番外編「氷解の独白」

 俺、クロード・フォン・ヴァルハイトは物心ついた時から、感情を表に出すのが苦手だった。

 喜びも、悲しみも、怒りでさえも、俺の内側で渦巻くだけで、表情筋は微動だにしない。

 そのせいで、周囲からは「氷の公爵」などと呼ばれ、恐れと敬遠の対象となっていた。


 それで構わないと思っていた。他人に理解されることを望まない。

 ただ、己に課せられた責務を、淡々とこなすだけ。それが俺の生き方だった。

 そんな俺のモノクロームの世界に、初めて色が差したのは、ある日の王宮の廊下でのことだった。


 彼女、リリアを初めて見た時のことを、今でも鮮明に覚えている。

 アリアンヌ嬢が些細なことで癇癪を起こし、侍女たちに当たり散らしていた。

 他の侍女たちが怯えて遠巻きにしている中、彼女だけが、黙って床に散らばったものを片付けていた。

 その小さな背中は、決して折れない芯の強さを感じさせた。


 その時から、俺は彼女を目で追うようになった。

 彼女は常にアリアンヌ嬢の影にいた。

 アリアンヌ嬢が社交界で賞賛される時、そのスピーチ原稿を考えたのは彼女だった。

 アリアンヌ嬢が難しい課題を提出した時、その論文をまとめたのも彼女だった。

 アリアンヌ嬢のすべての栄光は、リリアという名の、有能すぎる影によって支えられていたのだ。


 俺は何度も、アリアンヌ嬢の愚かさと、リリアの不遇に苛立ちを覚えた。

 そして、同時に彼女の忠誠心の深さに、ある種の畏敬の念すら抱いていた。


『なぜ、あんな主君に仕え続けるのだ』


 俺は、わざと彼女に冷たい言葉を浴びせるようになった。


『主を意見することもできない無能な侍女』


 それは、本心ではなかった。彼女を試していたのだ。

 俺の言葉で、彼女の心が折れるのか。それとも、さらに強い忠誠心を示すのか。

 彼女は、いつも黙って俺の言葉を受け止め、決して言い訳をしなかった。

 その姿が、余計に俺の心を掻き乱した。


 彼女を、あの場所から連れ出したい。

 ベルンシュタイン公爵家という鳥籠から、彼女を解放してやりたい。

 そんな思いが、日増しに強くなっていった。


 そして、運命の卒業記念舞踏会。

 アリアンヌ嬢がリリアに罪をなすりつけた瞬間、俺の中で何かが切れた。

 怒りで目の前が赤く染まるような感覚だった。

 すぐにでもアラン殿下の胸ぐらを掴み、真実を叩きつけてやりたかった。


 だが、俺は耐えた。

 ここで俺が動けば、リリアはベルンシュタイン公爵家と王家の両方を敵に回すことになる。

 それでは、本当の意味で彼女を救うことにはならない。


 俺は、彼女が完全に「自由」になる瞬間を待った。追放処分。

 それは、彼女にとってこれ以上ない絶望だっただろう。

 だが、俺にとっては、唯一の好機だった。


 王都の門の外で、雨に打たれながら立ち尽くす彼女を見つけた時、俺の心は張り裂けそうだった。

 早く、早くこの腕の中に保護してやりたい。そう思った。


 馬車の中で、初めて彼女と二人きりになった時、俺は柄にもなく緊張していた。

「君が犯人でないことは、最初から分かっていた」と告げた時の、彼女の驚いた顔。

 その表情の変化の一つ一つが、俺の心を捉えて離さなかった。


 俺の領地に来てからの彼女は、水を得た魚のようだった。

 俺が想像していた以上に、彼女は聡明で、優しく、そして強かった。

 彼女の知識は領地を豊かにし、彼女の微笑みは人々の心を温かくした。


 俺の凍てついていた心も、彼女の存在によって、ゆっくりと溶かされていった。

 彼女が笑うと、俺の世界が明るくなる。

 彼女が悩んでいると、俺の胸が痛む。

 これが、恋という感情なのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 式典でのプロポーズは、俺の人生で最大の賭けだった。

 もし、彼女に断られたら。そう思うと、足がすくんだ。

 だが、彼女の「はい」という言葉を聞いた時、俺は生まれて初めて、天にも昇るような幸福感というものを味わった。


 独白は、もう終わりだ。

 書斎の扉が開き、愛しい妻が顔を覗かせた。


「クロードさん、まだお仕事ですか? あまり根を詰めると、体に毒ですよ」


「ああ、リリア。もう終わるところだ」


 俺は立ち上がり、彼女を腕の中に抱きしめた。

 彼女の温かさが、俺のすべての疲れを癒してくれる。


「愛している、リリア」


「ふふ、私もですよ、クロードさん」


 この腕の中にある温もりこそが俺のすべてだ。

 氷の公爵と呼ばれた男の心は、一人の女性によって完全に溶かされた。

 そして、その愛は、永遠にこの北の地を照らし続けるだろう。

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