オフィーリアは川の下で眠る。

羊飼い

オフィーリアは川の下で眠る。

ハントが描いた作品、『聖アグネス祭前夜』がロイヤル・アカデミーの展覧会で70ポンドの値をつけ売却された。


ハントは作品の手伝いをした友人、ミレイに対して30ポンドを手渡しながら言った。


「やはり、君は絵の才能がある。僕の作品は君なしには完成しなかっただろう」


金を受け取り、少し照れくさそうな表情を浮かべたミレイは、内心では自らの才能に対する自信を深めるのだった。


「いいや、君も、僕に負けず劣らず素晴らしい才能を持っているよ」


今は誰も居ないピサ大聖堂の納骨堂カンポ・サントに2人の声が響いている。ミレイは壁に描かれたベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画を見つめ、しばらく喋らなかった。


そして、沈黙を破ったのはミレイだった。


「なぁ、どう思う。ラファエロのアカデミックな絵画なんて、このフレスコ画に比べれば下らないものだと思わないか?特に『キリストの変容』なんて退屈そのものだ」


ハントは壁の方を向いたまま答えた。


「ははは。アカデミー生がラファエロ批判とは、感心しないね。でも同感だ。アカデミーってのはくだらない。10年も通い続けなきゃならないんだ。僕たちには少し長すぎる」


ふたりの男は20歳前後の、若く情熱に溢れる画家志望だった。だからこそ、ロイヤル・アカデミーに対する反抗期にも似た拒否感は彼らの自信の源だった。


そして、ロイヤル・アカデミーの展覧会から数日が経ったある日、ハントのもとへひとりの訪問者が現れた。


男はロセッティと名乗る、ハントのひとつ下の後輩で、先日の展覧会で見た『聖アグネス祭前夜』に感銘を受けたと言った。

それに、ロセッティはふたりが常々話している、反アカデミック思想についても承知していた。ロセッティもまた若い男だった。


3人でピサ大聖堂に集まっているとき、ミレイが言った。


「僕たちで反アカデミック同盟をつくろう。そして、新たな歴史をつくるんだ。僕たち以前と以後でね」


それを聞き、ロセッティは頷いた。


「なるほど、いい考えだ。僕も賛成だ」


ハントも「賛成」と言って頷き、目を見開いて何か思いついたというような表情を浮かべた。


「そうだ、名前を決めよう。僕らは今日からラファエル前派Pre-Raphaelite Brotherhoodだ。いい名前だろ?」


1848年、9月、ラファエル前派が結成された。


彼らが積極的に描いたのは主に宗教画だった。そして、彼らの絵は自然を忠実に再現することをモットーとして描かれたために、それまでの宗教画とは全く違うものだった。

彼らの描く絵は一見すると宗教画とは思えないほど聖性を持たない、素朴な絵だった。


反アカデミックを掲げるラファエル前派たちの、自然を忠実に再現した宗教画はロイヤル・アカデミーの画家たちに激しく批判された。


『受胎告知』


ロセッティの描いたそれは、彼らの芸術性を強く反映していた。


左側のガブリエルが右側のマリアに対しお告げを下すところを題材とし、同じ題材の他の作品と違ってガブリエルに翼はなく、マリアは痩せぎすな少女であったため、唯一知っている読み物が聖書であるような農民にはそれが何の絵であるかはきっと分からないだろう。

しかも、遠近法はめちゃくちゃでベッドの奥行きなどは誰の目にもおかしいと分かっただろう。アカデミーはこの絵を認めなかった。


「何だ、この絵は。作者は誰だ。こんなのは1世紀以上前の画家ですら鼻で笑うだろう!なんてめちゃくちゃな絵だ。これを描いたのはどこのどいつだ」


展覧会で、たまたま訪れたアカデミーの会員がロセッティの絵画をこき下ろしていた。現場にはロセッティも居た。


「おい、僕の絵がめちゃくちゃだって?そんなら、おたくの絵はさぞ下らないものなんだろうな。君にはどうやら才能がないらしい」


「ああ、君か。これを描いたのは。....この絵の端に描いているPRBとは、もしやラファエル前派のことか?はは、そういうことだったか。どうりで君の絵は時代遅れな訳だ」


あわや喧嘩に発展しそうなふたりの間に入ったのはミレイだった。


ミレイは言った。


「ロセッティ、熱くなってはだめだ。僕たちの芸術はときに理解されないこともある。しかし、後世にはきっと俺たちは偉大な画家の仲間に数えられているはずさ。だから、傑作を描いて見返してやろう」


その頃、ラファエル前派たちは疲弊していた。それは絵に対する情熱を失ったからではなく、自らに注がれる批判に耐えかねてのことだった。


彼らには息抜きが必要だったので、舞台を見に行こうという話になった。


演目はシェイクスピアの戯曲、『ハムレット』だった。3人はハムレットに強い感銘を受け、同時に登場人物であるオフィーリアへ思いを馳せた。オフィーリア、彼女の悲惨な人生は川へ身を投げ、そのまま溺死して終わった。劇中では詳しく描かれなかったため、その時代の画家たちは想像を掻き立てられ、オフィーリアの最後を描かずにはいられなかった。


ラファエル前派もまた例外ではなかった。


しかし、彼らは思わぬ壁に直面していた。オフィーリアは女性であり、彼らの仲間に女性はいなかった。近しい人にはロセッティの妹のクリスティーナがいたが、彼女はオフィーリアのモデルとして相応しいとは言えなかった。


ロセッティの提案で、彼らは街で声をかけまわり、モデルを見つけることにした。


「僕のモデルになってくれよ。僕は画家なんだ」


何人かの女性にそう言い回った挙句、ことごとく断られた。画家というのはあまり好まれなかったのかもしれない。


カフェで休憩していると、ロセッティの目にとある女性が留まった。


長く艶やかな髪とそれによって際立つ透き通るような白い肌、どこか儚さを漂わせる立ち姿にロセッティは釘付けになった。オフィーリアのモデルになれるのは彼女しかいない。とロセッティは確信した。


「はじめまして、ハンカチを落としましたよ」


「え?落としましたか?」


「すみません、どうやら見間違いだったようです。ところで、お名前をお聞きしても?」


「ええ。私はリジーと言います」


「いい名前ですね。あなたの美貌に負けず劣らず美しい名前だ」


「褒めすぎですよ」


「いえいえ、褒めすぎなんてことはありません。ところで、あなたの美貌を見込んでお願いがあるのですが」


「ええと、何でしょう」


「私の絵のモデルになってほしいのです」


ロセッティは気付けばリジーの手を握っていた。リジーは首を振るが、それでもしつこく勧誘を続けた。数回ほど応酬が続いたのち、ついにリジーが折れた。


モデルを得たラファエル前派は途端に活力を取り戻し、すぐに絵を描く準備に取り掛かった。

翌日、ミレイがオフィーリアを描くため筆をとった。


ラファエル前派は自然を忠実に描くことを目指していたため、リジーは真冬に水を張った浴槽へ浮かべられることになった。それでも、はじめはランプが灯されていたため幾分かましだった。しかし、それもしばらく経つと消えてしまった。


ミレイはこれまでにないほど集中していた。目を見開き、鬼気迫る表情で絵筆を走らせる。その様子に、リジーはとても寒いとは言えなくなった。彼女もまた情熱を持っていた。


キャンパスに次々と絵の具を重ねていく。きっと、どんな批評家も今のミレイを邪魔することは出来ない。


「おい、そろそろリジーを浴槽からだしてやれ。これ以上は肺炎になるぞ」


ハントの声に、ミレイはついにはっと集中を解いた。気付けば日は落ちかけ、ずいぶんと長い時間が流れてしまっていた。


「ゴホッ」


リジーはミレイが手を止めると同時に咳き込んでしまった。これはまずい、とその日はお開きになった。


それから数日、ミレイは絵を描き続けた。その度、リジーは寒さに耐えなければならなかったが、それでもモデルを辞めようとはひと時も思わなかったのだ。


絵が完成するころにはリジーはずいぶん体調を崩してしまっていた。


そして、『オフィーリア』は完成した。


ラファエル前派の仲間とリジーは確信していた。この絵は傑作だ。誰が見てもこの価値に気づくだろう。


その後、リジーが体調を崩したことに怒ったリジーの父親がミレイたちのところへやって来たが、目を見るやいなや表情を変え、思わず感嘆の声を漏らした。


『オフィーリア』は傑作だった。


明くる月、ミレイはロイヤル・アカデミーの準会員に選出され、ミレイはこれを受けた。

つまり、これのよってラファエル前派は解散したのだ。


若さ故の自信に突き動かされた5年間の冒険はここに幕を閉じた。


その後、リジーは父から遺伝した肺炎に苦しみ、最後は30代で亡くなった。

ロセッティは精神の消耗とアルコール依存に悩まされ、左半身の不随を患いながらケント州の港町でひっそりと亡くなった。


『オフィーリア』は現在、イギリスのテート美術館に展示されている。

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