第9話

「HK」「蝙蝠男」たちとのやり取りはだいぶ進みつつある。表現する場があることで、お互いに普段の生活でも気をつけて「スキル」を追い求めている。一つでも発見するとそれだけでも嬉しい。そして私たちは段々とその分類分けも始めている。気がついたのは、様々な資料を探している中で既にかなりの完成度の書籍等も普通に見つかると云うことだ。考えてみれば当然だが、私たちが行っていることは人間誰しも興味があると云うことだ。そして生きていく上で自然と手繰り寄せていくものでもある。それでは当面の課題は何か?それを集約し、発信し、議論し合う場を設けることだ。材料はこれだけ充実しているのだから。


 久し振りの休日。身体の芯がジンジンと痺れを催しているようだ。今日は何もしたくない。さて、こんな時はどう生きることが「幸福」なのか?

 私は思わず苦笑する。「幸福」に規制されることはすでに「幸福」ではない。私はどうしたい?そうだな、今日は妻も外出している。家でゴロゴロするのも良いし、どこか近くをドライブするのも良い。テレビでは世界に散らばり始めた新型インフルエンザの猛威を報道している。どうやら今度のパンデミックは感染経路が複雑かつ巧妙らしい。今後どうなっていくのか少し気になる。

 例のF支店の噂も依然聞こえてくる。だいぶ話の尾ひれもついて、今では都市伝説染みてきている(例の開発計画が実は大きな障りを抱えていて、関わった者には例外なく害を及ぼす等々)。まったく根も葉もないものと思いきや、実際市内近郊において未解決の失踪事件が連続していると云う。

「興味あるか?」

 神川が笑顔を引き攣らせて訊くが、私は聞こえない振りをする。

「地域全体が呪われてるってスゴいですね」

 同僚の一人。「ボク、そう云うの好きなんですよ」

「まあ、ウチとしては商売になれば何でもいいがな」

 神川。「いっそのこと、昔みたいにオカルトブームにでもなってくれないかな」

「え?あの、トイレの花子さんとかですか?」

「いや、俺らの頃は口裂け女。社会現象にまでなったからな」

「ああ~」

「あそこまでいったら大したもんだよ。70代カルチャー復活でイベントも組めるんだけどな」

「そうっすね」

 二人の話を聞きながら私は或る種の危うさを感じる。こいつら、タガが外れている。商売の為なら人智を超えたモノ(?)でも利用すると云うのは、メンタリティとしては狭窄状態と呼べるだろう。きっと現実の業務の上でもロクでもないミスを誘発させる。こんな話を先代の会長が聞いたら、それこそひっくりかえるような怒声を浴びせたことだろう。

 何を隠そう、先代会長は元々ヤ○ザの前歴を持っている人物。生まれはよく分からないが、戦後すぐから興行師稼業を行っており、私が入社した頃までは時折ガラの悪そうな電話が会長宛てに架かってきていた。私からしたら別世界の人間だったが、たまに見せる異常なほどの信心深さもその一つだった。

「河野、よく覚えておけ。俺たちは世間のアブクで生きている。だからこそ筋と礼儀はきっちりと守らねばならん」

 いつか会長は年齢不相応な眼差しで新人の私に言った。その時は正直「時代錯誤じゃないか」といぶかしんだが、それを口に出せるほどの度胸を当時の私は持ち合わせていなかった。今こうしていると、彼の言っていたことは人生と云うか世界秩序の大事なところを押さえていたような気もする。紆余曲折のふるいを経た知恵とでも云うべきものだったのか…。

 もちろん私は無宗教だし、逆にそう云ったものへのこれと云った拘りもない。ただ気にするのはやはり人間としての生き様だ。それは理屈ではなく、その人間の個性から窺い知れるものだ。しかし、これからはそれだけでは足りないと思う。「幸福」について共同の探求意識を持つためにはやはり理屈も必要。そして学問の一分野としての確立が望まれる。ネット動画を検索しても所謂「ポジティブ心理学」についてはほぼ書籍紹介に限定されている(しかも翻訳本。つまり今のところ国内では研究者が存在しないということ)。誰も頼りにはならない。それにエビデンス偏重など以ての外だ。私の基本は「試行錯誤」と「暗中模索」。一つ一つ経験的な探索を積み重ねていくしかないと考えている。その折々の仲間たちと。


 大変な事態が予想される。横浜港に停泊した豪華客船から端を発した国内での新型コロナ感染が、ここに来て東京・関西を中心に散見されるようになってきた。そして政府は何を考えているのか、小中高の臨時休校措置を全国自治体に要請した。ところが一方で感染リスクの高さは、むしろ基礎疾患を持つ者、そして高齢者が中心らしい。某アジア大国ではすでにロックダウンがひと月以上続いている。何より感染地域が世界規模で広がっている。それらのニュースを見ている私たちは軽いパニック状態だ。このようなことは今までなかった。私はふと先の第二次世界大戦を思い出す。もちろん敵は新型コロナウイルスだが、何故かこの状況には各国の思惑が見え隠れしているように思われる。それに国民感情そのものも。

 この状況下で「幸福」を考えること。それには大きな意味があると思う。自分の身の周りが騒がしい時こそ「何が一番大切な事なのか?」を考え、ブレない自分を作っておくこと。

 学習を続けていく中でやはり自分の至らなさを知ることも多い。それは特に認知に関してだ。普段の考え方。私にはどうやら「~しなければならない」「~であるはずだ」と考える傾向が強いようだ。如何に自分が堅苦しい、遊びの少ない生き方をしていたかが分かる。専門用語ではイラショナルビリーフ、「不合理な信念」と呼ぶ。他人のそれはその人の言動を見ていれば或る程度分かるが、自分の事となるとなかなか気づかないものだ。


 人間は親から学んだことをベースに、あとは自分の成功体験を積み重ねていくものですから、そのベースに元々歪みがあれば、出来上がる個人の認知も自然と狂ってきます。自明の理ですよ。

「蝙蝠男」。

でも、修正は可能なんでしょう?

「HK」さん。すかさず「蝙蝠男」が応える。

可能です。でも意識的、かつ継続的にやらないと難しいと思います。何しろ習慣化して人格形成にまで同化してますからね。その意味で人間は習慣の生き物です。

 なるほど。その通りだ。私もコメントする。

何か上手い方法、それに気をつけることとかはありますか?

「蝙蝠男」。

まず書き出すこと。そして何故そんな認知が習慣化したかを時間をかけて検証してみることですね。この、時間をかけて、と云うのがミソで、急ぐと心身が拒絶反応を起こします。上手く修正が利かなくなります。

「HK」。

確かに。自分で自分のことを変化させるのもそれだけ苦労するんだから、ましてや人から色々言われても早々人間聞く耳なんて持ちませんよね。

 私のコメント。

 「HK」さん、何かあったんですか?

 それへの返信。

はい。仕事で部下の指導を行うんですけど、どうも私は教え方が下手くそと云うか。

「蝙蝠男」のコメント。

 それは大変ですね。私なんかはその手の仕事からはずっと逃げ回ってきました。どうしてもやらなければならない時は「じゃあ、やってみるから見てて」って言うぐらい。それで何も学ばない人間には口で言っても無駄でしょうからね。

 私は思わず苦笑する。全くの同感だ。しかしそれでは現場は回らないだろう。

でも、それで現場は回りますか?

「蝙蝠男」。

回すしかありませんよ。それに私は本人にはっきり言います。「自分の仕事を知ろうとしないなら早めに辞めた方がいいよ」って。その方が親切だと思います。人生は短い。

「HK」。

何だか「蝙蝠男」さんって割り切りがスゴいんですね。それともこれまでほぼ一人でされる仕事が多かったんでしょうか?

「蝙蝠男」。

それもありますが、要は無駄が嫌いなんです。

 私。

でも人にモノを教えると云うことはやはり或る程度の無駄は付き物ではないでしょうか?

「蝙蝠男」。

そう思うのは構わないと思いますよ。私個人が嫌いなだけです。

 私は彼のコメントに何か影のようなものを感じる。

話を元に戻しましょう。つまり自分の認知を修正するためにはそれだけ手間暇がかかると云うことを覚悟しておいた方が良いと云うことですね。

「蝙蝠男」。

そうですね。でもそれだけの思いがけない発見があることも事実です。簡単に云えば自分に対する認知が更新されます。「そうか、これまで自分が上手くいかなかったのはそういうことだったのか」と肩の荷が降りることでしょう。もちろんそれを受け入れた時に限りますが。

 肩の荷?

やはり受け入れるのが難しい場合があると?

「蝙蝠男」。

人間は一旦手に入れたものを失うことを極端に嫌います。たとえそれが今の自分に不要もしくは害になっているとしても。

「HK」。

それは分かる気がしますね。所謂成功者と言われてる人たちの一部にはやはり保身に身をやつす人がいます。

「蝙蝠男」。

そんな人間ほど自分を振り返ることはしない。そんな事をしようものなら自分の存在そのものを否定するかのように考える。あとは遅かれ早かれトーンダウンするしかない。

「HK」さん。

改めてお聞きしたいのですが、「蝙蝠男」さんのゴールって何ですか?

「蝙蝠男」。

どうやら皆さん、私に興味がおありのようですが、私はただの研究者です。それも「幸福」とはまったく畑違いの。それでもお聞きになりたいですか?

是非、 (私。)お願いします。

結構。或る意味私の仕事は皆さんの安全に直結する仕事です。詳しくは申し上げられませんが、採集された膨大なデータの解析が私の仕事です。その最中で私が考えることと云ったら、如何に自分を含めた人間社会が一時のものであり、且つ儚いかということです。それは死すら超越しています。その中で私はふと「幸福」と云うことを考えます。いや、「猫番人」さんが仰る「生き方」の方が近いかも知れない。そう、もはや「幸福」などと云う具体的なイメージが描きにくいものに頼っていては私たちは生き残れないかも知れない。「どう生き抜くか」、つまり私にとってはそれが全てです。

 しばらくコメントに間が空く。おそらくそれぞれがモノ思いに沈んでいるのだろう。このまま退出することも考えるが、もう一言言いたい気がして私は考える。

「蝙蝠男」さんが仰りたいのは人間にとって生き抜くことが一番の使命と云うことでしょうか。それなら私にも理解できます。以前「幸福」と「欲求」について話されたことがありましたが、やはり人間は生きていたい。そう云う風に作られていると私は思います。

「HK」さん。続けて私=「猫番人」。

そうですね。ニュースでも最近新型コロナの話題で持ちきりですが、ここにきて日常が日常でなくなる事態を想像すると「蝙蝠男」さんの仰ることもよく分かります。

「蝙蝠男」。

そうならないと人間は「本当に大切なもの」に気づかないのかも知れません。しかし気づいた時にはもう遅い。もちろんそんな人間は死ぬまで後悔すらしないのかも知れませんが。

私。

生き続けることこそが使命、「欲求」そして「幸福」。私はこれまで何故全ての人が望みながらも「幸福」になかなか近づけなかったかが分かる気がします。死を想定することは或る意味易しい。しかし生きることは日常であり、日常だからこそどうしても慣れが出る。それは仕方ないことです。だからこそその折々で「幸福」を思い返さなければならない。私たちの紆余曲折はそう云う風にできているのかも知れません。

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