入浴剤でニューヨーク
海汐かや子
トンチキ縁結び
三日間行われる大感謝サプライズセールも、今日で終わりである。
田舎の衣料品店とは思えない長蛇の列。お客様がカゴいっぱいに入れた服の数々に軽く目眩がする。セルフレジが導入されていないので、一点一点、品物のバーコードをスキャンし隣の同僚に服を渡す。
視界の端からチラリと見える彼女は、素早く商品を畳んで袋に入れてお客様に渡した。お釣りを受け取る最中に化粧の濃いご婦人が「これ返品したいんだけど!」と割って入る――ちょっと待てそれは下着だ。
下着の交換は不可なのだが、懇切丁寧に説明する余裕はこちらにない。お待ちください、と副店長をお知らせベルで呼ぶ。まずい、ベルが鳴らない故障しやがった!
同僚に副店長を呼ぶように頼むと、彼女は眉間に皺を寄せてカウンターを抜けた。その顔は、勘弁してくれよ、と怒りの表情だった。分かる。気持ちは非常に分かる。カレーを食べようと思っていたのに炊飯器にご飯を炊き忘れた時の怒りとそっくりだからだ。
レジが滞り、お客様たちの苛立ちが肌に突き刺さる。地獄だ。これが全国展開している衣料品店のパワーかと白目を向きたくなる。
三年間勤めているけれど、この地獄に慣れる気がしない。閑古鳥よりは忙しい方が良いと思うが、限度というものがある。しかもそういう時に限って普段は滅多に利用しないサービスを利用するお客様もいる。
大型店「パステル」では有料レジ袋の買取が行われているのだ。一枚につき一円。買い取ったレジ袋は指定の場所に入れるのだが、レジ袋に貼った買い物テープを全て取らなければならない。これがまぁ、忙しい日に持ってこられると大変なのだ。
「これ、買い取ってくれます?」と、品よく微笑む女性が、カウンターに置いた五十二枚のレジ袋たち。
それ、セールのクソ忙しい日に持ってきます?
とは口に出来ないので「かしこまりました」と受け取る。笑顔は上手く出来ている自信はないけれど、気合いだ。
しっかりと数えてから五十二円のお返しをする。その後、レジの間を見てレジ袋のテープ剥がしに取り掛かるが非常に取りにくい。
お客様が次々と来店される度に「いらっしゃいませ」と声が裏返りそうになる。あれ。何で私、ここで働いているんだっけ?
ちょっと泣きそうになる。次の休みはいつだ、そうだ明日だ。明日はニューヨークへ旅に出るのだ。マーライオンの口から出る水のような愚痴を頭の中に思い浮かべたかいがあった。翌日のことを考えると胸がヘリウムガスの入った風船に変わっていくようだ。
「田畑さん。この服汚れてるんだけど!」
「田畑さん新入りのカバーしてよ!」
「田畑さん、お金数えて!」
「田畑さん、注文表の確認よろしくね!」
田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑田畑……。
私の前世は、田んぼと畑か?
レジ袋の赤いテープを力任せに引っ張ると「田畑さん!」と店長の声が聞こえた。あぁ私の名前を呼ぶ人が彼氏か旦那だったら……いや……そんな人は二次元にしか存在していないのだけれど……私の思考は渦の中心に向かうようにグルグルと回った。
※
気軽に家に居ながら旅が出来るようになったのは五年前からである。
原因は不明なのだが、湯を張った浴槽に入浴剤を入れると、なぜかニューヨーク州のどこかに繋がってしまうのだ。
帰りたければ、くしゃみをすることで自宅の浴槽に戻る仕組みになっている。意味不明である。しかも繋がる場所はニューヨーク州限定だ。意味不明である。
このように日本各地で――しかも日本しか起こっていないヘンテコな現象を、メディアはいつしか入浴剤現象と呼ぶようになった。
なぜ日本の浴槽がニューヨークへ繋がるようになったのかは分からないが――お金をかけずに気軽に旅を楽しめるのは悪い話ではない。
怒涛のセールを終えた翌日の朝、私は早速、浴槽に湯を溜めてから入浴剤を入れてみた。
入浴剤が溶けると同時にどこかの風景が浮かび上がるのだが、不発だった。景色が浮かばない。入浴剤を入れれば必ずニューヨークに繋がらないのは少々不便だ。ここ最近は特に繋がりにくく、酷い時には二十回やり直してもニューヨークに繋がらない。
ニュースによれば、入浴剤現象が少しずつ終わりを迎えているらしいが……。
えぇいもう一個だ、と入れると水面が揺らぎ、大都会の光景が映し出される。ビルが建ち並ぶ街には大勢の人々が行き交っている。
このまま飛び込めば都会に行けるのだろうが、あいにく今は人混みに身を委ねたい気分ではない。栓を抜く。水位が下がり、湯が抜けて底が見えた。
行きたくない場所に繋がったのなら栓を抜いて湯を流せばいい。非常に便利だと思いつつ、もう一度湯を張って入浴剤を入れる。
今度は綺麗な山々が映し出された。良い。ここで癒されよう。浴室から出て、リュックにティッシュとハンカチ、ちょっとしたお菓子と水筒、本と財布を入れた。
そして決して忘れてはならない、くしゃみをする為のコショウも。リュックを背負った私は、スニーカーを履いて浴槽に片足を突っ込んで飛び込んだ。ぐるっと視界が回る。
両足に地面がつく感覚。何度か瞬きをして辺りを確認すると、自分が今、岩場の上に立っていることに気がついた。眼下には濃い緑が一面に広がり、丸く切り取られたような湖が見えた。遠くを見やればなだらかな山地がある。聞きなれない鳥の声がして、ざわりと鳥肌が立った。軽装の登山客が多く、くつろいだ様子で腰を下ろしている。日本人は私以外いないようだ。
私も腰を下ろして、リュックから水筒を取り出してアップルジュースを飲む。ぐっと顔を空へ向けると、手を伸ばして掴めそうな濃い青空があった。喉を鳴らして飲み、ふっと息を吐く。日本とは湿度の違う風が頬を撫でる。
職場のストレスが、すっと消えていく。呼吸をするたびに、異国の地の空気が身体の隅々に行き渡り、新しい私に変わっていく気がする。リュックからクッキーを取り出し、つまみながら本のページをめくる。本と自然を堪能した私は、コショウの瓶を片手に、鼻に目掛けて振りかける。
ぶぇっくしょい!
豪快なクシャミをした瞬間、気づくと私は浴槽の脇に立っていた。浴槽には入浴剤が溶けた湯が張ってあり、もう風景は見えない。このまま旅を終えるのは少々寂しい。私はにんまりとしながら、更に入浴剤を追加した。
今度は森に囲われた湖が見えた。湖も良い――そのまま片足を突っ込み、あっという間に湖畔の岸辺に辿り着いた。驚いたカモが羽ばたき、しっとりとした湿地に逃げていく。
目の前に広がる鏡のような水面の湖。空の青が映り込んで独特の色がどこまでも美しく広がっている。綺麗、と声をあげると「あれ、君どこから来たん?」と背後から男性の声がした。振り向くと、目が飛び出そうな程の私好みな顔面の男性が、ベンチに腰掛けたまま、こちらを見て不思議そうに首を傾げていた。艶のある黒髪と、穏やかな黒い瞳――日本人だ。
年は二十代後半だろうか、私とそう年齢は変わらなさそうだ。男性が腰掛けているベンチに近づいて軽く会釈をした。
「入浴剤を使って来ました」と真実を口にするも、おマヌケ感が否めない。しかしすぐに理解してくれたようで「あぁ入浴剤現象を使ったんやね」と頷いた。
「あの、あなたも入浴剤現象でここに?」
「ちゃうよ。普通に飛行機で」
「お友達かご家族で?」
「いや、一人で来た。皆とワイワイするのもえぇけど、一人になりたい気分やったから。まぁ友達の家がここら辺にあるし、会うついでに泊めてもらったろ、と思って来たんよね」
「へぇ……外国に友達がいらっしゃるんですね」
ん、と男性は天気の話題をしているような表情で頷いた。
「凄いです。外国の友達が出来るのは」
「そう? ノリやでノリ」
ぐっと背伸びをした彼に、おずおずと尋ねる。
「ところで、ここって名前はなんて言う場所なんですか?」
「オークランド・レイク。公園」
「へぇ! 通りで散歩している人が多いなと思いました」と辺りを見回す。
整備されて緩やかなカーブを描く歩道に、軽装の人々がゆったりとした足取りで歩いている。風は穏やかで、木々に囲まれた湖にはカモが泳ぐ――素敵な場所だ。
「お姉さんどこ住みなん?」
「秋田です」
「ほぉん。秋田は行ったことあらへんな。今度、行ってみるかなぁ」
「ぜひ! 私パステルって衣料品店で働いているんです。秋田には一店舗しかないから、良かったら。割引クーポン差し上げます」
からかうように言ってみると「そ」と男性は面白そうに笑った。
「じゃあ、いつか行ってみるわ。その時は割引よろしゅう」
あはは、と私たちは笑い合い、少しだけ挨拶を交わしてからその場を離れた。しばらく散策していると、きゅう、と腹が鳴る。そろそろ昼食を作りに行こう。ここで何か買って口にするのも良いけれど、今は和食が食べたい。
木陰に隠れて鼻にコショウを振りかける。盛大にクシャミをすると、ふっと身体が浮き上がる感覚がした。
気がつくと浴室の壁が目の前にあった。
スニーカーを脱いで部屋に戻る。ふふ、と思わず笑みを作る。旅先で見知らぬ誰かと話すのも楽しいものだ。それにもしかしたら、あの男性が店にやって来るかもしれない――そう思うと自然と気合いが漲る。
なんだか次の出勤が楽しみになってきた。もし彼と会うのなら、昨日のようなサプライズセールと重なりませんように――。
読書をしてから夜にスマホを開き、明日のシフトをチェックした瞬間に速報が入った。
『速報 入浴剤現象が逆転。ニューヨークで入浴をした瞬間に、日本のどこかに転送されることに。全国で阿鼻叫喚』
え、と口にした瞬間、背後から「は?」と男性の声がした。ぎくりとして振り返ると、今日ニューヨークで出会った男性が、生まれた時のような姿で……。お互いに私たちは目を丸くして「「げ」」と言った。
「お、お姉さん? え、俺なに、え?」
黒髪から滴る雫、火照った熱が微かに感じられる身体――。
私は咄嗟にテーブルに置いていたコショウの瓶を蓋ごと開けて、塩を撒くように男性の顔に思い切り振りかけた。
「私は何も見てませぇぇぇん!」
男性の鼻がゴリラみたいに大きく開く。人の鼻の穴はこんなにも大きくなるのか……というかイケメンでも愉快な顔になるのか――。
ぶえっくしょおおぉぉぉい!
くしゃみをした瞬間、男性の姿があっという間に消える。ただ、彼がいた証として床が濡れていた。
まじか。
頼む。絶対に私の職場に、あの人が来ませんように。そして二度と会いませんように。ゾゾゾ、と身を震わせる。
「……会うなんて、有り得ないよね」
しん、と静まる部屋に少し心が穏やかになる。
「会うわけないんですけどね! 会ったらもう、どこの少女漫画展開ですかって感じ。あるいはホラー」
「そうやね。激しく同意」
「名前も知らないし」
「滝沢。って言うか、お姉さん振り向かなくて良いから聞いて欲しいんやけど」
私は唇を一文字に引き締めて硬直する。
「これ困ったわ。ろくに風呂入れん。コショウ、貸してくれへん?」
「……さっきのお兄さんですよね?」
「そ。さっきのお兄さん滝沢。タオルは今持ってるから、さっきみたいなヤバい格好やないで。安心して」
いや、そういう問題じゃねぇぇぇよぉぉぉ!
なに大丈夫です、みたいな落ち着いたお兄さんオーラで話しかけてくるの、この人ぉぉぉ! とは、言わない。
「コショウ……切れてるので、買いに行って来ます……」
「ほんま?」
このきっかけが、私の未来の旦那である。これを他人に話すとゲラゲラ笑われるので困ったものだ。
あれから数年経った今は、あのトンチンカンな現象はまっさらに消えた。友人たちは「縁結び現象だね」と笑うけれど。
入浴剤でニューヨーク。
私はパステルに勤め続けている。凛と背筋を伸ばしてお客さまに――服を持ってきた旦那に微笑んでクーポンを受け取る。
「いらっしゃいませ、クーポンをお預かりいたします」
入浴剤でニューヨーク 海汐かや子 @Tatibanaeruiza
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