第31話
どうやら千尋は自身が「青いチケット」を手にして以降、ほとんど家に寄りつかずその間宮前の至る所を彷徨っていたらしい。仕事はほぼオンラインになっていたと云うから彼女の意識はもう完全に仕事からすら離れていたとも云える。
「千尋さんは何をなさってたんでしょう?」
「分かりません。困った私はあなたに連絡するしかなかった。ところが千尋から急に連絡が入った。『お兄ちゃんの助けがいるの』って。あいつがそんな事を言うのはめったにありません。待ち合わせ場所に行くと、県警の刑事がいました。やはり連絡を受けていたようで。彼の手にはまとまった資料がありました。どうやら千尋が集めたようでした」
それらはすべて安川に関連する事件の資料だったと云う。つまりそれが安川が検挙される決め手となったものなのだろう。しかしどうやって?
「妹は何かに導かれるようにこの宮前を巡った。そしてその過程で安川の裏事情と繋がった。いえ、もしかしたらその何かは宮前と妹を最初から出会わせたかったのかも知れない」
「…」
「そして妹は消えた」
遼太郎は沈鬱な顔をしている。「妹に、変わったところはありませんでしたか?」
「むしろです」
私は応える。「青いチケットを自分が手にしていながら、千尋さんは、妹さんは何故か堂々としていました。もちろん突然自分の元に訪れた兆候に驚きは隠せないでおられましたが」
「河野さん。あなたはこの事態の成りゆきを御存じではないのですか?」
「いえ、残念ながら」
「どんな情報でも構いません。私は本当は今こんなことをしている場合じゃないんです。宮前だけじゃない、地方行政が根底から沈みかけてるんです。一体どうしたらいいか、誰にも分かりません。単に経済だけの問題ではない。生活の土台すら揺らぎかねないんです」
もちろん私にだってそんな事ぐらい分かっている。分かってはいるが私の力ではどうしようもできないのだ。
「実は私の妻も失踪しました。それも突然です。私はここ数日妻を追って走り回っていました。でもそれすらも今はどうすることもできません。待つ以外には」
「奥さんが…」
遼太郎は幾分表情を変える。「コロナと云い、この失踪現象と云い、一体何が起きているのか」
この屋敷はやはり静かだ。上空で飛行機のジェット音が聞こえる。
「コロナの事は分かりません。ましてやこの失踪事件の事は。おそらく千尋さんも同じだったんだと思います。でも彼女の元にも青いチケットが。私も見ました。胸を貫くような鮮烈な青。あれはまるで大海原の色です。私たちの心を全て包み込んで、攫ってしまうような」
一瞬私は安川の事を考える。ヤツの話を聞いてみたい。いや、安川は自分が逮捕されたと云う事実をどう受け止めているのか?私自身の印象ではあの安川がそう簡単に自分の罪を認める感じがしない。むしろこの逆境すら何らかの布石と踏んでいると想像するのは如何にも飛躍した考え方だろうか?
あともう一つ。安川が率いるこのプロジェクトには以前から疑問があった。それはいくら安川が再開発部と云う花方部所の室長とは云え、あまりにも歴然としたワンマン体制であったと云うことだ。まるでこの再開発が現実の地域行政とは一線を画したものであるかのように。
何だ?安川はこの再開発で一体何を変えようとしているのか?そもそもこの再開発はどの筋から生まれた話なのか?
「森川さん、一つ質問があります。市の再開発の話は一体何処ら辺から持ち上がったものなんでしょうか?」
「私も気になって調べました。分かったのはそれがもう50年以上前からのものと云うことです」
50年以上?
「と云うことは安川以前から?」
「そうです。しかもそれは今のような駅前を中心とした再開発計画ではありませんでした」
「内容が、違った?」
「そうです。元々は空港設置計画。場所は湾岸一帯でした」
「湾岸一帯?それはまた大がかりな」
「そうです。つまり規模が大き過ぎた。当然県も絡んで途中まではかなり乗り気だったようですが」
「それでも手が余ったと?」
「いえ、空港建設ですから或る程度の予算試算は前提です。他にプロジェクトを止めざるを得ない状況が発生したのか。その辺の事情が私にも分かりません」
「そうですか」
やはり線は切れる、か。私にしろ森川遼太郎にしろ、いやおそらくこの宮前各地で同じ砂地獄に巻き込まれた人々がたくさんいるのだろう。もがいてももがいても求めるものが遠ざかっていく歯痒さ。そしてその範囲は今も水面下で広がりつつある。落ちてゆく砂はどこへ流れゆくのか?私たちはどうすれば良いのか?
いっそ身を任せた方が事態はすんなり収束するのではないか?そんな諦めにも似た思いすら浮かんでくる。
「私にサキガケの力なんてものがあれば、今すぐにでもどうにかしようものですが」
遼太郎は私の思いに感応してか苦笑しながら言う。その痛々しい様子とは裏腹に、私の意識は聞き慣れない単語に反応する。
「サキガケ?何です、それは」
「いや、妹がよく口にしていた根拠もない言い伝えです。妹は小さい頃から歴史が好きでして、子どもがてらに小難しい本を読んだり、或いは如何にも胡散臭い伝説書を読みふけっていました。同時に社会と云うものがいかにして形成されるのか、大学時代はそう云うものを研究していたらしい。今から考えるとあいつの方がよほど政治家の素養があったのかも知れません」
「なるほど。じゃあ、そのサキガケの力と云うのも?」
「そうですね。いつの頃からか、まじないの言葉のように妹は使ってました。いや、まるで人類の救い、希望であるかのように」
「その由来とは?」
「分かりません。妹もよく考えずに使っていたフシもあります。それが何か?」
遼太郎は逆に私に聞いてくる。
「いえ、ただ何か気になりまして」
「すみません。余計な事を口走ってしまいました」
そうして男二人、気持ちの行き場を失くして黙り込む。
サキガケの力…。不思議だ。初めて聞いた言葉なのに、何故かよく知っている気がする。
私は妻が姿を消したこれまでの経緯を森川遼太郎に話して聞かせる。とは云っても私はずっと仕事がらみでこの失踪事件を追っていたせいで、実際は妻が姿を消した詳しい事情は分からない。ただそれまでの二人の生活を振り返り、今の心情を吐露するだけだ。
「そうですか。それで今も奥さんの残されたものに耳を傾けている、そう云うことなんですね」
「それしか私に残された手段はありません。あとは自分の仕事を全うするしか。でも今はコロナ禍です。それもままならないのが現状です」
私は告白する。
「今は皆さんの生命の安全と生活の保障が何より肝心です。私も自分の役目に邁進するしかないんでしょうね」
そして不意に森川は顔を上げる。「いや、そうすべきだ」
「森川さん」
「河野さん。今日はわざわざ来て下さり有難うございました。私はどうやら弱くなっていたようです。妹はおそらく自分の意志で姿を消したのでしょう。どう云う事情かは分かりかねますが、あいつももう良い大人だ。むしろ私の方が思い切らなければならないのでしょう」
森川は立ち上がる。私はそれを下から見上げる形となる。そうか…。私は思う。こう云う自分の保ち方もある。
「はい、私も妻の事は初めてお話しました。おかげで少しは気が楽になった気がします」
私も立ち上がって言う。「有難うございました」
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