わかってるよ

けいりん

わかってるよ

「わかってるよ、もう」

 結菜は言った。

 あれは……いつのことだったろう。何度も繰り返した夜、そのうちのひとつ。

 あたしはショートグラスの底に残ったカクテルを飲み干した。フォールン・エンジェル。「堕天使」なんて名前とは裏腹な、爽やかな余韻。

 深いため息をついて、濡れた子犬みたいな結菜の目を、まっすぐ見つめてやる。

「わかってない。わかってる人はいちいちそんな顔しないし、情けなく泣いたりもしない」

「な、なによ、泣いてなんか」

「泣いてたでしょ。電話口で」

「それは……だって……」

 結菜は押し黙り、ほとんどピンクに近いオレンジ色のフローズンカクテルをひと舐めする。なんて言ってたかな、テキーラベースだったと思うけど。

 あたしは容赦なく続けた。

「言ったよね。どうせ利用されてるだけだって。結菜なら責めない、きっと優しくしてくれる、そう思って舐めてるんだって」

「だから、わかってるって」

「わかってない。そりゃさ、好きにすれば、って言ったよ? でも、こうも言ったでしょ? どうしてもまた付き合いたいなら、そこんとこちゃんとわかった上で、覚悟もって付き合いなよ、って」

「そうだけど……」

「甘い夢を捨てきれてなかったのよ。どっかで、今度こそ自分だけをみてくれるんじゃないか、ずっとそばにいてくれるんじゃないか、そんな期待を捨てきれなかった。だから、そんなに落ち込んでるんでしょ」

「それは……だって、しょうがないじゃない」

 子犬が吠えるみたいに、結菜は必死の反撃に出る。

「好きだって、言ってくれたんだもん。やっぱりあたしのそばが一番安心するって、そう言ってくれたんだもん。信じて何が悪いのよ」

「悪いとは言ってないよ。でもさ、それが、『わかってなかった』ってことでしょ? 弘治がどんなやつか、どんなつもりで甘い言葉言ってるのか。これだけ繰り返してきたのに、結局あんたにはわかってなかったのよ。受け入れなよ」

「でも……だって……」

 結菜はまた、目を潤ませる。

 あたしはまた、ため息をつく。


 はじまりは、春だった。

 弘治なんかに会わせちゃったこと自体、間違いだったんだと思う。

 その頃、街に出てきたばかりの結菜を飲み会に誘った時には、正直、全く警戒していなかった。弘治がいつも連れ歩いてるのは、いかにも遊び慣れた感じか、そうでなくても流行に敏感でセンスが良くて化粧もうまい、要するに一言で言って「イケてる」感じの女の子ばかりだったから。

 どちらかといえば野暮ったい、長年オシャレとは縁のないところで生きてきたことが一目でわかるような結菜に、弘治が目をつけるなんて、思ってもいなかった。

 そもそもどうして結菜を連れていったのか、それは自分でもよくわからない。

 この街の先輩として、結菜も早く慣れさせてあげたい、そう思っていたような覚えはある。

 だけど本当は、都会に馴染んでいる自分を、見せつけたかったのかもしれない。

「はじめまして、よろしくね」

 そう言って、弘治がグラスを合わせてきた時、赤面して俯いた結菜を見て、あたしは自分の失敗を悟った。

 でも、だからって……お互い、いい大人だ。

 あいつだけはやめとけ、遊び人だよ、それくらいの忠告はしたけど、まさか首に縄つけて繋いでおくわけにもいかない。

 気がついたときには、弘治はとっくに結菜を落としてしまっていて、彼女は少し化粧が上手くなり、少し街の遊び方を覚えて、そして少し、あたしとの連絡は、疎遠になっていた。

 しょうがないか。

 そう思った。

 ま、いい薬になるでしょ。弘治なら、浮気されて振られるくらいで済むしね。

 文字通り女をオモチャにしたり、友人たちに投げ与えたりするような連中もさんざん見てきたあたしには、弘治はまだマシな方に思えたのだ。

 懲りて、警戒心とか、免疫がつくなら、それもいいでしょ、と。

 それから半年ほどたった、秋のことだ。結菜から電話がかかってきたのは。

「どうしたのよ、電話なんか、めずらしい」

 あたしの問いかけに、少し躊躇うような沈黙のあと、結菜は言った。

『うん、ちょっと……麻希ちゃん、これから、会えないかな』

「これから?」

 思わず時計を見る。二十二時近い。週の半ばに人を呼び出すような時間ではない。

 でも……

 あたしはため息をついた。受話器から聞こえてくる声が、あまりにも頼りなげだったから。

「いいよ、今どこ?」


 話の内容は予想の範疇。

 楽しかったこと。もらったプレゼント。優しい言葉。連れていってもらったお店。他の女の影。嘘。裏切り。そして冷たい言葉。

 泣きながら話す結菜を慰めながら、その合間合間に、弘治への気持ちを断ち切らせる言葉を差し挟んだ。

「そういうやつなんだよ」

「だから言ったじゃん」

「うん、それはひどいね」

「下心ってやつでしょ」

「謝らなくていいよ」

「もう騙されちゃダメだよ」

「うん、辛かったね」

「大丈夫。いつでも話聞くから」

 そんな呼び出しは、しばらくの間続いた。

 最初のうちは、週に一、二度。冬が来て、年が明ける頃には、多少頻度は落ちたものの、それでも終わることはなかった。

 少しも変わることなく、全く同じテンションで、同じ内容を話し続ける結菜。あたしは少し焦りを感じはじめた。

 だって、このままじゃ、結菜は新しい恋もできやしない。そりゃ恋愛なんてしなくたって構わない。だけど結菜は、せっかく郷里から出てきたのに、新しい遊びも、美味しいご飯も、素敵な場所も、自分からは何一つ、求めようとはしていなかった。いいはずがないのだ。たった一つのさよならに、何ヶ月も心を縛り付けられているなんて。

 それに、このままじゃたぶん、遠からず……

 そんな予感を裏付けるように、バーのカウンターの上で振動音が響いたのは、ひときわ寒かったある夜のこと。

 結菜はスマホを手に取って、しばらく画面を眺めていたが、すぐに顔を上げ、あたしを見た。その顔が明るく輝いているのをみて、あたしは舌打ちしたくなるのを抑えた。

「弘治?」

 あたしは聞いた。頷く、結菜。

「今から、来て欲しいって。あの……」

「聞く耳持ってるなら、止めるけど」

「うん、でも……」

 あたしは肩をすくめた。

「決めてるなら、何言ったって無駄でしょ。でもね、覚えておきな。弘治、あんたに甘えてるだけだから。そこのとこわかってないと、またバカ見るよ」

「うん……お金、いくらおいてけばいい?」

「いいって。こんど奢ってよ」

「わかった。ありがと……ごめんね」

 そう言って、結菜はそそくさと荷物をまとめ、あたしを残していってしまった。

 あたしは半分ほど残ったフォールン・エンジェルを、飲むともなしに、揺らした。


 それで終わりにはならなかった。

 期間はその時によって違ったが、起こることはいつも同じ。

 弘治が結菜を捨てて、落ち込む結菜をあたしが諌め、慰める。

 そしてまだ傷も癒きらないうちに、弘治が結菜に連絡をよこし、結菜はあたしの忠告や説教などはすっかり忘れてしまい、いそいそと出かけていく。

 そんなことが、何度も繰り返された。

 あたしといる時に連絡が入って、一人残され虚しく杯を重ねた夜が、二、三回。あとから聞いて、内心で舌打ちしたことも、同じくらいあった。

 いつになったら懲りるんだろう。いい加減呆れてもきたが、結菜から連絡が来ると、どうしても、放っておけない。

 別れたと言う噂を聞いて、こちらから連絡したこともあった。

 あたしは、気がついていなかった。

 いつの間にか、結菜の方から来てほしいとは、言わなくなっていたことに。

 あたしの方から、会って話を聞くと言い出しはじめていたことに。

 濡れた犬のような情けない表情の中に、小さな光が、宿りはじめていたことに。


「言ってくれたのにな。『やっぱりお前のこと忘れられなかった』って」

 結菜はギムレットを一口飲んで寂しそうに笑う。いつの間にこんなお酒飲むようになったんだろう、そんな驚きと共にあたしが口をつけるのは、いつものフォールン・エンジェル。

 外は残暑。昼間の火照りが残る体に、ミントの香りが清々しい。

「そんなの信じるなんてどうかしてるよ。気まぐれでしょ」

「そう、だったのかな」

「決まってるよ」

 あたしはわざと冷たく言い放った。いいかげん、思い知るべきだろうと思った。もう二年以上もこんなことを繰り返している、自分の愚かさを。それが周りからどう見えるかってことを。恋に恋する子供じゃないんだ。

 結菜はしゅんとした顔をして、少し黙ったあと、呟く。

「でもさ」

「え?」

「でもね、そうだったとしてもね。あたし、幸せだったんだ」

「はぁ?」

 あたしはカクテルを吹き出しそうな勢いで聞き返す。結菜は続けた。

「ううん。わかってるよ。頭では、わかってるの。でもあたし、ほんの短い間でも、あの人に求められて、名前を呼ばれて、かわいい、好きだって言ってもらえて、抱かれて……その全部が、本当に、幸せだったの」

「だって、『なんか違うんだよな』なんて言われたんでしょ?」

 あたしは勢い込んで言う。

「結局全部嘘だったってことじゃん。少なくとも、間違いだったって」

「それでも!」

 結菜があたしを遮った。初めて聞く、ほとんど怒鳴るような、大きな声。結菜がこんな声を出せるなんて。あたしは、胸を撃ち抜かれたような衝撃を覚えた。

 結菜は少しおいて、続けた。

「それでもね、あの人にとってそれが全部嘘でも、間違いでも、言われたあたしが嬉しかったのは、嘘じゃないの。それだけは、あの人にだって壊せない、奪えない、あたしだけの、真実なの」

「……」

 黙るしかない。

 正直、驚いていた。

 田舎から出てきた、男慣れしていない女が、虚飾に満ちた嘘に騙されているだけだ、そう思っていた。

 遊ばれて、後悔して、そのうち自分自身も適当な遊び方を身につけていくだろう、と。

 なのに、弄ばれているだけに見えていた結菜の中に、こんなにも強い想いがあった。

 その強さが、あたしを黙らせた。

「だからね、あたし、後悔はしない」

 結菜は静かに言う。

「あの人が好き、それだけは、本当のことだもん。何度裏切られても、たとえいつかは消えてしまう想いだとしても、今、あの人が好きだってことは、嘘にはならないもん」

「そこまで」

 あたしは乾いた口を潤すのも忘れて言う。

「そこまで考えてるなら、もう、何も言わないよ。でも、傷ついたときは、あたし、いつでも付き合うからね」

「うん。ありがとう」

 結菜はからっとした声で言い、少し笑った。

「あの人も、麻希ちゃんみたいに優しかったらよかったのにな」

「ばーか、何言ってんのよ」

 あたしも笑う。

 どこか、こんなことになる前に二人でしていたような会話。ちくりと胸が痛む。

「ごめんね。本当に感謝してる。ありがとう」

「わかってる。わかってるよ」

 あたしは言って、またフォールン・エンジェルに口をつける。


 結菜がタクシーに乗るのを見届けた後、あたしはふらふらと歩き出した。

 ようやく涼しくなってきた夜風が、髪を揺らして過ぎていく。

 終電はとっくにない。歩いて帰れる距離でもない。飲み直したいわけでもないし、行く当てもない。

 なのに……帰りたく、ない。

「まったく、結菜ったら……」

 誰に言うともなく、呟く。

「なんで、あたしじゃ、だめなのよ」

 誰にも言えない、あたしだけの真実。

 言えるわけがない。

 本当は、いつも、結菜が弘治に捨てられるのを待っていた、なんて。

 そもそも、会わせたことを後悔しながらも、あたしはどこかで思っていたのではなかったか。

 酷い男と付き合えば、いつかは女のあたしにも、振り向いてくれるんじゃないかって。

 こんなに卑怯で臆病なあたし、結菜の中になんか、いられるわけがないのに。

 この想いが、叶うことなんか、決して、ないのに。

「わかってるよ」

 そんな声が漏れる。

 誰に言ってるんだろう?

 それは、自分にも、わからなかった。

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