ハッピーエンドはありえない
鈴華圭
ハッピーエンドはありえない
あの時、ああしていれば。なんて。そんな後悔は微塵もない。
あの終わり方は、正解だった。あれ以上の最適解はないほどに、完璧な。
けれど、終わりを迎えてなお失われることのない愛情が、いつまでもこの胸に巣食っている。
2020年、弥生。
2年前に終わった恋心を捨てることができないまま、僕は息苦しさにもがきながら生きていた。
***
2018年、弥生。都内のとある焼き肉屋。
「伊佐君ごめんね。お肉焼いてもらってばっかりで。変わるから伊佐君も食べな」
隣に座る彼女が不意にこちらに話しかけてきて、少し心躍った。
「結構食べてるんで大丈夫です。それに、送別会の主役の間城さんにこんな雑務を押し付けるわけにはいきませんから」
「じゃあ幸島さんに任せよう。あの人食べてばっかりだから」
間城さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて幸島さんを見た。
「いや、俺もさっきから焼いてるよ」
「自分の分だけでしょ」
「自分の分焼いてりゃ立派だろ」
何度も見てきた光景。こうして軽口を言い合う二人を、少し離れたところで笑うのが僕のいつもの立ち位置。
間城さんと楽しそうに話す幸島さんを、羨ましく思ったり、憎々しく思ったりすることは一度もなかった。僕が出会うずっと前から一緒に働く二人がこういう関係を築いていることは当然だと思えたし、むしろ僕が幸島さんの立ち位置にいることにはリアリティがなく、想像することさえできなかった。
「伊佐君、何か注文しようか?」
優しく声をかけてくれる彼女に、特別な何かを期待したりはしない。何か対価のある恋だとは思っていない。不意に得られるこうした些細なやり取りの一つ一つが、僕にとっては十分な幸福だった。
間城さんは、僕がアルバイトとして雇われた職場の上司だった。喜怒哀楽のはっきりした、快活な彼女の姿に僕は惹かれていった。
それが恋だと自覚したのは、半年ほど前だっただろうか。その頃から、この想いの終わらせ方を僕は理解していた。
間城さんは27歳。結婚適齢期といって差し支えのない年齢だろう。一方の僕は、まだまともに収入も得られない大学生の子どもだ。大学卒業まではまだ2年以上もかかる。想像もできない仮定だけど、彼女が僕に好意を持ってくれたとしても、彼女の結婚を考えたとき、僕との交際はあまりに先行きが不透明だ。彼女はそんなリスクを負って恋をするほど子どもではないだろうし、僕自身も彼女を幸せにできない関係なら望めなかった。
最初から、欠片ほどの期待もなかった。
ハッピーエンドはありえない恋だった。
ただ、密やかに、緩やかに、穏やかに。
僕は彼女を愛していた。
状況が変わったのは、2か月前の睦月のこと。正月明けで、業務にやや余裕のある日で。少し休憩をとっていた僕の隣にやってきた彼女は言ったのだ。
「伊佐君。幸島さんのこと、よろしくね。あの人、ダメな人だからさ。手伝ってあげて」
間城さんがなぜ突然そんなことを言い出したのか僕には分からず、何も言えずにいると。
「私、3月いっぱいでこの仕事辞めるんだ」
朗らかな笑顔で、そう言った。
「え……なんで。え、結婚ですか?」
「まさか。転職するの。うちの仕事、きついでしょ?」
その時、僕は彼女に何も言うことができなかった。
あと2年、一緒に仕事ができると疑っていなかった。彼女の言うように、確かにつらい仕事ではあったのかもしれない。だけど、彼女はそれにやりがいを感じていると思っていたし、それに何より、職場には幸島さんがいる。日頃、二人のやり取りを見ていた僕には、間城さんがそれを切り捨ててしまうなんて想像もしていなかった。
僕が大学を卒業して、就職するまで。あと2年は近くで彼女を見ていられると思っていたのに。それなのに、突然残り時間がわずか2か月になる。その寂しさに、僕の胸は初めて締め付けられるような痛みを訴えた。
しかし、何を言おうと、何をしようと、結局のところ結末は変わらない。変えられない。変えようとあがくべきではない。
諦めろ、と。そう言い聞かせて、僕は悲鳴を上げる自分の心臓をなだめるほかなかった。
***
間城さんの送別会は何事もなく、穏やかに幕を閉じた。あっさりしたものだった。そんな大人たちを薄情だと感じるのは僕が子どもだからなんだろう。
少し冷えた夜の空気に包まれて、酔った頭で駅まで歩いていく。間城さんと幸島さんの楽しそうな声を一歩後ろで聞きながら。
あっという間に駅について、終わりの瞬間がやってくる。間城さんと幸島さんと、三人で電車を待つホームに、両方面への山手線が同時に到着した。
「じゃあね、伊佐君。今までありがとうね」
間城さんは、幸島さんの背中を押しながら、東京方面の列車へ向かっていく。
「はい。お世話になりました」
僕も、それだけ言って、逆方面の列車へと向かう。
これで終わりだ。
もう二度と、会うこともないだろう。
未練はない。
散々想像した結末だった。
こんな淡白な告別さえ、僕の想像通り過ぎて思わず笑みがこぼれてしまった。
電車に乗り込んで、そのまま振り返ることなく出発の時を待つ。きっと向かいの列車の車内に目を向けても、彼女は僕に気づかない。
発車のベルが鳴り、扉が閉まる――。
その瞬間だった。
「伊佐君!」
僕の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた。
振り返ると、なぜか間城さんが僕のすぐ後ろ、車両の中に立っていた。
「え、な……?」
驚きのあまり言葉にならず、情けない声を出す。なんで、こっちの電車に。
何も言い出せないまま、車両のドアは閉まってしまう。
「ちょっと。大丈夫ですか、間城さん。向こうの電車じゃないんですか?」
困惑しながら言うと、彼女は居心地悪そうに笑いながら。
「私の家、こっちなんだよね。幸島さん見送ってから次の電車で帰ろうと思ってたんだけど、向こうの方が先に行っちゃったからギリギリ乗れちゃった」
嬉しさと動揺とで僕が何も言えずにいると、列車が動き出して思わずバランスを崩す。
「ほれ。ちゃんと吊革に掴まりな」
彼女はそんな風に、間抜けな僕を笑った。
土曜日の夜更けだ。車内はそれなりに空いていた。列車は言葉を交わし合う僕ら二人を運んでゆく。
「伊佐君は高田馬場乗り換えだよね?」
「あれ、話したことありましたっけ?」
「前に見かけたんだよね。私も高田馬場だから」
当時、それに気付けていれば、間城さんとの関係ももう少し進展は望めたのだろうか。と少しだけ考えてみたけれど、今以上を想像することはやっぱり難しかった。
「転職先はもう決まったんですか?」
「うん。おかげさまで無事にね。配属先とかはこれからだけど」
「良かったですね。転職って結構大変なイメージありましたけど」
「学生時代にいっぱい資格取っておいてよかったよ、ほんと」
伊佐君も就職頑張ってね、と彼女は僕に笑いかけるが、就職のことなんて今はまだ考えられなかった。
「私さ、最後に伊佐君に言いたいことがあったんだよね」
不意に彼女はそう切り出した。
「何ですか?」
「いや、そんな大したことじゃないかもしれないんだけど……伊佐君さ、『急に変われなくて心残り』って、メッセージカードに書いてくれたよね」
それを聞いて、顔が火照ったのが分かった。
メッセージカード。仕事を辞める間城さんに送るために、少し前に職場のみんなで書いたものだった。
書きたいことがたくさんあった。伝えたいことがたくさんあった。けれど、あまりに熱を込めて書いても間城さんを戸惑わせてしまうだけだと思って。気持ち悪がられてしまうかもしれないという恐怖もあって、ちょうどいい塩梅で筆をおいたつもりだった。けれど、後から思い返すとやはりどうしても、想いを込め過ぎた気がしていて、羞恥心からやや後悔していたことだった。
『2か月前に間城さんが辞めると知って、それまでになんとか、お世話になった間城さんに成長した自分の姿を見せたいと思ってシフトを増やしたりもしましたが、やはり急に変わることは難しく、それだけが心残りです』とか、そんな文言を書いた記憶は確かにあった。
思わず頭を抱える。そんなことを書いた過去の自分自身と、それをあえて口にする間城さんを少し恨めしく思った。
「私は、そんなことないと思うよ」
しかし彼女はそう言った。
「十分、変わったよ。シフトも増やして、一生懸命働いてくれて。伊佐君にすごい助けられてたよ」
あの時もそうだった。
バイト経験がなかった僕が働き始めて半年が経った頃。ようやく仕事に慣れて、まともに働けるようになった頃。間城さんは僕を見て、「頼もしくなったね」と笑いながら言ったのだ。
僕は自分に自信がなかった。運動音痴だし、勉強はそれなりにできたけど、人付き合いが大の苦手。社会を知らない僕はバイトを始めた当初、基本的な常識さえ身についておらず、何度も叱責された。だけど、彼女のその一言で、少しだけ、自分に自信を持つことができた。それは僕にとって、救いだったのだ。
だからこそ、やめてほしい。
あなたが認めてくれたことが、どんなに嬉しかったか。
認めてくれたあなたに、どれだけ僕が惹かれたか。
それを、別れの日に思い出させるなんて。
「今までありがとうね。伊佐君」
***
それから、互いに緩やかに言葉を交わしながら。
間もなく、電車は高田馬場駅に到着した。
「伊佐君は西武線乗り換え?」
「はい」
「そっか。じゃあ今度こそ、さよならだ」
間城さんはそう言って、改札出口を見遣った。
今度こそ。本当に。最後の瞬間だ。
「間城さん」
考えるより先に、僕は彼女の名前を呼んでいた。間城さんは微笑を浮かべて小首を傾げた。
「言い残したことでもある?」
「……いくらでも、ありますよ」
後悔なんてないはずだった。
この恋の終え方は、理解していたはずだった。
それなのに。
さっきの彼女の「ありがとう」が消えてくれない。
僕の想いも知らずに、自分ばかり言いたいことを言いやがって。
僕も言いたいことはまだまだたくさん、ある。
「……好きです。僕はあなたが好きでした」
それを告げると、彼女は大きく目を見開いた。
「東屋さんから、間城さんが僕の仕事ぶりを誉めていたと聞いたとき、言葉にできないほど嬉しかった。時折、楽しそうに笑って冗談を言うあなたとの交流が楽しかった。仕事終わりに『今日も遅くまでありがとうね』って、そんな細かな気遣いにずっと支えられていました」
押し殺せずに溢れ出してしまった想いを。せめて無様には見えないように、紡いでいく。
「あなたと一緒に仕事ができて、幸せでした」
僕の告白を受けて、間城さんは頬を掻きながら、
「……伊佐君みたいな若い子に告白されるの、初めてだよ」
と、照れたように笑った。
彼女は天を仰いで、息を吐きだしながら言う。
「全然、気づかなかったなあ」
「叶うとも、叶えようとも思ってませんでしたから。だから、この告白も僕の自己満足で、返事を期待するものではありません」
「そっか。よかった。返事に悩んで伊佐君をこのまま軽く1時間は足止めしてしまうところだったよ」
「まさか。そんなに悩むことではないでしょう」
「悩むよ。私、27よ? そろそろ結婚に向けて慌てだすって」
「なおさら僕みたいな子どもと遊んでいる余裕はないじゃないですか」
「……優しいね。伊佐君は」
「間城さんこそ」
想いを告げるつもりはなかった。
だけど、彼女の優しさに触れて、伝えてよかったと思えた。
「間城さん。今までお世話になりました。どうか、お元気で」
「伊佐君も。勉強頑張って、立派な人になってね」
後悔なんて微塵も残さず。
こうして僕の恋は終わりを告げた。
***
あの時、ああしていれば。なんて。そんな後悔は微塵もない。
けれど、終わりを迎えてなお失われることのない愛情が、いつまでもこの胸に巣食っている。
2020年、弥生。
2年前に終わった恋心を捨てることができないまま、僕は息苦しさにもがきながら生きていた。
ごくごくわずかな学友との別れを惜しみながら、僕を慕ってくれていたごくごくわずかな後輩たちに大学卒業を祝われたのは十日前。激しい就職戦争の中で何とか内定を勝ち取った企業。その初出勤が今日だった。
初日から悠々と出勤するわけにもいかず、かなり余裕をもって電車に乗った。
通勤ラッシュにもまれ、これから毎日続くであろうこの苦痛を呪いながらもなんとか会社の最寄り駅まで到着した。時刻は7時20分。コンビニに寄って昼食を買っていく時間も十分にありそうだ。そう思って改札を出ようとしていた、その時だった。
視界の隅に、見覚えのある顔があった。
それは紛れもなく、僕が愛していた人の顔だった。
しかし彼女は一瞬で、人混みの中に消えてしまう。僕は思わず、人を掻き分け彼女の姿を追っていた。
もう、終わりを迎えた恋だった。なのに、こうして必死に縋りつこうとする僕を見て、彼女は笑うだろうか。もう一度、彼女の笑顔を見れるなら、それもいい。
電車の到着を知らせるアナウンスが遠くで聞こえ、そちらに目を遣ると階段を駆け下りる彼女の姿が見えた。その後を、必死に追いかける。間に合え。間に合え。そう念じながら、格好悪く駆けていく。
階段を下り終えると、すでに電車のドアは閉まっていた。しかし――。
「間城さん!」
あの日と同じく列車にギリギリで飛び込んだであろう彼女の姿が、ドア越しに見えた。そして、彼女も僕の姿をとらえ、目を見開いた。
その目に、いったい僕はどう映ったのだろうか。
彼女は変わりのない笑顔を浮かべながら、僕に向かって親指を立てて。その薬指には、結婚指輪が輝いていた。
多分。僕はこれからも彼女への想いを忘れることはないのだろう。
日常の中で、僕は彼女を緩やかに愛していた。
変えようもない終着点を理解しながら、穏やかな愛を胸の内に抱えていた。
元々叶うはずのない想いだった。叶えるべきとも思わない恋だった。
だから、どうか。どうか、お願いします。
「もしも」の世界の僕がいても、どうかこの恋だけは叶うことがありませんように。
次の更新予定
2025年12月26日 17:15
ハッピーエンドはありえない 鈴華圭 @Suzuhana_Kei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ハッピーエンドはありえないの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます