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街が息をしている──そう感じたのは、ミナがこの区域に流れ着いて数日目のことだった。
息と言っても、温かさとは無縁のそれだ。外気と排気と人間の気配が混ざり合って循環しているだけで、街は何も与えてくれない。だが奪うだけでもない。
ただ、存在を肯定も否定もせず、曖昧なまま抱え込んでいる。だからここは“灰色の街”とも呼ばれている。
朝の通勤時間帯に近いにもかかわらず、歩いている人々の顔には疲労が染み付いていた。
難民の二世や三世、肌の色も言語も違う者たちが、それぞれの事情を抱えながら店を開け、古びたアパートのドアを閉じ、荷台を押し、雑貨屋の軒先を掃く。
生活の形は整っているように見えるが、どの動きもぎこちない。
根を下ろしたと胸を張る者はほとんどいない。ここにいる人間の大半は、どこか別の場所から“押し出され”、最終的にこの街へ漂着した者たちだった。
ミナはその流れの中に紛れながら、肩をすくめて歩いていた。
彼女の足取りは早いが、急いでいるわけではない。むしろ逆で、早く歩かなければ街に飲まれてしまうような焦燥が、自然と速度を上げさせていた。
通りを囲む建物は新旧が混在し、リフォームされた外壁の横には、いつ崩れてもおかしくない鉄骨の残骸が残っている。
補修工事は進んでいるはずだが、この区画に限っては行政の手がほとんど入っていないようだった。
(誰も見てないんだ、ここは)
ミナはそう思う。
この街で暮らす大人たちですら、自分の生活と家族のことだけで精一杯で、周囲を救う余裕などまったくない。
行政はもっと遠い。距離的な意味ではなく、存在が遠い。役所はあるが、そこで何かを頼めば、書類を見ただけで眉をひそめられるのが目に見えていた。
そもそもミナは、行政に頼れるような“身分”というものを持っていない。
(働けるだけマシ、か……)
今日もバイトに向かう。
派遣の飲食店清掃。店舗の裏方でゴミをまとめ、床を磨き、臭いのついた雑巾を洗う。誰にでもできる仕事で、誰もやりたがらない仕事だった。
ミナはそれを進んで選んだわけではなかったが、拒む理由もなかった。生活のために必要だったし、何より「ここにいてもいい」という薄い許可証のような感覚が得られるからだ。
この街では、同じように働く若者をよく見かけた。
髪の色もアクセントも違う彼らは、まるで生存のために呼吸を合わせるかのように、同じリズムで動いている。
ミナにとっては、その光景こそが“普通”だった。
しかしその“普通”は、いつ壊れても不思議ではない脆弱なものだった。
歩道の先で、自転車に乗った少年が倒れた。荷台の箱が割れ、中身の野菜が道路に転がる。通行人はちらりと見るだけで、誰も助けようとしない。
少年は慌てて拾い集めようとしていたが、車がクラクションを鳴らして急かした。
誰も怒らないし、誰も手を差し伸べない。それがこの街の“呼吸”なのだ。
ミナも足を止めなかった。
助けないことに罪悪感を覚えないよう、自分に言い聞かせる必要すらなかった。
彼女自身が、誰からも助けられなかった過去を持っている。だから、助けるという行為がどれほど難しいかを知っていた。
(ここでは、誰も誰かの代わりをしてくれない)
街の路地に響くのは、換気扇の低い唸り、誰かが吐いたため息、遠くの喧騒、そして時折混じる怒鳴り声。
どれもが街の“呼吸”の一部で、どれもがこの区域を生かしている。
ミナはアパートの角を曲がるたびに、小さく周囲を確認した。
警戒心が強いわけではない。むしろ条件反射に近かった。
この街は、普段は鈍く眠っているが、どこかで突然牙を剥くことがある。
その兆しは決して大きくなく、むしろ細く、冷たく、さざ波のように忍び寄ってくる。
今日の空気は、そのさざ波を少しだけ孕んでいた。
(なんか……嫌な感じ)
風は湿り、雲は低く、街灯はいつもより早く点灯していた。
雨が降るわけではない。けれど、街が湿気を吸い込みすぎると、決まって人間同士の摩擦が増える。
小さな衝突が急に暴力へ変わり、日常の皮膜が破れる瞬間が訪れる。
ミナは胸の奥でうっすらとした不安を抱えながら、雑踏へと紛れ込んでいった。
街は今日も息をしている。
その呼吸のどこかに、彼女の運命の一端が引きずられるように潜んでいることに、ミナはまだ気づいていなかった。
『灰色の国』 歪んだ街に潜む闇 @kou_shishigami
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