妖都陰陽録―式神と歩む、分家陰陽師の生存戦略―
蛇足
第1話 陰陽道(1)
玄明四十五年。
かの安倍晴明がこの世を去りてより、すでに百余年が過ぎていた。
天下はもはや、怪異の影を恐れて身を竦める時代ではない。
陰陽術はかつてないほどに隆盛を極め、人の世と呪術の世は、きらびやかな栄華のただ中にあった。
その陰陽師たちを束ねる現・陰陽頭――
榊原直弼(さかきばら なおすけ)は、長きにわたりタブーとされてきた人と陰との境を断ち切った男である。
人界に生きる者と、闇の夜を住処とする陰陽師。
本来なら交わらぬはずの二つの世界は、彼の決断によって往き来を許され、言葉を交わし、酒を酌み交わす時代を迎えた。
それは、たしかに調和への第一歩であった。
だが同時に――新たなる災いの胎動でもあった。
力を持つ者が自由を得るのだとすれば、
真の自由を手にしているのは、陰陽師たちなのかもしれない。
けれど、死へ最も近い場所を歩いているのも、また陰陽師であるのだとしたら。
誰もが皆、彼らの肩書きを欲するわけではあるまい。
これは、玄明七十八年から始まる物語。
式神師の名家・黒葛家(くろつづらけ)の分家、黒瀬家の長男として生を受けた一人の少年――
名を、黒瀬夜斗(くろせ やと)という。
彼が、否、僕がいかに陰と人との狭間を歩き、この妖都を生き延びていくのか。
その陰陽道を、ここに語っていこう。
* * *
まだ、この世に生を受けて五つになったばかりの頃のことだ。
黒瀬夜斗は、母の前でこう言い放った。
「……母上。僕は、陰陽師にはなりません」
なぜそう思うのかと問われたが、うまく言葉にならず、口ごもったまま黙り込んだのを覚えている。
ただ、おそらくは幼心に、陰陽師という存在の背負う過酷さをどこかで悟り、死というものを本能的に怖れたゆえの言葉であったのだろう。
この頃の僕には、まだ前世の記憶はなかった。
脳裏に絡みついていた混濁の靄が晴れたのは、それからさらに二年ほど経った頃であろうか。
ふいに「前世」としか呼びようのない記憶の断片を知覚し、この世で自分は何をすべきかを、ようやく考え始めた。
正義がどうの、悪がどうのといった観念は、その時点でとうに瑣末なものとなった。
僕が重んじるべきは、ただ己の自由であると知ったのだ。
そうして僕は、僕の陰陽の道を歩むと決めた。
誰かのためではなく、国のためでもなく、
――この身が、この心のままに生き延びるためだけに。
* * *
努力というものは、もとより嫌いではなかった。
ただ、前世で痛い目を見てきたおかげで、正直者は馬鹿を見るという教訓だけは、骨の髄まで刻み込まれていた。
愚か者の側に回るつもりはない。
ならば、さっさと力をつけるほかないだろう――そう考えた。
本来ならば、陰陽道を学ぶ子らは五つの年から手ほどきを受ける。
しかし、幼い僕は恐怖ゆえにそれを退け、陰陽の道から目を背けてきた。二年という遅れは、決して小さくはないはずだ。
だが、今日からは違う。
脳を覆っていた混濁が晴れ、前世の記憶を自覚したこの日を、
――黒瀬夜斗として歩み出す、陰陽道の最初の一日と定めることにした。
まずは、母にそれらしい理由を述べるところから始める。
「……母上。長男たる僕は、この家の繁栄のためにこそ力を尽くすべきだと思いました。
何卒、陰陽道について学ばせていただきたく存じます」
母、黒瀬綾乃(くろせ あやの)は、さほど驚いた様子も見せず、静かに答えた。
「そうですね……。
ならぬ道を選ぶのも、あなた。
成る道を選ぶのも、またあなた。
――期待していますよ、夜斗」
黒葛家には分家が多い。その中でも黒瀬家は位の高いほうではないが、それでも腐っても七大名家の一角・黒葛家の血を引く分家であることに変わりはない。
陰陽道を学ぶにあたって、師も、書も、術具も、必要なものに事欠くことはないだろう。
少なくとも、環境に恵まれていることだけは、疑いようもなかった。
「それでは、今日にも父さんに伝えておきますね」
母がそう言うのに、僕は深く頭を下げた。
「母上、ありがとうございます」
父の名は、黒瀬道綱(くろせ みちつな)という。
陰陽師としての務めに忙しく、家で顔を合わせることは多くはない。
それでも、少なくとも今のところ、僕は彼を良き父であると思っている。
――ある程度は、という但し書き付きではあるが。
* * *
夕餉の支度が整う頃、父は戻ってきた。
「綾乃、今宵の妖は少々厄介であった」
襖を開けて上がり込む父の袖口には、淡く黒い煤のようなものがこびりついている。
瘴気の名残か、それとも焼き払った呪物の灰か。七つになったばかりの僕には、まだ判別がつかなかった。
「道綱さん、お疲れさまでした。夜斗のことで、少し話があります。……食べながらにいたしましょうか」
母はいつものように穏やかな声で言い、卓の上に湯気立つ椀を並べてゆく。
父は小さく息を吐き、袴の裾を整えてから、僕の向かいに腰を下ろした。
「……夜斗」
名を呼ばれ、思わず背筋が伸びる。
「うかがっている。お前、自ら陰陽道を学びたいと申したそうだな」
「はい、父上」
年相応の声音で返事をする。
この場で余計な老成を見せても、得はない。
父はしばし黙し、湯気の向こうから僕をじっと見つめてきた。
黒瀬の男の目は、たいてい、暗がりに慣れた獣のように鋭い。
その眼差しに射抜かれながら、僕は内心でひとつ数を数える。
(一、二、三……今のところ、怒っている気配はない)
「理由を聞こうか」
やはり来たか、と心の中で肩を竦める。
「先ほど母上にも申し上げました通り、長男として、この家の役に立ちたく――」
「それは建前だろう」
父は、あっさりと言った。
「七つの子どもが口にするには、出来がよすぎる。……もう少し、正直に話してみせよ」
正直、という言葉が、わずかに胸を刺す。
(さて、どこまで見せるべきか)
父の目は、好奇でも嘲りでもなく、ただ静かだった。
ここで下手な嘘を重ねれば、かえって疑われるだけだろう。
「……陰陽師は、よく死ぬと聞きました」
言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「ですが、力のない者から先に死ぬのだろう、とも思いました。ならば、恐れて背を向けるより、いっそ早く強くなったほうが、まだ生き延びられるのではないかと」
父の眉が、わずかに動いた。
「誰に聞いた」
「噂です。……下働きの人たちが、時々」
完全な嘘ではない。耳に入れていたのは事実だ。
父はふっと息を漏らした。それが笑いなのか、呆れなのか、まだ判じかねる。
「綾乃」
「はい」
「……お前のほうの血かもしれんな」
母は扇で口元を隠し、楽しげに目を細めた。
「どうでしょうね。黒瀬の男たちだって、十分に用心深いではありませんか」
軽い応酬のあいだにも、父の視線は僕から外れない。
やがて、低く告げられた。
「夜斗」
「はい」
「生き延びるために陰陽道を学びたい、と申したな」
「……はい」
「ならば、覚えておけ。式と呪は、人を活かすこともあれば、同じ手つきで殺すこともできる。お前が望むのは生だろうが、手にする術は必ず死にも繋がる」
父の声は、淡々としていた。責めるでも、脅すでもない。
「それでもなお、この道を選ぶのか」
一瞬だけ、部屋の空気が重くなる。
七つの子どもに向けられる問いとしては、いささか過ぎているのかもしれない。
だが、僕にとってはむしろ、好都合だった。
「……はい。この道を歩かずに死ぬくらいなら、歩いてから、抗ってから死にたいと思いました」
それは、半分だけ本音で、半分は父の好みそうな答えを計算したものだった。
沈黙が落ちる。
さすがに少しだけ、掌に汗が滲んだ。
やがて、父は短く頷いた。
「よかろう」
低く落ちたその声に、母がほっと息をつく。
「本家に預ける話は、まだ早い」
父はそう前置きしてから、続けた。
「お前も知っておろう。十の年には、黒葛の血を引く子らは皆、霊力の見立てを受ける」
「……はい」
僕はうなずく。
黒葛家に生まれた子らにとって十歳は、ひとつの節目だ。
本家に集められ、式盤と霊符を用いた正式な霊力診断――『霊力見立て』が行われる。
そこで測られた素質によっては、本家預かりとなり、将来の進む道までもが変わっていく。
「それまでは、この黒瀬の家で、俺が直接お前に基礎を叩き込む」
父はそう言って、僕をまっすぐに見据えた。
「黒葛の名を預かる以上、生半可な腕で外に出すわけにはいかん。十歳の見立ての折に、本家の目に晒しても恥ずかしくない程度には、仕上げておいてやろう」
(……十歳、か)
内心で、その年数をゆっくりと数える。
七つから十まで、三年。遅れを取り戻すには、ぎりぎりだが悪くはない。
「ありがたく存じます、父上」
そう答えると、父はようやく箸を取った。
冷めかけていた汁物から、まだわずかに湯気が立ちのぼっている。
その夜、寝所に戻ったあとも、しばらく眠気は訪れなかった。
黒葛本家。
式神師として名を馳せる一門の、真ん中の渦。
十歳の『霊力見立て』。そこで僕は、初めて本家の者たちと顔を合わせることになる。
(……まあ、いい)
遅れを取り返すなら、これ以上に都合のよい目標もない。
「生き延びるために」と言った言葉は、半分は演技だったが、半分は本心だ。
ならば、使えるものは何でも使うべきだろう。
僕は闇に慣れた目を閉じ、静かに息を吐いた。
――こうして、黒葛家分家・黒瀬家の長男、黒瀬夜斗の、少しばかり遅れた陰陽道の一歩目が、ようやく始まったのである。
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