青の輪郭
@reijorikawa0408
追憶
人には、ときどき奇妙な形をして記憶に残る人物がいる。
忘れたはずの場所にふと戻るように、ある光景だけが急に胸の奥で再生される。
僕にとってのそれは、いつも決まってSだった。
恋と言うにはあまりに未熟で、
未練と言うには少し透き通りすぎていて、
それでも確かに、僕の人生のどこか深いところに触れていた。
中学生の頃、僕はずっと“自分が弱かったせいだ”と思っていた。
話しかけられなかった。
臆病だった。
距離を詰められなかった。
近づけば壊れてしまう気がしていた。
距離が離れるほど、近くなる。
そんな矛盾が、当時の僕たちの間には確かにあった。
これは、恋の物語ではない。
再会を約束する物語でもない。
ただ、あの時の僕が置き去りにしてきた“章の意味”を、
大人になった僕がそっと拾い集めていく話だ。
最初に彼女の存在を意識したのが、いつだったのかははっきりしない。
ただ、気づいたときにはもう、教室で視線を動かすと、どこかに必ず彼女の輪郭があった。
黒板の前で笑っているときも、女子の輪の真ん中で身振り手振りを交えて話しているときも、廊
下で誰かを追いかけているときも、その輪郭はいつも光に縁取られているように見えた。
その頃の僕は、あまり表情を変えない生徒だった。必要なこと以外はほとんど話さない。休み時
間も机に突っ伏しているか、本を読んでいるか、何もせず窓の外を眺めているか、その程度だ。
それでもなぜか、人前で話す役にはよく選ばれた。英語のスピーチ、弁論大会、学年集会の代
表。教員から見れば「落ち着いていて安心して任せられる子」に見えたのかもしれない。
ただ、同級生から見た僕がどういう存在だったのか。その頃の僕自身は、ほとんど気にしていな
かった。
彼女の名前は、ここでは書かないことにする。
固有名詞を置いてしまうと、なぜか当時の空気がそこだけ一点で固まってしまう気がして、うまく
呼吸ができなくなるからだ。
彼女をはっきりと「特別だ」と意識するきっかけになった出来事は、二年生の冬、百人一首大会
のときだった。
クラスごとに分かれて、大きな教室で百人一首大会が開かれた。班ごとの総枚数を競う形式
で、僕は特に得意というわけでもなかったが、なぜか前の方に座らされていた。同じ班には彼女
と、もう一人、よく一緒にいる友達がいた。僕はその二人と特別仲が良かったわけではない。ただ
名簿順が近かったから、というくらいの理由だったはずだ。
読み手の声が響く。
「ちはやぶる――」
札が一斉に揺れ、畳の上を手が走る。僕は、自分でも少し引くくらいの速さで、次々と札を取っ
ていった。最初の数枚は偶然だったと思う。けれど、何枚か続けて取ってしまうと、頭の中に変な
静けさが生まれた。読み札の最初の一音が聞こえた瞬間、なぜかどこにあるかがわかる。札に
触れる前に、自分の指先の軌道だけが先にイメージとして走っていく。十枚目を取ったとき、僕は
ふと横を見た。彼女が、完全に僕の方を向いていた。驚いたというほど大きな表情ではない。声
を上げるわけでもない。ただ、いつもの教室のざわめきから切り離されたみたいに、僕をまっすぐ
見ていた。その視線に気づいた瞬間、僕の手はぴたりと止まった。次の札を取り損ねて、隣の強
い班に持っていかれる。ざわっと小さく笑いが起きる。僕は慌てて前を向き直った。それでもその
後も、札を取るたびに、視界の端に彼女の横顔が揺れていた。結果的に、僕らの班は「学年一位
のあの子」がいる班に勝った。周りは盛り上がっていた。でも僕の中では、勝ったことそのものよ
りも、「見られていた」という事実の方がずっと大きく残った。
なぜ、見ていたのか。
なぜ、あんな顔で。
その答えは、当時の僕にはまったくわからなかった。
***
百人一首大会から少し時間がたって、文化祭の準備が始まった。僕のクラスはお化け屋敷をす
ることになり、教室の中は毎日のように暗幕や段ボール、ペンキの匂いで満たされるようになっ
た。
放課後。
だんだん人が減っていき、飾りを作る手も、廊下を行き来する足音も少なくなっていく。その日は
なぜか、皆がいっせいに「続きは明日でいっか」と言って、
一斉に教室を出ていってしまった。まだ
散らかったままの道具と紙くずを見て、僕は「どうせ誰かが片付けることになるなら、今やってし
まった方が楽だ」と思った。黒いビニールを丸め、ガムテープを集め、使い終わった筆を洗い場に
運ぶ。机の上の紙片をまとめてゴミ袋に入れ、段ボールを教室の隅に重ねていく。ふと気づくと、
教室はほとんど無人になっていた。窓の外から、だんだんと夕方の光が傾いて差し込んでくる。
そのとき、後ろの扉が静かに開いた。
振り向くと、彼女が立っていた。
何かを言ったわけではない。ただ、少しだけ視線を泳がせてから、当たり前のような顔で教室に
入ってきた。そして僕が片付けていた反対側の端から、黙って段ボールを積み始めた。僕は何を
話していいのかわからず、とりあえず今まで通り手を動かすことにした。しばらくして、ゴミ袋をま
とめようとしたとき、置き場所が被った。僕がゴミ袋を持って振り向いた瞬間、彼女もちょうど同じ
場所に何かを置こうとしていた。
二人とも一瞬動きを止める。
視線がぶつかる。
どちらも何も言えない。
固まった空気を破るように、
「入れろっ」
と、ついて出たように言った。
その表情はいつもの健やかな、輪の中心にいる彼女の顔ではなかった。でもそこに、誰かを馬
鹿にするような色は、なかった。僕は何も返せないまま、ただゴミ袋を少し引いて、彼女の荷物が
入るスペースを空けた。彼女は、それ以上何も喋らず、また黙って片付けに戻った。やがて片付
けが一通り終わると、彼女は何も言わずに、みんながいる教室へ向かって歩いて行った。僕の中
には、色々な言葉が浮かびかけては消えていった。どういう顔をして、何から話せばいいのか。
それがわからないまま、その日は終わった。あの教室の夕方の光だけが、やけにくっきりと残っ
た。
***
文化祭当日。
お化け屋敷の受付担当は、時間でローテーション制になっていた。僕も何コマか、入り口で受付
をする時間が決まっていた。クラスメイトの悲鳴と笑い声が、暗くした教室から漏れてくる。廊下に
は他のクラスの出し物の音楽がまざり合って、空気全体がいつもより少しざわざわしていた。受
付の机に座り、パンフレットを配っていると、廊下の奥から彼女が歩いてくるのが見えた。
別に、その時間に来る必要はなかった。
僕が受付ではない時間帯はいくらでもあったし、クラス全体のタイムテーブルだって、事前に知
らされていたはずだ。それでも彼女は、よりによって僕が受付の時間を選んで来た。友達と二人
で並び、何気ない顔で受付の前に立つ。僕はパンフレットを渡しながら、視線を合わせる勇気が
出ず、「いらっしゃい」とだけ小さな声で言った。彼女は、いつものような笑い声を少し抑えたトーン
で「お願いします」と言って、中へ入っていった。受付の仕事は、そのまま何事もなく続いた。た
だ、彼女の後ろ姿が曲がり角の向こうに消えていくまで、僕はずっとその方向を気にしていた。
「わざわざ、この時間を選んだ」という事実だけが、妙にくっきりした輪郭で、胸の奥に残った。
***
三年生への進級が決まる頃、クラス分けの一覧が貼り出された。
A組の欄に、彼女の名前はなかった。
友達に聞くと、「高校は別のところに行くらしいよ」とあっさり言われた。
僕たちの中学校は中高一貫だったから、多くの生徒はそのままエスカレーターのように進学す
る。そこから外の高校に行くのは、少数派だった。理由はわからなかった。親の転勤なのか、本
人の意思なのか、それとも全く別の事情なのか。ただ一つだけはっきりしていたのは、「何も知ら
なかったのは僕だけだった」ということだ。
そこから、時間だけが妙に急いで進み始めた。
彼女に何かを伝えたいと思った。
でも、その「何か」が恋なのか憧れなのか、感謝なのか、僕にははっきりしなかった。
告白という形にまとめる以外の方法を、当時の僕は知らなかった。
卒業前、僕は彼女に「話したいことがある」と伝えた。
彼女は少し困ったように笑って、
「直接はちょっと……LINEじゃダメ?」と言った。
彼女なりの、精一杯の距離の取り方だったのだろう。
今ならそう思える。
そのときの僕には、「断られた」の一語だけが残った。
家に帰って、少し時間を置いてから、スマートフォンを開いた。
長い文章は書けなかった。
シンプルな言葉で、好きだと伝えた。
好きだった期間や、具体的な場面を並べる勇気はなかった。
しばらくして、通知が来た。
「ごめんね。でも、ありがとう。」
短い文だった。
けれど、その二行には、僕の想像できる以上の事情や迷いや、優しさが詰まっていたのだと思
う。
返信を見て、僕は意外なほど落ち着いていた。
泣いたり、部屋で荒れたりすることはなかった。
ただ、「そうか」とだけ思った。
そして、「ありがとう」と送った。
本当は逆だったのだと、本気で思っていた。
お礼を言うのはこっちの方だ、と。
そうやって、僕たちの中学校での関係は、
一応の終わりを迎えた。
未完成のまま、形だけが「終わり」に押し込まれたような、そんな感覚だった。
***
それから何年か経って、体育祭の日が来た。
僕は生徒会に入り、運営側として忙しく働いていた。
放送の準備やプログラムの確認で、グラウンドの端から端まで何度も歩き回る。アナウンスの
合間に、次の競技のラインを確認する。
開会式が終わり、少しだけ空いた時間、坂の上から人の波が降りてくるのが見えた。
その先頭に、彼女がいた。
この坂を上がって最初に見える位置に、たまたま僕が立っていた。
彼女は一瞬目を見開いて、それから、昔と変わらない笑顔をこちらに向けた。
僕は、顔を伏せた。
胸の奥が、
一気に昔の温度に引き戻される。
あの告白のこと、教室の片付けのこと、百人一首のこと。いろんな断片が、
てくる。
近くにいた同級生が、「話さないの?」と笑い半分で言った。
僕は何と答えたのか覚えていない。多分、曖昧に笑ってごまかしただけだったと思う。
彼女は、そのままグラウンドの方へ歩いて行った。
僕は最後まで顔を上げられなかった。
まるで、光の方を直視できないみたいに。
一気に重なって襲っ
***
同窓会が開かれたのは、それからさらに年月が経ってからだ。
会場の居酒屋に入ると、懐かしい顔が一気に視界に押し寄せてきた。
声変わりした男子、髪型や雰囲気の変わった女子、当時のままのように見える誰か。
彼女もそこにいた。
最初に視界に入ったとき、僕は思わず息を止めた。
輪の真ん中にいて、誰かと話しながら笑っている。その構図だけは、中学の頃と何も変わって
いなかった。
ただ、立ち方も、笑い方も、少し大人になっていた。
輪郭が少しだけ細くなって、肩にかかる髪が、照明の光をやわらかく弾いていた。
僕は離れた席で、別の友人と話しながら、何度も彼女の方を見ないようにした。
見ないようにしているのに、どうしても視界の端で、彼女の輪郭を追ってしまう。
会が進むうちに、何度か目が合った。
合うたびに、彼女は昔と同じように少し笑った。
席替えのタイミングで、彼女の隣の席に、たまたま仲の良い友人が座った。
彼女はその友人と会話をしながら、ときどき僕のいるテーブルの方に視線を飛ばす。
僕が熊本に住んでいるという話を、別のテーブルでしているとき、彼女は少し離れた場所から
「熊本にいるんだ……」と、会話に混ざるように呟いた。
聞き間違えられて、「違う違う」と周りに笑いながら訂正されていた。
僕は、その声を聞きながら、自分からは一歩も動けないままだった。
近くにいるのに、遠い。
話そうと思えば話せる距離にいるのに、その一歩が出ない。
帰り道、仲の良い友人に、「話せば良かったのに」と言われた。
僕は、「顔を見るとムカつく」と、半分冗談のように、半分本気のように答えた。
今思えば、その言葉の裏には、別の意味が詰まっていた。
眩しくて直視できない、という意味だ。
***
それからさらに時間が経って、僕は大学で卒業を間近に控えるようになった。
自分の人生を振り返る機会が増えた。
どの選択が今につながっているのか。
何が自分をつくってきたのか。
そのたびに、何度も、彼女のことを思い出す。
彼女のことを思い出すとき、それは決して「もう一度やり直したい」という種類の未練ではない。
もっと別の、形のつかめない感情だ。
中学生の頃の僕は、彼女のことを「自分をからかう人」だと思っていた。
わざと僕の前を通ってスカートを当てること。
なぜか僕のいる範囲でばかり騒ぐこと。
僕や別の女子と仲良くしている様子を、他の友達と笑いながら話すこと。
その全部を、「弄られている」と受け取っていた。
でも今振り返ると、それは、彼女なりの「近づき方」だったのだと思う。
目線を合わせること。
同じ班になること。
文化祭の片付けを一緒にすること。
受付の時間にあわせて来ること。
お土産のお礼を、わざわざ直接言いに来ること。
どれも、彼女が僕に向かって伸ばしてくれていた細い糸だったのだと、やっと理解できるように
なった。
それに気づけなかったのは、当時の僕の視野の狭さであり、自信のなさであり、周りからの言
葉に振り回される弱さだった。
それでも彼女は、何度も同じ距離まで来てくれていた。
そのことに気づいたとき、なぜだか涙が出た。
彼女を失ったからではなく、自分があの頃、自分自身の価値をまったく認めていなかったこと
が、急にくっきりと見えてしまったからだ。
あの頃の僕は、周りからの評価に一貫性がないことに混乱していた。
ある人は僕を褒める。
ある人は「目が合っただけで勘違いするやつ」と陰で笑う。
ある人は温かい目で見てくれる。
ある人は距離を置く。
その中で、僕の自己評価は常に低い側に引っ張られていた。
彼女の周りにいた一部の男子は、僕と彼女の関係を面白がって、ひそひそと話していた。
「目が合っただけで両想いだと思う変なやつ」だと。
その言葉が、僕の中で長く刺さっていた。
だからこそ、彼女のすべての行動を悪い方に解釈してしまったのだと思う。
本当は、そこに別の解釈の余地があったことに、ようやく気づいた。
それまで「ただの片思いの失敗談」だと思っていた一連の記憶は、別の姿をとり始めた。
僕が一方的に勘違いをしていたわけでもなく、彼女が一方的に僕を弄んでいたわけでもなく、
僕たちはただ、お互いに不器用で、距離の詰め方を知らなかったのだ。
そして、その不器用さの真ん中にあったのは、確かに、どこか誠実な感情だった。
***
この物語を、恋と呼んでしまうには、どこか違和感がある。
かといって、憧れとも違う。
未練と言うには、あまりにも長い時間を挟んで、何度も解釈を更新してきてしまった。
今の僕にとって彼女は、「人生のある章」を象徴する人物になっている。
自分の誠実さや、努力や、対人関係の見方の根っこに、彼女との距離の記憶がある。
それを抜いてしまうと、多分、今の僕はかなり別の形になってしまう。
つまり彼女は、「僕が僕であるための基準」の一部になっている。
もしまたどこかで会えるなら、何を話すだろう。
今でも、そう思うことはある。
そのとき僕は、「あなたのおかげで、こういう大事なものをもらった」と、感謝を伝えたいと思う。
だけど、それが実際に実現するかどうかは、もうあまり問題ではなくなっている。
彼女がどこかで幸せであるなら、それで良い。
その幸福に、僕が必要なら一緒に何かを作っていけばいいし、必要でないなら、それぞれの場
所で別々の幸せを作っていけばいい。
そう考えられるようになったこと自体が、多分、彼女から最後に受け取った贈り物なのだと思う。
***
最近、空を見上げる癖がついた。
特に理由はない。
ただ、ふとした瞬間に、青さの濃さを確かめたくなる。
中学生の頃の僕は、空の色なんて気にしたことがなかった。
教室の窓から見える景色は、ただの背景でしかなかった。
今になってようやく、その青さに目がいくようになった。
距離が離れるほど、近くなる関係がある。
もう二度と交わらないかもしれない線が、どこかでゆっくりと再び近づいていく可能性も、完全に
は否定できない。
そういうことを、うまく言葉にしようとすると、意味がわからなくなる。
だから、今のところは、こうやって静かに空を見上げることにしている。
あの日の距離は、もう戻らない。
廊下ですれ違った間合いも、文化祭の教室で並んだ距離も、受付の机を挟んだ位置も、同窓
会の長いテーブルを挟んだ左右の差も。
どれも一度きりのもので、もう二度と同じ形では再現されない。
それでも、あのとき確かにそこにあった距離感が、今でも僕の中で、生きている。
誠実であろうとすること。
相手を尊重すること。
自分の価値を、少しだけ信じようとすること。
そういうものの輪郭が、あの頃の彼女との距離の中で、ゆっくりと描かれていった。
今日の空は、やけに青い。
その青さの中に、あの頃の教室の夕方の光や、体育祭の日の白い雲や、同窓会の帰り道の街
灯の色が、薄く溶けているような気がする。
きっと、これは気のせいだ。
でも、その「気のせい」を、今は大事にしてもいいような気がしている。
僕は少しだけ息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
あのときの僕よ。
あなたは間違っていなかった。
そう心の中で呟いてから、視線を下ろす。
目の前には、今、関わるべき人たちの顔がある。
これから出会うかもしれない誰かの輪郭が、まだ名前のないまま、どこかに静かに揺れている
はずだ。
その人たちに向けて、僕は今日も、できるだけ誠実であろうとする。
誰かの世界の中で、そっと、青の輪郭になれるように。
青の輪郭 @reijorikawa0408
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