オン・ユア・マークのときに吸い込む光
佐松奈琴
オン・ユア・マークのときに吸い込む光
1
高校二年の五月、ゴールデンウィークが明けたばかりの朝だった。
教室の窓から差し込む光には、まだ四月の初々しさが微かに残っていた。
そして、何の前置きもなく呟くように言った。
「オン・ユア・マークのときに吸い込む光とかまさに君そのものなんだよ」
八音の初句で始まる、ひどく不器用な短歌だった。
いや、最初はそれが短歌であることすら僕にはわからなかった。
でも、なぜかその歌を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられて焦った。
彼女は困ったような小さな笑みを浮かべて、さらにこう言った。
「……
名前を呼ばれるのは、その日が初めてだった。
僕は格好つけて、「……別にいいけど」と答えた。
本当は胸が苦しくて、それ以上何も言えなかったのだ。
何か言っていたらきっと、「ヒューヒュー」っていうあの呪いのような苦しげな音が口から漏れていたに違いない。
それから彼女は、毎日のように僕に短歌をくれた。
紙に書いて渡すのではなく、ただ口で伝えてくるかたちのないプレゼント。
これが一首目。
そして、これがすべての始まりだった。
2
梅雨入りしたばかりのある日。
最寄り駅で待ち合わせて、いつもの鈍行電車に乗り込む。
窓を叩く雨音がうるさくて、車内アナウンスもよく聞こえない。
みちるは、濡れた前髪を指で払いながら、ふと言った。
「シャワーにも雨粒になる才能があったんだよって君を励ます」
僕は傘を忘れて、制服の肩がびしょ濡れだった。
それなのに、その一首で急に気分が晴れた。まるで雨粒が全部、彼女の声に変わったみたいに。
「……ありがとう」
と小さく伝えたら、みちるは満足そうに笑った。
その頃には、もう一緒に登校するのが当たり前になっていた。
提案したのは彼女の方だった。
「恥ずかしがってたらもったいないよ。せっかく航くんと話せるようになったんだから」
そう言われて、僕は何も言い返せなかった。
電車の中で、みちるはいつも窓際の席に座る。
僕は通路側。
肩が触れるか触れないかの距離で、彼女の体温が伝わってくる日々が続いていた。
電車を降りて改札に向かう途中で、みちるが急に立ち止まった。
「ねえ、航くん」
「ん?」
「こんな雨の日には、さっきの歌を思い出してね。それで……ついでに、私のことも思い出してほしい」
僕ははっきりとは何も答えられなかった。
周りに同級生がたくさんいたから、なんて言い訳は通用しない。
ただ単に、意気地がなかっただけだ。
みちるは少し寂しそうに笑って、
「冗談だよ」
と付け加えた。
でも、あれは冗談じゃなかったはずだ。
今なら、はっきりとわかる。
3
夏が来る直前のある日、みちるは言った。
「饒舌は今も罪だよ 夏空に何を書いても嘘になりそう」
僕は驚いた。
だって、みちるは誰よりも言葉を大切にして、信頼しているように見えていたから。
「夏が嫌いなの?」
そう訊いたら、彼女は少し遠い目をして答えた。
「季節なんて、全部嫌い。なくなればいいって、いつも思ってる」
「……どうして?」
「だって、季節が変わるたびに、時間が過ぎていくって実感するでしょ。焦るじゃない」
その言葉の意味を、当時の僕は理解できなかった。
それから間もなく、初めての小さな喧嘩をした。くだらないことで、僕は声を荒げてしまったのだ。
その次の日の朝、電車の中で、みちるが小さな声で言った。
「夏の日の街路樹に似た恋人は切り株になった今日は無口で」
恋人、という言葉に胸が跳ねた。でも、その後ですぐに「切り株」という言葉が追いかけてきた。どうやら簡単には仲直りする気はないらしい。僕は無言で席を立った。
駅のホームのベンチに並んで座って、沈黙が続いた。
やがて、みちるがぽつりと呟いた。
「……こういう時、どうするか決めておいた方がいいよね」
「どっちが先に謝るとか?」
「うん。航くんは、先に謝りたくない人?」
僕はむきになってこう言った。
「切り株とか言われたら、謝る気も失せるよ」
すると、みちるは小さく笑って、
「……ごめん」
急に謝られた。
ズルいな、と思った。
でも、同時に、すごく救われた。
それからすぐに仲直りして、遅刻ギリギリまで、ホームのベンチで二人で笑い合った。
思えば、みちるが先に謝ってくれたのは、あれが最初で最後だった。
4
秋が深まる頃、みちるの様子がおかしくなった。
電車の中で急にひどく深刻な顔をして黙り込んだり、僕の名前を呼ぶ声が妙に掠れていたり。
ある日、いつものように並んで歩いていると、彼女が立ち止まって言った。
「君と同じかたさの鱗を持つ人が わたし以外にいるおそろしさ」
いつもより声が掠れていた。
顔色も悪い。
「……どういう意味? ってか、その声どうしたの? 具合でも悪いの?」
ついに僕は訊いてしまった。
みちるは俯いたまま、首を振った。言いたくないんだ、とすぐにわかった。
でも、僕はわからないことが怖かった。だから、ひどいことを言った。
「いろいろ考えすぎだよ。俺のこと、もうちょっと信じてくれてもいいだろ。大事なことを秘密にされるのは好きじゃない」
みちるは顔を上げて、静かに笑った。
「信じてるよ。航くんのこと、ちゃんと」
それでも、彼女は何も教えてくれなかった。
その夜、僕は一人で調べてしまった。
『ひどい声の掠れ 病気』
検索窓に打ち込むと、次々に最悪の結果を突きつけてくる。
でも、僕はまだ認めたくなかった。ただの思い過ごしだと、自分に言い聞かせた。
5
年が明けてすぐ、雪が降った。
学校帰り、うちの高校の名物である長い坂を下りながら、みちるは白い息だけを吐いていた。
会話が途切れると、息をする音だけが聞こえた。
みちるは白い息を吐きながら、ふと笑った。
「ねえ、航くんに初めて話しかける前から、私、ずっと見てたんだよ」
僕は頷いた。
「“ずっと”って、いつからだと思う?」
僕が答えあぐねていると、みちるは少し遠くを見るような目をして、ゆっくりと言った。
「中学三年の六月。陸上の地区大会の日。その日はひどい雨で、グラウンドはびしょぴしょで、みんな嫌そうな顔をしてた。でも航くんはスタートラインについて、ずぶ濡れなのに笑ってた。四百メートルの決勝。号砲が鳴った瞬間、航くんは誰よりも早く飛び出した。でも、三十メートルくらいで、突然滑って転んだ。膝から血が滲んでた。でも航くんは、すぐに立ち上がって、もう一度走り出した。ゴールした時、結局ビリだったけど、航くんは笑ってた。悔しそうじゃなくて、ただ楽しそうに。その時、私、胸がぎゅっと痛くなったの。あの時、初めて短歌を作った。『オン・ユア・マークのときに吸い込む光とかまさに君自身なんだよ』。それが、私の初恋だった。だから、航くんが走ってる姿を見るたび、私、生きてるって思えるんだ。嘘みたいに元気が出るの」
実はあの日、レースを終えてしばらくしてから喘息の発作で倒れて、救急車で運ばれたのだ。
みちるはそれを知らない。知られたくなかった。
僕は少し迷ったけど、結局こう返した。
「じゃあ、みちるも陸上部だったってこと?」
「そうだよ。これでも長距離の選手だったの。高校では美術部に入っちゃったけど」
なんで陸上部に入らなかったのかとは訊かなかった。
なんとなく踏み込んではいけない領域のような気がしたからだ。
かわりに僕はこんな冗談を言った。
「そんなかっこ悪いところ最初に見られてたなんて、ほんと俺ってかわいそう!」
みちるはそれを聞いて、声を上げて笑ってくれた。
翌朝、電車を降りてすぐにみちるがうずくまった。
口を押さえて、ホームに嘔吐した。黄色い胃液と、血が少し混じっていた。僕は慌ててハンカチをみちるに差し出した。
それを受け取ると、みちるは震える声で、
「ごめんね……昨日の夜からなんかおかしくって」
周りの乗客の何人かが白い目で見る中、僕はみちるをホームのベンチに座らせて彼女が体調が落ち着くまで横で見守った。
「航くん、遅刻しちゃうよ。先に行って」
みちるにそう言われても、僕は彼女の側から離れなかった。
結局、母親が迎えに来て、僕は彼女にみちるのことを任せて一人で学校に向かった。
長い坂を一人で登っている間、みちるの母親の刺すような冷たい視線を何度も思い出した。
学校についた頃には、すでに二時限目の古典の授業が始まっていた。
6
春が来て、僕らは高校三年になった。
みちるは元気になったと思ったら、また辛そうな顔をしていたりで、目が離せなかった。
それでも想像していたよりも平穏な日々が続いていると、少なくとも僕は思っていた。
そして、夏祭り。
みちるはピンクの浴衣を着ていた。
髪をアップにして、うなじが少し見える。
いつもより大人びて見えて、僕は目を合わせるのも恥ずかしかった。
それでも、人が多すぎてはぐれてしまいそうからという言い訳をして手を繋いだ。
その時、浴衣の袖がめくれて、みちるの腕が見えた。
白いはずの肌に、無数の青あざが浮かんでいた。
僕は思わず目を逸らした。
みちるはすぐに袖を下ろして、笑った。
「見ないで。恥ずかしいから」
花火が上がる直前、みちるが僕を人混みの外れに連れ出した。
「航くん、ちょっと聞いてほしいことがあるの」
その声のトーンで何かを感じた僕は、思わず身構えた。
それから彼女は、一年半前からある薬を飲んでいること、最初は、「半年で治る」と言われたのにまだ治らないこと、治ると言ってもそれは完治ではないこと、いつか急に悪くなるかもしれないことなんかを淡々と話した。
でも、最後まで病名だけは言わなかった。
話が終わると、みちるはいつもの調子を取り戻したように笑った。
「これからは隠さないよ。全部航くんに受け止めてもらうから。それでも嫌わないでね」
僕はやっと声を出せた。
「嫌うわけないだろ」
みちるは目を潤ませながら、でも笑顔で言った。
「ありがと。……でもさ、もし私が死んじゃったら」
「やめろよ」
「いいから聞いて! ……お葬式には来ないで。航くんが泣いてる顔、見たくない」
僕は首を振った。
「約束できない」
「もし来たら絶対成仏しちゃうよ。だから絶対こないで」
彼女は笑った。
その笑顔は、花火よりずっと儚かった。
別れ際、屋台の明かりが遠ざかっていく中、みちるがくれた最後の短歌。
「レゴだって君が触れれば忽ちに 世界は息をしているみたいだ」
百五十九首目だった。
これが、みちるの声でもらう最後の一首になるとは、その時は思いもしなかった。
7
夏休み明け、三年生の僕はまだ陸上部に残っていた。
走らないと頭がおかしくなりそうだった。
その日、みちるは学校を休んでいた。
50メートルダッシュの三本目。
スタートで深く息を吸った瞬間、喉が締めつけられた。
肺が焼けるように痛い。
次の瞬間、視界が真っ白になって、グラウンドに倒れた。
事情を唯一話していた顧問の先生が、「喘息か?」と叫んだので後輩たちにバレてしまった。
あの日から、僕は走れなくなった。
400メートルの自己ベストは52秒台だった。
それが54秒台がやっと。
スタートの構えで、膝が震える。足が前に出ない。肺が焼ける前に、心が先に折れる。
顧問に、「もう無理すんな。大学でまた心機一転頑張れ」と言われたが、僕は首を振った。
走れないと、また、みちるが遠くなる。走れなくなったら、みちるは本当にいなくなってしまう気がした。
翌日、登校したら、みちるの姿はどこにもなかった。
次の日も、その次の日も。
電話をしても繋がらない。
LINEは一向に既読にならない。
一週間後、担任がみんなに言った。
「柚子川さんは、しばらく入院することになりました」
詳しいことは何も教えてくれなかった。
僕は毎日、病院に電話をかけた。
でも、毎回面会謝絶だと言われた。
面会謝絶になって一週間目、僕はついに病院に電話をかけるのをやめてしまった。
理由は単純だった。
怖かったのだ。
みちるの母親に、「もう迷惑だから病院に電話しないで」と冷たい声で言われるのが。
そんなある日の放課後、陸上部の練習に参加する前に、美術室の前を通りかかった。
すると、みちるがいつも座っていた窓際の席に、誰かが一人きりで座っているのが見えた。
美術部の下級生の女子みたいだった。
彼女は、みちるがいつも使っていたのと同じスケッチブックを開いていた。
気になって近づいてみると、驚くことにその子が描いていた絵は、グラウンドを走る僕の姿にとても似ていた。
鉛筆の線は、みちるのタッチにそっくりだった。
スケッチはすでに終わっていて、水彩絵の具で色をつける段階に入っていた。
僕はその子に声をかけた。
「それ、柚子川のスケッチブック?」
彼女は驚いた顔で頷いた。
「先生が、もう使ってないからって……私にくれたんです」
僕は、無言でスケッチブックを奪い取った。
ページをめくると、みちるが描いた僕の走る姿が何枚も残っていた。
どれも上手かったけど、鉛筆の線は細く、震えていた。
最後のスケッチの下には、みちるの字で小さくこう書かれていた。
『いつか航くんとこれを見ながら一緒に笑いたい』
僕は、衝動的にそのページを破いた。
破いて、丸めて、美術室のゴミ箱に捨てた。
美術部の下級生の女子が、青ざめた顔でこちらを見ていた。
僕は彼女に言った。
「もう誰も、俺の絵を描くな!」
その声はひどく震えていた。
8
十一月の初めの深夜二時十三分。
大切な模試を受ける日だった。
だから、みちるから電話があるかもしれないと思いながらも、僕は布団に入る前にスマホの電源を切ってしまっていた。
朝、六時二十分。
目覚まし時計で目が覚めてすぐにスマホの電源を入れると、未読の着信が一七件。
そのすべてみちるからだった。
最後の一個は、二時五十八分。
僕は震える指でリダイヤルした。
コール音が五回鳴って、繋がったのはみちるの母親だった。
「……
みちるに似た掠れた声だった。
「みちるは?」
母親は一度、息を詰めた。
「朝方、意識を失って……今、ICUなの。もう、電話に出られる状態じゃ……」
僕はスマホを握りしめたまま、床に座り込んだ。
最後に聞けたはずだった声。
「航くん」
「眠れない」
「怖いよ」
「助けて」
どんな言葉だったのか、もう永遠にわからない。
僕はすぐにタクシーで病院に向かった。
朝の六時三十八分。
タクシーの後部座席で、もう一度スマホを確認してみた。
小さな留守録マークがあった。
指が震えて、再生ボタンに触れる前に一度止まった。でも、結局押した。
「……航くん……」
ノイズの奥に、掠れた息だけが続く。十秒以上、ただ息が途切れそうに続いている。それから、ほとんど声にならない声で。
「息……しててくれて……ありがとう……私も……今……息してるよ……」
ぽとん、というスマホが落ちたような小さな音。
それで終わりだった。
声にならない声が喉から漏れた。
ごめん、ごめん、ごめん。
心の中で連呼した。
運転手は黙ってラジオを消してくれた。
もう一度、再生する。
「……私も……今……息してるよ」
涙が頬を伝って、制服の襟に落ちる。
病院に着いたのは七時三分。
正面玄関のシャッターは完全に下りていた。
救急入口に向かうと、警備員に止められた。
「面会は八時からです。どなたかのご家族ですか? ご家族以外はここからは入れません」
俺は引き下がるしかなかった。
冷たいコンクリートの前に座り込み、膝を抱えた。
七時二十六分。
あと三十四分で病院が開く。
俺はもう一度、留守録を再生した。
「……航くん……息……しててくれて……ありがとう……私も……今……息してるよ……」
スマホを握りしめたまま、俺はシャッターに額をつけた。冷たかった。
みちる、ごめん。
電源を切ったせいで、君が最後に残してくれた息を受け止められなかった。
八時。
ガシャン、という音と共にシャッターがゆっくりと上がっていく。
俺は立ち上がった。足が震えている。
受付に飛び込んで、大声で訴えた。
「柚子川みちるさんに面会に来ました! ICUにいます! 今すぐ面会させてください!」
若い女性事務員が一瞬で顔色を変えて、すぐに奥に引っ込んだ。
数分後、五十代くらいの看護師長らしき女性がやってきた。
「……佐橋さん、ですね?」
俺は頷いた。
「ご案内します。こちらへ」
たどり着いたのは、ICUフロアの奥にある小さな家族待合室だった。
カーテンが引かれ、蛍光灯が冷たく光っている。
ドアが開いた瞬間、みちるの母親と目が合った。
顔は真っ白で、目は腫れきっていて、でも涙はもう出ていないように見えた。
母親は僕を見て、小さく首を振った。
「……ごめんね、佐橋君。迎えにいってあげられなくて」
声が掠れていた。
「七時四十六分に……心肺停止になって……蘇生を試みたけど……ダメだった」
一瞬、視界がぼやけて、自分がどこにいるのかわからなくなった。
でも、自分よりもずっとその死を悔やんでいるはずの彼女の前では泣くこともできなかった。
看護師長らしき女性がそっとドアを閉めた。
部屋には、俺と母親の二人だけになった。
母親はゆっくりと近づいてきて、震える手で俺の肩に触れた。
「……あの子、最後まであなたの名前を呼んでたよ」
僕はスマホを握りしめたまま、声にならない声を上げた。でも、やっぱり涙は出なかった。
母親は、静かに続けた。
「ありがとう。来てくれて」
俺は首を振った。
違う。
俺は間に合わなかった。
母親は、俺の手をそっと握った。
その手は、みちると同じくらい小さかった。
9
みちるの葬儀の日は、秋晴れだった。
式場は小さな斎場で、喪章をつけた人たちがひっそりと並んでいた。
僕は、結局来てしまった。
制服の上に黒いコートを羽織って、誰にも顔を見られないよう、一番後ろの隅に立っていた。
祭壇の写真のみちるは、今年の春に満開の桜の前で撮ったものだった。
少しやせてはいたけれど、いつもの困ったような笑顔でこっちを見ていた。
焼香の煙が、彼女の顔をぼやけさせるたびに、胸が締めつけられた。
焼香の番が回ってくると、僕は震える手で線香を折った。
みちる、ごめん。
約束、破った。
式が終わって、人波が引いていく中、僕は動けなかった。
葬儀会場の外で立ち尽くしていると、背後から声がした。
「……佐橋くん、来てくれたのね。少し話せる?」
振り返ると、みちるの母親がそこにいた。
黒い喪服に包まれた身体は小さく、目は腫れていた。
でも、病院で会った時よりはずっと顔に生気があった。
母親は、静かに近づいてきて、僕の前に立った。
そして、彼女は一瞬、唇を噛んだ。
「……正直に言うわね。本当は渡すつもりはなかったの。渡したらきっとあなたが困るだろうから、一生隠しててって。私が書きたかっただけだからって、あの子に言われてたから……。正直、ちょっと憎らしかった。最後まであなたのことばっかりで」
僕は息を呑んだ。
「でも……」
母親は、僕に薄ピンク色の封筒をを差し出した。
「これを読んで、わかったの。あの子は、あなたに全部預けたんだって。……信じられないかも知れないけど、私も昔、あなたみたいな男の子に短歌をあげたことがあるのよ。だから……持って帰って」
その声は震えていた。
僕はその小さな封筒を受け取って、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……それから、ごめんなさい」
母親は小さく首を振った。
「謝らないで。あなたはあの子が選んだ人なんだから胸を張ってて。火葬場は……いいから。帰って、それ、読んであげて」
僕は深く頭を下げた。
霊柩車がゆっくりと動き出す音を背に、僕は斎場を後にした。
家に着くと、母親の顔も見ずにそのまま二階の自室に入って床に座り込んだ。封筒を開けた。中には、折りたたまれた白い柔らかい便箋が一枚入っていた。
みちるの字だった。
いつもの丸っこい、でも最後の方は少し震えた字で、こう書かれていた。
『航くんへ
これを読んでるってことは、やっぱりお葬式に来たんだね。
ごめんね、嘘ついて。
「成仏するよ」って言ったけど、本当は違う。
航くんが私の歌を忘れない限り、私は成仏しないよ。だからずっと憶えてて。
航くんが憶えてくれてる間は、私はずっとここにいられるから。
航くんが私の歌を一首でも憶えてる間は、私はまだ生きてるってことにする。
短歌が残ってる限り、私の負けじゃないから。
髪も声も、もう何も残ってない。
最後に残ったのは、航くんにだけあげた短歌だけ。
だから、忘れないで。
忘れたら、私、本当に死んじゃう。
だから、時々でいいから思い出して。
私、待ってる。
忘れられたら、私の負けだから。
だからお気に入りの歌は、いつもここぞって時に渡してたんだよ。
二人の思い出と一緒に歌を憶えててほしかったから。
気づいてた?
でも、もし、もしも、いつか本当に全部忘れちゃった時は、そのときは、ちゃんと正直に教えてほしい。
それまでは、ずっと、航くんのそばにいるから。
お母さんには渡さないでってずっと言ってたんだけど、今日、やっぱり渡してって頼んじゃった。
ごめんね、最後までわがままで。
航くんが走ってる姿を思い出すたび、私、生きてるって思えた。
ありがとう。
でも、私、気づいてたよ。
走り終わった後に、たまにグラウンドの隅でこっそり吸入器使ってるの、美術室の窓から何度も見てた。
ごめんね、言えなくて。
でも、航くんが走ってる姿を見るたび、私、本当に生きてるって思えた。
息ができなくて苦しいのに、それでも笑って走る航くんを見て、私も頑張らなくちゃって思えた。
本当にありがとう。
たぶん短歌、もうあげられないから、これで最後にするね。
ヘラジカのたましいのようなやさしさが君にはあっていつも一人きり
これ、航くんのことだよ。
うんん。私の歌は全部、航くんのことだった。
ずっと航くんが一人で頑張ってるところ、私、いつも見てた。
だから、一人じゃないよ。
柚子川みちる』
僕は、便箋を握りしめたまま、自分の部屋で初めて声を上げて泣いた。
10
葬儀の数日後、家に帰ると、母親から小さな紙袋を渡された。
「さっき、みちるちゃんのお母さんが来て……これを航に渡してって」 中身は、大学ノートだった。
表紙には、「短歌 柚子川みちる」とだけ書かれている。
開くと、びっしりと短歌が書かれていた。
でも、途中から短歌じゃなくなっていた。
ページをめくるたび、胸が抉られた。
『死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない
死にたくない死にたくない死にたくない
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
もう痛いのやだ
航くんに会いたい
声が出ない
助けて
髪の毛が抜けてく
目の下にひどい隈ができる
鏡を見るのが怖い
こんな顔、航くんに見せられない 息ができない
スタートの時の航くんを思い出す
あの光を吸い込む瞬間を
そしたら少しだけ息ができるから ごめんね
もう短歌作れない
言葉が浮かばない
頭の中が真っ白』
最後のページには、鉛筆が折れるほど強く押しつけたような文字でこう書かれていた。
『航くん
やっぱり死にたくない
死にたくないよ、私』
気がつくと、部屋が無茶苦茶になっていた。
床に本が散乱し、電気スタンドが粉々に割れていた。
全部自分がしたんだとしばらくしてから気づいた。
みちるに呼ばれている気がして、僕は階段を駆け降りて外に出た。
母親が何か言っていたけど、無視した。
小雨が降っていた。
構わず僕は道路でクラウチングスタートの構えを取った。
──オン・ユア・マーク
深く息を吸う。
──セット
──ゴー!
全力で走り出した。
52秒間、走り続けようと決めていた。
近所の生活道路を人目を気にせず、涙を流しながらただひたすらに走った。
そして、52秒後、ゴールした瞬間、膝から崩れ落ちた僕は天に向かって静かにこう言った。
「みちる、見てたか」
返事はない。
でも、雨が少しだけ優しく頬を撫でてくれた気がした。
11
あれから八年が経った。
僕は今、東京の小さな出版社で働いている。
午後六時。
みちるの命日のお墓参りを終えた帰りの新幹線で、昔のスマホを弄っていた。
みちるの二時五十八分の留守録。
再生マークの横に、小さなゴミ箱のアイコン。
僕は窓の外を見た。
なんてことない秋の田舎の風景。
みちるが好きだった景色。
指が、ゴミ箱のアイコンに触れる。
「本当に削除しますか?」
はい/いいえ。
僕は、深く息を吸った。
みちるが歌にしてくれたスタートの時の息の吸い方。
そして、静かに、「はい」を押した。
画面に、「削除しました」と表示されて、メッセージは本当に消えた。
30秒の、最後の声。
みちるが最後に残してくれた息。
もう、二度と聞けない。
僕はスマホを閉じて、窓の外を見た。
「みちる」
小さく呟いた。
「大丈夫。まだ忘れてないから」
涙が頬を伝った。
でも、不思議と笑っていた。
「ありがとう。息しててくれて」
新幹線は秋の風景の中を走り続ける。
僕はまだ、息をしている。
──みちるの分まで、じゃなく、みちるの分を、奪った分まで。
オン・ユア・マークのときに吸い込む光 佐松奈琴 @samatumakoto
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