第3話

 十二月の半ばだ。

 期末試験が近い。

 私は放課後、空き教室に忍び込んで、机に突っ伏していた。

 特別教室が集まった棟の、西の端にある空き教室の鍵が壊れているのは、私だけが知る秘密だった。

 晴れていたこの日はそれなりに室内が暖かく、私はただうとうととしていた。


 何年か後、クラスの人たちが高校時代を楽しく思い返す時、私はこのさびれた教室の景色しか覚えていないのかもなあ。

 あとはお店の染みだらけの床とか、汚れだらけの壁とか、染みだらけの天井とか、染みだらけの顔のオーナーとか。

 私の高校生活は、そんなもので占められている。


 がら。


 え?


「なんだ、穴場かと思ったのに先客か」


「……敷野しきのくんじゃん」


 入ってきたのは、同じクラスの男子だった。

 クラスでの彼は取り立てて人気者ではなかったけれど、ただひたすら成績のよさが目立つせいで、有名人だ。

 彼の少し長めの髪は陽に当たると毛先だけ茶色がかっていて、そこだけ秋に戻ったみたいだった。


「悪い、高梨たかなしさん。邪魔するつもりじゃなかった」


「いや、別に私の部屋じゃないから」


 敷野くんは、一度鼻を鳴らした。


「タバコの匂い抜いてたんだろ? 授業中から匂ってたもんな」


 がばっ、と袖や肩の匂いをかぐ。

 いや、制服でお店には行ってない。とすると、髪だ。昨夜、冬だし面倒で頭を洗わずに寝たから。

 案の定、毛先を鼻に近づけると、独特の刺激臭がした。


「うわあ……私、今日ずっとこうだったんだ」


「自覚なかったのか」


「なかった。あ、ていうか私吸ってないからね。バイト先の周りだから」


「そうなんだ? 大変だな」


「……敷野くんて、周りに結構言いふらすタイプ? できれば黙ってて欲しいんだけど」


 ほんの少し、敷野くんが目を見開いた。


「なに? 私変なこと言った?」


「いや。うちの高校バイト禁止じゃないのに、言いふらされて困るようなバイト先なのか、と。つまりそこで喫煙してるのは未成年か」


 ああ、しまった。さっきまでお店のことをうつうつと考えてたものだから。

 喫煙可の喫茶店でもファミレスでも、なんとでも言えたのに。

 もうこうなれば、開き直るしかない。


「そうだよ。余計に言いふらしたくなった?」


「なんでだよ。むしろ言いふらすわけにはいかなくなっただろ」


「……どうも。まあ、放っておいてくれればそれが一番ありがたいよ」


「心配はしてるけどな。どんなバイト先なんだよ、それ?」


「ガールズバー」


 敷野くんが息をのんだ。


「なおかつ、兼アイドル」


 敷野くんがのんだ息を吐き出した。というか吹き出した。


「笑ってるじゃん」


「いや、違う、笑ってはない、げほ、驚いただけ。あ、あいどる……」


 グループ名はバチバチガールズ、なぜなら千葉だから、と追い打ちをかけてやろうかと思ったけど、せっかく私がとった笑いをオーナーにかっさらわれるような気がしてしゃくなので、やめておいた。


「まあでも、意外かな。なんとなく、高梨さんってインドアなイメージあったから」


 私の頭は黒髪のロングで、制服を着崩してもいない。スカートも大して短くしていない。はたから見たら、比較的地味な女子高生だろう。

 一応髪には気を遣っているつもりなので、タバコ臭くなったのが余計に悔しい。


「敷野くん、アイドルって、黒髪の清楚な女子が需要あるんだよ」


 本当は、このほうがオーナーが喜ぶから髪型を変えずにいる。少しでも女子高生らしいほうが、あの人は喜ぶ。

 きっと私が高校を卒業したら、それだけで私の順位は落ちるんだろうな。

 ただ生きているだけで、自動的に二位から陥落するんだ。


「しかしアイドルやるなら、確かに喫煙はやめておいたほうがいいんだろうな。ダンスとかするんだろ?」


「まあね。……でも私がタバコ吸わないのは別の理由」


「へえ?」


 それは聞き返したというより、ただの相槌だったのだろうけど。

 私のほうが止まらなかった。

 誰かに言いたかった、聞いて欲しかった、きっと。ずっと。


「ただでさえ強みがないのに、自分を弱くするものなんか吸いたくない」


 だからお酒も飲まない。たとえ二十歳になっても。

 誰もそんなことは私に聞いてくれないけれど、私は誰かに私のことを聞いて欲しかった。


「……ずいぶん弱気じゃないか」


「だってたぶん私今女子的に一番ピークなのに、それでも二番なんだもん」


「二番?」


「ガールズバーのオーナーの」


 また、敷野くんが息をのんだ。

 しまった、と思った。


「ちなみに、私の源氏名はラブカです。あははー」


 敷野くんは、今度は笑い出さなかった。


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