啓蟄

 少しずつ暖かくなってきたと思っていたけど、ここ数日で冬から一気に春の陽気に変わったと思う。寒さがなくなり動き回っていると暖かいを通り越して少し暑い。

 雪はもうどこにも残っていない。まだ空気が乾燥していて過ごしやすい陽気とは言えないけれどいよいよ命の芽吹きが動き始める。


 冬の間は動物はもちろん虫も何もいなかった。僕は冬になったら生き物はみんな死んでしまっていると思っていた。だからわからなかった、冬にみんな死んでしまうのなら一体どうして春にいろんな生き物が動き始めるのだろうと。

 そしたらあの人が言っていたんだ。冬は眠っているだけだと。土の中、木の中、寒さを越すところを探しそこに籠ってひたすらじっとしている。生き物によっては冬になる前にたくさんご飯を食べてそのまま眠って春まで眠り続けるということだった。動き回ったらお腹が空いてしまう、眠っていれば必要最低限生きることができる。

 虫は土の中や木の中にいるって聞いた。蟻がいつも地面を動き回って食べ物を運んでいたのは冬に土の中に入っても食物があるようにずっと食物を探しているのだと教えてもらった。


 僕は何も知らなかった、自分のことしか考えられなくて、他の生き物がどう生きているのかどんな事情があるのかを知ろうとしなかった。僕は僕が生きるだけで精一杯だったんだ。


 冬を越すための準備をずっとしていた蟻たち。蛙も土の中で眠っていると聞いた。他の虫は幼虫の姿で土の中で過ごして暖かくなったら大人になって大空に羽ばたくものもいると言う。誰もが寒く厳しい冬を越すために長年繰り返してきた生き方を全うしている。


僕は、何をしてこれただろうか

ずっと一人ぼっちだった。誰もいなかった。でもあの人は、あの人だけは僕を見つけて笑ってくれた。あの人と一緒にいることが僕にとってどれだけ幸福なことだったか。


ガサ、と音がした。


 考えるよりも先に動いていた、咄嗟にその場から飛び退いて木の影に隠れる。雑草が枯れてしまって隙間だらけだ、夏のように草の間に隠れることができない。大きな木のそばにいたのは幸いだった、これなら木からはみ出ることなく完全に隠れることができる。

 じっと息を殺して予想伺う。……「誰」が、来たんだろう。気配を悟られないように、音を出さないように気をつけながら音のした方を見ていると。

 鳥、だった。木に止まろうとして失敗して落ちてしまったようだ。すぐに体制を立て直してそのまま飛んでいく。びっくりした。

そういえば鳥は冬を籠って過ごすのではないと言っていた。


『見てごらん、空にたくさんの鳥が飛んでいる。もうすぐ冬が来るから暖かいところに向かって旅立ち始めたんだ』


 鳥は寒いところが苦手だから、暖かいところを目指して飛んで移動しているのだそうだ。空が飛べるっていいな、そんなふうに思ったのを覚えている。


『飛び続けるのは確かにとても早くて確実なんだろうけど。でも自分の力で飛んでいなければいけないのはすごく大変なんだよ。とてつもない距離を飛ばなければいけない。空にはもっと強い鳥もいる、いつも命の危険にさらされているんだ』


 空が飛べていいなって思ったのは、自由にいろんなところに行けるからだと思った。でも空には空の世界の厳しさがあるということだ。それを知らずに良さそうなところだけ羨ましがるのは間違っているのだと、そうあの人に教わった気がした。


空を見るあの人は少し悲しそうな顔をしていた。

あなたも、空を飛んでどこかに行きたいのですか? でも、行けないから、悲しいのですか?

そう聞きたかったけれど、当然聞くことなんてできない。あの人が背負っているものはあまりにも重い、どこかに自由に行くことなんてできない。


 渡り鳥たちが戻ってくるのはもう少し後だと思うから、今は眠りから覚めてくる虫や動物たちを見守っていこうと思う。最初に出会うのは誰だろう、蛙かな、狐、狸? ネズミかもしれない。熊はちょっと勘弁してほしい。

 今はそれを楽しみに、蟻とかの虫を間違って踏みつぶしてしまわないようにゆっくりゆっくり歩いて、地面をよく見ながら。空はまだ眺めなくていい、鳥たちはまだ帰ってこないから。


 ああ、でもそうだ。気をつけないと。

 もうそろそろ蕨や山菜が出てくる頃だ。食べ物を求めて麓の人が登ってくるかもしれない……。

 山の隙間から見える麓を見下ろすと、外ではしゃぎまわる子供が見える。子供は風の子って言うけど、これぐらいの暖かさになるともう走り回ってくるんだな。


 少しだけ切なさと、まもなく春を迎える嬉しさに僕は少し目を伏せた。



啓蟄

冬ごもりしていた地中の虫や動物たちが動き出す

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