第2話 紫苑が探偵になった理由
昼休みのチャイムが鳴り終わる直前、教室はまだざわめきに満ちていた。
今日の昼休み、学校の裏庭で弁当を平らげると、教室に戻って窓際の席に座り、グラウンドに目をやる。
ぼんやりと外を眺めていると、背後から小さな声が降ってきた。
「ねぇ、高槻くん」
振り返れば、後ろの席の
長い黒髪をポニーテールに束ねたその姿はいつもの通りだが、瞳だけが異様に鋭い光を宿している。
紫苑は学年で有名な“自称探偵”だ。
本人は至って本気なのに、周囲はただの変わり者扱い。確かにそうかもしれないが、彼女からは探偵のような心を感じる。
伊吹は普段からミステリー系のライトノベルを読むことが多く、直観的だが、もしかしたらと思っていた。
「今日、帰り一緒にどう?」
突然の彼女からの誘いに、伊吹は目をぱちくりさせた。
「……いいけど」
「じゃあ放課後、よろしくね」
「いいけど? どこかに寄って行くとか?」
伊吹の問いかけに、紫苑は小さく首を振った。
「そういった話は後でするから」
微笑んだ唇とは裏腹に、瞳は笑っていない。どこか悲しげで、どこか燃えるような決意が宿っていた。そんな彼女の姿に、伊吹の胸がざわめく。
その瞬間、チャイムが鳴り、担当の先生が教室に入ってきて、午後の授業が始まったのだ。
そして放課後。校舎の時計が四時を回った頃、伊吹は席でゆっくり荷物をまとめていた。
席を立ち、リュックを肩にかけ、後ろを振り返る。
しかし、紫苑の姿はない。
勝手に約束しておいて、いきなり消えるなんてと思いながらスマホを見ると、通知が一つあった。
≪校門で待ってる≫
短い一文。
昼休みに交換したばかりのアドレスからだった。
窓から校門を覗けば、確かに紫苑が立っている。彼女のポニーテールが夕方の光で輝いていた。
伊吹は短髪の黒髪を触りため息をつく。小走りで廊下を下り、昇降口で靴を履き替えて外へ飛び出した。
「遅いよ」
校門前で紫苑は腕を組んで待っていた。
「ていうか、東野さん、いつ教室出たの?」
「放課後のホームルームが終わった瞬間だけど」
「早すぎだよ。一緒に帰るなら、待っていてくれても良かったのに」
「ごめん。私、用事があって職員室に寄らなきゃいけなくて。待たせるのも悪かったし」
「そう言う理由があるならいいけど。まあ……次からは声かけてね」
「了解、分かったわ」
紫苑はさらりと流して歩き出す。
伊吹は彼女の後を追うようにして、学校前の道を歩き始める。
いつもなら真っ直ぐ帰る道を、今日は右に折れた。
学校近くの住宅街を抜け、普段通らない細い路地へ入る。次第に人の気配が薄れていく。やがて現れたのは、古びた看板の喫茶店だった。
“珈琲・
伊吹にとっては完全に初見の店だ。
紫苑は慣れた様子でガラス戸を押し開ける。
店内に漂うコーヒーの香りと、かすかに流れるジャズが二人を迎えた。
店長らしき中年男性が軽く会釈し、奥のテーブルへ案内してくれたのは、大学生くらいの女性店員だ。その子は笑顔でメニューをテーブルに置いた。
「ご注文は何になさいますか?」
紫苑はメニューも見ずにブレンドのホットでと注文。伊吹は慌ててページをめくり、アイスコーヒーでと続けた。
五分後、グラスが運ばれてくる。
「ごゆっくりどうぞ」
女子大生のスタッフが去ると、紫苑は通学用のカバンからノートを取り出した。
開いたページには、びっしりと細かい文字が並んでいる。
「実はね……五年前の事件、やっと動きそうなの」
伊吹の指が、グラスの縁で止まった。
伊吹はその事件のことをほとんど知らない。
五年前。二人が通う学園から、一人の女子生徒が忽然と姿を消した一件があった。
当時高校二年――つまり今の伊吹や紫苑と同じ学年だった。
警察は大々的に捜査を始めたが、数日で引き上げたのだ。
地元紙もぴたりと記事をやめた。まるで誰かが強引に蓋をしたように。
紫苑はノートのページを指でなぞった。
「
伊吹の心臓が、はっきりと音を立てた。
明香――元カノ。雅哉――明香を奪った男だ。
「……その二人が、その事件にどう関わってるんだ?」
「当時消えた子は成績優秀で、生徒会役員に目を付けられてたらしいの。ちなみに生徒会室って、一般生徒は入れないでしょ?」
「ああ、そうだね」
「でもこの前、私見たの。八木明香と宮本雅哉が、生徒会室に出入りしてるのを。明らかに怪しいし。それに噂じゃ、生徒会の上層部に警察を動かせるくらいのコネがある人がいるって」
「生徒会に、そんな力が……?」
「普通はないわよね。だからこそ、何かあるとしか思えないの。特に宮本雅哉が一番黒に近い気がするの。でもまだ決定的な証拠がないから。高槻くんは二人と関わったことあるでしょ? 何か覚えてることはない?」
伊吹はアイスコーヒーを一口飲んで、苦さを舌に残した。
「……明香が、なんかバイト始めたって言ってたくらいかな」
「バイト?」
「うん。俺と別れる少し前にバイトを始めたとかで。明香はお金になるとかで、詳しくは教えてくれなかったけど……その頃から雅哉と付き合い始めたっぽいんだよね」
「なるほど……バイト、ね」
紫苑はペンを走らせながら、小さく呟いた。
「少しずつでも、進めていきましょうか」
「そうだね」
「ごめん、私、ちょっと席外すね」
紫苑は立ち上がり、店の奥へと消えていった。
伊吹は一人残され、窓の外に目をやる。
外の夕陽が店内に入り込んできて、テーブルに長い影を落としていた。
なぜ、紫苑がここまであの事件に執着するのか。疑問が胸に湧いたその時、さっきの女性店員がそっと近づいてきた。
「あの……君、紫苑ちゃんのクラスメイト?」
「あ、はい。そうです」
「私、あの子の友達の妹ちゃんなの。あの子よく来るのよ」
「へえ、そうなんですね」
「さっき、五年前の話してたでしょ」
伊吹は小さく頷いた。
「あれ……実は、消えたのって紫苑ちゃんのお姉さんなの。私と同級生だったのよ」
一瞬、息が止まった。
「だから、あの子、どうしても解決したいらしくて……でも、この話は紫苑ちゃんの前ではしないでね。あの子、すごく傷つくから」
「……分かりました」
女子大生のスタッフは微笑んで、カウンターへと戻って行く。
伊吹はアイスコーヒーが入ったグラスを見つめたまま、氷がゆっくり溶けていくのを眺めていた。
五月の雨のような、静かで冷たい真実が、少しずつ形を現し始めていた。
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