扉。

雄樹

私は家族、なんだから。

 夕暮れ、私は一人ぼっちで公園のブランコに乗ると、ぎぃこぎぃこ音をたてながら考え事をしていた。


(お父さん…お母さん…)


 いつも優しいお母さん。時々厳しいお父さん。大好きな2人だけど、私はいつも迷惑ばかりかけている。言われたこともできないし、頼まれたこともよく忘れてしまう。そのたびに、仕方ないよ、まだ小さいんだから、と慰めてくれるけど、結局私は何もできない駄目な子供のままでしかない。


(駄目だよね、こんなの)


 泣きたくなる。ぐすりと鼻をすすると、私はブランコから飛び降りた。遠くからもの悲しいサイレンの音が聞こえてくる。もう家に帰らなくちゃいけない時間だ。


(考えていても、仕方ないか!)


 私は、大きく背伸びをした。

 小さい私には、できることは少ない。だから、私にできることは、今できることを精一杯頑張ることだけだった。

 私はしっかりとした足取りで帰路に向かった。


 公園に、風が吹いていた。



■■■



「…お母…さん」


 帰宅した私を迎えてくれたのは、いつもの明るい笑顔のお母さんじゃなかった。床に突っ伏して、倒れこんでいるお母さんの無言の背中だけだった。


「どうしたの?しっかりして!」


 必死になって、私はお母さんを揺さぶった。

 本当はこんな時、倒れている人を動かさない方がいいのかもしれないけど…今の私には、そんな考えをめぐらす余裕はなかった。こんなだから、私は駄目な子なのかもしれない。


「…あ…おかえり…」


 うっすらと、お母さんは目を開けた。

 焦点が定まっていない。私を見つめてくれているのに、その瞳の中に私の姿が映っていない。


「ごめんね…お夕飯の準備…しなくちゃね…」

「そんなこと、どうだっていいから!」


 私は叫んだ。


「お母さんっ!具合悪いの!?」

「そんなこと…ないよ…けほっ」


 お母さんがせき込む。私の手に赤いものがつく。

 血。

 赤。


 お母さんの、吐いた血。


 染まった手の平を見つめて、喉の奥まで押しあがってきた悲鳴をなんとか飲み込んだ。身体がぶるぶる震える。怖い。怖くて仕方がない。

 お母さんが、倒れている。血が、出てる。

 どうしよう。どうしよう。どうしよう。


「とにかく、お母さんは横になっていて!」


 返事はない。

 意識が途切れたのか、まるで糸が切れた人形のように、お母さんはぐたっとして動かなくなった。

 重い。意識を失った人間って、こんなに重いものなんだろうか。


(私が)


 なんとか、しなくちゃ。


 とりあえずお母さんを部屋の奥にまで引きずって行って、布団をかけた。水をくみ、額にタオルを置いて、耳をしまして心音を聞く。


 とくん。とくん。とくん。

 心音が聞こえた。

 少しだけ、胸をなでおろした。


 お母さんを見る。


 汗が止まらない。

 頬が熱い。

 紅い。

 熱い。


 こんなに熱くて…いいわけがない。


「ああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 私は立ち上がった。

 私が何とかしないといけない。

 お父さんは…お父さんは、今、いない。


 今朝、遠くに行くといって、部屋の奥の扉に入っていって、それから姿が見えない。


(どうすればいいんだろう)


 泣きたくなる。

 身体が震えて、寒くて、冷たくて、でも泣いてしまったらお母さんが心配するかもしれないから、我慢する。

 お母さん。大切な、お母さん。

 苦しそうに倒れている、私のお母さん。


(泣くもんか)


 私はこぼれそうになる涙をぬぐうと、顔をあげた。

 泣くもんか。泣いてたまるか。泣くなら、お母さんが無事に治った後、みんなで、家族で笑ってから、泣くんだ。


「お医者さんに行けば…」


 電話を見る。

 家の電話は電話線が切られていて、動かない。

 なら、お母さんを病院にまで連れて行けば…ううん。お母さんは動けない。なら、私がお医者さんを連れてくればいいんだ。


(でも、どうやって?)


 行き方も分からない。頼み方も分からない。私は何も分からない。

 分からないけど。


「でも、そんなこと、言ってられない!」


 苦しそうなお母さん。

 辛そうなお母さん。

 いつも笑ってくれるお母さん。

 時には、叱ってくれるお母さん。


 大好きな、お母さん。


(いいかい)

(この部屋には、絶対に入ってはいけないよ)


 ふいに、お父さんの事を思い出した。

 毎朝、出勤する時、玄関には向かわないお父さん。

 お父さんは、なぜか、いつも。

 出かける時、部屋の奥の扉を開けて、その中に入っていく。


(この部屋には、絶対に入ってはいけないよ)


 私は部屋の奥へ進んだ。

 奥へ、奥へ。

 いつも、お父さんが消えていく扉。


 扉を開ける。


 がらり。


 目。


 扉の向こうに、目が見えた。

 ひとつじゃない、たくさんの、目。

 目、目、目、目、目、目。


 (この部屋には、絶対に入ってはいけないよ)


 入ってはいけないと言われている部屋。

 いつもお父さんが消えていく部屋。

 扉。


 私は、手を伸ばした。


 全ての目が動き、私を見つめてくる。

 その目は…まるで私に、何かを訴えてきているようだった。


(くるな)

(くるな)

(くるな)


 お父さんから止められている。

 この部屋に入ってはいけないと言われている。

 扉を開けてはいけないと言われている。


 この扉をくぐっていいのは、お父さんだけなのだ。


(お父さん)


 大好きな、お父さん。いつも厳しいけど、でも、時々優しく頭を撫でてくれるお父さん。お母さんと一緒にいて、優しそうな瞳をしているお父さん。

 お父さんが入ってはいけないと言っているという事は、それは他の誰でもない、私のための言葉なのだ。

 心からの、忠告なんだ。


「でも…」


 お母さんの声が聞こえる。吐息が、とぎれとぎれに聞こえてくる。

 扉を見る。無数の目が私を見つめてくる。


(くるな)

(くるな)

(くるな)


「私は…」


(後悔するぞ)

(後悔するぞ)

(後悔するぞ)


「お母さんの…お父さんの…」


(今ならまだ間に合う)

(来るな)

(後悔するぞ)


「家族…なんだからっ」


 私は目を閉じて、そのまま、扉の中に。


 飛び込んだ。



■■■



「危ないところでしたね」


 お医者さんの声がする。白い服を着て、ひげを蓄えていて、少し太っていて、優しそうなお医者さん。

 その傍らで、お母さんが寝ている。

 柔らかな寝息。穏やかな顔。


「私が来るのがもう少し遅かったら…大変なことになっていたかもしれません」


 お医者さんはそういうと、かたわらに置いていた薬箱を閉じた。そしてそのまま、横になって寝ているお母さんの額に手をあてる。


「いいお子さんをお持ちですね…」


 そういうと、ほほ笑んだ。

 私は、ほっと、胸をなでおろした。


 助かったんだ。


 扉を抜けた先は、白い病院の前だった。

 あの扉は、どこでも、行きたい場所につながってた。

 私は泣きながらお医者さんに訴えて、そのまま車に乗せてもらって、家まで帰ってお母さんを診てもらっていた。


「お母さん、もう大丈夫?」

「ええ。大丈夫ですよ」


 お医者さんは、私の頭にぽんと手を置くと、「あなたが、頑張ってくれましたからね」と言ってくれた。


「…えへへ」


 少し、嬉しくなる。褒められると、やっぱり、嬉しい。


 その時。

 ぎぃっと音がして、部屋の奥の扉が開いた。


 中に、人影がみえる。

 その人影は扉から出ると、後ろ手で扉を閉めた。

 灰色のスーツ姿に、灰色の帽子。手には黒い鞄を持っている。朝出かけたお父さんだった。


「…」


 お父さんは私を見つめている。黙って、じっと、見つめている。

 怒っている。厳しい目つきに、まっすぐな瞳。

 怖い。

 こんなに怒っているお父さん、初めて見た。


「…扉を、使ったのか」


 低い声で、お父さんが喋った。

 まるで心臓をそのままがしっとつかまれたような気持になる。怖い。怖い。私は、お父さんの言いつけを破ってしまった。あんなに忠告されていたのに、あんなに止められてたのに。


 けど。


「…使ったよ」


 私はもう、逃げない。

 目の前でお母さんが眠っている。あんなに辛そうだったお母さんが、今は、穏やかに。

 それだけで、この顔を診れただけで、私はもうどうなってもかまわない。


「扉を使ってはいけないと、何度も伝えたはずだが」

「…うん」

「どうして、私のいう事が聞けなかったんだ?」

「それは…」


 言いたいことはたくさんある。

 言い訳だってたくさんある。

 理由をあげようと思えば、いくらだってあげれる。

 叱られたくないと思う。

 むしろ、褒めてもらいたいと思う。


 けど、出てきたのは、



「…びぇぇぇえええん…っ」


 涙、だった。

 抑えようとしていた涙が、溢れてきた。一度堰を切ったように零れたきた涙は、もう止めることはできなかった。


「だって…だって、お母さんが…お母さんが…」


 言葉にならない。

 今まで張り詰めていた糸が、ぷつんと切れてしまったみたいだった。

 私の鳴き声でお母さんが起きてしまうかもしれない。それでも、泣き止むことは出来なかった。


「…お子さん、すごく、頑張られていたんですよ」


 見かねたお医者さんが、助け船を出してくれる。

 お父さんはしばらく黙ったまま、ふぅと大きなため息をついた。


「分かっていますよ」


 親ですから。

 この子の…父親ですから。


 お父さんは泣きじゃくる私の頭にそっと手をあてると、


「…仕方ない、か」


 といった。

 目を閉じる。

 どこか、遠くを見つめる。


「…家族、だからな」


 風が吹いてきていた。

 家の中にいるのに。

 部屋の中にいるのに。


 それは、とても。


 柔らかく、暖かい、風だった。



















■■■




 飛び込んだ先。

 そこには、何もなかった。


 暗い、暗い、無。


(…)

(…)

(…お母さん…)


 後ろを振り向く。

 何もない。

 目を見る。

 何もない。


 扉の中には、何もなかった。





(お父さん)


 声がでない。

 何もない。




(お母さん)



 目が見えない。

 暗い。



(…)


 音も、消えた。








 いったい、どれだけの時間がたったのだろう?



 お母さんはどうなったのだろう?


(お母さんが助かるなら、私はどうなってもいい)

(どんな罰だって受ける)


 そう思っていた。







 痛いのは、我慢できる。

 つらいのも、我慢できる。






 でも。






 

 



 何もない。

 見えない。

 聞こえない。

 手の感触もない。

 手を動かしているはずなのに、分からない。

 足を動かしても、分からない。

 見えない。

 匂いもない。

 聞こえない。

 見えない。

 味もない。

 声もない。

 感覚もない。







 ただ、時間だけが、ある。








 私は、知らない。



 扉に飛び込んだ瞬間に、私の体は素粒子のレベルまで分解されて消滅したことを。


 痛みもなく。

 痛みを感じる暇もなく。

 一瞬の、一瞬の、刹那の、さらに刹那で。

 私の体は粉々に砕け散ったことを。

 






 私は知らない。




 扉に飛び込んだ瞬間に私は砕け散り。

 同時に。

 扉の向こう側に、私とまったく同じ遺伝子情報と体と記憶をもった存在が作られたということを。


 その扉の向こう側の私は、お医者さまに状況を伝えお母さんを助けたことを。










 ここには何もない。






 目も見えない。

 耳も聞こえない。

 味もしない。

 感覚もない。

 匂いもしない。






 ただ、時間だけがある。



 私はお母さんが助かったことも知らず。

 自分がどうなったのかも知らず。


 今、家族として迎えられている私がいることも知らず。





 あちらとこちら。



 目も見えない。

 目を潰したくても、目もない。


 耳も聞こえない。

 耳を潰したくても、耳がない。


 匂いもしない。

 鼻を潰したくても、鼻がない。


 味もしない。

 舌をつぶしたくても、舌がない。


 感覚もない。

 体がない。




 ただ。

 意識だけがある。


 今日も、明日も、明後日も、三日後も、一年後も、十年後も、百年後も、千年後も、万年後も、億年後も、兆年後も。

 兆×兆年後も。兆×兆×兆×兆×兆×兆年後も。



 ずっと。

 ずっと。


 意識だけがある。




(くるな)


 正しい。


(後悔するぞ)


 正しい。


(今ならまだ間に合う)


 正しい。



 私は身が焦がれる思いだった。


 ただ、今、自分という存在だけがある。

 本当にあるのか?

 認識できない。


(家族だから)


 どこに家族がいるの?

 本当にお母さんは助かったの?




 お母さん?

 お父さん?





 長いよ。

 長いよ。


 ここは、ずっと、けっこう、長いよ。





 私はだあれ?





 狂うこともできない。



 ただ、ある。





 よ。


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