小説を書いたらキョヒられちゃった話
田島絵里子
第1話
小説、書きたいのに言葉が出て来ないんですけど!
小説を書きたいと思ってます。小説はあまり売れてないけど、ラノベはほかのジャンルよりはまだ売れていると聞きました。なので、生成AIを使ってラノベを書こう、と決意しました。指示文を書けば、その通りに見える作文はしてくれます。道具を使ってるんだから、100%道具に頼ったって構わんさ!
しかし、なんだろう、この虚しさは……。
アクセスはありましたし、評価もそれなりにありました。
けど。
あんなに好きだったその文章が、いまはただの活字の羅列。罵詈雑言を吐く悪役令嬢も、魔王と仲良しになる勇者も、ぜーんぶ「カマボコ」に見えてしまう。予定調和に満ちている。そりゃもちろん、カマボコを好きな人もいるし、実際、ナルトなんてカマボコの一種。いや、忍者とは関係ないけどね。
昔読んだ小説の一節を、思い出すことが出来ます。夢中になって夢見た少女時代のあのころの、田んぼの風景まで。ゲンゴロウ、ミズスマシ、オタマジャクシ。
でも、残念なことに、わたしの読んだ本はラノベではありません。児童文学なのでした。ただでさえ売れない小説。名も知れないわたしの書いた小説なんて、売れませんね。
だから生成AIを使ったのに。
ちっとも愛着が湧かない。
それこそ他人に言われそう。
「じゃああんたが作ってみろよ」。
小説を書きたい。
渇望しています。
テーマはあるんです。魔法と科学技術の絡む、壮大な話です。PLOTも生成AIに書いてもらいました。あとは肉付けするだけです。ところが、その肉付けが出来ない。なぜ? エッセイだったらひょいひょい書けるのに、ラノベはダメって、そりゃないよ。
気分転換しよう、と近所を散策。広島の宮島線(チンチン電車)の
そこは昔、毛利元就が広島をおさめていたとき、植木職人をこの辺で雇っていたとかで、その時代からの盆栽や植木の産地だったんだとか。四〇年ほどまえにも住人の多くが植木職人で、腰痛を訴えたり、脚立から転げ落ちたりしていたそうです。ちなみに己斐は、『ズッコケ三人組』の舞台にもなっています。
現実は、つまんねーの。
正直な感想でした。他人が己斐を舞台に成功した。そしてその本の挿絵を掲げた商店もある。『ここはズッコケ三人組のモデル地になった〇〇です』
また、JR西広島の北駅前には、そのズッコケ三人組(ハチベエ、ハカセ、モーちゃん)の彫像まで建っている。このシリーズについては無知ですが、流行ったんだね。
それらを見たり読んだりしていると、「書けない」自分への焦りがにじみます。
人に出来てわたしに出来ないことはない、と奮起しても、結局は賢いロボットに書かせてる。自分のやりたいことが出来ない、出来ても満足できないって、どうなのよ。
生成AIを批判する人は、『AIで書かせたものには魂は宿らない』という信念があるようですが、そのあたりは昔、ワープロが出た時に、「ワープロで書いた字には文学が宿らない」と言っていた文學界の人がいたことを思い出してちょっと笑っちゃいます。そのワープロが発達したおかげで、いま、純文学を中心とした青空文庫がネットにあるわけです。AIも、発達次第では魂を宿らせるかもしれない。
しかし、いま現在、その気配はありませんし、もしかしたら永遠にそんな日はこないかもしれません。鳥になりたくても飛行機しか作れないのが人類……。
AIはブラックボックスですし、ウソも言います(だから設計しなおす、という動きもあるそうです)。そんなワケのわからんものに、自分の中のモヤモヤしたものをぶつけて大丈夫なのかな、という気もする。
己斐周辺を歩きながら、あちこちのモニュメントを見ていました。
書けないのは、なぜか。
ラノベの経験値が、圧倒的に足りないからです。当然でしょう。わたしの読んだラノベと言えば、『スレイヤーズ!』『涼宮ハルヒの憂鬱』といった初期のものばかり。最近のラノベはまったく読んでいません。
夫がハマっている『薬屋のひとりごと』も『フルメタル・パニック!』シリーズも、なにが面白いのかサッパリわかんない。わかんないものを書くのは、無謀すぎなのです。売れるためにムリヤリ人に合わせる必要が、あるのかどうか。
もっと言いましょう。
生成AIが出てきたのに、小説を書く意味がどこにあるのかわかんない。
自分の好みの小説がバンバン出来るのに、自分の時間を削る意味ってあるの?
深く考えてみました。生成AIは、「どうやったら」出来るかまでは教えてくれます。肉付けの方法も教えてくれる。
しかし、「なぜ、それが必要なのか」は教えてくれません。ただひたすら、「読者に受けるから」こればかり。
作家として、新規開拓していくのだとしたなら、「今まではこうだったから受ける」というのは、尻すぼみというか何と言うか、先が見えている気もする。
つまり、「なにか新しいけど、でもどこか懐かしい、なのに意外性のある面白いオリジナル作品」は、生成AIでは作れそうにない。
実は、11月に入って、脚本家の野木亜紀子氏完全オリジナルドラマ『ちょっとだけエスパー』を見ています(十二月二日現在、第七話放送中)。
わたしのツボにバッチリ入ったドラマ。こういうのを作りたかった、と思うと同時に、彼女の才能がただのドラマで終わっているのが、ほんとうにもったいないと思ってしまいました。ストーリーはネタバレのため言わないけど、時間SFの好きな人ならぜったいオススメ。
だからこそ、思う。
本が、書きたい。
それもただの本じゃない。
長く愛される、何度も繰り返して読んでもらえる作品。
そんな中、ある誘惑がありました。ベストセラー作家になれますよ、という触れ込みで、あるSNSのCMが貼られていたので、その講座に参加したのです。
参加者は電子書籍Kindleで本を出版し、応援しあって盛り上げる、と講師は言います。読者対象のサイン会や、作家交流会もあるんだって。
お互いに「応援しあう」というのはつまり、本を買い合うってこと。ニッチな分野で買いあえば、そりゃベストセラーにもなる。その本をほんとうに読んでくれるかどうかは別として。
この手口は、詐欺とは言わないがグレーゾーンだと判断しました。少なくとも、自分の目指している「長く愛される本」をこのグループは目指していない。
使い捨て、あるいは、読み捨て。それどころか、読んでくれない可能性もある。
わたしはそんな作家になりたいのかとふと、考えました。
人の心になんの痕跡も残さず、「ああ面白かった」だけで終わりたい、そういう作家もいるし、それが悪いとは思わない。人には朝昼晩の御飯のほかにも、お八つというものは必要です。
しかし、毎度毎食、お八つを食べていたらどうでしょうか。
しかも、そのお八つが、人工甘味料たっぷりのお八つなら。
皆が皆そうだとは言わない。たとえば、『精霊の守り人』とか『烏に単は似合わない』と言った本格ファンタジーはわたしも堪能しました。しかし五〇年間本格ファンタジーを読んできたわたしには、昨今の角川系ラノベにはかなり違和を感じてしまいます。
日常が辛すぎるからラノベに逃げたいのは判ります。わたしが少女時代に本格ファンタジーに触れたのは、「それしか逃げ道がなかった」から。一読者として、登場人物に同調し、ドキドキはらはらする瞬間は、何ものにも替えがたい一瞬でした。
だけどわたしは、そんな作品を作れるのか。
書きたいのに書けない。あとはやってね、と用意された材料を目の前にして、平凡な主婦が巷に通用するプロのハンバーガーを作ろうとしている。無茶だなあって思います。味付けの仕方も判らない、完成品の見本は時間の無駄だとして見ない。そんなんで本が作れますかね。
思いあまって、Udemyというサイトにおじゃましました。オンラインで小説の書き方を教えてくれるんですって。
有料でした。それままで「小説HOWーTO本」を何十冊も借りたり買ったり、毎日のタスクに「一日一〇〇字程度の描写をする」「比喩を一日一個考える」「今日は〇〇したとき、こう考えた。身体はどう感じたか」という項目を作って、パソコンのタスク処理の項目に入れ、日々研鑽しても飽きちゃって、一向に身に付いてない。
だけどこれならもしかしたら、新しい方法なら身に付くんじゃないか、と思いました。どうしても小説のコツを知りたかった。
がっかりでした。
講師は小説家でしたが、「肝心なのは何を書きたいかです」ということを延々と言っているだけのことでした。5,000円も払ったのにと思いましたが、動画は判りやすかったし、小説でつまづきやすいのは書きたいことがとっ散らかるということだ、ということも学びました。
だからと言って、「肉付けの方法」がそれで判明したわけじゃない。読者の感情をゆさぶる文章が、この方法で会得できることはない。村上春樹じゃないんだから、事実の羅列とちょっとばかりのユーモア、そして音楽で人を惹きつけるなんて芸当が、出来るわけないし、それはラノベの手法ではないでしょう。
改めて、自分に問うてみました。
なぜ、あなたは今、この時期にラノベ作家を選ぶんですか?
前述したように、自分好みの小説なら、それこそ生成AIに書かせることが出来ます。今のところ、細かい指示を出さないと作ってくれないんですが、指示文を正確に書いたら、読むに耐える充分な作文はしてくれる。無料でゲットしたそれを、「有料で」市販するのって、どうなんでしょうか。
そのときふと、アメリカのホラー作家ディーン・クーンツの事が脳裏をかすめました。彼はある書物で、「我々作家は、ただの石ころを必死で磨いて、ダイヤモンドと言って売りつける人間だ」と語っていました。
明治時代の文豪たちも、詐欺師ぬすっと呼ばわりされていたので、翻訳に多大な影響を与えた作家二葉亭四迷なんか、おやじに作家になりたいと言ったら「くたばってしまえ」と言われたのが原因で、それをそのままペンネームにしたってくらい、作家の地位は低かった。
それが今、ついに誰でも作家になれる時代。昔は自費出版に何百万もかかったのに、今は無料(Kindleで、オンデマンド・ペーパーバックが売れるようになりました)。編集者を生成AIにすれば、本気でベストセラーになるのも夢じゃないんです。
ということは。
昔ほど、「本の権威」はない、または薄れている、と見るべきでしょう。Web小説で似たような小説を書いた人たちがゴロゴロ発表した結果、生成AIがそれを学んで誰でも気軽にラノベ作家になれる手法を身につけた。
それなら、わざわざラノベ作家になる必要、ないんじゃない?
その鋭い声が脳裏をよぎったとたん、わたしは自分の中でなにかが壊れるのを感じました。
――わたしのやりたいことって、実現しないかもしれない。
紙の本に愛着を持つ人は多いです。その本に一定の信頼を置いている人は、いまだにいる。ラノベを買って読む人だって、背後にアニメ文化があるからこそ、活字になったらどうなんだろうという興味で読んでいる人もいるでしょう。
その背景には、本には「編集者」がいて、ある程度の品質の保証をしてくれるという約束事が、読者と本の間にあるからだとわたしは勝手に思ってます(だから、「応援する」という形のベストセラーは、わたしはイマイチ信じられないんですよね)。
ところが、その編集者に当たる人が生成AIになってしまう(ちゃんと売れるマーケティングもしてくれているロボットだ)。大手出版社の編集者は、生成AIに乗っ取られる危険がある。
となると。
革新的な、今までに見たこともないようなラノベは、今後は決して現れない可能性大ってことになる。
宮崎駿の『君たちはいかに生きるべきか』みたいな、賛否両論を巻き起こすような作品も、本の世界では「おとなの事情」で封印されちゃう。それが大手であればあるほど、抱えている社員の生活を守らねばならんから、「守備」に入る。マーケティングとか、社会情勢とか、空気とかを「お伺い」することになる。
売るからには、儲けなければならない。しかし、元来、本というものは売れないもの。だからメディアミックスでなんとか自転車操業してる。
そこへAmazonが割り込んできてわしゃわしゃやる。問屋はどんどん販売先を変えていく。読者は、ほんとうに欲しい本が本屋にないのでガッカリしてAmazonへ去る。貴重なお客さんが消えていく。本屋がどんどんつぶれていく。Amazonは、巨大化していく。
だけどそんな中でもわたしは、自分の欲しいラノベを書きたい。
そして、出版社には、それを売ってほしい。
それがたとえ、長続きしなくても。
一瞬の花火でも、人の心に残るならば。
小説の一節を口ずさむことができます。
「夢は終わった。朝が来たのだ」
しかしわたしの夢は、まだ続いていました。
その夢は、悪夢でした。
随筆は、一回限りの体験を記したもの、という作家がおられたのですが、わたしにとっては小説を書くことそれ自体が、ここ五〇年続いてきている下積みの体験であり、けっしてヒノキになれないアスナロの体験です。
一回限りどころか!
なんど挑戦したことでしょうか。中学生の頃は、洋ドラのノベライズを担任に見せて、
「下らないものを見せられた」
と言われてノベライズを投げすてました。もう文章なんか書くものか。固く決意したはずでしたが、やめられませんでした。書くことが、自分自身を燃やす燃料だったのです。やりがい、いきがい、そして自分でいられる場所。
高校の時は、七〇年代にはマイナーだった異世界ものを書いて、友だちに冒頭を漫画化されました。ところがわたしは、設定に決定的なミスがあるのを発見、二十歳になったら完成させるねと友だちに約束したのにいまだに完成してません(その小説には、アスリアという王女と、キャラ・ソマという盗賊が出てきます)。
あとでその小説『ネルビア国ものがたり』を漫画化してくれた友だちが送り返してきましたが、本文はすべて鉛筆書きだったため、消しゴムで消されておりました。
気に入った作家の写経もしました。具体的には宮部みゆきです。なにが面白いのか、そこのところを分析しようと試みました。なぜ、この作家がこの単語を選んだのか考えました。
つまんなくなりました。
読書それ自体を楽しめなくなったのです。没入できなくなった。作家になりたいと必死になればなるほど、楽しいはずのわたしの手軽な娯楽は、重い荷物となりました。
作家になるのはあきらめて、分析する癖はやめようと決意しました。
現実が忘れられないなんて、読書の意味がない。
それでも、読書があきらめられませんでした。
五〇年の習慣はおそろしい。それしか、手軽な娯楽がなかったこともあります。
ゲームはお金がかかりすぎますし、やらされてる感がはんぱない。還暦過ぎのビンボー主婦向きゲームってあるんでしょうか。近くに友だちがいるわけでもないし、サークルのみんなは忙しそう。
そこで子どもの頃に夢中になって読んだ本をもう一度、読みました。あの頃には気付かなかった、小さな配慮がそこここにありました。子どもの柔らかい感性を傷つけないように文章を工夫してたのです。そしてあちこちに、巧妙な伏線が張られていました。冒頭から対決する人が現れたり、登場人物に助言していた人が別の巻で主役を張ったり。
児童文学って奥が深い。分析癖がついたからこそ判ったことでした。
読書はただ、楽しむだけじゃないんだ。
初めて得心がいきました。
人はよく、「本を批判的に読め」と言います。批判的って言うから、もっとケチをつけるとか罵倒するとか言った、マイナスの意味と思っていました。そうではなかった。つまるところ、「言われたことを額面通りに受けとるな」ってことなのです。
その背後に何があるのか、行間を読む、そういった能動的な作業それ自体が楽しいってこと。ファンタジーは空想を楽しむジャンルですが、それ以上に、その背後にある「リアル」もまた、楽しめるものなのです(当たり前のことに今さら気付く、シニアのわたし)。
それまでのわたしにとって、ファンタジーは「ここではないどこか」へ連れて行ってくれる、日常的な「ゲーム」みたいなものでした。その意味で当時の大人たちが、ファンタジーなんて三流だと言っていたのは当たっていたのでしょう。
ただ、ひとつ違っていたのは、わたしがそのファンタジーを主婦目線で読むことで、能動的に人を見るようになってきた、という点にあります。
能動的とは、人を観察し、そのウラを考えて想像すること。
つまり、「人にはいろいろ事情がある」という思いやりが、実体験として育ってきた。初めて読書の意味が分ってきたんですね。(少なくとも、婚約当時から今に至るまでいろいろゴタゴタしていたわたしには、本を批判的に読むことは成長のしるしでもあったってことです)。
ファンタジーの中には、たとえば『ナルニア国ものがたり』第一巻には、宮崎駿の『となりのトトロ』に影響を与えたとしかわたしには思えない描写があったりします。『天空の城ラピュラ』の「ほろびのことば」なんて、第六巻のジェイディスのセリフとかなり似ている。
だからと言って、他人がそれに共感するとは限らない。むしろ、「いつまでジタバタしてるんだよ、いいかげんあきらめてエッセイ一本でやれよ、あんたの体験が聞きたいんだよ」というのがエッセイとしては普通だと思います。
体験談。それならいろいろありますね。鼻の中に骨がにょきにょき生えてきたこととか、足の裏にガンが出来たこととか、もちろん専業主婦としての経験もありますし、結婚したての職場での罹病の話も出来る。
足の裏のガンについては、すでにnoteに書いたので、ここには書かないけど。
そうやって突き詰めていくと、わたしには、エッセイの方が小説よりずっと書きやすいし、構成だってラクに出来ることが判明してきます。肉付けなんて事実あったことを書けばいいんだから、ちょちょいのちょいですよね。
そんな安直なもの出して、だいじょうぶなのかなという気持がありますし、自分の体験を随筆らしく、微に入り細に入り書くのって、どちらかというと私小説に近い気もする。このエッセイは、ただ、ラノベが書きたくて書けない、実力が追いつかない、そんなことを書いてるだけ。
つまらないので、そんなわたしでも、ついに小説が書けた話をします。以下はその経緯と裏話です。
先日、中国新聞新人短編賞に原稿用紙20枚分の純文学を投稿することにしました。中国新聞は地域密着型の純文学を、毎年募集しています。2025年の受賞作は、地元の中国地方に棲息する「オオサンショウウオ」をモチーフにした夫婦愛の物語でした。高倉夫婦のその作品は、非常に意欲的で、しかも若さがあふれた作品でした。楽しかったです。20枚でしたが、何度も読み直しては感心していました。
それで自分もと書いたわけですが、まあ、わたしの体験談が、ほかの人の参考になるかもしれないので、とりあえず書いてみます。
わたしの新しい作品は随筆に近い、とご指摘をうけて考えこんでしまいました。このわたしの作品は、Claudeという生成AIのPLOTの通りに書いた小説(のはず)でした。実際にあった話をモチーフにしていたためか、わたしには随筆と私小説の違いが分からない。
この50年、なにをやって来たんだろうとゲンナリでした。結局は、わたしには小説のセンスはなさそうです。どれだけHOWーTO本を読もうと、お話を組み立てる能力がそもそもない。PLOTを立ててもらったというのに、それが随筆になっちゃうんだったら、要するに文章能力はそこまでってことになる。わたしは無い物ねだりしている幼児なのだと思うと、自己嫌悪に陥りました。
だけど、このまま黙って引き下がるのは、どう考えても悔しい。目の前に、生成AIというライバルがいるのに、それのほうが優れてるなんて絶対ゆるせねー。
で、考えました。わたしに出来ないことがあるとしたら、構成の取り方ではないだろうか。つまり、エッセイの構成は取れるが小説の構成が取れないのは、自分というものがありすぎて演出力が不足しているからなのでは。
それは逆に言うなら、純文学こそがわたしの適性に合う可能性が大ってこと。
太宰治賞なら取れるかもしれないってことなのです。
……自意識過剰だな。
ともかく、まずは実力を試してみることにしました。自分の小説を生成AIであるClaudeさんに読ませて、「純文的に構成しなおしてみて」とお願いしたんです。するとどうでしょう。驚くべきことに、Claudeさんは、さっきわたしが書いた随筆モードの小説を、バッチリ小説に変えてしまいました!
もちろん、すべてが完璧というわけではありません。冒頭はぜんぜんつまんないし、細かいところには矛盾があるし、象徴的な意味合いのある部分は少しばかりしつこいところもあって、修正は必要でした。だけど、ちゃんと小説が書けてしまったのでした。
修正をかけ、冒頭に引きをつけ、必要な伏線を張りつつ、めげてくるのを感じました。
出来れば、こういうことは、全部自分でやりたかった。結局わたしは、道具がなければなにも出来ない。パソコンを打たなければ憂鬱という文字を書けないのと似ている。生成AIという道具がなければ、わたしはただの「駄文」を打つだけの読者不在のナルシストだ。
考えれば考えるほど、才能のなさが実感されてくるのです。これって、サギじゃなかろうか。自分が優れた道具を使いこなせるからって、出来ない人の邪魔をする権利があるんだろうか。いや、そもそも、文章を書く資格が、わたしにあるのか。
好きだから50年間、やってきました。それについては誰にもじゃまされたくないし、言いがかりをつけられる筋合いはない。50年間、下積みしてきたんです。支えてくれる道具が現れて、それを使っただけ。割り切りたい。でも、割り切れない。
夫にこの件を相談しました。するとIT技術者の彼は、涼しい目で言いました。
「たぶん、きみは文章のコーディネーターなんだよな」
彼は、考え深げに、
「小説の才能は、たしかにないと思うけど、『この生成AIの文章の、なにがどう悪いのか』という、読者目線での才能は、さすがに五千冊ぐらい読んできたと自負するだけあってあると思う。だからその才能で、生成AIの文章の悪い所や欠けてる部分を補強できるんだ。
言ってみればきみは、建築家なんだよ。設計図や見取り図の通りに作って、細かいところを修正して、依頼人に渡す。設計図や見取り図の出力先が生成AIだったってだけ。そんなに落ち込むこと、ないんじゃない?」
目の前が明るくなってきました。
「でもそれって……」
わたしは、ためらわずにはいられませんでした。
「それって、編集者の仕事じゃない?」
やがて生成AIに取って代わられる人間になってどうするでしょう。
今後将来がどうなるのかは、時代の趨勢によって違ってくるようです。なんだかワクワクどきどきしてくるわたし。
で、中国新聞に、生成AIでPLOT作成と編集してもらった旨を告げると、先方は「その作品は応募要項に合致していないので、お断りします」
「なぜですか? それならパソコンもワープロも使えないじゃないですか。ワードの校正機能はAIだって話はご存じでしょ」
反論したら、
「そういう意見があったことは、議論の俎上に載せておきます」
生成AIはまだまだ認められないのが現実なんだなと思った昨今でした。
小説を書いたらキョヒられちゃった話 田島絵里子 @hatoule
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