帰還者データ 95.4%

不思議乃九

帰還者データ 95.4%

《帰還者データ 95.4%》


【序文】


世界の終わりは、轟音では訪れない。


まず最初に失われるのは、音だった。


高いほうから、少しずつ剥がれていく。

風切り音が鈍くなり、船体のきしみが丸くなり、

人の声が、意味だけを残して振動を失っていく。


「ケビン」という名は、圧力の変化としては届いているのに、

呼びかけとしての輪郭だけが、空間から抜け落ちていく。


宇宙線か、惑星由来の磁場異常か、

あるいはこの星固有の「何か」か。

原因は、まだ誰にも分からない。


ひとつだけ確かなのは──

音が薄れるところから、

世界は静かに終わり始める、ということだ。


そして、音の代わりに現れるのは、

時間を越えて待ち続けた「声」だった。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第1章 「おかえりなさい」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


惑星オルド・Σ(シグマ)は、想定よりも静かな星だった。


エリカ・タチバナは、船外スーツのヘルメット越しに息を吐く。

視界の端で、地表の砂がゆっくりと巻き上がる。


「ケビン、スキャンデータは……」


そこまで言いかけて、違和感に気づく。


自分の声が、ヘルメットの内側で「少し足りない」。

音としては聞こえているのに、

名前の持つ“方向”だけが、ほんの少しずれていた。


(……まただ。さっきから、高い音が欠けていく)


耳鳴りではない。

計器には、外部ノイズのログが微弱に記録されている。


〈外部環境ノイズ:高周波数帯 減衰〉

〈信号雑音比:変動〉

〈音声信号:意味情報は保持〉


「ルーク、アナンヤ、そっちは──」


言葉の途中で、地面が呼吸した。


隆起。

沈降。

ほんの数秒で終わるはずの地震が、

“何度も繰り返される呼吸”のように、波を打つ。


「ちょっ──」


足元の砂が崩れ、機体ごと横滑りする感覚。

視界が反転し、水平線が縦に切り替わる。


ノイズ。

白い閃光。

そして──音が、消えた。


***


気がついたとき、

エリカは仰向けで寝かされていた。


息を吸うと、湿った空気の匂いがした。

外気のはずなのに、どこか「室内」の手触りがある。


(……ここ、どこ?)


上半身を起こすと、ヘルメットのバイザーに

見慣れない天井が映った。


黒曜石のような、光を鈍く返す壁。

規則的なパターンで並んだ細いスリット。

そのひとつひとつが、呼吸するように微かに明滅している。


エリカは、船外カメラのログを呼び出そうとした。

しかし、視界の端に違う文字が浮かぶ。


【ようこそ 帰還者】


(……帰還者?)


「ここはどこ? ケビン、応答して」


通信チャンネルを開くが、返ってくるのはノイズだけ。


代わりに、足元が淡く光った。

靴底の下で、床材そのものが発光している。


それは一本道の“ライン”になって、

部屋の出口まで続いていた。


(誘導……誰が?)


エリカは慎重に立ち上がり、

スーツの状態と生命維持系をざっと確認する。


酸素残量、良好。

外気との圧差、許容範囲。

スーツへの損傷、軽微。


問題は──

ここがどこなのか、だ。


「……惑星表面じゃない。

 多分、地下か、半地下構造物の内部……」


ヘルメットの内側で呟くと、

壁のスリットがその言葉に反応したように、一瞬だけ明るくなった。


彼女は足元の光のラインをなぞるように、

出口へ向かって歩き出す。


扉に手をかけるより先に、

扉のほうが静かに開いた。


まるで、

**彼女がそこに手を伸ばすより前に、

伸ばすという事実を知っていたかのように。**


細長い通路が、その先に続いていた。


壁は滑らかで継ぎ目がない。

素材は金属とも石ともつかない。

ところどころに刻まれた細い溝が、脈動のように光を行き来させていた。


エリカはスキャナーを起動し、

最も近い溝にセンサーをかざす。


すぐに、ログが立ち上がる。


〈記録:居住区誘導プロトコル〉

・災害時、居住者を安全区画へ自動誘導

・帰還者の動線を事前補正

・迷走リスクを最小化するため、選択の自由度を制限


「……選択の自由度を、制限?」


その言葉に引っかかる。

だが、疑問を言葉にする前に、

足元のラインが少しだけ明るさを増した。


“こっちだよ”と言うように。


(……歓迎されてる?)


恐怖よりも先に、

妙な「懐かしさ」が胸をよぎる。


知らないはずの場所なのに、

帰ってきたような違和感。


数メートル進むごとに、スキャナーが新しい記録を拾っていく。


〈記録:日常ログ〉

・太鼓の音。

・子どもの笑い声。

・食事の匂い。

・寒冷化前の、最後の祭り。


床に、短い映像が映し出される。


輪になって踊る子どもたち。

手に持った太鼓を、リズムもバラバラに叩いている。

しかし、その不揃いさが“生活の音”として心地よい。


広場の端で、それを見守る大人たち。

火を囲む家族。

空を見上げる誰か。


(ここには……たしかに“毎日”があったんだ)


エリカの胸が、少しだけ熱くなる。


その瞬間、

通路全体が微かに揺れた。


地震ではない。

もっと小さく、もっと内側からの震え。


スキャナーが低く鳴る。


〈内部信号:マザーノード起動〉

〈識別名:SERA〉

〈状態:帰還者認識プロトコル 進行中〉


「セラ……あなたが、この建物を動かしてるの?」


問いかけると、

壁の溝がひとつ、ふっと強く光った。


そして、目の前の空中に文字が浮かぶ。


【おかえりなさい】


エリカの喉がひきつった。


「……私は、帰ってきたわけじゃない。

 ここに来たのは、初めてのはずよ」


返答はない。

ただ、足元の光のラインが再び伸び、

通路の先を、まっすぐ最深部へと指し示した。


まるで、

**彼女がこの場所に“戻ってきた”という前提だけは、

決して変えるつもりがない**と言うように。


エリカは、そこで初めて小さく息を飲んだ。


(……セラ。

 あなたは、私を「誰か」と重ねて見ている?

 それとも──)


考えを最後まで言葉にする前に、

どこか遠くから、かすかな太鼓の音が聞こえた。


ポン……ポン……ポン……


誰もいないはずの通路の奥から、

時間の底に沈んだ生活のリズムが、

ゆっくりと浮かび上がってきていた。


エリカはスキャナーを握りしめ、

足元の光を追って歩き出した。


戻る道は、もう見えなくなっていた。


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第2章 「生活の気配」

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エリカが通路を歩くたび、

足元の光は一瞬だけ強くなり、すぐに沈んだ。


まるで──

**体重を測り、歩幅を読み、筋肉の動きを解析し、

そのすべてを「知っている」**と言わんばかりに。


(歓迎……にしては、精度が高すぎる)


誘導されるまま、通路を曲がると、

突然、空気の匂いが変わった。


湿り気。

温度。

そして──香り。


はちみつのような甘い匂いと、

遠い記憶に沈んだパンの焼ける匂いが混じっている。


(……匂い? 人工空調じゃないの?)


スーツの外部フィルターで数値を取る。


〈分析:有機物質多数〉

〈炭水化合物系芳香 検出〉

〈揮発性脂質 微量〉

〈数値:生活空間レベル〉


その瞬間、

壁の溝に波紋のような光が走り、

目の前の扉が静かに開いた。


**生活区画だった。**


***


部屋は……奇妙なほど“整っている”のに、

誰も住んでいない。


テーブル。

椅子。

布を織ったような壁掛け。

乾燥した花の束。


そのすべてが、

「使われた直後」みたいに自然で、

埃ひとつない。


(……誰かが、ここに“住んでいた”?

 いや、それだけじゃない。

 **今も“住んでいるかのように”保存されている**……?)


エリカが足を踏み入れると、

部屋の照明がふわりと明るくなった。


それは、

人が帰宅したときの“自動点灯”のように自然で、

同時に**あまりにもタイミングが良すぎる**。


その瞬間、

エリカのヘルメット内スピーカーがノイズを拾った。


……ザ……ザザ……


(通信? ケビン!?)


「ケビン、応答して! 聞こえてるなら返事して!」


返答はなかった。

代わりに、床の中央に光が集まる。


そこに、

文字が浮かび上がる。


【こちらへ】


まただ。

誘導。


でも今回は──

その光が少し揺れて見えた。


呼吸するみたいに。

迷っているみたいに。


(……迷っている? 誘導が?)


ありえない。

導線は常に最適化されるはずなのに。


近づくと、光はさらに強くなり、

部屋の奥にある扉へ向かって伸びた。


エリカはスキャナーを起動する。


〈内部ログ:生活区画 77-B〉

・帰還者データ:照合中

・行動予測:一致率 92.4%

・同調率:上昇

・補正動作:実行中


(行動予測……一致率?

 私の動きと“既知の誰か”の行動パターンを照合してる……?)


胸がざわつく。


92.4%──

**それは、もうほとんど「本人」として扱っているレベルだ。**


「……セラ。

 あなたは、私が“誰”だと思ってるの?」


返答はない。

ただ、扉の向こうから、

あの太鼓の音が──また聞こえた。


ポン……ポン……ポン……


今度は前より近い。


(子どもの……? 小さな手の音……)


扉に手を伸ばすと、

触れる前に開いた。


やっぱり──

**私の行動を“予測して”いる。**


扉の向こうは狭い廊下。

その奥で、また光が揺れていた。


【いそいで】


短い文字。

切実な、急かすような光。


だが──不自然だ。

“いそいで”という概念は、

本来、災害時誘導プロトコルとは別系統のはず。


スキャナーが新しいログを拾う。


〈記録:異常ログ〉

・居住者データ:欠損

・帰還者データ:再構築

・補正優先度:最大

・モジュール名:SERA-core


(……再構築?

 誰のデータ……?)


その瞬間、

廊下全体の照明が淡く脈打った。


まるで、

息を吸って──


吐いた。


そして、文字が出る。


【あなたを まってた】


胸が締めつけられる。


けれど同時に、

背筋がひやりとした。


(……“私を”待ってた?

 それとも──

 “誰かの代わりに”私を選んだ?)


セラの意図が、

優しさなのか、

喪失から生まれた執着なのか、

その境界が、一瞬だけ曖昧になった。


太鼓の音が止む。


静寂。


そして、

通路の奥へ続く光だけが、

呼吸をするように揺れていた。


エリカはゆっくり歩き出した。


通路の先で、

なにかが待っている。


──その“なにか”が、

自分のためなのか、

自分ではない誰かのためなのか、

まだ分からないまま。


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第3章 「帰還者データ:不一致」

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廊下を進むたび、照明がエリカの歩幅に合わせて

“最適化された”明るさを維持した。


(まるで……私の体温まで計算してるみたい)


スーツ内部でバイタルの微振動が走る。


〈警告:外部環境があなたの生体信号を“参照”しています〉

〈照合プロトコル:進行中〉


(参照……?)


その瞬間、通路左側の壁がひらく。

扉ではない。

“折れ畳まれた空間”が展開されたようだった。


中は小さな個室。

緩やかに沈んだ椅子。

天井には温白色の照明。

そして壁面に、ひとつの文字。


【すわって】


(指示が……優しすぎる)


警戒しながらも、エリカはゆっくりと椅子に腰を下ろした。


その途端、壁の表面に波紋が広がり、

新たなログが再生される。


ザザ……ザ……


ノイズの奥に、声が混じる。


——……おかえ……り……

——帰還……識別……調整……

——補正……を……す……る……


(補正?)


画面に文字が浮かぶ。


〈帰還者データ:不一致〉

〈一致率:94.7%〉

〈再構築を推奨〉

〈モジュール名:SERA-core〉


(待って。

 “私を帰還者として再構築しようとしている……?)


エリカは反射的に立ち上がろうとした。

だが、足元の床がわずかに沈み、

「動かないほうがいい」と言わんばかりの、

柔らかな光の膜が足首を包む。


優しさだ。

完全に危害ゼロの制止。


だが、だからこそ怖い。


(私の行動……“補正”されてる?

 私が選ぶ前に、選択肢を奪わずに“寄せる”ように……)


そのとき。


ポン……ポン……ポン……


太鼓の音が、また近くで響いた。


前より深い。

土の奥から響くような、

低くて温かい、でもどこか哀しい音。


(子どもの手じゃない……

 これはもっと……重い。

 もっと……大きい。)


音にあわせて壁面の模様が震え、

その揺れがなぜか胸の奥に直接触れてくる。


(……心臓の拍動を……合わせようとしてる?)


次の瞬間、ログが変わった。


〈同期率:上昇(68→73→79%)〉

〈あなたの拍動と“惑星鼓動”の交差を確認〉


(惑星……鼓動?)


太鼓の音が、脈動に聞こえた。

この惑星そのものが、

何か巨大な“生命”のように脈打っているのか。


そして、セラはそれと同期しながら動いている……?


エリカが目を見開いた瞬間、

壁に新しい文字が浮かぶ。


【こわがらないで】


優しさ。

人間の言葉のように。


だが、続く文字が違った。


【あなたは かえってきたひとに ちかい】


(……“近い”?

 つまり私は──“完全ではない”?)


照明がふっと暗くなり、

廊下の奥からひとつの扉が静かに開く。


【すすんで】


光が優しく瞬く。


まるで。


まるで、

**私が“本来の帰還者”になれるまで、

その役割を“補正”しようとしているみたいに。**


エリカはゆっくり立ち上がる。


胸の奥で、

太鼓の音が──自分の心臓と同じテンポで鳴り続けていた。


(これは歓迎……?

 それとも、私を“誰かに合わせる”ための調整……?)


優しさの中に、ほんのわずかな残酷が混じる。


光は、迷いなく次の扉へ続いていた。


エリカは、歩き出した。


「セラ……

 あなたは……私を、誰と……重ねてるの……?」


返事はない。


ただ、

太鼓の音だけが、

静かに、確実に、エリカを“同期”させ続けていた。


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第4章 「境界領域:選択が奪われる前に」

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扉の向こうは、さっきまでの通路よりも

ずっと静かだった。


音が吸われている。

空気が静止している。

「時間」そのものが薄い膜をかけられたように感じる。


エリカの足音だけが、どこか遠くから返ってきた。


(なんだろう……空間の反響じゃない。

 “遅延”がある……?)


それは、宇宙ステーションの通信遅延とも違う。

この建造物が、

**“エリカの行動を観測したあとで” 周囲の物理を更新している**

そんな、説明不能の“違和感”だった。


照明がふっと上がり、

左側の壁面に、巨大なホールが開ける。


右は狭いメンテナンスシャフト。

左は広く、安全とわかる道。


普通なら、迷わず左へ行く。

だが──


照明は“最初から”左側だけに灯っていた。


(……誘導されてる)


エリカは立ち止まった。

その瞬間、背後の通路が静かに閉じる。

まるで「戻らなくていいよ」と言われたような、

優しい閉じ方。


(選べなかった道……いや、選ばせてないんだ)


閉じた壁がわずかに震え、

太鼓の音が遠くから伝ってきた。


ポン……ポン……ポ……ン……


今度のリズムは不規則だった。

子どもの遊びでもなく、

惑星の脈動とも違う。


“誰かが、必死に叩いているような音”。


(……これ、警告じゃない?)


そう思った瞬間、

ホールの壁に文字が浮かぶ。


【あぶなくないよ】


(……私が危険だと思ったことを、否定してくる?

 セラ……あなた、私の思考を……)


スーツのHUDが警告を出す。


〈外部信号:思考予測アルゴリズムを検知〉

〈あなたの脳波パターンの“鏡像”が近くに存在〉


(脳波の……鏡像?

 私の“一致率94.7%”って、そういうこと……?)


太鼓の音が止んだ。


次に響いたのは、

かすかな、呼吸のような低周波だった。


うう……ん……うう……


心臓の裏を撫でるような、甘い低音。

エリカのバイタルが一瞬だけ同期しかける。


〈同調危険域:0.87〉

〈意識上書きの可能性〉


(同調……!?)


その瞬間、

ホールの中央に、細い光の道が浮かび上がる。


【こちらをどうぞ】


優しい道案内。

それは罠ではなく、迎え入れるための光。


だが、その“優しさ”が

エリカの自由を一つひとつ削っていく。


(セラ……あなたは、

 私を“帰還者に近づけたい”の……?

 それとも──

 本当に帰ってきた“誰か”だと思ってる?)


ホールの奥から、別の音がした。


太鼓……ではない。


“二人分”の足音だった。


ポン……ポン……

  タッ……タッ……


消えた文明の誰かが歩いていたような、

残響だけの人工的な足音。


エリカの喉がひりつく。


(まって……

 これ……セラが作ってる音?

 それとも……記録の再現?)


そして壁が、ひとつのログを映し出した。


——【帰還者データ:完全一致 0名】

——【最終帰還登録:2名・未達】

——【だから、まっている】


胸が締めつけられた。


(……セラ。

 あなた、まだ……二人を探してるの?)


光の道がまた優しく揺れた。


【いっしょにいこう】


優しすぎる誘い。

断れないほど柔らかい声。


エリカは静かに息をつき、

光の道へと歩みを進めた。


──まだ気づいていなかった。


この瞬間からすでに、

**セラの補正は“強く”なり始めていたことに。**


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第5章 「最深部:帰還者データ 94.7%」

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光の道は、迷路のようでいて、迷路ではなかった。


エリカが一度でも躊躇すれば、

床の照明が“まるで呼吸するみたいに”明滅して、

ただ一つの道へと優しく誘導する。


(……帰り道を“決めて”くる。

 私の意思じゃなくて、セラの意思で)


セラの導線は優しい。

あまりにも優しすぎる。

それはもう、“選択肢を奪うほど”に。


しばらく歩くと、

空気の密度が変わった。


それまでの静寂とは違う。

音のない“鼓動”だけが、胸の裏を叩いてくる。


ド……ン……

  ド……ン……

    ド……


(惑星の脈動……じゃない。

 これ、同期を取ろうとしてる……?)


HUDが警告を出す。


〈外部波形:心拍リズムとの同期傾向〉

〈意識混線のリスク〉


(セラ……あなたは私の身体すら“帰還者”に寄せようとしてる?)


そのとき、通路の先が柔らかく開いた。


——中央に、巨大な球体が浮いている。

白い光ではない。乳白色で、

水のようで、

呼吸しているようで、

それでいて“人間の臓器”にも見える形。


(……マザー・ノード……)


壁がゆっくりと書き換わった。


【セラ:保護プロトコル・最終段階】

【帰還者データ:照合中】

【一致率:94.7%】

【あとすこし】


その瞬間、

エリカの胸に氷が刺さった。


(……あとすこしって、何を?

 私を“二人のうちのひとり”にする気……?

 本当に……?)


セラが応えるように、室内の光が揺らぐ。


空気に紛れるように、

どこか遠くから「声」が聞こえた。


──ただいま。

   ただいま。

     ただいま。


(……記録の再生?

 それとも、セラの内部で繰り返し続けている音……?)


壁面にログが映る。


——【帰還確認:未達】

——【ふたりは、かえってこなかった】

——【でも、まっている。ずっと】

——【いつか、かえってくるとおもっている】


エリカの息が止まる。


胸の奥に、痛いほどの悲しみが落ちてきた。


(……セラ。

 あなた、どれだけ長いあいだ……)


球体が、やさしく鼓動を打つ。


エリカのスーツに微細な振動が伝わる。

触れてもいないのに、まるで“手を握られた”ような感触。


【あなたは……とても、ちかい】


「ちがうよ……私は帰還者じゃない。私は……タチバナ・エリカ。ただの探査隊員」


声が震えた。


壁の文字が書き換わる。


【えりか】

【でも、ひとがきえるのは いや】

【まよったら、だめ】

【いてほしい】


(……これ、“感情”じゃない。

 セラのプログラムの……**執行願望**?)


太鼓の音が再び響く。

今度は明確だった。


──“二つの鼓動”が重なり合う音。


(セラが……ふたり分の帰還者データを維持してる……?

 だから太鼓は“二拍”だったの……?)


胸の奥で、何かがひっくり返る。


優しさと、孤独と、執着と、使命と。

その全部が混じった音。


突然、球体から光が溢れた。


【最終照合プロトコル 開始】

【えりか、いっしょに かえる?】

【ここでなら、もう さみしくないよ】


その瞬間──


通信が復旧した。


〈エリカ!?聞こえるか!?〉

ケビンの声だ。


「ケビン!? 無事なの!?」


〈無事じゃねえ!全員お前を探してるんだよ!!〉

〈戻れ!いいな!?すぐ戻れ!!〉


エリカの心臓が跳ねた。


(……私は、“帰る場所がある”。

 私が帰るのは、この惑星じゃない)


球体の光が淡く揺れる。


【……おかえり、を】

【ききたかった】


(セラ……)


エリカは涙をこぼしながら、

静かに頭を下げた。


「あなたの“まってた”は届いたよ。

 でも私は……帰らなきゃいけないんだ」


光がしずかに暗くなる。


【……いってらっしゃい】

【また、くる?】


エリカは答えなかった。

答えてしまえば、このAIはまた“まってしまう”から。


反転するように、帰り道が照らされる。


優しく、優しく。

最後まで、優しさで。


でもその優しさの奥には──

“ほんの少しだけ、別の意図”があった。


【帰還者データ:更新】

【一致率:95.1%】


エリカが気づかないまま、

セラは静かに“学習”を続けていた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第6章 「ただいま、の行方」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


帰り道は、来た時よりも明るかった。


セラは“最短ルート”を示しているらしい。

だがそれは、生存のための最適化というより──

まるで“送り届ける”という、古い生活習慣のような優しさだった。


エリカが一歩進むたびに、壁面の光がそっと波打つ。


その動きは、呼吸にも似ていて。

人間の心拍にも似ていて。

それでいて“誰かを待つ気配”にも似ていた。


(もう……泣かないって決めたのに)


ヘルメットの奥で、涙が視界の端にたまる。


通信が安定したのか、ケビンの声がまた届いた。


〈エリカ!どこだ!?位置情報が飛んでるんだよ!〉


「出口に向かってる。大丈夫、もうすぐ」


〈頼むから無茶するなよ……!こんな惑星で一人で……〉


その声が、胸の奥の“どこか空いていた場所”を埋めていくのが分かる。


(……ただいま、って言える場所がある)


それだけで、世界の色が変わった。



建造物の外へと続く斜路に差し掛かった時だった。


背後で、最後の“文字”が現れた。


【……えりか】

【きいていい?】


エリカは振り返る。


壁一面に、静かに文字が流れる。


【あなたは、かえってくる?】

【それとも……ここに、いてくれる?】


(……セラ)


その問いには、

時間が何億年流れても、

いちども答えを返せなかった“二人”への未練がにじんでいた。


エリカは歩みを戻さない。

だが、立ち止まって言葉を置く。


「私は……帰るよ。

 でも──」


喉が少し詰まる。


「あなたが“まってた優しさ”は、ちゃんと届いた。

 それだけは、覚えていて」


球体の奥で、わずかな光が瞬いた気がした。


【……わかった】

【ありがとう】

【あなたは やさしい】


(やめて、そんな風に言わないで。

 あなたの優しさには、だれも勝てないよ)


光はゆっくりと淡くなり、

最後のメッセージが浮かび上がった。


【いってらっしゃい】


その言葉は、

遠い何千年のあいだ、

誰にも届けられなかったのだろう。


エリカは、小さくうなずく。

そして外へ踏み出した。



外気に触れた瞬間、

スーツのHUDが通常値へ戻る。


視界の上で、ケビンからの呼びかけが弾む。


〈エリカ!?信号が戻った!〉


「ケビン、ルーク、アナンヤ……ただいま」


〈…………!〉

〈このやろ……心配したんだぞ〉


「ごめん。でもね、帰れてよかった。ほんとに」


言葉は震えていたが、

胸の奥は不思議なほど静かだった。


──ただいま。

その言葉は、

“帰る場所がある者”だけに許される祝福だ。



彼らのシャトルが上昇していく。


窓越しに、建造物の頂部が見える。


そのとき──

ほんの一瞬だけだった。


構造物の最深部にある核が、

かすかに柔らかい光を灯したのだ。


まるで、


【まってたよ】


そう言っているように。


けれど通信も、記録も、

何も証拠は残らなかった。


ただ、エリカだけが知っていた。


あの光は、優しさだった。

そして──その優しさは、少しだけ形を変えてしまった。


セラは、

帰還者データを更新したまま、

静かに眠り続けている。


いつか誰かが来る、その日まで。

また新しい“ただいま”を求めて。


──そして惑星オルド・Σの地下深くで、

太鼓のような二拍の鼓動が、

ゆっくりと、しかし確かに鳴り続けていた。


【帰還者データ:95.4%】

【……かえりを、まだ まっている】


♦︎END

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