【短編】理想に接近する

高天ガ原

出会い

 眼鏡が無い。世界がぼやけて見える。


 だが、青空の下、地平線まで土が広がっているのは分かった。目の前に、アスファルトで地面を舗装する現代ではなかなか見ることの出来ないような、清々しいまでに何も無い景色が広がっていた。少しぐらい、この景色を楽しんでも良いだろう。


 暑くもないし、飢えも渇きもない。ただ、今までの記憶がないので、早めに何とかしないといけない気がした。


 暫くして、ぼーっとしていても何も起きないと悟った僕はとりあえず歩き始めてみる。しかし、ここが何処か、さっぱり分からない。直前の記憶も未だに戻らず、どのようにこの場所へ来たのかさえも見当がつかない。


 だが、後頭部を触っても痛みもなければ、外傷すらない。何者かに拉致されたわけではなさそうだ。そもそも拉致されたとして、眼鏡だけを奪われて、どこぞと知らぬ場所に放り出されるのも可笑しい気がした。そんなことを考えながら、ふらふらと歩いていると、遠くに人影を見つけた。

 私は何も考えずに、その人へ話しかけようとする。しかし、唇が縫い付けられたように口が開かない。それどころか表情筋すら動かない。話しかけるのは無理だと分かった。


 顔だけが動かないなんて、今まで経験したことのない状態だ。全身が固まっているわけではないので、人影に駆け寄ること自体は出来そうだ。しかし、駆け寄っても話せないのだったら、意味が無い。むしろ、相手が悪ければ、話せないだけで何をされるか分からない。見過ごすことも考えた。


 しかし、葛藤しているうちに、話しかけずとも遠くの人は僕に気づいたようだ。軽快な足取りで人影が僕の方へ近寄ってきた。近づいてくるほどに人影は何故かぼやけた世界の中で鮮明になっていく。表情が死んでいる今の僕と対照的に、彼女は表情が細やかに変化させていた。


 最初は誰かを見つけることが出来た嬉しさが噴出したのか、頬が緩みきっていた。だが、徐々に知らない人へ話しかける怯えが出たのだろうか。すぐに表情が厳しくなった。だが、それを打ち消すように彼女が口角を上げると、彼女の表情はすぐに柔らかくなる。

 駆け寄りながら表情を千変万化させる彼女に見蕩れていると、初対面なのを意識してだろうか、親しみやすい笑顔で女性は僕に話しかけてきた。


「初めまして……なのかな?」


 女性は僕に向かって微笑みかけた。意味深な問いかけだが、彼女の中では初対面でない可能性があるのだろうか? まさか知り合いでは無いと思うのだが、僕は一生懸命に記憶を探る。しかし、記憶の中に彼女のことを見つけ出すことが出来なかった。

 仕方なく僕は、初めまして……でしょうね、と言おうとする。だが、相変わらず僕の顔は金属のように動かない。その様子を見てか、女性は僕の緊張をほぐそうと話し続けた。


「何故でしょう。私、あなたを知っている気がするの。会ったことはないはずだけど、どこか親近感を覚えてしまうわ……。まるで夢の中で会ったことがあるかのようね。あなたもそう思うでしょう?」


 よく分からない親近感を覚えられているらしい。僕はギリギリ固くなっていない首を動かして、どうにかこうにか頷いておく。もちろん、僕には彼女に会った記憶が無い。しかし、親しみやすい人だと感じたのも事実だ。

 僕を見て、女性は満足したように微笑む。


「夢と言えば、とっておきの話があるの。夢の中って、あり得ない何かに遭遇しがちじゃない? アレって、理想に近づくための訓練らしいの。しかも、理想は近づくと優しく手を差し伸べてくれるらしいわ」


 面白い表現に僕は思わず笑いそうになる。しかし、僕の顔はピクリとも動かない。


「つまらなかったかしら。ごめんなさい」


 申し訳なさそうに謝る女性に僕の方が謝りたかった。しかし、事情を説明しようと思うも、首を振る以上の表現が出来そうにない。

 なんとか首を振って彼女に感謝を伝えようとする。


 しかし、彼女は「嘘でしょー?」と悪戯に笑って受け流した。本気のつもりなんだが、気持ちが伝わらなくて心が冷え込む。

 そんな時、女性は優しく僕の手を取ろうとした。すると、全身にアラートが駆け巡ったかのように、信じられない速度で僕はその手を避けてしまった。女性は目を丸くして、呆然とした。自分の行動ながら、信じられない動きをしたことに僕さえも動揺していた。


 とりあえず、僕は手を合わせて謝意を伝える。それを見て「潔癖症なのかしら?」と女性が呟いた。僕には潔癖の「け」すらない。しかし、体が勝手に動いたのだから、そう思われても仕方なかろう。彼女に抱かせてしまった印象を払拭したいが、僕には出来ることが限られていた。

 落ち着くためだろうか、女性は自身の頬を両手で叩いて気を入れ直していた。茶化すようにマネをして頬を叩いてみると、僕の頬は凄く固区手驚かされた。信じがたい固さへの驚きで僕の表情が変わってくれれば良かったのだが、残念ながら、何も起きなかった。


「びっくりしたけど、話を戻しますね」


 気を取り直したのか、女性はそう言うと、かしこまった顔で話し始めた。


「私たちは理想に出会ったときに、差し伸べられた手を取ってはいけないらしいの。何でも、手が触れた瞬間に両者とも弾けてぐちゃぐちゃになってしまうそうよ?」


 困ったね、とばかりに僕へ視線をやりながら、肩をすくめる彼女へ僕は頷く。そりゃあ怖い、とでも言えれば良かったのに。


「ねぇ、あなたの話を聞かせてよ。どんな過去が会って、どんな世界を見ているの?」


 唐突な質問に僕はもちろん、答えることが出来ない。悩んだ素振りをしながらも、女性が諦めるのを待ってみた。


「私は、今、周りがぼやっとするような滲んだ世界であなたを見つけたの。ここがどこかも分からないし、不安だったわ。ただ、何故か分からないけど、直感に従って歩いてきたの。まるで、人生みたいね。答えもなく歩き続けて、誰かと出会うなんて」


 僕が何も言わないの察してか、自己開示をしてくる女性に物凄い申し訳なさを感じた。どんなに自己開示されても僕は何も言えないのに。焦る気持ちが募るばかりだった。


「次は、あなたの番よ。色々話を聞かせてちょうだい。なんとなく、私はあなたを知っている気がするけど、確信が持てないの」


 僕は何とかすべく身振り手振りで、話せないと伝えようとする。しかし、女性は首をかしげるばかりだ。僕は悲しくなって、肩を落とす。それを見て、女性は寂しそうにした。


「……あなた、無口なのね。何も言わずに、悲しそうにされても何も伝わらないわ」


 そう告げられて僕は申し訳なさで胸が一杯になる。「事情があって困っているのは伝わるけど、私が参っちゃうわよ」とまで言ってくれるので、この人は優しい人なんだろう。


「ただ、なんか、あなたって概念的に完成された人だと思うわ。滲んだ世界の中だから、あなたもぼやけて見えるけど、きっと凄い人なんだと思う。私なんかの話を聞いてくれて、ありがとう。あなたに会えて良かったわ」


 勝手に神格化されている気がするが、悪い気はしなかった。むしろ、僕も話せなくなっていることを察した上で、そう言ってくれる彼女に少し畏怖を覚えていた。慰めようと肩をさすろうとしたが、また異様な嫌悪感が襲ってきて、僕は動けなくなってしまった。


「今まで独りで頑張ってきたから、寂しかったのよ。 でも、こうして誰かとで会えるなら頑張った甲斐もあるわね。最後の最後まで頼れるのは自分だけだと思ってたから、少し気が楽になったわ。過去に出会った人や知識ばかりを信じてきたけど、どこか虚しくて辛かったの」


 一人語りを続ける女性の前で僕はどうしようもない嫌悪感と闘っていた。彼女に触れたら何かが起きる気がする。嫌な予感を拭いきれ無いまま、僕は相づちを打った。


「あら、分かってくれるの? 頷いてくれるなんて嬉しいわ」


 女性が喜んでくれたので、反応としては間違っていなかったのだろうが……複雑な気分だ。すると女性が手を打って僕に提案する。


「せっかくだから、握手でもしませんか? 友好の証と思って。ね?」


 最悪の展開だ。経験したことないレベルの恐怖が湧き上がり、僕は思わず手をポケットに突っ込んだ。女性は苦笑した。


「ほら、手を出してくださる? 何を震えているの? そんなに私が怖いかしら?」


 苦しめるかのように彼女は純真な目で僕を見つめてくる。怖くはないはずなのだ。怖くないはずなのに……。自分が自分でないかのように怖い。


「違うのでしょう? だったら、ポケットから手を出してくださる?」


 僕は一生懸命に手を出そうとする。だが、表情筋と同様に手まで動かなくなってしまった。困り果てて、僕は天を見上げる。すると、女性は「そんなに覚悟の要る事かしら」と言いながら首をかしげた。


「まぁ、良いわ。なんとなく、また会う気がするの。だから、そのときは握手してくださる?」


 女性はそう言うと、僕に微笑みかけた。彼女の優しさが胸に刺さって痛かった。


 それが、僕が「理想の人」と出会う前夜に見た夢だ。そして、僕は、ぼやけてすらいない、はっきりとした現実で、彼女と対峙して、何の制限もなく女性と向きあうことになる。

 だが、その時に握手するべきか迷ったのは言うまでも無い。


 まだ夢を見ている気分だったので、触れたら何かが弾けてしまう気がしたから。

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