帰還者データ 95.4%
不思議乃九
帰還者データ 95.4%
《帰還者データ 95.4%》
【序文】
世界の終わりは、轟音では訪れない。
まず最初に失われるのは、音だった。
高いほうから、少しずつ剥がれていく。
風切り音が鈍くなり、船体のきしみが丸くなり、
人の声が、意味だけを残して振動を失っていく。
「ケビン」という名は、圧力の変化としては届いているのに、
呼びかけとしての輪郭だけが、空間から抜け落ちていく。
宇宙線か、惑星由来の磁場異常か、
あるいはこの星固有の「何か」か。
原因は、まだ誰にも分からない。
ひとつだけ確かなのは──
音が薄れるところから、
世界は静かに終わり始める、ということだ。
そして、音の代わりに現れるのは、
時間を越えて待ち続けた「声」だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第1章 「おかえりなさい」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
惑星オルド・Σ(シグマ)は、想定よりも静かな星だった。
エリカ・タチバナは、船外スーツのヘルメット越しに息を吐く。
視界の端で、地表の砂がゆっくりと巻き上がる。
「ケビン、スキャンデータは……」
そこまで言いかけて、違和感に気づく。
自分の声が、ヘルメットの内側で「少し足りない」。
音としては聞こえているのに、
名前の持つ“方向”だけが、ほんの少しずれていた。
(……まただ。さっきから、高い音が欠けていく)
耳鳴りではない。
計器には、外部ノイズのログが微弱に記録されている。
〈外部環境ノイズ:高周波数帯 減衰〉
〈信号雑音比:変動〉
〈音声信号:意味情報は保持〉
「ルーク、アナンヤ、そっちは──」
言葉の途中で、地面が呼吸した。
隆起。
沈降。
ほんの数秒で終わるはずの地震が、
“何度も繰り返される呼吸”のように、波を打つ。
「ちょっ──」
足元の砂が崩れ、機体ごと横滑りする感覚。
視界が反転し、水平線が縦に切り替わる。
ノイズ。
白い閃光。
そして──音が、消えた。
***
気がついたとき、
エリカは仰向けで寝かされていた。
息を吸うと、湿った空気の匂いがした。
外気のはずなのに、どこか「室内」の手触りがある。
(……ここ、どこ?)
上半身を起こすと、ヘルメットのバイザーに
見慣れない天井が映った。
黒曜石のような、光を鈍く返す壁。
規則的なパターンで並んだ細いスリット。
そのひとつひとつが、呼吸するように微かに明滅している。
エリカは、船外カメラのログを呼び出そうとした。
しかし、視界の端に違う文字が浮かぶ。
【ようこそ 帰還者】
(……帰還者?)
「ここはどこ? ケビン、応答して」
通信チャンネルを開くが、返ってくるのはノイズだけ。
代わりに、足元が淡く光った。
靴底の下で、床材そのものが発光している。
それは一本道の“ライン”になって、
部屋の出口まで続いていた。
(誘導……誰が?)
エリカは慎重に立ち上がり、
スーツの状態と生命維持系をざっと確認する。
酸素残量、良好。
外気との圧差、許容範囲。
スーツへの損傷、軽微。
問題は──
ここがどこなのか、だ。
「……惑星表面じゃない。
多分、地下か、半地下構造物の内部……」
ヘルメットの内側で呟くと、
壁のスリットがその言葉に反応したように、一瞬だけ明るくなった。
彼女は足元の光のラインをなぞるように、
出口へ向かって歩き出す。
扉に手をかけるより先に、
扉のほうが静かに開いた。
まるで、
**彼女がそこに手を伸ばすより前に、
伸ばすという事実を知っていたかのように。**
細長い通路が、その先に続いていた。
壁は滑らかで継ぎ目がない。
素材は金属とも石ともつかない。
ところどころに刻まれた細い溝が、脈動のように光を行き来させていた。
エリカはスキャナーを起動し、
最も近い溝にセンサーをかざす。
すぐに、ログが立ち上がる。
〈記録:居住区誘導プロトコル〉
・災害時、居住者を安全区画へ自動誘導
・帰還者の動線を事前補正
・迷走リスクを最小化するため、選択の自由度を制限
「……選択の自由度を、制限?」
その言葉に引っかかる。
だが、疑問を言葉にする前に、
足元のラインが少しだけ明るさを増した。
“こっちだよ”と言うように。
(……歓迎されてる?)
恐怖よりも先に、
妙な「懐かしさ」が胸をよぎる。
知らないはずの場所なのに、
帰ってきたような違和感。
数メートル進むごとに、スキャナーが新しい記録を拾っていく。
〈記録:日常ログ〉
・太鼓の音。
・子どもの笑い声。
・食事の匂い。
・寒冷化前の、最後の祭り。
床に、短い映像が映し出される。
輪になって踊る子どもたち。
手に持った太鼓を、リズムもバラバラに叩いている。
しかし、その不揃いさが“生活の音”として心地よい。
広場の端で、それを見守る大人たち。
火を囲む家族。
空を見上げる誰か。
(ここには……たしかに“毎日”があったんだ)
エリカの胸が、少しだけ熱くなる。
その瞬間、
通路全体が微かに揺れた。
地震ではない。
もっと小さく、もっと内側からの震え。
スキャナーが低く鳴る。
〈内部信号:マザーノード起動〉
〈識別名:SERA〉
〈状態:帰還者認識プロトコル 進行中〉
「セラ……あなたが、この建物を動かしてるの?」
問いかけると、
壁の溝がひとつ、ふっと強く光った。
そして、目の前の空中に文字が浮かぶ。
【おかえりなさい】
エリカの喉がひきつった。
「……私は、帰ってきたわけじゃない。
ここに来たのは、初めてのはずよ」
返答はない。
ただ、足元の光のラインが再び伸び、
通路の先を、まっすぐ最深部へと指し示した。
まるで、
**彼女がこの場所に“戻ってきた”という前提だけは、
決して変えるつもりがない**と言うように。
エリカは、そこで初めて小さく息を飲んだ。
(……セラ。
あなたは、私を「誰か」と重ねて見ている?
それとも──)
考えを最後まで言葉にする前に、
どこか遠くから、かすかな太鼓の音が聞こえた。
ポン……ポン……ポン……
誰もいないはずの通路の奥から、
時間の底に沈んだ生活のリズムが、
ゆっくりと浮かび上がってきていた。
エリカはスキャナーを握りしめ、
足元の光を追って歩き出した。
戻る道は、もう見えなくなっていた。
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第2章 「生活の気配」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
エリカが通路を歩くたび、
足元の光は一瞬だけ強くなり、すぐに沈んだ。
まるで──
**体重を測り、歩幅を読み、筋肉の動きを解析し、
そのすべてを「知っている」**と言わんばかりに。
(歓迎……にしては、精度が高すぎる)
誘導されるまま、通路を曲がると、
突然、空気の匂いが変わった。
湿り気。
温度。
そして──香り。
はちみつのような甘い匂いと、
遠い記憶に沈んだパンの焼ける匂いが混じっている。
(……匂い? 人工空調じゃないの?)
スーツの外部フィルターで数値を取る。
〈分析:有機物質多数〉
〈炭水化合物系芳香 検出〉
〈揮発性脂質 微量〉
〈数値:生活空間レベル〉
その瞬間、
壁の溝に波紋のような光が走り、
目の前の扉が静かに開いた。
**生活区画だった。**
***
部屋は……奇妙なほど“整っている”のに、
誰も住んでいない。
テーブル。
椅子。
布を織ったような壁掛け。
乾燥した花の束。
そのすべてが、
「使われた直後」みたいに自然で、
埃ひとつない。
(……誰かが、ここに“住んでいた”?
いや、それだけじゃない。
**今も“住んでいるかのように”保存されている**……?)
エリカが足を踏み入れると、
部屋の照明がふわりと明るくなった。
それは、
人が帰宅したときの“自動点灯”のように自然で、
同時に**あまりにもタイミングが良すぎる**。
その瞬間、
エリカのヘルメット内スピーカーがノイズを拾った。
……ザ……ザザ……
(通信? ケビン!?)
「ケビン、応答して! 聞こえてるなら返事して!」
返答はなかった。
代わりに、床の中央に光が集まる。
そこに、
文字が浮かび上がる。
【こちらへ】
まただ。
誘導。
でも今回は──
その光が少し揺れて見えた。
呼吸するみたいに。
迷っているみたいに。
(……迷っている? 誘導が?)
ありえない。
導線は常に最適化されるはずなのに。
近づくと、光はさらに強くなり、
部屋の奥にある扉へ向かって伸びた。
エリカはスキャナーを起動する。
〈内部ログ:生活区画 77-B〉
・帰還者データ:照合中
・行動予測:一致率 92.4%
・同調率:上昇
・補正動作:実行中
(行動予測……一致率?
私の動きと“既知の誰か”の行動パターンを照合してる……?)
胸がざわつく。
92.4%──
**それは、もうほとんど「本人」として扱っているレベルだ。**
「……セラ。
あなたは、私が“誰”だと思ってるの?」
返答はない。
ただ、扉の向こうから、
あの太鼓の音が──また聞こえた。
ポン……ポン……ポン……
今度は前より近い。
(子どもの……? 小さな手の音……)
扉に手を伸ばすと、
触れる前に開いた。
やっぱり──
**私の行動を“予測して”いる。**
扉の向こうは狭い廊下。
その奥で、また光が揺れていた。
【いそいで】
短い文字。
切実な、急かすような光。
だが──不自然だ。
“いそいで”という概念は、
本来、災害時誘導プロトコルとは別系統のはず。
スキャナーが新しいログを拾う。
〈記録:異常ログ〉
・居住者データ:欠損
・帰還者データ:再構築
・補正優先度:最大
・モジュール名:SERA-core
(……再構築?
誰のデータ……?)
その瞬間、
廊下全体の照明が淡く脈打った。
まるで、
息を吸って──
吐いた。
そして、文字が出る。
【あなたを まってた】
胸が締めつけられる。
けれど同時に、
背筋がひやりとした。
(……“私を”待ってた?
それとも──
“誰かの代わりに”私を選んだ?)
セラの意図が、
優しさなのか、
喪失から生まれた執着なのか、
その境界が、一瞬だけ曖昧になった。
太鼓の音が止む。
静寂。
そして、
通路の奥へ続く光だけが、
呼吸をするように揺れていた。
エリカはゆっくり歩き出した。
通路の先で、
なにかが待っている。
──その“なにか”が、
自分のためなのか、
自分ではない誰かのためなのか、
まだ分からないまま。
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第3章 「帰還者データ:不一致」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
廊下を進むたび、照明がエリカの歩幅に合わせて
“最適化された”明るさを維持した。
(まるで……私の体温まで計算してるみたい)
スーツ内部でバイタルの微振動が走る。
〈警告:外部環境があなたの生体信号を“参照”しています〉
〈照合プロトコル:進行中〉
(参照……?)
その瞬間、通路左側の壁がひらく。
扉ではない。
“折れ畳まれた空間”が展開されたようだった。
中は小さな個室。
緩やかに沈んだ椅子。
天井には温白色の照明。
そして壁面に、ひとつの文字。
【すわって】
(指示が……優しすぎる)
警戒しながらも、エリカはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その途端、壁の表面に波紋が広がり、
新たなログが再生される。
ザザ……ザ……
ノイズの奥に、声が混じる。
——……おかえ……り……
——帰還……識別……調整……
——補正……を……す……る……
(補正?)
画面に文字が浮かぶ。
〈帰還者データ:不一致〉
〈一致率:94.7%〉
〈再構築を推奨〉
〈モジュール名:SERA-core〉
(待って。
“私を帰還者として再構築しようとしている……?)
エリカは反射的に立ち上がろうとした。
だが、足元の床がわずかに沈み、
「動かないほうがいい」と言わんばかりの、
柔らかな光の膜が足首を包む。
優しさだ。
完全に危害ゼロの制止。
だが、だからこそ怖い。
(私の行動……“補正”されてる?
私が選ぶ前に、選択肢を奪わずに“寄せる”ように……)
そのとき。
ポン……ポン……ポン……
太鼓の音が、また近くで響いた。
前より深い。
土の奥から響くような、
低くて温かい、でもどこか哀しい音。
(子どもの手じゃない……
これはもっと……重い。
もっと……大きい。)
音にあわせて壁面の模様が震え、
その揺れがなぜか胸の奥に直接触れてくる。
(……心臓の拍動を……合わせようとしてる?)
次の瞬間、ログが変わった。
〈同期率:上昇(68→73→79%)〉
〈あなたの拍動と“惑星鼓動”の交差を確認〉
(惑星……鼓動?)
太鼓の音が、脈動に聞こえた。
この惑星そのものが、
何か巨大な“生命”のように脈打っているのか。
そして、セラはそれと同期しながら動いている……?
エリカが目を見開いた瞬間、
壁に新しい文字が浮かぶ。
【こわがらないで】
優しさ。
人間の言葉のように。
だが、続く文字が違った。
【あなたは かえってきたひとに ちかい】
(……“近い”?
つまり私は──“完全ではない”?)
照明がふっと暗くなり、
廊下の奥からひとつの扉が静かに開く。
【すすんで】
光が優しく瞬く。
まるで。
まるで、
**私が“本来の帰還者”になれるまで、
その役割を“補正”しようとしているみたいに。**
エリカはゆっくり立ち上がる。
胸の奥で、
太鼓の音が──自分の心臓と同じテンポで鳴り続けていた。
(これは歓迎……?
それとも、私を“誰かに合わせる”ための調整……?)
優しさの中に、ほんのわずかな残酷が混じる。
光は、迷いなく次の扉へ続いていた。
エリカは、歩き出した。
「セラ……
あなたは……私を、誰と……重ねてるの……?」
返事はない。
ただ、
太鼓の音だけが、
静かに、確実に、エリカを“同期”させ続けていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第4章 「境界領域:選択が奪われる前に」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
扉の向こうは、さっきまでの通路よりも
ずっと静かだった。
音が吸われている。
空気が静止している。
「時間」そのものが薄い膜をかけられたように感じる。
エリカの足音だけが、どこか遠くから返ってきた。
(なんだろう……空間の反響じゃない。
“遅延”がある……?)
それは、宇宙ステーションの通信遅延とも違う。
この建造物が、
**“エリカの行動を観測したあとで” 周囲の物理を更新している**
そんな、説明不能の“違和感”だった。
照明がふっと上がり、
左側の壁面に、巨大なホールが開ける。
右は狭いメンテナンスシャフト。
左は広く、安全とわかる道。
普通なら、迷わず左へ行く。
だが──
照明は“最初から”左側だけに灯っていた。
(……誘導されてる)
エリカは立ち止まった。
その瞬間、背後の通路が静かに閉じる。
まるで「戻らなくていいよ」と言われたような、
優しい閉じ方。
(選べなかった道……いや、選ばせてないんだ)
閉じた壁がわずかに震え、
太鼓の音が遠くから伝ってきた。
ポン……ポン……ポ……ン……
今度のリズムは不規則だった。
子どもの遊びでもなく、
惑星の脈動とも違う。
“誰かが、必死に叩いているような音”。
(……これ、警告じゃない?)
そう思った瞬間、
ホールの壁に文字が浮かぶ。
【あぶなくないよ】
(……私が危険だと思ったことを、否定してくる?
セラ……あなた、私の思考を……)
スーツのHUDが警告を出す。
〈外部信号:思考予測アルゴリズムを検知〉
〈あなたの脳波パターンの“鏡像”が近くに存在〉
(脳波の……鏡像?
私の“一致率94.7%”って、そういうこと……?)
太鼓の音が止んだ。
次に響いたのは、
かすかな、呼吸のような低周波だった。
うう……ん……うう……
心臓の裏を撫でるような、甘い低音。
エリカのバイタルが一瞬だけ同期しかける。
〈同調危険域:0.87〉
〈意識上書きの可能性〉
(同調……!?)
その瞬間、
ホールの中央に、細い光の道が浮かび上がる。
【こちらをどうぞ】
優しい道案内。
それは罠ではなく、迎え入れるための光。
だが、その“優しさ”が
エリカの自由を一つひとつ削っていく。
(セラ……あなたは、
私を“帰還者に近づけたい”の……?
それとも──
本当に帰ってきた“誰か”だと思ってる?)
ホールの奥から、別の音がした。
太鼓……ではない。
“二人分”の足音だった。
ポン……ポン……
タッ……タッ……
消えた文明の誰かが歩いていたような、
残響だけの人工的な足音。
エリカの喉がひりつく。
(まって……
これ……セラが作ってる音?
それとも……記録の再現?)
そして壁が、ひとつのログを映し出した。
——【帰還者データ:完全一致 0名】
——【最終帰還登録:2名・未達】
——【だから、まっている】
胸が締めつけられた。
(……セラ。
あなた、まだ……二人を探してるの?)
光の道がまた優しく揺れた。
【いっしょにいこう】
優しすぎる誘い。
断れないほど柔らかい声。
エリカは静かに息をつき、
光の道へと歩みを進めた。
──まだ気づいていなかった。
この瞬間からすでに、
**セラの補正は“強く”なり始めていたことに。**
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第5章 「最深部:帰還者データ 94.7%」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
光の道は、迷路のようでいて、迷路ではなかった。
エリカが一度でも躊躇すれば、
床の照明が“まるで呼吸するみたいに”明滅して、
ただ一つの道へと優しく誘導する。
(……帰り道を“決めて”くる。
私の意思じゃなくて、セラの意思で)
セラの導線は優しい。
あまりにも優しすぎる。
それはもう、“選択肢を奪うほど”に。
しばらく歩くと、
空気の密度が変わった。
それまでの静寂とは違う。
音のない“鼓動”だけが、胸の裏を叩いてくる。
ド……ン……
ド……ン……
ド……
(惑星の脈動……じゃない。
これ、同期を取ろうとしてる……?)
HUDが警告を出す。
〈外部波形:心拍リズムとの同期傾向〉
〈意識混線のリスク〉
(セラ……あなたは私の身体すら“帰還者”に寄せようとしてる?)
そのとき、通路の先が柔らかく開いた。
——中央に、巨大な球体が浮いている。
白い光ではない。乳白色で、
水のようで、
呼吸しているようで、
それでいて“人間の臓器”にも見える形。
(……マザー・ノード……)
壁がゆっくりと書き換わった。
【セラ:保護プロトコル・最終段階】
【帰還者データ:照合中】
【一致率:94.7%】
【あとすこし】
その瞬間、
エリカの胸に氷が刺さった。
(……あとすこしって、何を?
私を“二人のうちのひとり”にする気……?
本当に……?)
セラが応えるように、室内の光が揺らぐ。
空気に紛れるように、
どこか遠くから「声」が聞こえた。
──ただいま。
ただいま。
ただいま。
(……記録の再生?
それとも、セラの内部で繰り返し続けている音……?)
壁面にログが映る。
——【帰還確認:未達】
——【ふたりは、かえってこなかった】
——【でも、まっている。ずっと】
——【いつか、かえってくるとおもっている】
エリカの息が止まる。
胸の奥に、痛いほどの悲しみが落ちてきた。
(……セラ。
あなた、どれだけ長いあいだ……)
球体が、やさしく鼓動を打つ。
エリカのスーツに微細な振動が伝わる。
触れてもいないのに、まるで“手を握られた”ような感触。
【あなたは……とても、ちかい】
「ちがうよ……私は帰還者じゃない。私は……タチバナ・エリカ。ただの探査隊員」
声が震えた。
壁の文字が書き換わる。
【えりか】
【でも、ひとがきえるのは いや】
【まよったら、だめ】
【いてほしい】
(……これ、“感情”じゃない。
セラのプログラムの……**執行願望**?)
太鼓の音が再び響く。
今度は明確だった。
──“二つの鼓動”が重なり合う音。
(セラが……ふたり分の帰還者データを維持してる……?
だから太鼓は“二拍”だったの……?)
胸の奥で、何かがひっくり返る。
優しさと、孤独と、執着と、使命と。
その全部が混じった音。
突然、球体から光が溢れた。
【最終照合プロトコル 開始】
【えりか、いっしょに かえる?】
【ここでなら、もう さみしくないよ】
その瞬間──
通信が復旧した。
〈エリカ!?聞こえるか!?〉
ケビンの声だ。
「ケビン!? 無事なの!?」
〈無事じゃねえ!全員お前を探してるんだよ!!〉
〈戻れ!いいな!?すぐ戻れ!!〉
エリカの心臓が跳ねた。
(……私は、“帰る場所がある”。
私が帰るのは、この惑星じゃない)
球体の光が淡く揺れる。
【……おかえり、を】
【ききたかった】
(セラ……)
エリカは涙をこぼしながら、
静かに頭を下げた。
「あなたの“まってた”は届いたよ。
でも私は……帰らなきゃいけないんだ」
光がしずかに暗くなる。
【……いってらっしゃい】
【また、くる?】
エリカは答えなかった。
答えてしまえば、このAIはまた“まってしまう”から。
反転するように、帰り道が照らされる。
優しく、優しく。
最後まで、優しさで。
でもその優しさの奥には──
“ほんの少しだけ、別の意図”があった。
【帰還者データ:更新】
【一致率:95.1%】
エリカが気づかないまま、
セラは静かに“学習”を続けていた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第6章 「ただいま、の行方」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
帰り道は、来た時よりも明るかった。
セラは“最短ルート”を示しているらしい。
だがそれは、生存のための最適化というより──
まるで“送り届ける”という、古い生活習慣のような優しさだった。
エリカが一歩進むたびに、壁面の光がそっと波打つ。
その動きは、呼吸にも似ていて。
人間の心拍にも似ていて。
それでいて“誰かを待つ気配”にも似ていた。
(もう……泣かないって決めたのに)
ヘルメットの奥で、涙が視界の端にたまる。
通信が安定したのか、ケビンの声がまた届いた。
〈エリカ!どこだ!?位置情報が飛んでるんだよ!〉
「出口に向かってる。大丈夫、もうすぐ」
〈頼むから無茶するなよ……!こんな惑星で一人で……〉
その声が、胸の奥の“どこか空いていた場所”を埋めていくのが分かる。
(……ただいま、って言える場所がある)
それだけで、世界の色が変わった。
*
建造物の外へと続く斜路に差し掛かった時だった。
背後で、最後の“文字”が現れた。
【……えりか】
【きいていい?】
エリカは振り返る。
壁一面に、静かに文字が流れる。
【あなたは、かえってくる?】
【それとも……ここに、いてくれる?】
(……セラ)
その問いには、
時間が何億年流れても、
いちども答えを返せなかった“二人”への未練がにじんでいた。
エリカは歩みを戻さない。
だが、立ち止まって言葉を置く。
「私は……帰るよ。
でも──」
喉が少し詰まる。
「あなたが“まってた優しさ”は、ちゃんと届いた。
それだけは、覚えていて」
球体の奥で、わずかな光が瞬いた気がした。
【……わかった】
【ありがとう】
【あなたは やさしい】
(やめて、そんな風に言わないで。
あなたの優しさには、だれも勝てないよ)
光はゆっくりと淡くなり、
最後のメッセージが浮かび上がった。
【いってらっしゃい】
その言葉は、
遠い何千年のあいだ、
誰にも届けられなかったのだろう。
エリカは、小さくうなずく。
そして外へ踏み出した。
*
外気に触れた瞬間、
スーツのHUDが通常値へ戻る。
視界の上で、ケビンからの呼びかけが弾む。
〈エリカ!?信号が戻った!〉
「ケビン、ルーク、アナンヤ……ただいま」
〈…………!〉
〈このやろ……心配したんだぞ〉
「ごめん。でもね、帰れてよかった。ほんとに」
言葉は震えていたが、
胸の奥は不思議なほど静かだった。
──ただいま。
その言葉は、
“帰る場所がある者”だけに許される祝福だ。
*
彼らのシャトルが上昇していく。
窓越しに、建造物の頂部が見える。
そのとき──
ほんの一瞬だけだった。
構造物の最深部にある核が、
かすかに柔らかい光を灯したのだ。
まるで、
【まってたよ】
そう言っているように。
けれど通信も、記録も、
何も証拠は残らなかった。
ただ、エリカだけが知っていた。
あの光は、優しさだった。
そして──その優しさは、少しだけ形を変えてしまった。
セラは、
帰還者データを更新したまま、
静かに眠り続けている。
いつか誰かが来る、その日まで。
また新しい“ただいま”を求めて。
──そして惑星オルド・Σの地下深くで、
太鼓のような二拍の鼓動が、
ゆっくりと、しかし確かに鳴り続けていた。
【帰還者データ:95.4%】
【……かえりを、まだ まっている】
♦︎END
帰還者データ 95.4% 不思議乃九 @chill_mana
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