の間にいる、全ての者の耳に、そして、魂に、確かに、届いていた。

 こうして、十六歳の少女は、この日、一人の領主となった。 だが、その栄光の影で、アークライト公爵の瞳に、冷たい光が宿ったのを、エリザベートは、見逃さなかった。 新たな戦いの火蓋が、今、静かに、切って落とされたのだ。

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