第25話
妻が消えた。そのことに気がついたのは私が千尋の家から帰宅した時だ。家には明かりが点いていた。私はてっきり買い物に出ているものだと思いリビングでテレビニュースを眺めていた。途中で気がついた。何かどこかで感じたことがある違和感。何だ、これは?私は自分の中に湧き起こる焦燥にも似た遣る瀬無さを抱えながら何故かテレビから目が離せない。帰宅して一時間が経っている。テレビ画面では世界中で繰り広げられるコロナ禍の大騒動が時に悲惨に、時に滑稽にすら映し出されている。その時私は不意に気がついた。妻の身に何かが起きたことを。そしてそれはもう私の手の届く遥か向こうの出来事になりつつあることを。
スマホで妻を呼び出そうとする。すると室内の片隅から軽快な音楽が流れ出す。私は立ち上がり音の主を拾い上げる。妻の携帯。画面が青白く光っている。「急用でもできたのか?」仕方なく私は妻の携帯を切る。
そう云えばこのところ妻とあまり話をしていなかったことに思い当たる。しかし特に変わったところはなかった。私は喉の渇きを覚える。本当にそうなのか?自分が他所を向いている間に妻の周りで何かが侵攻していたのではないか?
いや、まず冷静になろう。私と入れ違いになったのならまだ家を出てから二時間程度のはずだ。思い立ってどこか寄り道しているだけかも知れない。私は自分のメンタルを保とうとする。しかし一方でそれが虚しい所業であることにも気づいている。気づいた上で私はここで妻を待つしかない。
ふと私は森川邸での事を思い出す。千尋が話したこと。そしてその兄、確か遼太郎と云った。彼らとの邂逅がこの事態と何らか関係しているとは考えにくいが、今私の中では不思議な符合を感じざるを得ない。本当にこの街ではおかしな出来事が発生している。世の中が、世界が未知のウイルスに席巻されている一方で、この街では人の心から幻惑の状況が生まれている。清冽な青い紙箋に誘われて。
それから私はもう一度自分のスマホを手に取り、今度は別の番号に電話をかける。
「夜分すみません。河野ですが」
「何だ、どうした」
相手は鷺谷刑事だ。少し眠そうな声。しかし今はそれに構ってはいられない。
「妻がいなくなりました」
「ん?夫婦喧嘩でもしたのか?」
「違います。おそらく失踪したのかと」
「失踪?それにしては落ち着いてるじゃないか。何かの冗談か」
「冗談なんかじゃありません。急な事で気持ちが追いついてないだけです」
「…やれやれ」
電話の向こうで溜め息が漏れる。「一体どうしたってんだい、この街は」
私は鷺谷のその反応に別の不穏さを感じ取る。
「もしかして、鷺谷さんの周りでも?」
「ああ。一時は落ち着いてたんだけどな、このところ数件たて続けだ」
「一体どんな?」
「お宅んとこと同じさ。或る日突然ってヤツだ。手掛かりと云えば…」
「青い短冊って事ですね」
「まあな」
鷺谷は肯定する。「しかし現物はほとんど残っていない。本人とともに消滅するのか、はたまた元から本人にしか見えない代物なのか」
「いえ、青いチケットは現存します」
「ああ、オジョウサンはそう呼んでたな。現存するって、あんた見たのか?」
「見ました。確かに青い紙切れです。森川さんの手元に届いたものです」
「なに?」
途端に刑事の声が裏返る。「オジョウサンのところに来たってか。その青紙が」
「はい」
応えながら私は刑事の言った「青紙」と云う単語に引っ掛かる。
「オジョウサンはどうするって?」
「とにかく今は様子を見るしかないようです」
「何としてでも食い止めなければならん」
「食い止める?」
「そうだ。あんただってこのまま奥さんを見捨てるつもりじゃないんだろう?」
「ですか、何か手があるって云うんですか?」
「ある」
「…」
言い切ったな…。私は相手の出方を待つ。「それは何です?」
「話を聴いてやる事だ」
「話?誰の」
「その本人に決まっとる」
私はスマホを持ったまましばし考える。刑事の言う「手」と云うヤツが自分の中でいま一つピンと来ない。
「しかしもう妻はいないんですよ」
「部屋の周りにはまだ奥さんの存在が残ってるだろう。持ち物とか、物の配置とか。それらをよっく観察して感じるんだ。そうすればあんたにだってできる」
「何が?」
「呼び戻すことがだ」
そして突然電話は切れる。
腑に落ちないまま私はがらんとなった部屋の周りを眺める。鷺谷刑事に言われるまでもなく家の至るところに妻の存在が溢れている。しかし同時に私は気づく。自分がそのことにあまりにも慣れてしまっていたことに。流しに立つ。食器置きには洗われたお椀や皿、箸などがこぢんまりと並べられている。毎日使われるもの。そして妻は毎日この二人分を洗って、そして乾かし片づけていたのだ。室内に戻り今度は寝室に入る。明かりを点けた時私はハッとする。鏡台に妻が映った気がした。しかしそれは自分のうろたえた姿に他ならない。
私は虚空に向かって呟く。
「そうか、もう君はいないのか」
それからどれくらい時間が経ったのか、私にははっきりとは分からない。たまに点けるテレビでは想像をはるかに超えたコロナの感染状況がどのチャンネルでも流されている。能力も意欲もない政府ではおそらくこの状況を変えることは難しいだろうと思う。あとは現場の力に頼るのみだ。会社のスタッフとはリモートで連絡を取り合っている。なんとか皆無事らしい。
私は家の中で鷺谷の言う通り妻の残していった痕跡を辿っている。最後まで躊躇したが彼女の部屋の中も見た。相変わらず整理整頓は下手くそだ。私は入口からその様子を眺め、そしてそっと扉を閉じる。こんな事をして一体何になるのか?私は何度となく思う。だが気づくとやはり妻の痕跡から彼女の声を聴こうとする自分がいる。まるで自分自身が何かの救いを求めるかのように。
おそらく妻本人に聴いても彼女は何の不満も不安も口にしないだろう。彼女には自分の世界があった。そしてこれから先もそれを着実に広げていこうと一人頑張っていたはずだ。少なくとも私にはそう見えていた。しかしそんな彼女の元にも私の知らぬ間に「青いチケット」が届いていたと云うことなのか。何故だ。何故、人は音もなく消えていく?
違う…。
私の中で響くものがある。何だ?
救い…癒し…。
何?
故郷…。
そして声は鳴らなくなる。私は動揺している。そして先ず自分の精神を疑う。しかしその不可解なメッセージに明らかな他者の存在を感じ取っている。もしかしてこれが鷺谷の言っていた「声」と云うことなのか?
救い 癒し 故郷
そして、「違う」とはどう云う意味なのか?何がどう違うのか?私はしばし立ち尽くすしかない。
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