まゆ子さんはわがまま

coffeemikan

第1話

関根まゆ子せきねまゆこは150cmほどの小柄な体躯にもかかわらず、どこに元気が詰まっているのかと思うほどパワフルで、社内でも目立つ存在だった。


「おはようございまーす」


毎朝離れた席からでもわかる軽快な挨拶。あそこが賑やかだなと思うときは必ず彼女がいる。俺自身は営業部が異なる彼女とはあいさつ程度の関係で、直接やりとりはなかったが彼女には感謝の気持ちでいっぱいだった。繁忙期になっても社内の空気が殺伐としないのは彼女のお陰だと思う。


「明日からしばらくお休みなんだ」


夏の暑さも紛れ、行楽日和の予報に浮き立った三連休を控えた金曜日。仕事も閉めに入った夕方、たまたま彼女が話している声が聞こえた。長かったはずの髪はバッサリと切ったようで、ショートボブになっている。


「あれ、ってことはもしかして来週も有給?」

「そう。なんだか疲れちゃってさ。仕事からもパソコンからも離れて過ごすの」

「へーいいかも。デジタルデトックスってやつね」

「私は無理だなあ」


へえ。平日に有給を連日取るなんて最近やってないな…そんなことを考えながら、そのときは何の気なしに聞いていただけだった。


◆◆◆◆


連休が明けた翌々日の昼。


「…関根さん、病気らしいよ」

「え、まじ?そうなの?」


後ろから聞こえた話し声に、思わずカップ麺を食べる手を止めた。


「うん。今休んでるのも治療みたい」

「そうなんだあ。入院とか?」

「たぶんね。かなり悪いみたい」

「心配だね」

「ね、大丈夫かなあ」


そうやって心配されるのも彼女の人徳故か。


…と、そこから先はどうやって仕事を終えて家に帰ったかほとんど覚えていない。デスクに戻ってからはというもの、急に覚えのない疲れを感じ、家に着いてベッドに転がってぼんやりと天井を眺めると、ようやくその正体がわかった。


どうやらショックを受けていたらしい。


およそ体調不良とは無縁だと勝手に思っていたパワフルな彼女が、実は重い病気だと聞いて、勝手にショックを受けている。彼女からしたら、何でお前がという感じだろう。


自分だったらどうだろうか。あんなに元気に過ごせるだろうか。


と、同時に羨ましくもあった。何となく会社に行き、休日を何もせずに過ごし、目的もなく、死にたくないから生きている。もし、最期がわかっていたら、毎日充実した時を過ごせるのだろうか。


そんな考えに自分が嫌になる。普段は滅多に飲むことのない強めの酒をあおって、その日は無理やり寝ることしかできなかった。


◆◆◆◆


関根さんがほどなく復帰すると、何事もなかったかのように日常が訪れた。遠目から見ても少しやつれた気もするが、極端に痩せるようなこともなく、もとの明るさが戻った職場で関根さんはいつも通りに笑っている。


なんだ、元気じゃん。


そんなことすら考えなくなるくらい、喉元を過ぎたその年の忘年会。関根さんとお隣になる機会があった。


「あ、第一営業部の八代です」

「人事部の関根です。フロア一緒なのにほとんど初めましてだね」

「ほんとです。挨拶以外はできてなかったので」


これほどまでに一方的に知っている関係も久しぶりだ。思わずまじまじと見つめる。


「八代くんって若いよね?何年目なの?」

「あ、中途3年目、30です」

「え、マジ?ふたつも年上だ。ごめんなさい。かんっぜんに年下かと」

「よく言われるので」


俺はいつも幼く見られがちだった。イケメンではないタイプの童顔と悲しい評価を受けたこともある。言われ慣れたことで特に気にしないのに、すごく申し訳なさそうな関根さんが、かえって印象的に映った。


「いやいや先輩じゃん。…あ、私が敬語使わなきゃだ」

「いいですよ。タメで」

「私がダメなの。それなら八代くんも敬語、なおしてよ」

「あー、善処する…します」

「あはは、それ逆」

「……」


初めて話す彼女は見た目通り元気で、人懐っこい笑顔を見せてくれた。失礼な話、モテるタイプではないが、いつもクラスの中心にいる明るいクラスメイト、というイメージがぴったり当てはまる。


「八代くん、面白いね」

「そうかなあ?」


この笑顔の裏にどれだけの苦労があるのか。そう思うと、素直に笑えなくなる自分の感情に整理がつかず、曖昧な返事に申し訳なさもあって、早々に上司や同僚を巻き込んでその場を濁した。


◆◆◆◆


「八代くん、おつかれ」


年内最終出社を終えて、エレベーターを降りたところで関根さんが声をかけてきた。


「お疲れ様です。待ち合わせですか?」


ホールで誰かを待っていたようにも見える。飲みにでも行くのだろうか。


「ううん、ちょっと電話してただけ。あ、タメでいいって言ったのに…」


頬を膨らませる姿が子どもっぽく、微笑ましい。


「さっきの帰りの挨拶の癖で」

「あーわかる。本部長いたしね」

「そう、それ」


関根さんとはあれから少し仲良くなった。とはいえ、少し挨拶に小話が混ざる程度。よかったら駅まで一緒に行こうよ、と連れ立って外に出た。


「さむ」

「今日はヤバい」

「だよね」


底冷えという言葉に相応しい、芯まで凍るような寒さ。クリスマスを過ぎて、年末年始を迎えようかという緩んだ空気に活を入れているのか。本当に迷惑でしかない。


「八代くん、年末年始の予定は?実家帰るの?」


駅までの道すがら、今年最後の同僚との会話。


「…あー」

「あ、何か言いにくいこと聞いちゃった…?」


いたずらっ子のような表情を浮かべる彼女とは裏腹に、病気のことがよぎり、一瞬だけ彼女に言うべきか迷う。


「あ、いや、オランダに。アムステルダム」

「ええ?明日から?」


流石に関根さんも驚いた顔をしている。


「うん」

「ひとり?」

「もちろん。独り身なので」


最後に彼女がいたのはもう3年も前の話だ。学生時代からの付き合っていた彼女は、案の定社会人生活のすれ違いの中で、別れを告げることになった。既に結婚して子どももいるような噂も聞いたが、何とも思わなかった。


「日本にいたくなくて」

「いいなあ」


彼女は天を仰ぐ。いいなあ、は同僚のそれとは違って聞こえたのは気のせいだろうか。


「…」


視線を戻した彼女とちょうど目が合った。


「あ、そうだ。てことは八代くん、夕飯は?」

「今日は適当に外食しよかと」


海外に行く前は冷蔵庫は計画的に空っぽにしてある。食べるものといえば多少のインスタント食品しか残していない。


「そっか。じゃあさ、よかったらラーメン、食べてこうよ」


指を刺した先には、家系の看板が見えた。夜に食べるには禁断の味だ。


海外に行く前には最適かもしれない。俺は頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る