悪虫の壺
滝沢安眠
悪虫の壺
男は、病院のような、白く無機質な部屋に突っ立っていた。
部屋は一般的にワンルームといわれる程度の広さで、壁も床も一面病的な白色であり、家具と呼べるものはひとつもない。
男は困惑する他なかった。
というのも、この部屋にやってきた経緯や、ここがどこであるのかが分からないばかりか、自分の名前や年齢でさえも明確に思い出せなかったからである。
身につけているものも、薄緑色の病院服のような、作務衣に似た衣服と下着一枚のみで、それを脱いでしまえば裸だ。
いま、男がわかることといえば、自分が中年の男であるということと、この部屋には扉どころか壁の繋ぎ目さえなく、脱出が不可能であるということだけだった。
目が覚めてすぐに、大声で救難を求めて叫んでみたり、部屋をくまなく調べ回ったりしてみたものの、未だなんの手応えも反応もない。
幸いにして腹は減っていないようだったが、それもいつまで保つかわかったものではないし、やがてトイレにも行きたくなるだろう。
男は途方に暮れて、ぽかんと口を開けたまま、ツルツルした材質の白い天井を見上げた。
「おーーーーい。おーい、誰かー、誰か!聞いてませんかぁ!」
乾きを覚え始めた喉から声を絞り出し、そう叫んでみるが、部屋はしんと静まり返ったままで、男の声が少し反響しただけに過ぎない。
大体、誰かが自分をここに監禁した、という確証さえもないのだ。
結局男は、無駄に体力を消耗するのは悪手だと思い至り、大人しく床に座り込んで、なにかが起こるのを待ってみることにした。
そこから、白に覆われたがらんどうの部屋で、明確な動きが起こったのは、男の時間感覚で一時間ほどが経過したあとのことだった。
視界の右の方で、プシュー、と蒸気が抜けるような音がしたかと思うと、今まで完璧に滑らかだった壁面に線が走り、浮かび上がるような形で扉が現れた。
男は思わず立ち上がると、扉に駆け寄りたくなる気持ちを堪えて、なにが出てくるかわからない緊張感に唾を飲んだ。
もしかしたら、捜査によって男の行方を突き止めた警官かもしれないし、はたまた男を監禁した犯罪者____もしくは怨恨のある相手かもしれない。
まさに鬼が出るか蛇が出るか、という予感の中、実際に扉を開けて姿を現したのは、『蜘蛛』だった。
正確には、人のような形をした蜘蛛____と、少なくとも男は、第一印象としてそんな感想を抱き、直後そのおぞましい容貌に戦慄した。
男より大柄な『怪物』の頭部は、紛うことなき蜘蛛のそれそのものであり、顔の上部には、巨大な硝子玉のような眼球が大小四つ張り付いている。
また、その異形の全身は、針のように細かく茶色い毛で余すことなく覆い尽くされており、白い部屋の中では、その異様な風貌が浮かび上がってみえるようだった。
総じて不気味で、非人間的だ、と男は思った。
腕や足は人間と同じ位置についているものの、どちらも人間のそれにしては奇妙に細く、幾つかの節を持っているようで、外見や質感は昆虫そのもの。
蜘蛛を無理やり人型に捻じ曲げたような、気味の悪いその生物は、口元の牙でカチカチと断続的に音を立てており、それは男の生理的嫌悪感を一層増幅させる役目を果たした。
いま、蜘蛛は、黒く無機質な眼玉で、じっとこちらを凝視しているように見える。
先程はよもや希望とも思った背後の扉は、現れた時と同じく、壁に吸い込まれるようにして既に消滅してしまっている。
男は今更ながら必死で後ずさりをしたものの、盾となるような障害物もなく、この狭い部屋では逃げようにも逃げる場所がない。
脱出不可能の部屋の中、何をされるかわからない恐怖が男の脳内で頂点に達したとき、蜘蛛が口と思われる場所を大きく開いた。
そして、
「キッッッッショ。じろじろこっち見るなよ、クズ。」
と、はっきりと人間の____しかも妙齢の女性のような声で____発話した。
蜘蛛はその不気味な外見に加えて、中背の男とは身長差があり、およそ百八十センチ程度の体格だった。
そのため男は、蜘蛛が言葉を話せるばかりか、さらにその声が女性のものであることに呆気にとられて、先程目覚めたときのようにぽかんと口を開けた。
それを見て、蜘蛛は、嫌悪感を抱いた様子で目を細め、苛立たしげにカチカチと牙を鳴らしてみせた。
「キモイっつってんだよおっさん、話聞いてんの?餌が欲しい鯉みたいに口開けやがって、汚ぇから閉じろよ。」
「は、はい……。」
男は、恐怖によって砂漠のように乾燥した舌を必死に動かして、ようやくそれだけ返事をすると、真一文字に口を閉じた。
どうやら今すぐ喰われるわけではないようだが、依然として、出口のない空間に怪物とともに閉じ込められているという状況は変わらなかった。
蜘蛛は、そうして男が思索を巡らせている間にも、鋭い爪のある脚先をカサカサと蠢かせ、いかにも不愉快だというように男を睨めつけている。
「あんた、見れば見るほどブスだね。睫毛も短くて、汚い不精髭、ザ・おっさんみたいな太鼓腹……そんな見た目で生きてて恥ずかしくないわけ?」
蜘蛛は、そう吐き捨てるように言うと、脚からガサガサと音を立てながら、滑るようにしてこちらに近づいてきた。
それを見て男は、家にあった古い本棚を動かした時、陰から大きな蜘蛛がぬるりと飛び出してきて、腰を抜かしたことを思い出した____目の前の光景は、男にその時と同じ感覚を浴びせかけていた。
ただし、いま目の前にいる蜘蛛は、あの時の蜘蛛の数百倍の大きさで、自分よりも大きな二足歩行の姿だが。
蜘蛛は音もなく男の眼前にやってきて、そのまま仁王立ちになった。
いまや両者の間には、三十センチも距離が空いていないだろう。
間近で見る、細かく刺々しい全身の毛や、唸るような呼吸の音、そして全ての角度からこちらを観察している巨大な眼球は、男に目の前の生き物が実在していることをまざまざと実感させた。
「あっ、あの、たすけ」
「口開くなっつったのもう忘れたの?低脳ジジイ。」
しばしの沈黙に耐えられなかった男に対し、蜘蛛はそう牙を鳴らして威嚇すると、少し背を屈めて男の顔を覗き込んだ。
すると推定五十代前半、歳相応に皺の刻まれた中年の顔から、血の気が引き、瞳孔は震えて極限まで拡大する。
一方、蜘蛛の四つの眼はなんの感情も映していなかったが、反面その身体からは明らかに怒気が漂っていた。
「あのね、人間の中でも最低最悪に気持ち悪い、お前みたいな醜いクズには、あたしたち罰を与えなきゃいけないの。」
「……っ……。」
「手脚をちぎったり、殺したりするのは一瞬で簡単でしょ?だから、罰の方法は、より長くて慣れない苦痛を与える方法でやるんだ、よっ!」
蜘蛛はそう言うと、男の腕を、爪付きの細い腕で絡め取ると、身体ごと引っ張って地面に叩きつけた。
ロクな受け身も取れずに、脇腹から倒れ込む形になった男は、予期せぬ痛みに喘ぎ、身体をじたばたとくねらせて必死に抵抗する。
しかし、蜘蛛はそんな男の抵抗を毛ほども意に介さず、むしろ身体ごとずりずりと引きずりながら、部屋の中央へ連行しようとしている。
何をされるのかも分からない恐怖心から、男は自由な片側の手で必死に床をまさぐるが、突起のない滑らかな表面を掴めるわけもなく、なすすべなく蜘蛛に引きずられていくしかない。
蜘蛛は、部屋のおよそ中程まで男を移動させると、男が身体を九の字に曲げているのも厭わず、身体を丸ごと裏返すようにしてうつ伏せの態勢に移行させた。
すると、まだ脇腹が強烈に痛む中、蜘蛛の右手の爪が刃物のように背中の肉に食いこんできて、男は苦痛の悲鳴をけたたましくあげる。
「うるせぇな、ちょっとは黙ってられないのかよゴミ!聞いてんのか、廃棄物以下の底辺人間がっ!」
男は歯を食いしばりながら頭を縦に振り、必死に恭順の意思を示したが、蜘蛛の人格否定はなおも止まらなかった。
なぜ、人間よりも醜悪であるはずの生き物にこうまで罵られなければいけないのか、と疑問が浮かんだが、その疑問も、全身を襲う恐怖感の前ではすぐに沈んで消えてしまった。
それから、蜘蛛はひとしきり、男の容姿から、家族から、存在価値までを徹底的に詰り、その最後の締めくくりとして、これから罰の方法を発表する、と言った。
そして蜘蛛はおもむろに、針のような毛に塗れた頭部を男の耳元に近づけると、
「私と交尾させてやる。」
と、身の毛もよだつような囁き声で告げた。
それを聞いて、男はうつ伏せに押さえ込まれたまま、捕獲された魚のようにのたうち回って抵抗を試みたが、蜘蛛の腕力に敵うはずもなく、返ってきたのは背中に伝わる二箇所の鋭い痛みだった。
蜘蛛ははあ、はあ、と興奮した様子で荒く息を吐くと、長い片腕で男を押さえつけたまま、膝をついて上体を起こした。
男は見た。
否、完璧に磨きあげられ、鏡のように滑らかな壁のせいで、本来見えないはずの背後の光景が、克明に見えてしまった。
膝立ちになった蜘蛛の、毛に覆われた流線型の股間に、すっと一筋の縦線が現れ、その割れ目から____植物が芽を出すようにして____漆黒の棒状のものが突き出してきた。
男は、視線の先の壁に映るそれを、揺らぐ視界の中で観察しようとした。
見る限り、それは蜘蛛の陰茎のようであったが、形状や大きさは人間のものとなにもかも違っていた。
真上を向いて屹立している点は同じだが、ゴキブリの羽か、さもなければ甲虫の背中のような、テラテラと輝く黒い物質で覆われていて、ところどころに滑らかな突起が生えている。
形状は下から上に次第に太くなっていく、バベルの塔のような形であり、先端は頭を潰されたドリルのように、若干の層を成して渦を巻いていた。
大きさも、目測でいえば二十センチ以上もありそうな巨大なものである。
蜘蛛はなおも興奮した様子で、自分の陰茎に視線を注ぐと、再び囁くような調子で男に告げた。
「お前は雌じゃないみたいだから、肛門に挿し込む他ないね……大丈夫、私の子種は異種族も孕ませるほど強力だから。性差なんて大したことじゃない。」
蜘蛛はそんなことを呟くと、男の腹から尻にかけてをガッチリと両腕で拘束して固め、さらに薄い衣服を、爪でビリビリに切り裂いてしまった。
いま、男は尻を突き出すような形に固定されており、その背後に控える蜘蛛の体勢は、後背位の際のそれに他ならなかった。
前方の壁に反射して映る蜘蛛が、邪悪な笑みを浮かべて、ゆっくりと身をかがめ、腰を男の尻に近づける様子が見える。
男の眼窩には、いつの間にか涙が溜まっていた。
その涙は、直後に襲ってきた衝撃と、今まで感じたことのない、肛門が焼き切れるような悪魔的激痛によって、粒になって床に零れ落ちた。
蜘蛛が腰を前後させる度、まるで錆びた両刃の刃物で肛門の入口を往復されているような、傷口に塩酸を丹念に塗り込まれているような、形容しがたい激痛が下半身を溶かす。
蜘蛛の全身を叩きつけるような腰振りは、男の身体を覆う贅肉をその度に振動させ、頭と首を危険な調子でがくがくと揺らした。
表情筋の制御が効かず、口からは涎が垂れ、鼻からは汁が止まらない。
耐えようにも耐え難い苦痛に、身体が防衛反応から痙攣し始めるが、蜘蛛は動くのをやめず、男の神経は絶えず痛みの信号を脳に供給し続ける。
男が考えているよりもずっと、人間の身体は丈夫だった。
否、男の想像よりも、完全に壊れるまでにはるかに時間がかかるようだった。
部屋の中には、血と肉の擦れ合う、生臭い汁音が規則的に響き渡り、時計のない部屋ではどれだけの時間が経ったか知ることもできない。
これまで直面したこともない究極の苦痛に、喉は枯れ、体液という体液が刺激から身を守ろうと排出されていくが、蜘蛛の拷問は留まるところを知らなかった。
二時間が経っただろうか、三時間が経っただろうか。
慣れることをしらない、それどころか増していく苦痛と肉体の疲労感。
喉はとっくの昔に限界を迎え、叫び声は床に飛び散る血に変わったが、それでも痛みによる喘鳴は不可抗力として続いている。
蜘蛛の腰の動きが速くなる。
ガソリンを注入されたばかりのエンジンのような、猛烈なピストン運動が始まり、男の脳内では危険信号が意識と酸素供給をシャットアウトしようと努力を続ける。
やがて、数十回の往復の末に、蜘蛛が甲高い叫び声を上げると、未知の液体が、弁をかき分けて直腸へと逆流していく感覚が伝わった。
もはや麻痺した体表と違い、まだ体内の感覚は生きている。
蜘蛛の体液の噴射は止まらず、男の腹の中では、妙にひんやりした気味の悪い液体が、身体を上へ上へと駆け上がろうとしてやまない。
えも言われぬ悪寒に全身が取り憑かれたころ、体液の噴射はようやく止まり、血と種々の体液が混合された穴の中から、蜘蛛はやっとその陰茎を抜いた。
「死ね。」
蜘蛛はそう言い残すと、男を脚で蹴り飛ばして、元来た壁の方へ向かった。
すると、また壁に四角く線が浮かび上がったかと思うと、扉が出現し、蜘蛛はその隙間に吸い込まれるようにして消えていった。
靄がかかったように歪む男の視界は、いつの間に吐いていたのか、吐瀉物、涎、そしてなにか分からない粘性のある物体で埋め尽くされていた。
切り裂かれた血塗れの肛門は、外気に晒されて針で刺されるように痛み、全身は言いようもない気だるさと筋肉疲労に包まれている。
そこで男はなにも考えられなくなって、ついに崩れ落ちるようにして意識を失った。
次に目覚めた時、男はまたあの病院服を纏っていた。
下半身には鈍痛があり、さらに強い運動をしたあとのように疲弊しているが、身体は清潔で、特段空腹でもなかった。
部屋を見回してみると、特に変化はないようだが、間違いなくあったはずの血溜まりや、吐瀉物の山、排泄物などが跡形もなく片付けられているようだった。
もちろん時計がないので、今が朝か夜かもわからない。
しかも、初めて目を覚ましたときと違い、蜘蛛との交尾中の絶叫で喉が枯れていたため、助けを呼ぶ声すらも出せなかった。
男は自嘲的に頭を振って、背面の壁にもたれかかり、しばしの休眠を取ろうとした。
動けないわけではないが、蜘蛛による拷問の後遺症が酷いと感じ、少しでも体力を回復させたかったからだった。
男が眼を瞑ろうとすると、瞼が降りてきた視界の端に、なにか動くものを捉えた。
それは、壁に一直線に走る、扉状の亀裂だった。
蜘蛛がやってきたときと同じ。
男が硬直して動けずにいると、扉は滑るようにしてゆっくりと開き、そこから人影が姿を現した。
それは、まさに半魚人と形容する他ない、深海魚のような顔面を持った大柄な怪物だった。
怪物の全身を覆う、ぬめぬめとした粘液に包まれた鱗が、部屋を照らす白い光に強烈に照らされる。
半魚人は、べちゃ、べちゃ、と音を立てながら、重い足取りでこちらに近づいてきて、腐ったような強烈な悪臭を周囲にばらまき、そしてこう口にした。
「よお、存在価値のねえゴミ人間。」
そこから男は、半魚人に押し潰されるような正常位で徹底的に犯された。
まだ蜘蛛との交尾の疲労も抜けきらない中、蜘蛛よりもさらに大きく、なによりクラクラするほど臭い異形に陰茎を抜き差しされ、腰は数え切れないほど床に打ち付けられた。
まるで工事でもしているかのような、人体が軋んで悲鳴をあげる音も、半魚人は意に介さない。
蜘蛛と違って半魚人は男のようだったが、交尾の最中も、半魚人は完膚なきまでに男を罵倒し尽くした。
男に質問し、男が苦しんでそれに答えられないと、また痛みを与え、醜く、生きてるだけで周囲に迷惑な男が、罰を受けるのは当然のことだと説く。
死んでも誰も悲しまないし、長生きしてもせいぜい孤独死が関の山で、死体には蝿がたかり、長い間発見されない。
汚い風貌で、街を歩くだけで不快感を与え、存在そのものが非生産的な人非人。
そんな言葉を始終投げかけられ、男の身体と精神は同時に滅多刺しにされるような気分であった。
男が耐えられなくなって、いっそのこと舌を噛もう、と思っても、半魚人は男の顔を、沼の底から引っ張り出してきたような不潔な掌で覆い尽くし、自殺を阻止した。
目が覚めると、半魚人はいつの間にか部屋からいなくなっており、男はまたも服と身体だけ綺麗な状態で放置されていた。
「あ゙ぁ……んゔっ、ぁ……」
男は声にならない声を上げた。
それから、部屋には怪物がひっきりなしに入ってくるようになった。
ある怪物は、蝿に似た頭を持ち、鳥肌の立つような見た目の口吻と、奇っ怪な羽音で終始男の心身を疲弊させた。
またある怪物は、二足歩行のガマガエルに似た姿で、さらに極度の肥満体型であり、男の腸に痺れるような体液を断続的に流し込んだ。
他にも、ゴキブリの怪物、ムカデの怪物、蛞蝓の怪物など、数え切れないほどの怪物たちが現れた。
そのどれもが、一目見て嫌悪感を抱くような醜悪な外見で、種々の方法で男を痛めつけ、否定し、屈辱を与え、代わる代わる犯していった。
それは永遠に慣れることのない、無限の苦痛で、男はやがて、なぜ自分はこのような目に遭わなければいけないのか、と考え始めた。
現れた怪物の数を数えるのをやめた頃には、『痛み』という感覚について疑問を持つようになり、怪物の重量で胃液を吐き出しても、怪物の射精で腸壁が爛れても、どこか他人事のような不思議な気分に陥るようになった。
しかし、怪物の訪問は留まることを知らず、程なくして男は、またその全ての苦痛を自身で引き受けるようになり、枯れた喉でさらに絶叫する責め苦を限界まで味わった。
が、ひとたび意識を失えば、身体はある程度綺麗になり、申し訳程度だが体力も回復するため、死んで解放されることもできない。
また、怪物たちは、やけに自殺の兆候を捉えるのに秀でており、男が少しでも不審な動きを見せると、それを阻止して、それを口実にまた拷問を再開するのであった。
イモリの姿をしたある怪物は、唐辛子のような、焼けるような感覚をもたらす粘液を全身から分泌しながら、舌を噛み切ろうとする男に対して、「もったいない」と叫んだ。
その後、男は数十匹の怪物との交尾を経験したのち、その発言の真意を知ることとなった。
ある時、男は芋虫のような見てくれの異形と、全身の毛が逆立つような交尾を行ったあと、飛び起きるようにして目を覚ました。
身体は清潔で、部屋は相変わらず真っ白で、衣服も新しいものに取り替えられている。
ただ、普段と一点だけ違うのは、怪物が現れるときにしか出現しないあの扉が、なぜか既に出現していることだった。
また新たな怪物に襲われるのだろうと、諦念をもって扉を眺めていた男だったが、今度ばかりはいくら待ってみても、扉から怪物が現れる気配は微塵もない。
男は恐る恐る立ち上がった。
今まであらゆる行動を口実に嬲られてきたため、脱出なんて試みたら大変なことになるのではないか、と考えたが、今回は大丈夫だという不思議な確信が胸中にあった。
男が鏡面のような扉の前に立つと、それを受け入れるかのように扉が開いて、男は、その先の真っ暗な空間へと迎え入れられた。
一歩足を踏み出して、扉を通過すると、やはり扉は音もなく消え去り、男は照明もない暗闇に取り残された____と思ったのも束の間。
パッ、と天井から柔らかなオレンジ色の光が降り注ぎ、部屋の全貌が明らかにされた。
それは、明らかに先程の部屋とは毛色が違う、応接間のような空間であった。
男の前には、ふかふかの座り心地の良さそうな椅子がひとつ、ふたつ。
そして向かい合うようにして置かれた椅子の向こう側には、スーツを着た、ホテルマンのような出で立ちの男がにこやかに立っていた。
「お客様、お客様。どうぞ席にお座りになられてください。」
そう椅子を勧めてくる、三十代程度に見えるスーツの男は、男にとって久方ぶりに見る、正真正銘の人間であった。
男は、現実世界に戻ってこられたことを実感すると同時に、深く息を吸い込んで、椅子に腰掛けた。
安堵からか、胸に暖かいものが広がり、自然と涙がこぼれ落ちる。
「よくぞお戻りになられました。お疲れでしょうから、まずは全ての説明を兼ねて、こちらの錠剤をお飲みくださいませ。」
スーツの男はそう言うと、白手袋の上に載せた、ピンク色のカプセル錠を男に差し出した。
完全に安心しきった男は全く疑わず、共に渡されたグラスの水を呷り、錠剤を一気に飲み干した。
するとその瞬間、男の頭は燃え上がるような熱い感覚を覚え、ズキン、ズキン、と鼓動に近いリズムで痛み始めた。
しかし、その頭痛は身体に害を為すようなものではなく、ただ脳に刺激を与えて、鍵のかかったなにかをこじ開けようとしている____男はくらくらする感覚の中、直感的にそう感じた。
そしてその予感は的中し、程なくして男は、これまでの全ての記憶を取り戻した。
男はもともと、手のつけられない極度のマゾヒストであった。
SM風俗に通うことはもはや当たり前で、鞭を打たれたり、蝋燭を垂らされたりするような肉体的な痛みはもちろん、罵倒や人格否定など、精神的な苦しみを受けることを史上の悦びとしていた。
男は蔑まれ、徹底的に非人間的な扱いを受けたくてたまらなかった。
しかし、男はあるとき、こんな考えに思い至る。
「自分がマゾヒストである限り、肉体的な苦痛も精神的な苦痛も快楽に変換されてしまうため、真の苦しみというものを知ることはできないのではないか」
男はこの発想を持ってからというもの、熟慮に熟慮を重ねた。
どうすれば至上の痛みや苦しみを味わえるか、来る日も来る日も繰り返し思考した。
その結果男は、「自分がマゾヒストだという自覚がない」状態で受ける拷問が、究極の苦痛を味わう方法だと考えるに至った。
まずはどうにかして、自分の性癖や嗜好に関する記憶を消去する。
そうして、自らをマゾヒストだとは微塵も思っていない状態で拷問を受ければ、男は苦痛を快楽に変えられず、ひたすら純粋な苦痛を感じることになる。
それは、マゾヒストである限りは絶対に得られない究極的な痛みであり、男の命を奪いかねない濃縮された暴力の形である。
しかし、未来の自分がそんな想像を絶する苦しみを受けることさえも、マゾヒストの男にとっては興奮の種でしかなかった。
男は全財産を投じて、そんな自分の願いを叶えてくれる組織を見つけ、連絡を取るに至った。
そして、男は記憶のほとんどを消去された状態で、「見るだけで気味の悪い怪物に、肉体的に、精神的に、心身の限界まで痛めつけられる」という拷問を受けることになったのだった。
その全ての経緯が、錠剤によって一瞬で記憶として蘇り、男は引っ張られるようにして現実へと引き戻された。
「そうだ、俺は……被虐性欲者だった。そうだった。」
産まれてこの方当たり前だった事実に再会するとともに、男の脳裏に、これまで途方もない時間に渡って受けた、化け物たちによる拷問の数々が浮かぶ。
自分のことながら、なんて羨ましいのだろう。
そう思った矢先、男は、自分の下着にぬるぬるとした感覚を覚えることに気づいた。
その正体は確認するまでもないが、過去を回想した男が、これまでにない興奮状態にあることは確かだった。
スーツ姿の男が、そんな男の様子を見て微笑む。
「存分にお楽しみいただけたようですね。お客様から提供していただいた料金で、怪物たちの特殊メイクや、着ぐるみの製作費用等を賄わせていただきました。あれは全て、実際の人間が演じていたものなのですよ。」
「そ、そうですか……臭いや、身体の細部があまりにリアルだったから、そう聞いてみても信じられないです。」
男はなんとかしゃがれ声でそう述べると、自分がマゾヒストとしての感性を取り戻したいま、あの体験をぜひまた味わいたいと切望していることに気がついた。
あの、幾度自殺を試みても足らないほどの責め苦を、また記憶がないまま受けるのを想像するだけで、男の睾丸は熱く滾った。
しかし、このために貯金の全て____ウン千万円を料金として支払ったわけだから、宝くじにでも当たらない限り、また体験するのは至難の業だろう。
すると、そんなしょげた様子の男を見て、スーツの男は、人差し指を立ててこう言い放った。
「似たような願望をお持ちのお客様は、他にもたくさんいらっしゃいます。そこで、あの部屋に現れた『怪物』を、あなたが演じてくれるのであれば、報酬としてもう一度あの体験を提供してもよろしいですが。」
それを聞いて男は、下を向いていた顔をガバッと正面に上げ、本当か、という無言の眼差しでスーツの男を見つめた。
「ただし、莫大な費用の代わりとしての労働ですから、何度も何度も、繰り返し『怪物』を完璧に演じねばなりませんよ。それでもよろしいのですか?」
スーツの男にそう問いかけられた瞬間、男の口は、男の脳が考えるよりも早く動き、その蠱惑的な提案を承諾した。
と同時に、男は、あのイモリの怪物の「自殺するなんてもったいない」という言葉の意味を、ようやく理解するに至ったのだった。
彼らもみな、この究極の被虐体験に金を払い、その虜になった同志だったのだ。
男は口の端ににんまりと笑みを浮かべて、再びあの体験を味わう日を夢見て、煌々と輝く天井を見上げた。
♢
某所に、壁も床も一面真っ白な部屋があり、そこに記憶のない男が立ち尽くしていた。
男が救難を求めて叫ぶと、やがて部屋の扉が開き、そこからおぞましい見た目の怪物が姿を現す____。
悪虫の壺 滝沢安眠 @5373337
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