ちいケストラの逆襲〜La Contrattacco di piccol'orchestra
@bakarappa
ちいケストラの逆襲〜La Contrattacco di piccol'orchestra
指揮者
小原庄助 警備員
親がつけた名前で今さら文句のつけようもないのだが、例の俗謡のごとく「身上潰した」としても、朝寝朝酒朝湯が楽しめる暮らしがおくれたらどんなにいいだろうと思う毎日。
還暦を超えて数年経ったが、いまだにそんな暮らしができた日は一日もない。
このところほとんど毎日、赤い「ニンジン棒」と警備員の装備と自分で作った握り飯をリュックに詰め込み、朝まだ暗いうちに一人暮らしの部屋を出る。
子供のころからどれだけこの名前でからかわれてきたことか。
と、ここまで書いてきて、ふと思った。
なるほど、こういうのを私小説、私ごとを記した小説、というのだろうな。
あの教師の薄笑いが思い浮かんだ。
私小説、つまり身の回りせいぜい三メートルくらいに起きる出来事を「そのまま」書き連ねるような小説は、昔はともかくもはや現代では存在価値がない!というその演説(というか授業?)を聞いたのは、たしか高校時代ではなかったか。
現代では・・・と彼が言ったその「現代」も、今ではもはや半世紀近く前のことになるが、半世紀たった今でも「価値がない」のかどうか、試してみようと思う。
当時はまだ、そのちょっと前に全国的に猛威を振るっていた「全共闘」時代をそのままひきずって生きている長髪の教師がたくさん生息していた時代で、彼もまたそのひとりだった。
そして「私小説」という三文字に、薄笑いをうかべながら大きくバッテンを書いた。
そのバッテンと薄笑いが、なぜか私は今でも忘れられない。
きちんと笑うわけでもなく、もちろん怒りをあらわにするわけでもなく、半分困ったような、薄笑い。
なぜ、自分のことを書いちゃいけないのだろうか。
ふざけんな人間は自分のことしかわからないのだから自分のことを書く以外になにを書けばいいんだこの薄ら馬鹿・・・と今ならこちらが嗤いとばしてしまうようなささいなことなのだが、まだ若かった私はその薄笑いにしばりつけられ、何も書けなくなった。
いや、何も書けなくなった、というのは嘘だ。
それはいわゆる言葉の綾にすぎない。
もちろん文章は死ぬほど書いてきたさ。
今でこそ警備員で喰ってはいるが、最初から警備員だったわけじゃない。とりあえず大学は出たもののなかなか職にありつけず、喰うにも事欠く毎日の果てにようやくもぐりこんだのはとある出版社だった。
「職」にありつけないというのは「食」にありつけないというのと同義語だということを大学卒業以来、食うや食わずで過ごした数か月でいやというほど実感していたから、社員食堂という壊れかけた木造小屋で入社初日に仕出し弁当の昼食にありついた時には、就職できて本当に良かったと実感した。そんな新入社員は、たぶん私一人だったと思うが。
その出版社では、私が入社するより四半世紀前に事業拡大のために山手線のちょいと外側(江戸時代なら見附の外、すなわち田舎だが)にあった小さな社屋を東京のど真ん中に移転、自社ビルを新設していた。その際に創立当時の社屋を以前の場所から移設してきて新築ビルの裏に再建し、豪華なビルの裏で社員食堂として使っていたあたりは、ケチ臭いというか物持ちがいいというか、ともかく新入社員の頃の私は深く考えず、素直に感動していたものだ。地球に優しいとでも思いたかったのかも知れない。
配属されたのは、広告営業部という部署だった。
最初、広告を「つくる」仕事かと勘違いしたが、実態は広告を「もらう」いや「とってくる」・・・いやいや、正直に言えば「だまし取る」仕事だった。その部署では、あきれるくらいたくさんの広告企画書を書いて、それをあきれるくらい多くの会社に配った。
あきれるくらい街を歩いた。
配っている広告企画書に書いてあるのは、その出版社でつくっている雑誌に広告を載せたらどれだけ御社の商品が売れるようになるか・・・というような嘘八百ばかりだった。
その嘘八百を、まじめな顔で心から信じたふりをしてあきれるくらい沢山の会社をだましてきたのがそのころの私の仕事だった。
うまく相手が私の書いた企画書を信じてくれた時には、相手の会社を出てから自分の唇の端に薄笑いが浮かぶのに、私はいつか気付いた。
そして、背中に冷や汗も。
ところがついに、その嘘八百がバレる時がやってきた。
広告をいれる「受け皿」である雑誌が世の中からどんどん消えてゆき、私の所属していた会社もそれを真似するように雑誌をどんどんなくして、さらにどんどん人減らしも始め、私は早期退職に応募した。
雑誌がどんどん消えていったのは、私が書いてきた嘘八百のせい(だけ)ではなく、世の中全体が「雑誌」という、いわば広告によって成り立っているだけの嘘八百な存在にはもう騙されなくなってきた、というだけのこと。
手のひらに乗るくらいの情報端末で、即座に世界中の情報(過去から現在に至るまで)を得ることができる時代に、時間や経費や資材のほとんどを浪費する「雑誌」のような業務形態が、勝てるわけがない。
「雑誌」だけではなく、出版業そのものもこれからは怪しくなるぞ、と早々と判断したその出版社は、実に賢明な判断を下した。
第一段階は人減らし、第二段階では出版業そのものから足を洗い、東京の一等地に位置していることを幸いに、新築からほぼ半世紀経って老朽化した自社ビルを、最後の力を振り絞って貸しビルとして改装し(あの社員食堂など、何の躊躇いもなく踏みつぶして)鮮やかに不動産業へと転身を遂げた。
私たち営業マンが、取締役会がそんなことを企んでいるなどと考える暇もなく、必死にオモテを歩き回っているうちに。
皮肉ではなく、それは実に素晴らしいアイディアだった。
初期投資がえらくかかり、その回収にもさらにえらく時間がかかるという、実に効率悪い出版業から足を洗い、自社ビルが立地している交通至便な地の利を最大限に活かした不動産業への転身は、確かにアタマのいいやり方だった。
確かにアタマのいいやり方ではあるが、切り捨てられる立場としては腹が立った。
腹が立ったけれど、薄笑いを浮かべながら経営陣がうず高く積んだ退職金に目がくらみ、私はそれをつかんで一目散に逃げだした。
いままたオレは嘘八百にひとつ嘘を追加した。嘘の数は八百一になった。
彼らは退職金を「うず高く積んだ」わけでは決してなく、ただ世間知らずの私にはそのように見えた、というだけの話だった。
還暦を目前にしたあの頃に、若き日に感じた厳然たる事実、すなわち「職」とははすなわち「食」のことであるという事実を、退職金がわずか数か月で溶けるように消えてしまった直後に私はあらためて実感した。
職業安定所に飛び込んで手当たり次第に応募したがなかなか「職」にはありつけず、文字通り「三度のめしを一度にして」「沈香も焚かず屁もひらず」という生活態度で切り抜けつつ、ようやくありつけたのが地方都市での警備員の仕事だったというわけだ。
というわけで、私は田舎町で「ニンジン棒」を振る田舎町の警備員になった。
「ニンジン棒」とは、正式には「誘導棒」というのだが、警備員仲間では誰もそんな名前で呼ぶ奴はいなかった。
田舎町とはいえ、工事は規模に関係なく至る所で行われていたから仕事には切れ目がなかったし、その仕事も定時より早めに終わるのが常だった(早く終わっても報酬は規定通り支払われた)。
「出版業」に未練はなかった。
かつての仲間はいくつか自分たちで出版社を立ち上げ「一緒にやらないか」と声をかけてくれる奴もいたが、それは広告営業職をやらないか、という話がほとんど。
つまり、自分たちはかつてのあの会社にいた時と同様に机の前にいて、外で埃まみれになるのもいとわず広告営業に精出す素直な莫迦が欲しかっただけなのだ。
そう、莫迦。
私に声をかけた彼らが浮かべていたのは、あの経営陣と同じような薄笑い、だった。
いざとなればあっさり切り捨てられる、便利なやつが欲しいだけ、ということはすぐにわかったから、それらの話をまともに聞く気にはなれなかった。
その薄笑いを無視してその話に乗り、結局外で埃まみれになったあげくにポイ捨てされるくらいなら、田舎でのんびり「ニンジン棒」を振りながら、その日ごとに支払いを受けるという現在の暮らしのほうが私には気楽だった。
売るものが広告だろうとなんだろうと、営業職というのは外回りが一日の仕事の大半で、街中で排気ガスにまみれることに関しては都内の出版社の営業職も田舎町の警備員も、大して変わりはなかった。
それは同じ「棒」を振っている、という点で警備員も指揮者も大して変わりがない、というのと似ている。
どちらも、あるものをあるべき位置におさめる役割を持っている。
たとえばそれは、片側交互通行、警備員同士では「片交」と呼ぶ作業の時だ。
それは、車道の一方が工事で閉鎖されている時に、空いているもう片方の車道を使って交互にクルマを通していくやり方だ。
反対側の相方と、「ニンジン棒」を振りながら合図を交わしあい、お互いのクルマを流していく。
気の利いた現場なら無線が貸し与えられるのだが、そんな用意のない小さな現場ではお互いの阿吽の呼吸だけが頼りだ。
お互いが振る「ニンジン棒」に無線などの通信装置が装備されていれば話は別だが、そんなものはもちろんない。
ついでに言うなら、「ニンジン棒」にはなんの強制力もない。
制服を着ているからときどき警官と間違われることもあるが、実は警官とはまるで違って、我々には「強制力」などというものは認められていない。
警備員の仕事で最初に叩き込まれるのは、そのことだ。
警笛を吹き、「ニンジン棒」を振りかざしてクルマや歩行者を止める作業は「止まった方がいいですよ」「止まったほうがケガしないですみますよ」と「おすすめ」しているだけで、決してそれは「とまりなさい!」とか「止まれ!」と命令しているわけではなく、それには何の強制力もない、ということを。
たとえば、同じ「棒」であっても警官が手にしている「警棒」には公式に「暴力」という強制力が装備されている。
いざというときにはそれを振るって、人を制御統制する「力」が、公式に認められているのだ。
ところが警備員が振っている誘導棒には、実はなんの強制力もない。
これは警備業法第十五条というものに明確に記されていることで、偉そうに「ニンジン棒」を振っているものの、警備員にはなんの権限もないのである。
仮に警備員が指示を間違えてクルマが正面衝突を起こたり、通行人が事故にあったとしても、法律的には運転者や通行人の個人的な判断ミスに過ぎない、というのが公式見解だ。
しかしそれは公式見解に過ぎず、そんな事故がひとたび発生したらまっさきに首を切られるのは警備員であり、その次に責任を問われるのはその警備員を雇っていた警備会社だ。
つまり、それが世間だ。
強制力がない、という点では、指揮者の振る指揮棒にも実は何の強制力もない。
むしろ、「ニンジン棒」のように光ることもできないという点では、もっと無力だ。
音すら、出せない(無理して振れば風切り音くらいは、出せる)。
強制力はないけれど、たいていの車も人も、警備員の振る「ニンジン棒」に合わせて止まり動き、指揮者の振る「指揮棒」に合わせて演奏する。
「ニンジン棒」を振るたびに、指揮者を連想する警備員は、世界広しといえどもたぶん私ひとりだろう。
実は警備員になる前から、私は指揮者だった。
会社員になる前から、ずっと。
もう百年も昔のことのように思える。
文章を書くことと音楽を奏でることは、私にとっては同じことだった。
いや、文字を読み書きするより早く、私は音に心を奪われた。
耳を澄まして脳髄に響き渡るさまざま音を分析し始めたのは、いつからだったか定かではないけれど、最初の音の記憶は、目の前にくるくると回るおもちゃがぴいぴいと鳴らす音だった。
それがFもしくはファと呼ばれる音である、ということを知ったのは幼稚園に入ってピアノをおもちゃがわりに叩くようになってからのこと。
幼稚園に置いてあったピアノは、私の一番の友達となった。
誰よりも早く幼稚園に行って、誰とも話さずピアノと戯れる私は、たぶん指導者から見たら扱いにくい子供だったことだろう。
文字にも音が潜んでいる、ということに気づいたのは、そのあと漢字を習うようになってからのこと。
小学校を出るころには、人の話している言葉にはもちろん音があり、それはピアノでは模倣できないものの、それぞれある一定の周波数で鳴っているということが、言葉にはできないけれど身体にすっかりしみ込んでいた。
中学になると、世の中のさまざまな音を聴き取り、そこから感じとれるさまざまな気持ちを、最大限に奇想天外かつ効果的な形で発揮できるようにピアノの鍵盤を使って並べかえることは、私にとって最大の楽しみとなった。
世の中のさまざまな楽曲をたった一台のピアノの上に並べ替え、ひとりで表現する愉しみは、私だけのものだった。
高校になると、仲間が出来た。
そして私たちは世の中にあるたくさんの楽曲を自分たちなりに愉しみ始めた。
人数は少なかったけれど、少ないなりに愉しむやり方はすぐ見つかった。
楽曲の中から大事な音を選び抜き、仲間の人数に合わせて譜面を書くことは造作もないことだった。
それはたぶん彫刻家が、大理石の中から彫像を掘り出すのにも似ていた・・・といっても、私には彫刻などはできない。たまたま新聞でとある彫刻家が「大理石に像を刻むのではなく、そのなかに潜む姿を掘り出すのが我々の仕事だ」というようなことを語っているのを読んで、なんだ音楽と同じじゃないかと思っただけだ。
文字を書くのも、同じことだった。
書くべき文字や鳴らすべき音は、私が関わるよりずっと前から「そこ」に存在していた。
書いたり、鳴らしたりする作業は「掘り出す」ことでもあった。
その「掘り出す」やり方は、ひとつではなかった。
「掘り出す」道具は、やがてピアノから指揮棒に変わった。
ピアノを持ち歩くことはできなかったからだ。
ピアノのある音楽室は、顧問の教師が我が物顔で指導している吹奏楽部が占拠していたからだ。
吹奏楽部との放課後の共用(曜日によって交代で使用するなど)を提案した我々に対して、薄笑いを浮かべながら吹奏楽部の顧問は「正規の譜面を使わないインチキ野郎どもに、この音楽室を使わせるわけにはいかない」と言った。
それに抗弁する時間がもったいないから、我々はあっさりと引き下がり、さまざまな空き教室を見つけては自分たちだけの遊びに耽るようになった。
高校を卒業したあともその高校には暇があると通いつめ、後輩たちと同じ遊びに耽っていた。
しかしやがて出版社に就職してからは、さすがにもうそういう遊びに耽る時間はなくなった。
そのまま、時の流れに流されるままに流れに流れ、今や私は田舎町の警備員。
街の指揮者を気取ってはみても、道行く誰も私のことには気づかず、街の風景の一つとして通り過ぎてゆく。
リアルに音を鳴らす指揮者に復帰できるとはもう思えなかった。
その思いがひっくり返ったのは、昨日彼女と思いがけない再会を果たしたからだ。
あの強い眼と背中の荷物のせいで実はすぐに思い出せたのだが、まず知らないふりをしてしまったのは、警備員という今の自分の姿に少し負い目を感じていたのかもしれない。
チェロ
池端理枝子 薬剤師
それにしても、小原さんとあそこで出会えたなんて。
奇跡というより、あたしってやっぱり強運な女なんだ、と思ってしまうあたしは、やっぱりたぶん嫌な女なんだろうな。
気にしてないけど。
まさか、あのショースケさんが警備員やってたなんてね、いや、警備員という仕事に偏見持ってるわけじゃないのよ。
会釈したら、最初はわかんなかったみたいで(当然だよね)早く行け!っていう感じで小原さん、必死に棒振ってたんだけど、あたしが目の前を動かず、
「もしかして、ショースケさん?」
って言ったら、ショースケさん固まっちゃって。
あたしは諦めずにその場に留まり、警備員仕事の邪魔しながら押し問答して、その声や仕草で、やっぱりあのショースケさんだということをなんとか白状させ、仕事終わりに近くの喫茶店で落ち合うことを約束させた。
ショースケさん、あたしの高校の、もうずいぶん上の先輩。
入学した時にはてっきり顧問の先生が指揮しているんだと思い込み、おそるべきことにその思い込みはその年の夏くらいまで続いたのだったから嗤える。
あたしの高校の音楽関係の部活動といえば吹奏楽部が全国的に有名で、そこには多額の予算がつぎこまれていたし、顧問もその世界では有名人らしく、新聞や雑誌などでも数多く取り上げられていた。
だけど管楽器と打楽器だけでチームを組む吹奏楽は、弦楽器(チェロ)をやっているあたしには関係ない世界だった(後で、世界にはチェロ入りの吹奏楽もあるとは知ったけど、あたしには関係ない)。
小さいころからどういうわけか弦楽器、特に低い音をいい音で鳴らすチェロの音色が好きで。
でもまだ小さかったから、身体が楽器に見合うようになるまでしつこく親にせがみまくり、ようやく身体が楽器に釣り合うくらい大きくなった頃に安物の中古をいやいや買ってもらい、あたしはそれでも嬉しくてうれしくて、重い楽器を抱えて街の楽器教室に通いつめた。
小学校にも中学にもチェロを入れてくれる楽団(オケ)はなかった。
あたしはひとりで練習を続けた。
高校受験の頃になり、東京とは川一本隔てただけの、県境のとある県立高校には小さいけれど弦楽合奏団があるのを知って、あたしは中学三年の秋にその高校の文化祭に行ってみた。
そしてあたしはその小さな楽団(オケ)の演奏にとても惹かれてしまったのだ。
文化祭でやっていたのは、どこか哀しげな、陰鬱な旋律の曲で、あたしの知らない曲だった。
プログラムには、ブルックナーという人の弦楽五重奏だということが書かれていた。
プログラムには五重奏、って書いてあるのに、ステージには十数人の弦楽器奏者がいた。
全然五重奏、じゃないじゃん、とその時思ったけど、すぐに気にならなくなったのはその音に引き込まれたせいだ。
客席に背を向けて、腰まで髪を垂らしたひとが指揮をしていた。
指揮をしていた長髪のそのひとを、あたしはてっきりその学校の音楽の先生だと思い込んで疑うことはなかった。
あたしはその高校を受けることにして、合格した。
大して難しい試験ではなかったけど、あの楽団(オケ)に入れるのが嬉しかったのを覚えている。
入学して初めてわかったのだけど、その弦楽合奏同好会はいわゆる部活動ではなく、部室を持たない集団だった。
つまり、「同好会」っていうのはそういうことなのだった。
それでも、中学にはなかったそんな流れ者みたいなやり方が、あたしにはすごく新鮮だった。
学校から予算も部室ももらえないけれど、放課後に空いている教室を使ってもいい、という、つまりそれはただ単に、放課後に居残って教室でおしゃべりに興じているのとほぼ同じことだった。
彼らが校内のどこで活動しているかを探り当て、自分のチェロを抱えて飛び込んだ時も、その長髪のひとはそこにいた。
ただし、指揮だけじゃなくピアノも弾いていた。
ご覧のように人手がたりないからピアノで足りないパートを助けているんだ、とその人は言った。
そして、低音が足りないからチェロが来てくれたのはうれしいな、とも言ってくれた。
髪の毛長くて、でもリンスとかしてなくてボサボサで怪しさ満開だったけど、優しい目をしていた。
それが、ショースケさんだった。
確かにその日、アタシの目の前にはヴァイオリンとヴィオラがそれぞれひとり、だけ。
つまりそれだけじゃ弦楽四重奏すらできない人数で、あの日文化祭で見た様子とはかなり違っていた。
あたしが入学するのと入れ替わりに卒業してしまった当時の三年生がかなり大人数だったからね、今年はまずこれだけの人数でスタート、と、ショースケさんがにこやかに言った。
楽器を手にした数人の先輩たちも、みんななんだか人数が減ったことなど全然気にしてないみたいで、にこにこしているのに安心して、あたしもつられてにこにこした。
そしてその日からあたしは仲間になって、先輩たちにならってショースケさんなんて馴れ馴れしく呼ぶようになったのだけれど、ショースケさんが顧問でもなく、いやそれどころか学校の先生でもなく、単なる年喰った先輩だということがそのうちわかって、あたしは本当に驚いた。
卒業しても高校に来る物好きな人がいるんだ、ということに。
そしてあたしはそこで(といっても同好会の練習は教室の空き状況次第っで毎日場所が変わる。音楽室は吹奏楽部のものだったから、あたしたちは自分の楽器を、ショースケさんは電子ピアノを抱えて毎日さまざまな教室を渡り歩いていた)高校の三年間を過ごした。
あたしが高校三年間を過ごした楽団(オケ)は、「ちびオケ」という名前だった。
先輩たちは弦楽合奏同好会のことをそう呼んでいて、あたしもいつしかそう呼ぶようになっていた。
ちびな楽団(オケ)だから、「ちびオケ」。
その楽団(オケ)では、いろいろな曲に出会った。
もちろんそれらを演奏するにはたいていの場合人手が足りないから(あたしの加入により弦楽四重奏やピアノ五重奏は演奏可能になったが)いろんな曲を聴いてはそれに挑戦したがるあたしたちに、ショースケさんは特別の譜面を書いてきてくれて、あたしたちは悪戦苦闘しながらその譜面と取り組み、その悪戦苦闘を楽しんだ。
ドビュッシーやラヴェルなどが書いた、繊細できらきらしたピアノ曲。
少人数にぴったりなブラームスのハンガリー舞曲やヨハン・シュトラウスなどのワルツ。
どう考えても少人数じゃできないはずの、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウス、マーラーといった大編成の管弦楽。
時にはオペラの有名なアリア、などなど。
ショースケさんがほぼ毎週のように持ってくる手書きの譜面たちは結構歯応え満点だったけど、あたしたちはそれを目一杯楽しんだ。
そんな楽しい三年間を過ごすうちに、楽器弾くのと同じくらい夢中になったのは、ショースケさんの真似をして、その場に集まった人に合わせてなかば即興的な編曲をでっちあげる「遊び」だ。
世間的にはそれを「編曲」という。
編曲の楽しさを教えてくれたのもショースケさんだった。
「編曲ってのはよう、作者ならびに作品への冒涜だってえ意見も多いんだけどさ、俺としては、んなのはかなり料簡の狭い(せめえ、とショースケさんは発音した。ショースケさんの独特な喋り方を完璧に文字で再現する技術があたしにはない。する気もないけど)話でね、そもそもモーツァルトやベートーヴェンの時代には音楽が宮廷つまり、今で言やぁお役所かその辺だな、そういう世界だけの密かな楽しみだったものが世間にようやく広がり始めた時代で、ネットはおろかラジオもテレビもねえ時代から連中は流行りの曲を楽しむためには、目の前にあるてめえらの楽器たちに合わせて編曲するしか手がなかったわけだ、てことはつまり、今の俺らと十八世紀の人たちはほぼおんなじ、ってことよ。だからオリジナルがどうとか聖典への冒涜だとかガタガタいう連中に耳なんか貸してる暇があったら、まず腕を磨けってこと」
そう言われると、無味乾燥な放課後の教室がまるで十八世紀のウィーンとか(行ったことないけど)の雰囲気に思えてきて、あたしはなんだか面白くてたまらなくなって。
あの頃はなんでも、ショースケさんが教えてくれることが面白くてたまらなくて、指揮者ってそういうものだと思ってしまった。
それがどうやら間違いだったということに気付いたのは、かなり経ってからだった。
あたしは高校を出て薬剤師になるために薬科大学に行った。
ヤクザな医師って危ねえよな、というのが、ダジャレ好きなショースケさん流の合格祝いの言葉だった。
薬剤師の資格を取るには六年間の長旅が必要なのだけど、資格さえとってしまえば職に困ることはない。
そういう、職に直結した資格を手にすることがいかに大事かもショースケさんが教えてくれた(そのわりにショースケさんには運転免許すら持っていなかったのだけど)。
普通の大学より長い六年の修行を経て無事に薬剤師の免許を獲得したあたしは、親の実家があった地方都市の薬局に就職が決まった。
考えてみれば、それまでほとんど知らない、いや正解に言うなら数年に一回くらいの割で里帰りには付き合っていたから知らない町ではなかったけれど、その田舎町に来たことがあたしの人生にどれだけ大きな変化を与えてくれたかを考えると、これはもう神様のくれた贈り物としか思えない。
その田舎町で、あたしは割と多忙な日々を送ることになった。
だけど、音楽は続けたかった。
東京あたりとは違うけれどこの辺にもいろんな町でそこそこなアマチュアの楽団(アマオケ)があって、いろいろと渡り歩いて結局、クルマで三十分くらい離れた隣町の楽団に入団した。
その楽団(アマオケ)の指揮者は、あたしたち団員の会費から謝礼を受け取っているくせに(ショースケさんはそんなもの受け取ったことはなかった)なんだか一番偉そうな態度で。
そして人数が足りない時には自分の一存で平気な顔して臨時雇いを入れて。
まあ、臨時雇いとは言ってもそれは地方都市、ちょいと腕の立つアマチュアにすぎなくて、そしてその人たちは同じような楽団(アマオケ)から誘われるままに渡り歩いていたから、どこに行っても似たような人たちがいて。
腕が立つことは確かだったから、時には正団員がはじかれて、つまり演奏に参加できなくなることもあったけれど、そんな時その指揮者は「下手なのが悪いんだ。じっくり反省して腕を磨くいい機会だ」と言うだけだった。
なにより違和感があったのは、楽譜が絶対!という彼の態度だった。
音符のひとつひとつは偉大な作曲家先生が書いた聖典の文字であり、一文字たりとも穢してはならない、という彼の演説を聞きながら、あたしはいつもショースケさんの言葉を思い出していた。
「そもそも今残っている楽譜は作曲家が書いたものそのままじゃなくて、たいていの場合必ず当時の、あるいは現在の出版社の手が入っているんだよね。それを崇め奉るのが好きな奴は拝んでいりゃあいいんだ。だけど俺たちは鼻っから人手が足りねえんだから、聖典でござい、なんておさまりけえってる訳にゃいかねえ。もちろん何でもかんでも好き勝手に直していいわけじゃねえけどさ、MUSICと真剣に向き合えば今ここにいるだけのメンツでどの音を選ぶのが正しい選択肢なのか見えてくる…というか、聴こえてくるはずなんだ。正しいっつってもそりゃその時限りのもんだ、ってことも忘れちゃいけねえ。正解ってのはひとつじゃねえってことさ。逆に、昨日はアタリだと思えたことが、今日はうまくいかねえってこともある。誰かのバランスが変わっただけで、全体の響きってものは変わっちまうもんなんだからね。そこがMUSICの面白いとこなんだが、ま、とどのつまりはいつも周りをよく聴いて、どう弾くのが一番この場に適しているかをよく考えろってことよ」
正解というのは、誰かがあらかじめ目の前に用意してくれるものじゃない。
あたしは薬科大学で、それを別の角度から思い知った。
医者の出してくる処方箋のなかにはかなりいい加減なものが混じっていて、それをチェックするというのも薬剤師の大事な仕事なんだということを、あたしは六年間の長旅で叩き込まれた。
多少薬を間違えても大勢に影響ない、と思うようなざっくりした薬剤師がいたら、それはほぼ犯罪者と同義語になる。
医者ももちろんそうなのだが、どういうわけか彼らの書く処方箋には間違いがある場合があり、あたしたち薬剤師はその「間違い」を防ぐ最後の防波堤なのだ。
その点、音楽は真逆だ。
音を間違えても誰から死ぬことはないし(死ぬほど叱られることはあるかもしれない)むしろその間違えた音が面白かったりする場合さえある。
その楽しい間違いを繰り返すうちに「正しさ」について自分なりに深く考えるようになる。
音楽の場合、「正しい」かどうかより「楽しい」かどうか、心が喜びに震えるかどうかのほうがよっぽど重要だ、ということも。
悲しいメロディを弾いていても、それを弾きながら自分の心が感動に震えるならそれはきっといい演奏で、いい演奏というのは聴いている人にその震えが伝わるかどうかにかかっている、ということもショースケさんから教わった。
「そもそもだなぁ、楽しいというこの『楽』という文字はね、木の周りに集まった人たちがなにかを叩いて踊る様子を描いた象形文字がもとになっていて、この文字一つがMUSICそのものをあらわしているんだ。MUSICという五文字には音楽の女神であるMUSEという四文字が隠れているから、横文字ネイティヴなひとたちにとっては、MUSICという五文字を見たり発音したりするたびに、そこになんか神様的な存在を感じている・・・という説がある。知らねーけどさ。オレは横文字ネイティヴじゃねえし。だけど、漢字ネイティヴであることは間違いないから、『楽』という文字を見ると確かにそこになにか神々しくにぎやかなものを感じられる気がするんだよね。それはもちろんさっきいった由来を知ってからではあるんだけどさ。だからわざわざ『音を楽しむ』から『音楽』だなんて二文字にしなくても、たった一文字『楽』とすれば文字通り楽だったろうにね、明治時代のひとは何事にも肩に力いれてたんだろうねえ。まあ、オレたちは肩の力抜いていこうや」
ショースケさんがそんな話をしてくれたのを思い出したりしながら、その日あたしはショースケさんの警備員仕事をちょっと離れた喫茶店で観察しつつ、あることを考えながらショースケさんの仕事終わりを待った。
「相変わらず、やってんだね?」
仕事終わって、約束通りその喫茶店に現れたショースケさんは、改めてとなりの席に陣取っている楽器をみながら、そう言った。
そう訊かれて、あたしは素直に、はい、って答えた。
その瞬間に、あたしの気持ちが決まった。
ずっと考えていたことの答えが出た。
ショースケさんに、今の楽団(アマオケ)に来てもらおうって。
今の楽団(アマオケ)もちょうどあの高校時代の「ちびオケ」みたいに、参加する人が少なくて。
でも「ちびオケ」とは違って、みんなモチベも低いし。
指揮者はアレだし。
あたしはカリカリするばかりで。
でも、ショースケさんとなら、なんか楽しい楽団(オケ)にできるかもって。
新しい「ちびオケ」、創っちゃおうって。
ファースト・ヴァイオリン
北原和仁 音楽教室講師
今だから言うが、高校時代の「ちびオケ」を復活させようという池端の目論見は最初から破綻していたのだ、と断言する。
今頃冷静な顔して言わないでよ、と、池端が目の前にいたならつっかかかってくるだろうが、もし目の前にいたらたぶん口には出さない。
まさか、池端が高校出てから二十年経ってもまだそんな莫迦なことを考えているとは露知らず・・・というか、池端がまだチェロを続けていたことも、ましてやショースケさんと再会したことも知らなかったのだから仕方ない。
そもそも、あの高校からは数百キロも離れたこんな田舎町で二人とも仕事してるなんてなあ。
まあ、かく言う俺も音大出てから仕事がなくって、結局は流れ流れてこの町の音楽教室の先生になって喰ってるわけだが。
池端はこの田舎町でショースケさんとばったり再会して舞い上がり、我々が高校時代に愉しんでいていたあの「ちびオケ」を自分の楽団(アマオケ)で再現したかったらしいけれど、それはそもそもが無理な話だ。
あの高校が、特殊だったのだ。
それに、この田舎町では。
日本人には、そして特にこんな辺鄙な地方都市では我々が愉しんでいたあの「ちびオケ」みたいなやり方はたぶん、向いていないのだ。
それが、音楽大学ではプロになるための専門教育を受けたものの、いわゆる「教師」「指導者」としての技術やノウハウなどを学ぶ機会がなく、卒業後自らさまざまな現場でたくさんの素人と格闘、いや、指導して学んだ、自分なりの結論だ。
高校時代の我々が自分たちを自虐もこめて呼んでいた「ちびオケ」は、もともと「ちび」であることを目的としていたわけではなく、たまたま「ちび」だったからそう自虐しちまっただけだ。
彼女のいる隣町の楽団(アマオケ)の人数が少ない「ちび」状態だったのも、好き好んで「ちび」でいたかったわけじゃないはずだ。
素人(アマチュア)というのはなんであれ「ちび」ではなく、デカいオケが好きなのだ。
できれば大人数で、大規模な曲を演奏したい。
それが彼らの本音だ。
そうすれば、自分の粗がめだたなくなるからだ。
管楽器と違って、弦楽器は複数名でひとつのパートを演奏するから、どうしても演奏に自信のないうちは少人数での演奏を嫌うようになる。
だから、少ない伝手を辿り、少しでも腕の立つアマチュアを臨時雇いとして頼み込み、体裁ばかりを整える。
赤信号、みんなで渡れば怖くない、というのと似ていて、難しい楽曲でも大人数で弾くと粗が目立たず、なんとなく「弾けちゃった」気分になれるからだ。
大きな会場がたまたまうまいこと押さえられて、誰でも知っている規模の大きな曲を演奏することができて、友達親類縁者にも「立派な場所で立派なオーケストラの一員として、有名な曲を演奏したという実績を誇れることになるからだ。
それが、素人(アマチュア)の実態だ。
そして、彼らはなぜか楽譜に手を入れることを嫌う。
著作権法など知らんわ、とばかりに楽譜を平気な顔でじゃんじゃんコピーすることには何の抵抗も感じておらず、まるで渡航歴の多い人のパスポートよろしく、たくさんの団体の判が押してある譜面を使うことには何の抵抗もないくせに、諸事情によりそこに書いてある音を「ちょいと変えてくれ」というこちらの注文には遠慮なく渋い顔をする。
西洋の大先生の書いた作品に、我々アジアの端っこの矮小黄色人種が手を入れるとはなにごとか、とでも言いたげに。
日本人の好きな「横並び精神」というやつなのかもしれない。
都内でも地方でも、それは変わらない。どこの楽団(アマオケ)も、似たようなものだ。
たぶん池端の所属していた楽団(アマオケ)も。
しかも、彼女が連れて行こうとしていた「新しい指揮者」つまりショースケさんは、履歴書しか見ない人からは音楽の専門教育すら受けていない素人(アマチュア)に過ぎない。
彼の経歴書には東京藝術大学の文字はおろか、いかなる音楽大学の名も、いかなる音楽専門学校の名も入ってはいない。
高校時代に本人から聞いたから、それは確かな事実だ。
そして、人はたいてい履歴書で人を判断する。
その人の目も見ずに。
声も聞かずに。
そんな世間の常識に気づかず、池端はショースケさんの凄さを知らない人に、それをどうやって伝えればいいかをじっくり考えることなく、いつもの豪速球でぶつかっていったに違いない。
池端は音楽のセンスには異様に恵まれている(音楽大学で出会った誰よりも、彼女は耳がよかったしチェロの腕も上だったと、それは今でも思う)が、こと対人関係に対してそのセンスの百分の一くらいなものがあれば「もうちょっと落ち着いて戦略を練ろう」「いきなりショースケさんを連れて行くのはちょっと待とう」くらいのことは思いついただろうに。
いきなりその楽団(アマオケ)に本人を連れて行ったのかどうかまでは知らないが(ショースケさんのためにも、そうでなかったことを祈る)もし連れて行ったとしたら、そしてショースケさんがオレたちが高校時代に知っていたような風体のままだったとしたら、まず普通の楽団(アマオケ)の連中はその見かけだけでお断り、だろう。
いくら池端が口を酸っぱくしてショースケさんのすばらしさを語ったところで、どこから誰が見ても音楽とは無縁の人物にしか見えない人物が、いくら一所懸命に棒を振ったところで、団員の信用を得られていなければ、最初の音すら鳴らなせない。
指揮者とは、自分では音が出せない唯一の音楽家だからだ。
それが楽団(アマオケ)の人々、というものだ。
要するに「変わったこと」が嫌いなのだ。
しかし池端は懲りずに、今のオケをやめて新しく一から楽団をたちあげるのだ、という。
その名も「ちいケストラ」。
「ちびオケ」ではなく、「ちいケストラ」。
「だから『大ケストラ』の反対よ、わかるでしょ」
卒業後二十年ぶりに、スマホの画面越しにその構想を怒鳴りまくる様子を見ながら、つい笑ってしまった。
「ここ笑うところじゃないんだけど!」
スマホの小さな画面の向こうで鼻の穴を大きく膨らませるその様子は、二十年前の高校時代とほとんど変わらず。
そもそも「オーケストラ」は「大(おお)ケストラ」とは書かないし、いやいやそもそも「ケストラ」ってなんだよ、とか、いろいろ言いたいことはあったけれど、もちろん池端はこちらにはそれらのツッコミをいれさせる隙など微塵も与えず、町の音楽教室のチラシで俺の名前を見て、事務所で俺の携帯番号を聞いて早速かけてきた池端はスマホの画面越しに「ちいケストラ計画」なる自分の妄想を三十分近く演説し、久々の池端節の相手をするのにくたびれた俺は結局、苦笑交じりで三人目のメンバーになるのを半ば無理矢理承諾させられた。
卒業以来二十年ぶりに言葉を交わしたのに、久しぶり、と挨拶する暇さえ俺にはついに与えられなかった。
相変わらずだ。
もちろん池端は、ORCHESTRAが「大ケストラ」ではないことも、それが本来は「広間」もしくは平土間のような平らな空間を指す言葉で、そこに集う楽師たちの集団もいつしかそう呼ばれるようになった・・・というようなことは知っていた。
オレ同様に高校時代からショースケさんからそんな話は聞かされていたはずだから、「ちいケストラ」という名称にいろんなツッコミが入るのは計算済みのはず。
アタマも切れるが、気が短くてキレるのも早い・・・あの頃のままだ。
「別にあんたの生徒さんをメンバーに欲しいから誘ってるわけじゃないのよ」
キレるのは早いが粘り強いのもあの頃のままで、三十分近いスマホ越しの演説のなかで、池端は何回もその台詞を繰り返した。
「無理矢理人を増やす気はないのよ。気の合う連中と音楽したいだけ」
そう、オレは池端とは高校時代、とても気が合った。決して恋人とかそういう感じにはならなかったが、たぶんその辺の恋人たち(オレたちの高校は男女交際が盛んだった)よりも深い付き合いができていたのだ、と思う。
もちろんそれは肉体関係ではなく、言葉を使った関係ですらなかった。
ヴァイオリンでプロを目指していたオレは入学してしばらくは「帰宅部」で、授業が終わり次第速攻で学校から脱出し、自宅練習に励んでいた。
それはたまたま、帰宅途中に楽器屋で調整してもらうために楽器を持って行った初夏のある日のことだった。
校門を出た瞬間、オレはちょうど入ってきた男とぶつかった。
「ハンドメイドのケースか。なかなか洒落てるじゃねえか」
伝法な口調で、オレが落としかけたケースを手にしたそいつは(つまり、おかげでオレの楽器は地面に激突するのを免れたわけだが)呟いた。
そいつのいうように、それは確かに職人がひとつひとつ手作りしたケースでデザインも洒落ていて、かなり頑丈な割に軽く、中身は、ストラディバリウスやグァルネリウスなわけはないけれど、国内有数の職人(ケース職人とは別人)が手がけた、つまり中も外もハンドメイドなのだった。
すいません、と会釈して楽器を受け取ろうとすると、
「ちょっとつきあえ」
とそいつはまた呟き、そのままオレの楽器を手にしたまま校内に入ってゆく。
まてよ、と、その肩を掴もうとしたがするりと肩はオレの手をすり抜け、そいつはそのまま校内へズカズカと。
その格好はどうみても楽器屋には見えず、いや、はっきり言って労務者風風。
胡散臭さ、という四文字が服を着て目の前を歩いてゆく。
かと言って楽器を盗むわけでもないらしく、すれ違う教師たちとも顔見知りらしく、会釈しながら行き過ぎていく。
オレは、と言えば、ちょっと待てよ、と繰り返すだけで、どうしてもそいつを捕まえることができずにあとをついていくのに必死で。
気付いたら我々は校舎の四階まで登っていて、そいつが扉を開けたのは、四階の一番端にある普通教室。
音楽室ではないはずなのに、中からなぜか弦楽器の音が聞こえてきた。
けっこう達者な、バッハだった。
大昔にこの世を去ったあの作曲家が残した、あまりに有名な無伴奏チェロのための作品の冒頭、あの有名な分散和音、風に揺らぐ漣のように連続していくあの有名な部分が、無機質極まりない普通の教室の中で違和感たっぷりに響いていた。
それがオレと池端理枝子、そして、「ショースケさん」こと小原庄助さんとの最初の出会いだった。
ショースケさん、いや、その時点ではまだ単なる労務者風の、名も知らぬ胡散臭いおじさんに過ぎなかったのだが、彼はオレに楽器を返すと、教室にセットしてあったキーボードのスイッチを入れ、おもむろにそれを弾き始めた。
それは実に不釣り合い・・・いや、例のフランスの「伯爵」(どうやら爵号など彼はもっていなかったというのが今では定説のようなのだが)が言った「解剖台の上でのミシンとこうもり傘との偶然の出会い」みたいに衝撃的なシーンだった。
傾き始めた夕陽を浴びて窓際でチェロを奏でる女子高校生、そしてそれを労務者風の男が電子キーボードで、チェロの分散和音にそっとよりそうように、シンプルな単旋律を紡いでゆく。
もともと「無伴奏」と銘打たれたその作品は文字通りチェロ一台で演奏される楽曲で、そのほかの旋律もしくは伴奏パートなどは、然ながら存在するわけもない。
もちろん、その美しい分散和音の流れにのせて、和声的に問題なく別のメロディを奏でることは可能だ(例の「アヴェ・マリア」のように)。
理論的には。
しかし、誰もがそうそう理屈通りに美しい旋律を紡ぎだせるわけもない。
和声的に問題なくても、それが「美しい」かどうかは別会計だからだ。
ましてや、見かけ上は音楽とは、特にクラシックとは縁もゆかりもなさそうな労務者風の男では、そして、薄汚れたその無骨な指では。
そんなこちらの先入観をみごとにぶち壊し、その無骨な指は繊細なシングルトーンで美しい旋律を次々にチェロの分散和音(アルペジオ)にのせていった。
チェロを弾く女の子も、相当な腕前だった。
その女の子がつまり池端理枝子で、彼女がいろいろと、つまり演奏や編曲など、通常の音楽大学に通っている学生からは比べ物にならないくらい豊かにして繊細なセンスを持ち、同時にそれを最大限に活用できるという、かつてどこかの政治家につけられたニックネーム「コンピュータ付きブルドーザー」がまったくふさわしい、「知的莫迦力」としか呼びようのない「ナニカ」にそのあとオレは何回も驚かされまくることになるのだが、記念すべき第一次近接遭遇における鮮烈な驚きは、今でも鮮明に覚えている。
そして彼らはある地点までいくと循環進行で、似たような、しかしまったく別の分散和音(アルペジオ)が流れ始めた。
労務者風の男は今度は、チェロの分散和音(アルペジオ)の根音(ルート)を拾いながら、今度はゆったりとしたベースラインを弾いてゆく。
そしてふたりは言葉も交わさず、こちらを見る。
「こちらに、あわせてごらん」
ふたりの紡ぎだす音は、明らかに誘いかけていた。
言葉はなかったけれど、それがわかった。
分散和音(アルペジオ)の端々の音を耳で拾いつつ素早く調律して、弓を構える。
しかし、なにをどう弾けばいい?
一瞬迷い、目を閉じた。
その瞬間、目の前に広い海が見えた。
見えた、ような気がした。
暮れなずむ夕陽に銀色に光りながら、優しく誘い掛けるようにきらきらと揺れる波が。
オレはまよわずその海に飛び込んだ。
ふと気が付くと、こちらのヴァイオリンによりそうようなヴィオラの存在に気付いた。
そしてそれを支えるベースにも。
いつのまにか、たった三人しかいなかったはずの無機質極まりない普通のその教室に、ふたり弦楽器奏者が増えていた。
そしてみんなが、思い思いの単旋律を投げ込み、ひとつの大きな音の渦が生まれようとしていた。
やがて、労務者風の男はおもむろに大きく息を吸うと大きな身振りで半終止の和音(コード)を鳴らし、そこからきらきらと煌めく旋律を弾いて転調することを示し、そこからオレたちはいつまでも言葉を交わすことなく弾き続け、結局十二の調(キー)すべてを弾いてしまった。
それがオレと彼ら「弦楽合奏同好会」通称「ちびオケ」との最初の出会いだった。
そしてその高校を卒業して二十年が経ち、池端はショースケさんと再会し、「ちびオケ」ならぬ「ちいケストラ」の結成を宣言し、街の音楽教室でヴァイオリンを教えているオレに最初の白羽の矢を立てた、というわけだ。
彼女は、オレにコンサートマスターをやってほしい、と言った。
彼女は最後まで、オレの生徒が目当てではなく、オレ自身のヴァイオリンが必要なのだ、と言い張って聞かなかった。
しかし池端の言葉の端々に潜む真意に気づいていたオレは、彼女との会話を終えてからスマホのアドレス帳を開き、「ちいケストラ」のための人選を始めた。
セカンド・ヴァイオリン
小川寛 システムエンジニア
「ちいケストラ」に入って、もう三か月。
入ったころは北原先生、いや、北原さん(これからは一緒に演奏するんだから、「先生」呼ばわりはい加減やめてね、とこないだリハーサルのあとの宴会でそう言われたんだった)とふたりだけの弦楽器セクションだったけど、今日から北原さんの友達の山中さん(ヴィオラ)が参加。
なんとあの東北地方で唯一のプロ楽団(オケ)の人だというから驚いた。
しかも北原さん、池端さんと同じ高校の同級生だという。
「いいね、これで弦楽四重奏が出来るじゃない」
と指揮者の小原さん、じゃなかった、ショースケさん(そう呼ぶように、北原せん・・・じゃなくて北原さんが命じた。有無を言わせないところはやっぱり先生ぽい)が言ったけど、とんでもない、と思った。
私はまだヴァイオリン、始めて間もない素人(アマチュア)なのだから。
「オーケストラといっても、基本はまず弦楽四重奏がきっちり出来ているかどうかが大事なんだ。その上に乗ってくる管楽器も、まず木管五重奏としてかっちりアンサンブルが組めているかどうかが楽団全体の自由な表現力の基本になる」
最初に私が参加した日にショースケさんはそんなことを言ったのだが、「弦楽四重奏がきっちり」というところからして、あやしい。
あやしい、というより、見込み違いも甚だしい。
私は北原さんや池端さんや、そして今日来たバリバリのプロフェッショナルである山中さんとは違うのだ。
もしかしたら、ここに自分のようなものがいてはいけないのではないか、とまで一瞬、思っってしまった。
「あ、小川さん、いまなんとなく『自分のようなものがいていいのか』なんて思ったでしょ。いいんだよ、逆にいてくれなきゃ困る。
ゆっくりじっくり、楽しくやろうよ」
ショースケさんはそう言った。
「そうそう、アンサンブルなんて、腕の良し悪しよりも仲の良し悪しの方が大事なんだし」
練習が終わってからの呑み会(それも「ちいケストラ」の決まりだった)で、ビールの大きなジョッキをぐいぐい空けながら池端女史が言い放った。
美味しいビールだった。
訊けば、この店でつくっているクラフトビールだという(トルコ出身の店長で、きちんと酒類醸造免許も取っているという)。
「まあ、ある程度の腕は必要だけど、そこはじっくりマイペースでね」
北原さんもいつもの調子で元気よく言ったけど、さすがに素人の自分でもそれはあまりにも無理があると思った。
自分以外はみんな、うまい。
というか、ほぼプロだ。
まあ、そんなこと考えるよりもっとしっかり弾かなきゃ、だな。
「ちいケストラ」って最初は変な名前だなと思ったけど、もう慣れた。
最初は見学だけのつもりだったけど、楽器を持って行かなきゃダメって北原さんが言うから持っていったら、案の定、最初から合奏に参加させられちゃって。
だけど驚いたことにすごく簡単な譜面で、楽器始めて間もないのになんだか合奏の雰囲気(だけ)味わえて、さらにそのあとの呑み会が楽しくてその場で正式入団決定。
「小川君にはセカンド・ヴァイオリンを担当してもらう。ポジション低いから弾くのは大してつらくはないだろうけど、とても重要な音ばかりだからよろしく頼むね」
北原さんがそう言った。
ポジションといっても、それは指を押さえる位置のことで、地位とか階級とかは関係ない。
「よくセカンド・ヴァイオリンは下手な人が弾くとか、ひどい場合は安い楽器で弾いてもいい、みたいな誤解があるけど、それは大違いなんだ」
ある日の酒場での北原さんの大演説。
「確かに高い指の位置でメロディを弾くことは少ないのだけれど、ファースト・ヴァイオリンがそうやってメロディを弾いている裏で、それを支えたりヴィオラと一緒にリズムを刻んだり、ある時にはファーストと張り合うように歌いまくったり、と結構いろんな表情を要求されるのがセカンド・ヴァイオリンなんだ。だから、セカンドが上手いオケはいい音がする・・・というのがプロの間では定説なんだよ」
そうなら、もっと私は不適切だ。
「まあ、そう固くならずに。柔道はやったことある?」
ショースケさんがいきなり話を違う方向に振った。
私はうなずいた。
ヴァイオリンは初心者マークだが、柔道は中学時代からやっていて、実は黒帯だ。
「ならば、受け身の大事さってわかるよね」
もちろんだ。
学校の体育授業でも、柔道は受け身から始まる。
怪我をしないようにという配慮があるのは当然だが、武道というのは業を受けてもそのダメージを身体に残さず、いかに生き延びるかというのを身に着けることではないか、と私は思っている。
受け身ができる、という相手だから安心して技をかけられるわけで、そこが単なる殺し合いとは違うところだ。
それを真剣勝負にあらず、と批判する向きもあるが(プロレスを批判する人も同類項だ)それは死というものと真剣に向き合ったことのない、それこそ「素人」の戯言。
技を「受ける」ということを理解することから柔道(他の武道や、プロレスもたぶん)始まる。
ある瞬間には「受け」が「攻め」につながることすらある。
いや、柔道はそれがすべてだ。
そういう意味では、私がセカンド・ヴァイオリンを担当するというのはぴったりなのかもしれない。
もちろんそんなことをショースケさんや北原さんには言わなかったけれど。
今の仕事も「受け身」が基本だ。
言葉を変えるなら「受注産業」。
システムエンジニアは、クライアントからの注文を誠実に「受け」なければならない。
誠実に「受け」るというのは、ただ言われたとおりに、というのともちょっと違う。
先方の注文を理解し、それをもっとも効率よい形でかなえられるようなシステムを考案することは「攻め」ることでもある。
積極的に「攻め」たシステムでなければ、相手の注文を誠実に「受け」たことにはならないからだ。
システムエンジニアだということは北原さんから池端さんに伝わっていたらしく「ホームページくらい創れるでしょ」と言われてホームページ作成係も頼まれた。
全く違う仕事なんだが「同じコンピュータ関係の仕事でしょ」と軽く決めつけてかかる池端さんの勢いに押されてうなづいてしまった。
美人からの「攻め」に対する効率的な「受け身」は身に着けてないので、まっすぐに技を受けてしまい、つまり、私は「ちいケストラ」のホームページ制作も請け負うことになった。
まあ、そっちの方は確かに本職みたいなもんだからね、ヴァイオリンとは違って。
ホームページ制作のためにいろいろ検索して、いろいろなことがわかった。
ヴァイオリンはイスラム圏で使われていた擦弦楽器、つまり弦を擦って音を出すタイプのラバーブという楽器から発展してきた、とか、チェロは英語でVIOLONCELLOって書くけど、それってもともとは英語じゃないらしくて、語源をたどると「VIOLAに『大きな』を意味する接尾辞ONEをつけて、つまりは『大きなヴィオラ』という意味のVIOLONEという言葉がまず出来て・・・いや、もうちょっと正確に言わなきゃ・・・言葉が出来る前にその実体となる楽器VIOLONE(ヴィオローネ)、現代のコントラバスみたいな楽器がまず存在していて、それより小さな楽器には『小さい』を意味する接尾辞CELLをつけ、『ヴィオローネ(VIOLONE)の小さい(CELL)ヴァージョン』という意味のVIOLONCELLOという言葉ならびにその実体が成立した」っていうことだよな・・・イタリア語でCELL って小さいって意味だったんだ、なるほどね、とか、最後のOはどこから来たんだろう、とか(実は花魁の本名だったとかね、そりゃ落語の話か)いやそもそも、大きなヴィオラの小さいヴァージョンとか、行ったり来たり上げたり下げたりが激しくて笑っちゃうんだが、ヴァイオリンも、何億もするみたいなものもあるらしい(北原さんが選んでくれたのはお手頃でよかったなあ)とか、その辺のことは五秒で検索できたけど「ちいケストラ」という言葉はついに見当たらなかった。
まあ、今のところ「世界で唯一」という感じだな、と私はひそかに思っている。
そういう意味では「東北地方唯一の」プロ楽団(オケ)にいる山中さんよりも凄いのかもしれない。
なんとなくうれしくなってホームページにもそう謳った。
クラリネット
横溝正子 輸入商社勤務
東京が嫌いになっただけで、クラリネットまで嫌いになったわけじゃない。
クラリネットは吹奏楽では一番人数の多い楽器だから、隣の人と動きを合わせることが一番大切でひとりだけ目立ってはならない・・・という先輩の命令に従って、時には楽器を持たずに先輩に合わせて体を左右に動かす練習までやった。
東京で過ごした学生時代、今は昔の物語。
でも、今でも時々夢に出てくる。
身体の動きだけを揃える練習。
音出さずに。
嗤える。
馬鹿みたいだったけど、あの頃はそれが正しいと信じて疑わなかった。
先生を喜ばせられるなら、先生が喜んでくれるなら、先生がにこりとしてくれるなら、いや、怒鳴ったり不機嫌な顔をしないでくれるなら、私はなんでも我慢した。我慢するのが正しいことだと信じていたし、回りもそうだったから。
コンクールに勝つ、強い楽団(バンド)であるために。
私たちが卒業するのと同時に指導していた先生が他の学校に転任することになって、お別れの会が開かれ、そこにやってきた先輩たちが新しく市民吹奏楽団(バンド)をつくり、先生にはそこの指導者になってもらうのでみんなもそこに入るように、と、在学当時と同じような口調で、新しく卒業する私たちに命令した。
それに従うのが正しいことだと信じて疑わなかった。
卒業しても、その先生の仲間から抜けることは許されなかった。
だから高校の部活には入らなかった、というより、入れなかったし、入ることは許されなかった。
卒業して自分の学校の部活に入った人もごくわずかにいたけれど、いつのまにか学校の部活をやめてその楽団(バンド)に集まるようになって、そしてその楽団(バンド)はみるみる規模が大きくなって、コンクールの全国大会で金賞を獲るのが当たり前、みたいになって。
吹奏楽の世界には、全国規模の「コンクール」という催しがある。小学校から大学まで、そして社会人になっても参加できる枠があって、いくつもの予選を「勝ち」抜いて、全国大会で金賞を獲るのが夢です!と判で押したようにきっぱり言うのが吹奏楽では優等生と決められていて、音楽に勝つとか負けるとかあるわけないじゃない・・・みたいなことをいう人はいなかった。
いても、すぐに消えた・・・居づらくなって(あるいはたぶんバカバカしくなって?)さっさと辞めていった。
そうやってさっさと消えた人は、残った人からどう思われるかわかるから辞められない・・・密かにそう考えていた人は実はかなり多かったんじゃないかと私は思っている。
私がそうだった。
居なくなったあとで「根性ナシ」「気合が足りない」「人間ができてない」などと悪しざまに言われるのを知っていたし、正直に言えばあの頃のあたしもそう思いこんでしまっていたから、辞めたいなと思うたびに自分を叱りつけ、辞めたら負けだ辞めたら負けだ・・・そう、言いきかせていた。
高校を卒業して、合格した大学は遠く離れた場所にあった。
その学校に東京から通うのは不可能だった。
いや東京から、だけじゃなくて、日本のどこからでも。
海外の大学だったから当たり前なのだけど。
海外留学は望むところだったし、当然ながらその楽団に通うことも不可能になるわけで、しかしそれは間違いなく自分としては新たな人生の喜ぶべき幕開けのように思えたわけで、うきうきと先生に合格と海の向こうへの引越しを告げたとき、先生はおめでとうとは言わず、何か口の中でゴニョゴニョ言うだけだったことを、今でも私は忘れていない。
その瞬間に、私は気付いた。
自分が海外を目指した理由のひとつが、この人から、この人が指導する楽団(バンド)から、そして、この人の言う言葉を無批判に信じている人たちから離れたい、ということだった、ということを。
ひとつ、といった割にはいくつも理由を挙げたけど、ごにょごにょと口ごもる先生の姿を見て、私は正しい選択をしたことを確信した。
さすがにあまりに非常識だからその先生は口ごもってしまったのだとは思うが、「大学と楽団とどっちが大事なんだ?いや、大学より楽団(バンド)の方が大事だろう?違うか?ここが続けられないなら、音楽どころか勉強も仕事も、なにもお前には続けられないぞ」というような先生の本音がその目の奥から漏れ聞こえてきて・・・そして酔っぱらったその先生が、まさにその通りの言葉を、私には言えなかったそのセリフを私の友達に呟いていたというのをその友達から聞いて私は大笑いした。
大笑いしたまま空港に向い、それから十数年、日本には帰らなかったし、楽団(バンド)関係者とも出会うことはなかった。
クラリネットはあくまでも私の趣味でしかなかったし、海外に行ってみたら勉強が忙しくて音楽どころではなくなった、というのが正直なところ。
音楽どころではなかった、というか、誰かと合奏するような暇がなかった、と書くべきか。
またおかしなことを言う指導者と出会うのも嫌だし、そもそもそんな時間を捻出する物理的な、金銭的な、そして何より精神的な余裕というものがなかった。
それでも、クラリネットだけは腐らないように毎週日曜日の夕方にはケースから出してリードをとりつけ、そっと音を出し、そして丁寧に湿り気をふき取ってまたケースにしまう、ということを繰り返していた。
クラリネットだけは、忘れたくなかったのだ。
忘れなかったおかげで、アルバートに出会えたのだから。
アルバートというのは、クラリネットの名前のことね。
アルバート式クラリネット。
それまで、東京のあの先生のもとで吹かされていたのは最新式の高価な(それをクラリネット全員でそろえなければ金賞が獲れない!という先生の命令で、親に無理を言って買ってもらったものだ)楽器で、あたしが海外にもっていったのもそれだった。
毎週一回は磨いていたのだから、あれから十数年が経っても金属部分はぴかぴかだった。
しかしアルバート式のクラリネットというのは二十世紀の初めごろに生まれたという、古いシステムの楽器で、中古しかなく、値段もずっと安い。
古い、といっても他の楽器に比べたらクラリネット自体は、歴史の流れのなかで見ればかなり新しい楽器で、音楽室によく飾ってあるかつらをかぶったバッハの時代にはまだ存在していなかった、というのは有名な話。
音楽室の肖像画だけみると同世代みたいに見えるけど、リアルに数えるとバッハとは七十歳くらい離れたモーツァルトの時代になってようやく使われるようになったものの、有名な交響曲第四十番にクラリネットはないのが残念・・・残念と書いたのは、個人的にあのメロディが大好きだったりするので。
アルバート式クラリネットなんてものが存在する、なんて話はあの教師のもとではまったく聞いたことなかった。
教えてくれたのは海外でのはじめてのひとり暮らしを始めた街で出会った、クラリネット吹きのおじさん。
そのおじさんは、いつもひとりで演奏していた。
街角で。
歩いていたらなんだか懐かしい音がして、その音のする方へ歩いていくと、おじさんがクラリネットを吹いていた。
宮沢賢治の書いた「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」が好きで、暗記するほど読んでいたけど、最初の方に出てくる「すすり泣くクラリオネット」(宮沢賢治は、「クラリオネット」と綴っているが、実際にそう呼んでいる人には、あたしはまだ会ったことがない)っていうのはきっとこんな感じの音だったんだ、と思って、立ち止まってしばらく聴いていた。
クラリネット、やっていたの?
吹き終わっておじさんは、言った。
何も言ってないのに、どうしてわかったの?と私は言った。
クラリネット吹きは、クラリネット吹きがわかるんだよ、とおじさんは言った。
そしてアルバート式の説明から始まって、クラリネットの色々な話を教えてくれたのだ。
おじさんとの会話はとてもあったかくて、おじさんが吹くクラリネットのメロディもとてもあったかくて、週末には暇つぶしにそこで吹いているというおじさんの「おっかけ」みたいになって、そのうち、一緒に吹いてみないか、とおじさんが言うので、久しぶりに押入れの奥にしまい込んでいたクラリネットを持ち出して吹いた夕暮れもあったけど。
だけどどうしてもおじさんのような音は出せなくて、それは私が下手だったから、というだけじゃなくて、なんだか根本的に違う楽器みたいに響くのだった、おじさんのクラリネットは。
そのアルバート式というクラリネットが試したくなって、あたしは自分が暮らすその町にたった一軒しかない楽器屋に聞いたのだが、そんな楽器は今もうつくってない、売ってない、と、まだ二十歳そこそこの店員は薄笑いを浮かべながら言われてしまい、髭もじゃの店長まで出てきて、いまさらアルバートなんてどうかしてる、たぶんあのじいさん(店長はあのおじさんを知っていたようだった)がスケベ心だして言い寄ってきたんだろ、と、明らかに東洋人の物知らずな女を二人してバカにしているのがわかって悔しかったけれどあたしにはそのころまだ言い返す言語能力がなくて、悔しかったけどその夜は文字通り泣き寝入り。
そのことをおじさんに言ったらなんとおじさんはもう一本余っている楽器があるのでそれを私に貸してくれる、という。
申し訳ないな、と思いつつそれを借りてあたしはちょっと真面目にクラリネットを練習し始めた。
半年後くらいのある週末の夕暮れ、おじさんは吹いている最中に胸を押さえて倒れた。
慌てて救急車を呼んだけど、救急車のなかでおじさんは息を引き取った。
一言も言わずに。
私はおじさんの身元とか全然知らなかったけど、おじさんは家族にも親族にもつながる書類とか手帳とかまるで身につけておらず、持っていたのはアルバートのみ。
私はそれから警察につれていかれてさんざんいろいろ訊かれて、明け方にようやく無罪放免(当たり前だ)された。
私の手の中には、おじさんが貸してくれたアルバートだけが残った。
私は、これを吹いていくのがおじさんへの恩返しだと思った。
私はこれを吹き続けていこう、と思った。
自分から、吹きたい!続けたい!と思ったのは初めてだった。
あの高校の楽団(バンド)にいるときは、感じなかった気持ちだ。
それはもしかしたら、おじさんが残してくれたこのアルバートのせいかもしれない、と今では思っている。
クラリネットには両手の指を全部使っても押さえきれないほどの孔が開いているから、それを効率よく操作するために梃子の原理を応用した金属の仕組みが管の表面にたくさんついていて、それは鍵(キー)と呼ばれる。
鍵(キー)が少ないアルバート式は、グラナディラ(アフリカにしか生えていない、黒檀みたいに見えるけど実は別物、という貴重な木材らしい)の肌そのものに指先が触れるから、心地いい。
ずっと触っていたいし、吹いていたい、そう思った。
それと、もうひとつ。
アルバート式を古いジャズで使うための楽器みたいに思っている人も多いらしいけど、ユージューヌ・アルベールというベルギー人がつくった当時は、音楽院やオペラ座でも評判がよくて、そもそもその時代にはまだジャズが生まれる百年も前の話で、さらにそもそも音楽院をCONSERVATORYというのは、「伝統を保守(CONSERVE)するからだ、という「そもそも」話もおじさんからたくさん聞いていたから、私はこの楽器をCONSERVEして、ジャズじゃなくてクラシックで生かそう、と、そう思ったのだ。
何も不思議なことじゃない。
この楽器が生まれた頃は、普通にこれでクラシックの名曲を吹いていたのだ。
あの「運命はこんな感じで扉をたたく」とベートーヴェンが言ったとか言わなかったとかいう逸話があるベートーヴェンの交響曲第五番。あのタタタターンというモチーフに管楽器で唯一参加しているのがクラリネットだ。
いろんなオケにその楽器を持っていくと鼻で笑われたけど、この楽器が生まれた頃は、コンセルトヘボウだってきっとこの楽器を使って「運命」を演奏した夜があるはず。
知らんけど。
もちろんその時代にはまだジャズはなかった。
より正確に言えば、ニューオーリンズの河辺や公園で、その原型が歌われていたけれど、それがジャズと呼ばれるようになるのはまだ先のこと。
だから「古い」といわれるのはまだしも、ジャズの楽器だからお呼びじゃないと鼻で嗤われた時は、「これはジャズが生まれるより前からあるんです」と、相手が逃げるまでたっぷりお説教、じゃなくて、楽器の説明をしてあげた。
相手はたいてい、最後まで聞かずにあたしの前から逃げ出した。
嫌われるのはなんとも思わなかった。
けれどアルバートを吹いている、というだけで、あたしはなかなかどこの楽団(バンド)にも入れなかった。
だから私は三十近くになる今までひとりで、クラシックのエチュードを練習するだけだった。
そんなさなかに、たまたまホームページで見つけた楽団(オケ)が「ちいケストラ」だった。
まだクラリネットは誰もいない、という。
私は、呼ばれている、と思った。
そして練習場の扉を開けたのが、半年前。
そして私は、アルバートでクラシックを吹いている、いま世界で唯一の女。
知らんけど。
ヴィオラ
山中幸助 某有名交響楽団ヴィオラ奏者
北原から「池端がまたとんでもないことを始めたので応援するように」という、例によっていきなりなメールが飛んできたものだから、例によって命じられるままにぼくはクルマを飛ばし、時間にして三時間以上離れた指定の場所に馳せ参じた。
高校時代から、池端と北原が指令を出して、ぼくが事務一般を引き受けるというのがパターンだった。
大人になって県内を離れてプロになったというのに、全然変わらないのも情けないけど。
リアルに会うのは十年ぶりだというのに、そして、はっきり言って田舎の駅前音楽教室の講師に過ぎない北原や、いくら腕があるとはいえアマチュアに過ぎない池端と、曲りなりにもプロ楽団(オケ)で職業音楽家をやっているぼくとでは格が違う・・・と内心ジクジたるものがあるのだが、そんなジクジクした気分はリアルに顔を合わせると雲散霧消してしまう。
それくらい、彼らと会うのは楽しかった。
まるで昨日別れたばかりのように、久しぶりの挨拶もそこそこにさまざまな相談がもちかけられる。
要するに高校時代の「ちびオケ」をまたやりたい、というのだ。
名前をちょっと変えたとかいうけど、要するに「ちびオケ」は「ちびオケ」、小さい編成のオケだけど、プロではありえない発想だ。
いいだろう、やったろうじゃない、二つ返事で雑用を請け負うのがオトコ山中だぜ、と誰も言ってくれないから自分で言っちゃう。
ヴィオラは内声部を受け持つことが多いから音楽的に縁の下の力持ちであるのは当然なのだが、そんな楽器を小学校のころからずっとやっているとどうしても実生活にも楽器的性格が反映するものらしく、学級委員じゃなくて清掃委員とか、生徒会長じゃなくて書記だとか、学生オケでもステマネとか、そんなのばっかやらされてきた。
今では、どうもそっちの方があってんじゃないかと思うときもある。
そのせいか、ヴィオラは大好きだ。
まずその音色。
弾いている本人が一番近いから一番よくわかるのだが、ヴァイオリンとチェロの音圧でも消されることのない、野太い中域の色っぽさはどの楽器にも負けない(自分がそういう音色を出せているかどうかは別問題)。
ブルッフのクラリネットと一緒のコンチェルトでは「懐かしのストックホルム」(正しくは「麗しのヴェルムラント」。スタン・ゲッツやマイルスのおかげで、いつの間にかなぜか一番有名な都会の名前にすりかわってしまったが、日本で言えば「懐かしの邪馬台国」みたいな?要するに現存しない幻の土地、みたいな意味合いのタイトルらしい。知らんけど)をしみじみ奏でるあたりは、弾いていて泣けてくる(こないだ、練習の合間にクラリネットの横溝さんにつきあってもらって、あの旋律の美しさにまた改めて感動した。彼女が感動したかどうかは知らない)。
「ちびオケ」…おっと名前が変わったんだった、 「ちいケストラ」だ、「ちいケストラ」でまず大事なのは練習場所の確保だった。
人数は少ないけど、今のところショースケさんの鍵盤は必須だから、どうしても街のスタジオとか、カラオケボックスに簡易型の楽器を持ち込んで・・・みたいな発想になるところを、さすがベテランのマネージャー(自分で言うか)町役場とうまく交渉して、あんまり使われていない公民館の第二音楽室(狭いからあまり使われていないのだが、アップライトピアノがおいてあって、我々にはちょうどいい)を定期的に使わせてもらえることに。
この辺、地方オケとはいえプロ楽団(オケ)の名刺の効果は絶大だった。
その代わりに、今年の秋から駅の改札前コンコースで毎月第四金曜日に、イブニングコンサートを無料でやってくれというので、一も二もなく応諾。
「決めてきちゃったの?」
と池端はやや不満げだったが、練習場所を定期的に無料で使わせてくれるのだから悪い取引じゃないね、という意見が圧倒的で(反対は池端だけ。理由は、官公庁の世話になるのが嫌だとか、相変わらずまったく意味不明)これも決定。
で、何をやるか・・・というところではショースケ節が炸裂した。
「駅でやるのはいいね。俺はさ、駅前で音楽に開眼したんだよね。まだガキの頃俺は東京で暮らしていたんだけど、そう、あれは間違いなく東京駅だったんだけど、丸の内側にドームがあるでしょ、改札前に。駅を降りたら、そこにオーケストラがいて、なんかすごくデカい音がなりまくっていたわけだよ。それはワーグナーの『マイスター』、つまり『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の前奏曲だったんだけどさ、もちろんガキのオレにはそんなことわからなかったんだけど、あの丸天井に響くフレンチホルンの響きには痺れたね。この街の駅には丸天井なんかないけど、駅のモールと合体しているからけっこう天井が高い。最初の舞台には、もってこいだど思わないか。まあいきなりワーグナーというわけにはいかないかもだけど」
ショースケさん以外の全員が首を横にふった。
それにかまわずショースケさんは続けた。
「ブルックナーでもいいかも」
ブルックナーはワーグナーを崇拝していたし、ふたりはとても仲良かったとは思うけれど、はっきりいってどちらも「ちいケストラ」とは一番遠縁・・・というか、不向きなレパートリー。
それを少人数で演奏しようなんて物好きは世界にはたぶん・・・この人しかいないんだろうな、とその時オレはしみじみと、というか、改めて、というか…いや。
呆れて、といった方が正しいな。
呆れてショースケさんの顔を眺めて、それって無理すぎないすか、と言った。
「だからこそやる意味があるんじゃないか」
結局、抗弁できなかった。
なぜかその眼を見ていると、ちょっとやってみたい気が湧いてきたからだ。
なぜだろう、ショースケさんの言葉や眼や身振り手振りには、ひとを動かす不思議な力があるように思えてならない。
高校時代から、こうやって丸め込まれてきたのだ。
まあ、秋まではあと半年もある。
やったろうじゃないか、「ちびオケ」魂で。
あ。
これからは「ちいケストラ」魂か。
語呂が悪い。
フレンチホルン
福澤攻 学生
ある程度自分が「吹ける」という自身があるなら、下手な人たちと演奏するより、少しでもうまい人たちと練習した方がいい、というのがたぶんオトナのやり方なんだろうけど、ぼくはそうしなかった。
いつも、ぼくはそうだ。
そっちを選んだら苦労するぞ、という方ばかり選んでしまう。
持っている楽器だって、古い、茶色くさびたFシングル。学校にはフルダブルの楽器もあったし、ほかのみんなは高校入学と同時にぴかぴかのフルダブル(つまり一本の楽器のなかにFシングルとBフラットシングルという二つの楽器がうまく仕込まれているのだ)を買ってもらったりしてたけど。
高校の顧問は、そんな楽器を吹いているうやつは強い楽団には不要だ、と言ったけれど、入団テストで出された課題(その時練習していた難曲中の難曲である「フェスティバル・ヴァリエーションズ」を入団の試験曲にしていたのだった)をぼくが自分の楽器で完璧に吹きこなすと、ぼくを異様にぎらつく目でにらんで「まあ、仕方ないか」と呟いてぼくはそのまま入部を許された。
許されたが、そのまま入部したものかどうか、一瞬ためらったのは事実だ。
まず顧問の先生が目をぎらつかせながら言った「強い楽団(バンド)」という意味がわからなかった。明らかに「フォルテ」(イタリア語で「強い」を意味する。音楽的には一般的には「強く、大きな音を出せ」という意味の用語になる)とは違う意味だということはわかったけれど。
要するに、コンクールでいい成績をとりたいだけなのであって、それを「勝つ」と表現して、「勝てる」ことが「強い」ことなのだと言いたいらしかった。
ばかばかしい勘違いだとは思ったけれど、ぼくにはほかに選択肢もなく、仕方なくそのまま部活を続けることにした。
顧問の先生は異様に目をぎらつかせて、誰かひとつでも音を外そうものなら大声でその人を罵倒するのが常だったけど、ぼくは一度もそんな目にはあわなかった。
ぼくはどんな高い音でも低い音でも外さなかったし、ややこしそうな指使いにもすぐ慣れた。
顧問の指示でおかしいなと思うことがあっても、口には出さずに自分の音で表現した。そんな時、顧問の先生は異様に目をぎらつかせてぼくを睨んだけれど、そのうちそんなこともなくなった。
その部活はそのまま毎年、県大会も東北大会も一番で「勝ち抜け」(先生の好きな言葉だった)全国大会で金賞を獲り続けた。
先生の言葉で言えば「勝ち」続けた。
三年生にもなると、吹奏楽の世界では「勝つ」とか「強い」とかいう言葉がどこでも普通に通用していて、大人がやっている街の吹奏楽団でさえそうであることをやがてぼくは知った。
「勝つ」という言葉と、音楽とがどうしてもぼくの中では結びつかなかった。
強いバンドになって東京の連中を見返してやるんだ、というのも先生の口癖だった。
それも意味がわからなかった。
なんで「見返す」必要があるんだろう。
田舎だからって馬鹿にされたことは一度もないのは、もしかしたらぼくが無神経で無知だからなのかもしれないけど、馬鹿にされたことを察知してカリカリしているよりも、気付かずに楽しくホルンを吹いていられることの方がうれしかったし、楽しかったし、何より、演奏に集中できた。
集中している時には「勝たなきゃ」とか「見返してやらなきゃ」とかいう先生の言葉はまったく忘れていられた。
そしてぼくの演奏には先生はまったく注文を付けてこなくなった。
もう「勝つ」たとか「強い」だとか平気で言うひとたちと練習するのは懲りたから、そういう感じじゃないところがないかなあ、と思っていたら、なんと自分の家のすぐそばの駅でその楽団(オケ)に出会ったのだ。
最初の印象は、とても悪かった。
それはとても小さな楽団で、キーボードと弦楽四重奏に、クラリネットがなぜか一本。
両手で数えても指がずいぶん余るわずかな人数で、どういうわけかブルックナーのような曲をやっていたのに驚いて、思わず足を止めた。
改札わきのスペースをつかった路上演奏だった。
いつも閑散とした、特急や急行からは完全に無視されるような小さな駅だから、にぎやかしのためにそういうことをよくやっていて、それまではギターを抱えて歌う人やおばさんたちのフラダンスとか、そういうものばかりだったから、クラシックをそんな形で演奏しているのはとても珍しかった。
聴いているうちに、やはりそれはブルックナーのような、ではなく、間違いなくブルックナーの交響曲第四番だと気づいた。
一八七四年、ぼくが生まれる何年前だか、すでにわからないくらい古いのに、アタマからホルンが活躍するから大好きな曲。もちろん死ぬほど聴いてきた。譜面だって完璧に覚えている。中学でも、そして「勝つ」ことばかり言ってた(言わされた)高校時代でも、みんなで演奏したことなんかない(そもそも吹奏楽編成、つまり管楽器と打楽器だけの曲じゃない)けど、スコア見ながらほぼほぼ毎日聴いていた。
だから正直、ちょっと不愉快だった。
百人近い人数を必要とする大規模な、あの奥深い交響曲を、わずか数人でやろうとするこの人たちの考えがわからなかったし、わかりたくもなかった。
だから正直、軽蔑の薄笑いを浮かべてすぐその改札脇の空間から立ち去ろうと思った。
だけど、なぜか足が動かなかった。
本当ならホルンがフルボリュームで提示するテーマはヴィオラの静かなソロになり(ホルンではあり得ない、深いヴィブラートつきで!)それを受けて金管セクションが荘厳に鳴り響く部分は、ピアノの独奏。
電子ピアノなのだから、金管セクションに似た持続音を鳴らすモードに切り替えればいいようなものを、敢えて通常のピアノモード、つまり減衰音のままで弾ききった。
巨大な共鳴空間を持つ教会のオルガンを想起させるその部分は、大幅にそのイメージを変えていた。
たとえて言うなら、教会から、不思議なミニチュア感のある素朴な田舎の祠のある風景に。
人の気配などまったくない森を散歩していたら、思わぬ場所に小さな祠を見つけてびっくりした時のような(もちろんそんな経験はないのだけど)気分。
徹底して聴き込み、スコアだって写真を見るみたいに覚えこんだあの曲が、不思議なミニチュア感のある箱庭のようになってその改札脇の空間にたち現れた。
バカバカしい、とアタマのどこかで呟く声がしたけれど、口の端に浮かんだ薄笑いが消えていくのと歩調を揃えて、その呟きも消えていき、代わりに聞こえてきたのは。
「君、ホルン持ってるよね?」
と、問いかけてくる誰かの声だった。
もちろん、周りには誰もいなかった(離れたところには、数人いたけど声が聞こえる距離ではなかった)。
幻聴には違いないんだけど、驚いて見回すと、電子ピアノを弾いているおじさんの視線がまっすぐにこちらに向いているのに気づいた。
正確には、ぼくの手にしている巨大なかたつむり状の物体に。
「もうすぐ、君の出番がやってくる」
「そう、あなたの番よ」
女性の声も聞こえた。
クラリネットのお姉さんの視線が、まっすぐに向いていた。
いつしか、弦楽器の人たちもぼくを見ながら弾いている。
言われなくたって、わかっていた。
中学の頃から聴き込み、第一楽章なら大抵のパートは暗記するほどスコアを読み込んできたのは、ぼくだ。
ましてや、最後に吠えるホルンのフレーズなんて完璧に暗譜している。
言われなくたって、あともう少しでその場面が来ることはわかっていた。
そう、わかっていたんだ。
どんなにうまくアレンジしてミニチュアの「田舎の祠」を飾り立てられたとしても、あのフレーズだけは豪快に鳴りまくるホルンじゃなきゃ表現できない・・・しかし、彼らにはホルンがない。
また、ピアノとかでごまかすのだろうか。
それとも、しょぼくクラリネットで?
よく見たらあのクラリネットってキーが少ないし、オクターブキーがねじ曲がって前の方にしゃしゃり出てる、妙なスタイル。
あのフレーズをこんな小編成で、しかも妙な楽器で誤魔化されるくらいなら、ぼくが自分のホルンで彼らをぶち壊してやる。
その瞬間はそこまで具体的に言葉にしていたわけじゃないけど、まあだいたいそんな野蛮な気分になっていた。
ところが彼らの視線は、逆にぼくを誘ってきた。
いいよ、ぶち壊してよ。
やってやって、そのアイディアすごく素敵。
そんな声が聞こえてきた。
わかったよ。
ぶち壊してやる。
君たちのミニチュアな世界観を。
ぼくのホルンの雄叫びで。
繰り返すが、決して彼らは喋りかけてきたわけじゃなくて、視線と音で語りかけてきただけなんだが、そこまでいうなら受けてたとうじゃないか、と思ってぼくはケースを開けた。
出番まで、あと三十小節くらい。
ケースを開いて、楽器を取り出す。
ドイツ製の、古い細管。
細管というと誰もが「だってベルはそんなにデカいじゃん!」と言って信じないのだが、ベルの根元がアメリカ製よりも絞られているんだ。
ブルックナーには、これがぴったりだ。
マウスピースを刺す。
あと十小節。
口慣らしをする時間はない。
もう、ぶっつけ本番だ。
それにしても、相手は吹けば飛ぶような少人数。
本気で吹いたら、消し飛んでしまう。
何より、いきなりとんでもなくデカい音がしたなら、駅員だって黙っちゃいないだろう。お客さんも数人、立ち止まって聴き入っている。
ぼくの方を見ている人もいる。
どれくらいの音量で鳴らすのがこの場の最適解なんだろう?
一瞬迷ったぼくの視野の端で、何かが動いた。
見ると、ピアノのおじさんが左手でリズムをキープしたまま、右手の人差し指を前方に突き出し、そしてそのままゆっくり、上に。
あと四小節。
ぼくは楽器を構える。
ピアノのおじさんの右手がゆっくりと振り上げられるのが見えた。
明らかに、ぼくが吹くべきタイミングを支持してくれようとして、予備動作に入ったのだ。
その右手は予備動作の途中で固く握りしめられるのをぼくは見逃さなかった。
そういうことか。
あれをやれと。
いやいやいや、それはありえない。
だけど、もともと「ありえない」やり方で、つまり巨大なブルックナーをごく小編成のままここまで演奏してきたのだから、ひとりだけ「本物」ぶって吹いてもそれはこの場にはそぐわない。
ありえないことを重ねることは「ありうる」ことかもしれない。
ぼくはそう思って、その準備をした。
ぶち壊すんじゃないのか。
そう呟く声がしたけれど、彼らのやり方がちょっと好きになり始めたぼくは、無視した。
ある意味、彼らの方が先に「ぶち壊している」のだから。
おじさんの右手は振り上げられ、そして振り下ろされ、そして振り下ろされたその最下点でぎゅっと硬く握りしめられた拳が、まっすぐぼくを指した。
ぼくは譜面通り、第一楽章のテーマを力一杯吹いた。
ただしぼくの右手は深くベルに突っ込まれ、ぼくのホルンは彼らを吹き飛ばす雄叫びの代わりに、世界の終わりを告げるような悪魔の声となった。
激しく金属的な響きを伴って第一楽章のテーマが駅のコンコースに鳴り響き、それをぶち切るように最後のハーモニーが谺して、やがて消えて静けさが戻ってきた。
わずか数小節だったけれど、いきなり人前で楽器を出し、いきなりフォルティシモで、しかもいきなりゲシュトップ(ベルに手を突っ込んで音色を変える作業を、ドイツ語ではそう呼ぶ)などなど、さまざまな「いきなり」が重なってぼくの心臓はやかましいくらいに激しく鼓動した。
それが収まってようやくまばらな拍手が聞こえてきた。
見ると、目の前の楽隊のみんな、そして立ち止まった何人かが手を叩いているのだった
知らん顔をして忙しそうな顔で通り過ぎる人ももちろんたくさんいたけれど、これがぼくと「ちいケストラ」との出会いだった。
フルート
灰田克彦 楽器職人
フルートは、たぶん人類ともっとも付き合いの長い楽器だ。一万二千年前の人類が最初に手にした楽器はフルートのたぐいだという説がある・・・なんてことを考えながら駅の階段を下りていくと、次第にその音がはっきり聞こえてきた。
やはり、あの男の言っていた通り、本気でブルックナーを少人数でやっているらしい。
最初に話を聞いた時には冗談だと思って訊き過ごしたけれど、別れ際にうけとったチラシにも、確かに演目としてブルックナーの交響曲第四番第一楽章という文字が。
「いや、もちろんほんとは全曲やりたいんですよ。ただ、改札前コンコースで演奏できるのは三十分程度ということになっているんで残念ながらハハハ」
その男は豪快に笑った。
別れ際にチラシと「北原和仁 音楽教室講師 ヴァイオリン担当」と印字された名刺を手渡して、その夜は別れた。
よくある、居酒屋での見ず知らずの酔っぱらいとの邂逅に過ぎなかったし、そもそも少人数で大編成のクラシックを演奏するなどという無謀な試みに興味はなかった。
いや、無謀というより、それはクラシックへの冒涜だ。
確かに彼の言うように、ブルックナー自身も自らの作品に何回も手を入れ、おかげで作品番号のなかには「第ゼロ番」というおかしな名称の交響曲を生むことになったり(それはつまり、自ら書いたばかりの第二交響曲にバッテンを記したためにそう呼ばれることになったのだが、子供の落書きレベルの話に付き合わなければいけない音楽学者たちにはまったく同情するしかない)弟子たちもそれぞれのヴァージョンを発表したものだから、世の中のクラシックファンを楽しませ、いや、混乱させている一人なのだが。
「つまりそのヴァージョンのひとつ、くらいに軽く考えてくださいよ、軽く。誰も聴いたことのないブルックナーをお聞かせしますよ」
北原はそう言ったが、おそらく世の中のブルックナーファンが耳にしたなら激昂することだろう。
ブルックナーの醍醐味は、大編成の楽団(オケ)が一致団結して鳴りまくる、荘厳なオルガンサウンドだ。
わずか数人でそれが再現できるはずがない。
私は別にブルックナーファンではないし、「不機嫌な姫とブルックナー団」という小説をこの間読んだが、ブルックナー団ともつきあいはないし、ましてや不機嫌な姫などとはお会いしたこともないので、薄笑いをうかべたまま会釈して別れた。
正直言ってその時には「誰も聴いたことのないブルックナー」に取り組む「ちいケストラ」などというおかしな名前の楽団(オケ)にはまるで興味がなかった。
ただ、ひと仕事を終えて電車に乗り、たまたま見かけた駅のポスターを見てふと先日の居酒屋での出来事を思い出し、暇つぶしにこの駅に降り立っただけだった。
なんとなくその日は、無性に弦楽器の音が聞きたかった、ということもある。
今日は吹奏楽コンクールでの現場修理の仕事で、一日中管楽器まみれだった、からかもしれない。
その仕事は大した稼ぎにはならないけれど、駆け込んでくる今にも泣きだしそうな子供たちのいくらかでも手助けになれば、と思い、毎年のように出かけてもう数年になる
考えてみたら、フルート工場を定年退職してからずっと毎年夏にはこんなことを続けている。
幸いなことに、フルートは日本ではもっとも売れている管楽器で、人口減少の気配が見えてきた昨今でもおかげさまで売れ行きはそれほど落ちてはいない。
かつてのように大人数ではなくなったとはいえ、今やどこの学校にもある吹奏楽部でもフルートは一番人気だ。
したがって、リタイヤした私のような職人でも、細々とフルート修理をやって小遣い稼ぎが出来るくらいの仕事かあるわけで、日本人のフルート好きには感謝するしかない。
「本当に笛が好きなんですね」
北原という男にもそう言われたが、言った本人はヴァイオリンが好きでたまらないみたいで、そのまま酔った勢いで流行り歌をふたりで奏でてしまい、小さな酒場で場違いな拍手喝采を浴びた。
口もうまいが確かにヴァイオリンもうまかった。
その腕前は、今日も健在だった。
そして、彼とは高校の同級生だというチェリストも。
先日の話では、彼女が編曲を担当しているとのことだったが、百人くらい必要とする楽曲をわずか六人(弦楽四重奏にクラリネットとキーボード)で再構築しようとするのは明らかに無謀な話だし、原曲を熟知している(吹いたこともある)クラシックファンの一人としては「許しがたい暴挙だ」と怒って立ち去るべきだったのだろうけれど、なぜかその縮小されたブルックナーには、人を立ち止まらせる魅力があった。
敢えて言うなら、コンサートの帰り道にその感動を反芻しながらゆっくりと夜道を歩いていくような。
よく見れば、クラリネットはちょっと変わった楽器を使っていた。
あれは、アルバートだ。
まあ「古楽器」といえば古楽器に入る部類だろうし、ブルックナーの時代になかったわけじゃない。
当節流行りのピリオド楽器による演奏、つまり、その時代(ピリオド)に合わせた楽器で演奏するという風潮に合わせたのだろうが、素晴らしいセンスと音色だ。
ここまでアルバートでクラシックの奏法を極めるには、相当な忍耐が必要だったことだろう。
世間的にはジャズの楽器だと誤解されているからだ。
楽器にはジャズ専用楽器などというのはあり得ない。
クラシック専用楽器というのがありえないのと同様に。
私も自作のトラヴェルソを現代の楽器に混じっていくつもの楽団(アマオケ)で吹いてきたが、周りの「目」というか「空気」には閉口したものだ。
変わった楽器を吹く人に、素人(アマチュア)ほど奇異の目を向ける。
フラウト・トラヴェルソ、と言えば偉そうだが、訳せば単なる「横笛」。
山歩きで山頂に向かわず、横方向に進むことをトラヴァースというが、語源はそれと同じ。
横に構える、という点では今のフルートと同じだが、姿は随分と異なる逆円錐構造で、しかも木製で6系統の鍵(キー)を取り付けたモダンな(しかし専門的には「クラシカル・フルート」と呼ばれるのは皮肉な話だ)スタイルゆえ、どうしてもひと目を惹くのはやむを得ない。
中にはトンチンカンな質問をしてくる半可通も多いから、彼女もたぶん苦労していることだろう。
などと考えるうち、いつのまにか最初の否定的な感覚が消え、彼らが奏でる「聴いたことのないブルックナー」に浸っているのに気づいた。
そして、最後の最後のクライマックスでそれを目の当たりにしたのだ。
改札を出て、演奏に聴き入っているのは私だけではなかったのだが、そのなかのひとりが突然自分の荷物を開けて、フレンチホルンを取り出したのだ。
まだ若い、が、楽器は古いアレキサンダー103。
どういうことだろう。
確かにブルックナーの四番はホルンが大活躍する楽曲だが、今の今までホルンはいなかった。
もうすぐ終わりだというのに、今から参加しようというのか。
彼は楽器を構え、大きく息を吸い込んでいる。
いかんいかん、そんなデカい音はこの流れには必要ない。
原曲は確かにホルンが盛大になる場面がもうすぐだ、しかし、若いからと言ってその息の勢いでそのホルンを鳴らしたら、こんな少人数などわけもなく消し飛んでしまうぞ。
少人数でしみじみと、まるで感動をかみしめながら夜道をゆっくりと歩くような演奏に、全力で「乱入」しようというのか。
と、キーボードを弾いていたリーダーらしき男(その時になって気付いたが、明らかに労務者風で、正直言ってクラシックには似つかわしくない風体の男だ)がその若いホルン吹きにサインを送っている。
知り合いなのだろうか。
もしかすると、私と同じ電車で降りてきたのだから、楽団員で、しかも遅刻者か?
そんな疑問とはおかまいなく、第一楽章のクライマックスを迎え、彼は楽器を構えた。
労務者風が、合図を送った。
なんということだろう。
朗々と鳴り響くべきあのクライマックスで、フレンチホルンは全力でゲシュトップ、つまり手でベルをふさぎ、ホールに鳴り響く堂々とした音とは真逆の、鋭く金属的な響きを改札前コンコースに響かせたのだ。
ブルックナー団ならば激怒して殴りかかりそうな場面・・・となるだろうけれど、この人数によるクライマックスとしては不思議に違和感を感じなかった。
いや。
これは面白い。
そう思ったのはもしかしたら私だけだったのかもしれないが(隣の男性は生粋のクラシックファンだったらしく、ゲシュトップの音が鳴り響いた瞬間にフンと鼻を鳴らして足音荒く立ち去って行った)私は構わず、演奏を終えた彼らに拍手を送っていた。
終演後、楽器を片付けている北原に近寄り挨拶したら、笑顔で「これから行きつけの居酒屋で打ち上げだ」という。
ちょっとためらったけれど、これもなにかの縁だと思い、彼らのいきつけだという居酒屋、というかなんというか、トルコ出身のマスターがつくる和洋中華なんでもありの料理を食べ放題、クラフトビール呑み放題という面白い店に案内された。
店だけではなく、彼らも面白かった。
そこでもまた、請われるままに北原とトラヴェルソでデュエットさせられたのは言うまでもない。
私は次回のリハーサルから参加することを約束させられた。
トランペット
小山大吉 公務員
トランペットは、言うまでもなく人類ともっとも深い付き合いをしてきた楽器・・・いや、権力の象徴であり闘いの動議であり、遠くから四方に轟くその音色は敵を早くから圧倒し、近くで煌めくその輝きに敵は繊維を喪失しひれ伏す、そんな力を秘めた楽器を吹ける人間は特別な存在で、かつての王族は優れたトランペット奏者を何人か変えられるかでその威勢を世間に誇示したともいわれているくらい、すごい楽器なんだぞお前らわかっているのか・・なんてことを考えながら駅の階段を下りていくと、次第に、妙な音がはっきり聞こえてきた。
最初は、幻聴かと思った。
心配していた聴力の問題が、ついに?という思いも。
父も祖母も耳が遠く、家系的にたぶんそういう問題が発生するかもしれない、とは常に悩んでいたのだ。
もちろんそんなことは人には言えない。
いや、言わない。
弱みを見せたら負けだ。
私は誇り高きトランペット奏者なのだから。
と思いつつ階段を降りて行くと、それは幻聴ではなく、実際に演奏されている現実の音であることがわかった。
なんてことだ。
改札を出た右側で、神聖なるブルックナー先生のあの高貴な交響曲第四番を、貧乏くさい弦楽四重奏で・・・いや。
弦楽四重奏ですらなかった。
クラシック音楽における伝統的な編成のひとつである弦楽四重奏に、なぜか電子ピアノとクラリネットをいれるという奇妙奇天烈な編成で、しかも薄汚い労務者風の服を着たピアニストは指揮の真似事など。
ブルックナー先生がこの世に送り出し、ニキシュ先生、フルトヴェングラー先生、チェリビダッケ先生、ベーム先生などなど、数多くの大指揮者先生たちが磨きに磨いてきた素晴らしい交響曲、そしてこの私自身が愛してやまないあの高貴なる四番を、あのような貧乏くさい、しょぼい編成で穢しまくっているとは。
しかも、見れば「金曜駅前コンサート 演奏:ちいケストラ」という看板が。
「ちいケストラ」とは。
これはもう、神聖なるクラシック音楽をアタマから馬鹿にしているとしか思えない。
偉大なる西洋音楽の根幹をなすクラシック音楽のなかでも大きな支柱のひとつであり、誇り高き称号である「オーケストラ」を、いくら小編成だからと言って「小ケストラ」とは。
そもそも「オーケストラ」の「オー」は「大きい」の「大」ではないし、だいたい「ケストラ」なんて言葉は存在しないし、さらに、それを率いる崇高なる存在である「指揮者」を、あんな見窄らしい姿(汚らしいニッカーボッカーなどを履いていた)の老人(たぶん私と同じくらいか)が、見よう見真似で指揮者を務めているとは。
まったく、名前から指揮者から、クラシックを舐め切った所業を、よりによって私が普段使う駅で。
あまりのことに憤激して立ち止まってしまったが、ふと気付くと周りはけっこう真剣に耳を傾けているじゃないか。
いったいどういうことだ。
ここに、町役場でも有数の音楽通であり、学生時代からトランペットの名手として知られた私がいることに誰も気づかず、崇高なるクラシックを薄汚く貶めた、貧乏くさい連中の演奏に聞きほれている。
本来はトランペットが率先して鳴り響くべき箇所も、しょぼい電子ピアノや、あろうことか時代遅れのアルバートなどという、キーも満足についていないできそこないのジャズな楽器でブルックナー先生の名作を汚しまくっているではないか。
しかも看板をよく見れば、町役場の後援までとりつけている。
ということは、私の部署で予算承認の判を押している、ということになる。
私にはもちろん覚えがない。
毎日毎日、山のように押し寄せる決済書にいちいち目を通している暇などないのだ。
すべてはあの部下の不始末だ。
あの、若い、似非音楽学者まがいの、口ばかり達者な。
こういう内容であるなら、事前に私に特別に説明してしかるべき案件なのに、あの、口ばかり達者で、パソコンばかりいじり、クラシック音楽の深みなど思い計るような知性のかけらもない、青二才めが。
そういえば町役場で秋から町おこしとして来年から駅前を活用した行事をなにかやるという話が決まったのは昨年の秋だった。
その時は書道展とか絵画展とか、なにか文化的な香りのするものをやるのだろうというくらいの認識だったし、当時の町長はそういう文化的なものが大好きな年寄りだったから財務担当課長としては文句をいう筋合いではなかったのだが、はっきり言えば無駄遣い以外の何物でもなかった。
その町長もこのあいだの選挙で交代し、今度は先代とは打って変わって「町政維新」を謳い、財政立て直しに非常に熱心な、気持ちのいい若者になった。
健全なる財政の根幹は無駄遣いの徹底排除である、ということは、家計を例に引くまでもない冷厳なる事実である。
無駄を見つけ無駄を排除するのは私の得意とするところであり、財務担当としては腕の振るいどころだ、と張り切っていたところに、これだ。
あの、若い、似非音楽学者まがいの、口ばかり達者な、あの窓口担当者が、私が気付かぬように書類を紛れ込ませ、うまいこと承認の判を押させたのだろう。
彼もトランペットを吹いている、という話だが、どうせ大したことはないはずだ。
そうに決まっている。
しかもチューバも吹くというおかしな浮気者だ。
チューバなどというものは風に向けて置けば自然に鳴るようなお粗末極まりない原始的なシロモノで、そもそも楽器などと呼べるようなものではない。
単なる土管だ。
その土管を、高貴なトランペットと持ち替えで吹くなどという、不潔かつ意味不明なる行為に及ぶとは。
チューバなどはその辺の貧しい浮浪者にでも任せておけばいいのだ。
そう、あんな指揮の真似事ではなく、チューバを抱えて隅っこでブウブウ鳴らしているのがあんな労務者風情にはお似合いなのだ。
トランペットは高貴な楽器で、しかも吹きこなすのは相当大変だし(チューバとはくらべものにならない)ましてや、時間に余裕のある学生ならまだしも、社会人になってからその演奏能力を維持し続けるのは本当に大変なのだ。
いやはっきり言えば不可能だ、と言ってもいい。
だいたい、二つの楽器を掛け持ちで担当するなど、正気の沙汰ではない。
私がトランペットを手にした中学の吹奏楽部は、わずか十人そこそこ。
全校合わせて百人にも満たない小規模校だから、それでも全校のうち一割が所属する「大規模」な部活動だったことは間違いない。
人が少ないから、生徒はたいていふたつの楽器を掛け持ちさせられた。
私はそれが嫌で嫌で仕方なかった。
トランペットは楽団の最後列に位置していたから、手が空いている時には打楽器をやらされた。
私はそれが嫌で嫌で仕方なかった。
そもそもトランペットも打楽器も、クライマックスで鳴り響くのが一番効果的だ。
つまり同時に演奏することなど不可能だ。
しかしその教師は、私にそれを強いた。
左手でシンバルを叩き、右手一本でトランペットを吹く。
まるで曲芸師だ。
クライマックスのファンファーレを吹きながらシンバルを叩く私は、まるで猿回しの猿のようだった。
演奏が終わり拍手喝采を浴びても、それは私を指さし嘲る罵倒の嵐に聞こえた。
顔が真っ赤になっていることがわかったから、私は下を向いてそれをひた隠しにしていた。
そんな田舎の中学が嫌で、都会の高校に合格してからはひとりで下宿し、ひたすらトランペットと勉学に励み、進学した一流大学でも応援団吹奏楽部の団長としても辣腕を振い、さらには首都圏連合吹奏楽団における首席奏者まで務め、首席で町役場に合格してからはきっぱりと音楽から足を洗った私が断言する。
社会人になってまで、アマチュアとして音楽を続けるのはとんでもない時間の無駄であり、悪あがきでしかない。
私のように社会人になったらきっぱりと演奏とは縁を切り、音楽鑑賞一筋に邁進すべきなのだ。
そうして自らの感性を研ぎ澄ませば、大作曲家の先生方が生み出した名曲に後世のど素人である我々が手を入れる、編曲するなどは愚の骨頂である、という真理がごく自然に分かろうというもの。
そう。
名曲は神聖にして不可触なる聖典なのだ。
さらに言うなら、私の目の届くところで、たとえ小編成といえども、私が管理する町の予算を使ってそれらの聖典を身勝手に汚しまくるのは許せない。
許せないものは許せない。
私に何の断りもなしにブルックナー先生の神聖不可触なる交響曲を勝手に切り刻み、好きなようにいじり倒して私の使う駅でこれ見よがしに演奏していい気になっているとは。
許せない。
許せないものは許せない。
ここに入団して、ひっかきまわしてやるという手もないわけではないだろう。
楽器離れで久しぇんだども、昔取った杵柄、なあに、あんた小さな、吹げば飛ぶような少人数の楽団などは文字通り吹ぎ飛ばしてけるわ。
いかん。私としたことが。ほんじなっす。
そういえば思い出した。
学生時代に、人手が足りないという他校の楽団(バンド)の助っ人に入ったことがあった。
そこの指揮者は女々しい奴で、どうやらトランペットのような大きい音がよほど怖かったらしく、私が楽器を構えるたびにおびえたような目で私を見るのだった。
面白かったから、本来は吹かない場所でも時々楽器を構えてやった。
そのたびにびくびくするのが可笑しかった。
そのうち私が楽器を構えただけですぐに左手を開き、私の方に向かって勢いよくつき出すようになった。
その仕草がトランペット奏者にとってはもっとも苦手なものであるということをどこかからかきいてきたのだろう。
その通り。
その仕草は、物理的にではなく精神的に、トランペット奏者の唇に激しいダメージを与えるのだ。
あれをやられると口をいきなりふさがれる気分になるのだ。
その楽団(バンド)も、少人数だった。
だから私は少人数の楽団(バンド)が嫌いなのだ。
それが、我が町の予算を食いつぶしながら活動しているとは。
許せないものは許せない。
これは、天誅を加えるしかないだろう。
それが、音楽の神、そして財政の神の忠実なる使徒である私の結論だった。
オーボエ&ファゴット
飯丘理森 精肉店経営
めったに行くことのないその町にクルマを使わず鉄道で行ったのは、クルマが故障してしまったからで、冬場でなくてよかった。
精肉組合の会合は、その町で予定通り開催された。
会合が終わり懇親会に誘われたが、もともと酒は呑めないし、実は翌日の仕込みもまだ中途半端なままだったからあっさり断り、一番早い便に乗ろう・・・と駅に向かった。
しかし、結局その日の最終近くの便になってしまったのは、改札の手前にその楽団(オケ)が陣取っていたからだ。
改札をふさいでいたわけではもちろんないのだが、なぜか通り過ぎることができなかったのは、彼らが邪魔だったから、というわけではもちろんなく、ぼくの足が、いや、ぼくの耳が彼らの演奏にくぎ付けになってしまったからだった。
それは変わった音楽だった。
聞こえているメロディは、確かブルックナーの交響曲のようだった。
しばらく聴いているうちに、やはり四番の第一楽章だということが明らかになった。
しかし、そこにいるのはわずか数名。
ブルックナーの交響曲といえば、ちゃんと演奏するには少なくとも百人近い楽団が必要な、大規模な作品のはず。
巨大な聖堂にも似ている・・・と評されることもあるくらいだ。
それがまるで手品のように、巨大な聖堂どころか、手のひらに乗るほどの小さな手工芸品になってしまったような、その響き。
しかし不思議なことに、弦楽器数人とクラリネットにピアノという編成にもかかわらず、そこから聞こえてくるのはあの荘厳な音楽だった。
ただ、それがコンパクトに、可愛くなっていた。
それぞれの楽器の音色が個性的で、ピアノはどんな楽器の音色も模倣できる機能を持つ電子ピアノだったにも関わらず、ごく普通のピアノの音色だけ・・・なのに、なぜかとても変わっていて(それは弦楽器たちも同じだった)なぜか素通りできなかった。
そして、なんということだろう、クライマックスを迎える直前に、電車から降りてきたと思しき学生が、フレンチホルンを取り出してその演奏にいきなり参加したのだ。
モノクロの写真が、立体的なカラー動画に一瞬にして変身したようだった。
こんなブルックナーは、聴いたことがなかった。
電車がまもなくやってくることがアナウンスされ、仕方なく足を地面から引きはがすようにしてその場を立ち去った。
仕方ない、仕事が残っていたから少しでも早く帰らねば、仕入れた枝肉が無駄になる。
帰りがけに、彼らの傍に立てられていた看板を見た。
そこには、ちいケストラの駅コン、と、いささか乱暴な手書きで書いてあった。
ちいケストラ。
それが彼らの名前だった。
きその夜のうちに検索して、彼らのサイトを探り当て、見学申し込みをした。
あんな楽団は、これまで聴いたことがなかった。
あそこなら、なにか面白いことが出来るに違いない。
そう思った。
返事は、すぐに来た。
見学、大歓迎!
そのメールの送り主は「池端理枝子」。
そこから何回もメールのやり取りをして、ところがなかなかこちらの予定が合わず、あれからふた月も経って今日は初めて見学に行く、という日なのに。
ああ、それなのに予定より大幅に遅れてしまったのは、私が朝一番の作業(肉屋の仕事は夜討ち朝駆けなのである)に手間取っていたからで、朝一の作業が遅れるとそのあとの作業の手順が狂い、昼過ぎまでその影響が及んでしまうのは個人経営の肉屋だから仕方ないんですぐずぐずくだくだ…と、電車に乗っている間にまだ見ぬ連絡係の「池端理枝子」という女性に何本もお詫びのメールを打ちつつ、駅について風のように(自分ではそう思っていたが、たぶんそとから見たら瀕死の豚が遁走しているように見えたかもしれない。私はかなり体積が大きい。ひらったく言えば、ただのデブだ)公民館までの道を急いだ。
だが、息せき切って公民館に駆けつけてみるとどうも様子がおかしい。
メールには確かに「明日の土曜日午後二時から公民館第二音楽室にてお待ちしてます」と書いてあるのに、来てみたら「第二音楽室は工事のためしばらく閉鎖します」という張り紙が。
そんな話は確か、昨夜のメールにはなにも書いていなかった。
今日になってなにか事情が変わったのだろうか。
ならばメールでも電話でも、くれればいいのに。
まあ、大遅刻したこっちが悪いんだが。
張り紙の前でもう一度スマホでチェックしたが、昨夜以降今まで特に新しいメールは来ていない。
着信もない。
こちらの電話番号は連絡済みだ。
その時になって「池端理枝子」の番号を聞き忘れていたことに気付いた。
公民館の窓口に行ってみると老人(といっていいかどうかはわからないが、かなりの年配だった)が、
「ああ、確かに第二音楽室はしばらく閉鎖します。とにかく今まで定期的に使っていた団体がいろいろ問題を起こしちゃってね。まあ、外部の方には詳しいことは言えないんだけど、ともかく使えません。悪しからず」
それだけ切り口上で言うと、窓口を一方的に占めてしまった。
やはり、なにかがおかしい。
問題を起こすような団体には思えなかったのだが。
その場で「池端理枝子」という例の連絡係に改めてメールしてみた。
「いま大慌てで公民館に来たんですけど、なんか第二音楽室は閉鎖されているとか。どうすればいいですか?」
そう書いて、このまま公民館にいても仕方ないと思い、とぼとぼと駅までの道を歩き始めた。
二、三歩歩いた途端にスマホが振動した。
見ると知らない番号。
こういうのには出ないのが当たり前なんだけど、なんとなく予感がしたので出てみた。
「あの、いきなりすみません、飯丘さんですか?」
若い女性の声がした。
知らない声だった。
そうですが、と答えると、
「ごーめんなさい!お待ちしてたんだけど、いろいろあって今日公民館使えなくなっちゃって・・・ていうか、なんか意味わかんないんですけどあたしたち出禁になっちゃったらしくて。しょうがないからいま別のところにいるんです。ごめんなさいこちらからメールすべきだったんですけど、今までほんとバタバタしていて・・・今しがた今朝からいただいてたたくさんのメールに気づいて、慌ててお電話したんです。あの、よかったらそのままこっち来ません?あ、もう帰っちゃった?」
と、一気にまくしたてる。
いえ、まだ公民館の近くにいますけど、と応えると、
「なら、よかったらそのまま駅前通りを第三交差点のところまで戻って、そこを左に曲がってしばらくいくと、進行方向左側に『シャワルマ亭』っていう看板が見えてくるので、そこの店に入ってください。よかったらぜひ!お待ちしてます!」
と言って切れた。
シャワルマ亭?
シャワルマって、あのアラブ系みたいな人たちがやってる立ち食いのスナック?
映画(「アベンジャーズ」シリーズの一番最初のやつだ)のラストで、地球を救ったスーパーヒーローたちが黙々と喰らっていたあれだ。
なんでそんなところに?
まあいろいろ疑問はあるが、ともかくも行き先が見えたことで、いささか重く感じ始めていた楽器たちが、ちょっと軽くなった気がした。
右手のオーボエと、背中のファゴット。
体型以外にもそう早く走れなかったのは、これらの荷物のせいなのだ。
どちらも二枚の葦を咥えて鳴らすダブルリード楽器だけど、ファゴットはオーボエの三倍くらいの長さがある。
二つ折りにしてケースに入れても、まだ倍くらいの大きさ。
そして、このふたつを両方を演奏するダブラーは珍しいかも知れない。
まあ、正直に言えば私はダブラーじゃなくて、強いて言うなら木管楽器全般をこなすマルチプレイヤーだ。
学生時代からいろんな楽器に手を出すもんだから「材木屋」などというあだ名もついた。
気が多い、つまり木が多い、という駄洒落。
本業は肉屋なんだが。
おかげでナイフの使い方を小さいころから叩き込まれたので、蘆を削るのも得意。
クラリネットやサックスならリードは楽器屋で売ってるのだが、ダブルリード系の楽器は自作せねばならない。
手先が器用だったおかげで、クラやサックスのリードも出来が悪い時は(恐るべきことに、ひと箱数千円するのに使えるリードが十枚のうち一枚しかない時もしばしば。こういうのって普通の商品ならクレームの嵐のはずなんだが、この世界ではそういう話を聴いたことはない)自分で微調整してしまう。
それでもだめなら捨てるしかないのだが。
なんてことを考えているうちに、着いた。
シャワルマというからアラブ系の立ち食いスタンドかと思いきや、実際にはログハウスみたいな、手作り感満載の木造平屋。
たいして高いビルのないこの街だけど、それでもビルの狭間の一軒家はそれなりに異様だ。
しかし、そこには看板がかかっており、電話の主の言うようにアラブ文字と一緒にちゃんと日本語で「シャワルマ亭」と書いてある。
なんでこんな店に?
疑問符とともにドアを開けた。
意外に重いドアを開けると、これまた店内は不思議なくらいに広くて、土曜日の夕方近い午後という時間帯のせいか、かなりのお客で賑わっていた。
「こっちこっち!」
奥の方から、声が飛んできた。
電話のあの声だった。
「いいおかさーん、こっちでえーす」
はいはい今行きますって、と、こちらを見るたくさんの好奇の視線をかいくぐり、奥の席に辿り着く。
「初めまして、いきなりほんとごめんなさい、あたしがメールとか、さっきお電話した池端です~」
小柄だけど、なんか女優さんみたいな感じで、つまりけっこう美人だし、けっこう若いし、店以外で若い女性と話すのは久しぶりだし、初手からかなりドキドキさせてくれるなあ・・・と思いつつ、初めまして、と、ややドギマギしつつ自己紹介。
「なに呑みます?ここクラフトビールが美味しいんですよ。呑めるクチなんでしたよね?」
メールで「呑めない」ことは返信済みだったのだが。
「しかも、呑み放題食べ放題で二千円税込って、なんか時代間違えた料金設定ですよね。ひとり店長で、この人が変わり者で、接客メンドクサイからっていうのが理由なんだけど、この店も料理もみんな店長の手作り、というのが売りの店なんです!あ、だからお好きなもの取ってきてくださいね、あそこのおっきなテーブルから!」
と、そこまで一気に店の宣伝を喋り、一息ついたところで、
「飯丘さんはダブルリードのダブラーなんだって?珍しいよね」
池端さんの隣の、年輩の方が口をはさんだ。
この人は、あの日指揮とピアノをやっていた人だ。
メールには確かにオーボエとファゴットを両方やるとは書いたけど、本当は木管楽器全般がなんとなく吹けることまではメールでは伝えていなかった。
ダブラーとは「二つの楽器をこなす人」という意味だが、その流れで言うならトリプラー?クァトラー?よくわからないのでなんと返事していいかわからず、またもやドギマギしたが、
「しかもマニアックに、オーボエはウィンナ!」
と、池端さん。
そう。
ウィーン式のオーボエは、今や現地ウィーンでも前世紀の遺物扱いだが、この甘い繊細な音色が好きでたまらないのだ。
「ウィンナ?」
太いソーセージにかぶりつきながら、若い男が言った。
この人は、確かヴァイオリンだった気がする。
わざとウィンナソーセージと勘違いした体の、例のダジャレを言うのかと思いきや、
「ウィーンではもう作る人いなくなっちゃって、今はヤマハしか作ってないんですよね、確か。素晴らしい!」
その男は、池端の同級生の北原です、と続けて自己紹介。
駅前にある音楽教室のヴァイオリン講師で、もう一人のヴァイオリンは北原氏の生徒さんで素人(アマチュア)だが、隣のヴィオラの山中氏はなんとプロ楽団(オケ)所属のフォアシュピーラー(一番前で弾く二人組のうちのひとり)だと言う。
そして、池端北原山中の三人は高校時代の同級生で、指揮者でピアニストの小原氏(みんなはショースケさんと呼んでいた。後で聞いたら本名だという。つまりオハラショースケさん。朝寝朝酒朝湯が大好きで、という例の俗謡のせいで、たぶん小さい頃から揶揄われてきたことだろう。親の顔がみたい、とちょっと思った)もまた、同じ高校の先輩なんだとか。
驚いたのは、その隣にフルートの灰田さんが座っていたことだった。
これまで随分と修理でお世話になってるヴェテランのリペアマン。
「池端さんからいらっしゃると聞いて、ご一緒できるのを楽しみにしていましたよ」
いつもの穏やかな笑顔。
何回この笑顔に救われたことだろう。
「飯丘さん、ここ面白い楽団なんだよ、私もあなたもアレだけどさ、クラリネットの方も凄くアレなんだ。ま、とにかく座って座って」
と、空いていた席に座る。
「初めまして」
なんかぞくぞくする感じのアルトヴォイスが、肩越しに。
長い髪が流れて、はっきりとはわからないけど、なんか迫力がある。
「クラリネットの横溝です。灰田さんが言ってたアレって意味わからないけど、あたしなんか全然凄くもないわ全然。あたしはどこにでもいる、ごく普通のクラ吹き」
そう言って、目の前のビールをごくり。
池端女史よりは歳上のようだ。
池端さんがウーロン茶を持ってきてくれたので、まずは軽く乾杯。
「どこが普通なもんか、クラシックでアルバートなんて、ほんとアレな人だよ」
と茶化す灰田氏に向かって
「好きで使っているだけ。アレって、なによ、意味わかんない」
そう言ってあっという間に飲み干してさっと立ち上がり、お代わりを取りに行く。
怒っているわけではないらしい。
「アルバートなんて珍しくもなんともない」
という言葉だけがテーブルに残った。
いや、クラシックのオケでアルバートを使うというのは、開発当初ならともかく、開発から二百年近く離れた今では確かに珍しいのは間違いない・・・と言いたかったのだけれどもうそこには彼女の姿はなかった。
「ぼくはまだ未成年なんでアップルジュースなんですけど」
と言いながら生意気にジョッキを合わせてきた向かいの青年はホルンの福澤です、と名乗った。
あの若者か。
あの、ゲシュトップの。
それを告げると、
「なんだ、飯丘さんもあそこにいたのか。声かけてくれたらよかったのに」
と灰田氏。
彼もまたあの日あの場所で、彼らの演奏に聴き惚れていたらしい。
正直なところ、彼がいるのには気づかないくらい、あの日は釘づけだった。
今までに聴いたことのないブルックナーだったからだ。
例えばそれは、小説を翻案して作られた映画のような感じだった。
どんな小説であれ、一連の文字で綴られた物語を映像として具体化するには、さまざまな制限がある。
物理的な要素、時間的な要因などさまざま理由により大幅に改変せざるを得ない場合がほとんどだ。
そして、ごくわずかな例外を除いて、ほとんどが失敗する。
あの日改札前に響いていたのは、間違いなく数少ない、いや、稀有な成功例ではないかと、今考えるとかなり赤面してしまう言葉で自分の感想を呟くと、
「ですよね~、ぼくもそう思いました!」
と、福澤氏の隣の若者。
「あ、紹介しますね、彼も今日初めて来た金山さん。彼もファゴットなんで・・・」
「じゃなくてバソンです、今日これで三回目」
池端女史を遮り、ちょっと怒ったような口ぶり。
気持ちは、わかる。
バソンとファゴットは、例えば乱暴な例えだがバイクと自転車が違うように違うと思っている。
バソンとファゴット、似てるじゃないか、いや、名前が違うだけだろ、英語ならバスーン(バソンと同じスペルなのだ)という人がほとんどだが、低音の木管楽器でダブルリードであるから同じだ、見てくれは車輪が二つあるからバイクも自転車も同じだ、というのに等しい暴論だ。
「まあ、似たようなもんじゃない。木管低音が充実するのは編曲する立場から言わせてもらえば頼もしいよね」
いや、似てません!と言いかかる金山氏を制したのは小原氏、彼ら流に言うならショースケさんだった。
「とりあえず自己紹介が済んだところで、話を戻そう。喫緊の課題は、練習場所の確保だ。公民館側は何を問題視しているんだろうか」
と小原氏、いや、彼らの呼び方にならえばショースケさんはそう言った。
「問題視されるようなことはしてないはずだがなあ」
山中氏が続けて言うには、先月の帰り際に次回(つまり今日だ)の確認も担当者ともどもきちんと済ませていた、とのこと。
「前払いと後片付け、それが定期使用の条件だったからね」
「山中さんと仲のいい担当者さんも外されちゃったんでしょ?」
「そうなんだ、彼はうちのオケ、あ、ここじゃなくて仕事の方だけど、その定期会員でさ、かなりなクラシックオタクでもあるんだ。実はうちのオケの弦楽四重奏団のミニライブも予定されていたんだけど、それもキャンセル。それから、駅コンも」
え?と一同。
駅コンって、どうやら改札前でのあの演奏のことですか、なんて口を挟める雰囲気ではなかった。
「そんな話聞いてないわよ!」
ちょうど戻ってきた横溝さんも、池端さんと二人で柳眉を逆立てて山中さんに詰め寄る。
「あ、だってそれ言う前にあんたがたキレ始めて・・・」
「言い訳しないの男の癖に」
「なんであれそういう大事なことは先に言わなきゃ!」
「山中さん町役場に嫌われてんじゃないの?」
連続砲火に山中氏、弱弱しく反撃。
「それならそれとはっきり言ってくれりゃいいんだけどさ。どうやらそう言うことでもないらしい」
「らしい、って、アナタどうしてわかるのよ」
「彼、ああ、前の担当者さんね、榎本くんって言うんだけどさっき彼にメールしたのよ、合間見て。ほら」
そう言って山中氏は画面を見せた。
「そういうことは素早いのね」
横溝女史がクールにつぶやく。
山中氏が見せてくれたスマホの画面には「今回の諸問題、山中さん個人や楽団の方の問題ではまったくなくて、むしろこちら側つまり町役場の方に原因があるようです。ぼくはヒマになったから(笑)ちょいとしつこく調べてみますね」とあった。
「彼は大人しいんだけど、ああ見えてなかなかしつこいからねー」
「ああ見えて、って言ったってあたしたちにはわかんないわよ、そんなにしょっちゅう会ってるわけじゃないし」
まだ権幕の収まらない横溝女史のツッコミに、あそういえば彼はね・・・と山中氏が言葉を続けようとしたが、ショースケさんが
「ま、犯人というか原因探しは後回しにして、喫緊の課題は練習場所をどうするか、だね」
ごくり、とテーブルの上の水を飲んで(後で知ったが、下戸らしい)話の筋がまた変わった。
「あのー・・・カラオケボックスはどうですかね。ぼく駅裏の『まねきいぬ』よく使うんですけど」
福澤さんが言った。
「だめだめ」
と池端女史。
「いや、カラオケボックスがダメなわけじゃないんだけど、ああいうところは狭くてチェロ構えられないのよ」
チェロは確かに、斜め前方に張り出す形で構えるから、ほぼ二人分のスペースが必要で、飲食物をおくためのテーブルをどかすことができないカラオケボックスでは、ひとりならともかく、この人数(たとえ少人数とはいえ、私を入れて8人だ)あの駅前の、この街唯一のカラオケボックスでは確かに構えることすらできない。
「あの、ちょっといいか」
と、その時声がした。
見ると、私の後ろにエプロン姿の男性。
外国人だ。
髭が濃い。
肌の色も。
この店のマスターだろうか。
シャワルマ、というだけあって、アラブ系のようだ、と私は思った。
「あら、店長いつもありがとうございます!」
そう言った池端女史に軽く会釈で応えると、
「私の店、使ってもいい」
と、店長。
やはり日本語がちょっと変。
え?と一同。
「ここ?だって営業時間は・・・」
そう、この楽団の練習は毎週土曜日の午後、つまり今だ。
書き入れ時じゃないか。
「ちょっと、来い」
他の客からの視線を浴びながら店長のあとについていくと、店長は店の奥の床を開ける。
そこには地下に続く階段があった。
こんな一軒家の店に、地下室が?と驚いたが、結論から言えば「シャワルマ亭」のその秘密の地下室は、我々の新しい練習場所となった。
そこには巨大な醸造タンクが銀色の威容を誇っていたが、そのさらに奥には信じられないことに、ちょっとした楽団(オケ)が練習できるほどの空間が広がっていたのである。
しかもピアノや、ティンパニまで。
ティンパニ(チョス)
オスマン・エズテリュク 料理人
てづくり、だいすき。
にほん、だいすき。
とるこ、だいすき。
ここはふたつをつなぐみせ。
と、なんとか日本語で書いてみたが、やはりトルコ語じゃないとだめだな。
日本に来てもうニ十年、このお店を開いて十年になるが、最近ようやくお店が安定してきた。
本当に日本には感謝するしかない。
大学で日本語を学んだのは父からの強い要望で、母もそれに同意してくれたのがありがたかった。
日本人が助けてくれなければ、いまのエズテリュク家は存在していなかったからだ、エルトゥールル号に乗っていたおじいちゃんのおじいちゃんが助かったのは、本当に日本人のおかげだ、と聞いている。
だから、iyiliğin karşılığı(引用者注 カタカナで書けば「イーリンカースル」に近い発音のようです)日本語で言えば「恩返し」がエズテリュク家の家訓となった。
困っている音楽家たちがいるなら、そして私が助けられるなら、彼らを助けるのがエズテリュク家の人間として当然のことだ。
困っている彼らと知り合えたのも、なにかの縁なんだと思う。
そして、音楽こそはトルコが世界に誇るもの。
地下にはクラフトビールを醸すための設備があるが、その奥にはいくつかの楽器がある。
階段を降りていった彼らが驚きの声を上げるのを、私は後ろから続いて降りていきながら耳にして、にやりとした。
まずたぶん、予想外に広いことで驚いたのだろう。
そしてそこに、いくつかの楽器がすでに置いてあることに。
もちろん私は料理人でありクラフトビールの醸り手でもある。
最近増えてきた「インネパ」(ネパール人たちが経営するインド料理屋を、日本人たちはそう呼ぶ)とは一線を画すために、私はすべての料理を食べ放題、アルコールを含むすべての飲み物を呑み放題にした。
エーゲ海からバルド(私の国のコメの種類で、香り米とは違う。日本のコメと似ているから、なかなか気付かれることはないのだが、ショースケは知っていた)を取り寄せ、ひき肉を使ったキョフテや羊のシャワルマ(ケバブ、と日本人は呼ぶが、本来は「シャワルマ」。ショースケはまずこの店名が気に入った、と言ってくれた)など、すべてはトルコのやり方で、そこにちょっとだけ日本風の味つけをして(というか、トルコ風の香辛料などをちょっと控えめにするだけ。ショースケは、ちょっとだけそこが気に入らないようだが)提供している。
トルコを代表して、私はこの店をやっているつもりだ。
が、それ以前にエズテリュク家の男としての音楽のたしなみも知っているし、その技も忘れてはいない。
エズテリュク家はもともと軍人の家系であり、中には軍楽隊(メフテルハーネ)の勇士としても勇名を馳せる者もいた。
その歴史を忘れないために、誰にも迷惑をかけない地下室で仕事の合間に太鼓(チョス)の練習をしていたのだ。
太鼓(チョス)は西洋音楽では「ティンパニ」と呼ばれる楽器の原型になったもので、大きな鍋に一枚皮を張っているから複雑かつ余分な共振を招くことなく、明確な音程を発することができる。
もとより私の名前のオスマンは、古代帝国に由来する。その名は、喇叭と太鼓の響きとともに世界を席巻した。
軍楽隊で働いていた先祖代々の太鼓を日本に持ってきていてよかった。
困っている彼らに場所と食事を提供できるだけではなく、先祖代々の楽器で音楽の面でも力を貸せるのだから。
これぞ、iyiliğin karşılığı。
初めてこの地下室にもぐりこんできたあの日、あれだけ驚き、喜んでくれた彼らは、翌月から店の地下室で練習を始めた。
階段を隠す蓋を閉じれば、上に音は漏れない。
私が練習に参加することは仕事の関係でなかなか難しかったが(練習日の金曜日は、書き入れ時でもある)それでも三か月のうち一回は一緒に音楽を楽しむことが出来た。
弦楽四重奏と木管五重奏に加え、ついこのあいだ山中さんが連れてきた喇叭ボル(彼らはトランペットというが、彼の持っているあの変わった楽器の響きは、私にはどうしてもふるさとの喇叭ボルを想起させるのだ)兼チューバ吹き、そしてピアノ(日本で購入したインド製の中古のアップライトピアノが役に立った)という、わずか十人程度の楽団には太鼓(チョス)の響きはやや個性的すぎたが、低音の補強にはちょうどいいとショースケは笑っていた。
なんか西洋音楽の源流に触れてる気もする、と。
そろそろショースケが来る頃だ。
バソン 金山信吾 画家
榎本さん。携帯電話もパソコンも持ち合わせていないため、いきなりこのような手紙を出すことをお許しください。
しばらく前から、シャワルマ亭が休業していて、オスマンさんにも会えず、楽団がどうなったか、どなたにお聞きしていいかわからず・・・やむを得ず、入団時にお手紙をやりとりさせていただいた榎本さんにご連絡致しました。
この時代に携帯電話もパソコンも持たないのはいかがなものか、というお話はいつもみなさんからいただくのですが、ショースケさんもやはり私同様どちらも持っていないことを言い訳にして来ましたが、こういう場面では確かに不便極まりなく、自らの不徳を恥いるばかりです。
現在楽団(ちいケストラ)は、そしてシャワルマ亭はどうなっているのでしょう?
もう解散してしまったのでしょうか?
ネット環境や携帯を持たない私がいけなかったのですが、知らないうちに解散していたのだとしたら、残念至極です。
これまで私はさまざまな楽団(オケ)に問い合わせをしてきましたが、バソンであることを理由にどこからも入団を断られてばかりでした。
バソンではなくファゴットなら、という話には私が首肯出来なかったのですから、やむを得ないのですが。
もっとも、実際にバソンとファゴットの違いについては、おそらくどなたも大して気にはされていないはずだ、と愚考しております。
現在ファゴットを吹いている方にしても、おそらく実際にバソンと一緒に吹いた経験を持つ方はそれほど多くはない、いや、有体に言えば、ほとんどいないはずなのです。
なぜなら当節、バソンしか吹かないアマチュア音楽家は私の知る限り、この国では片手で数えてなお指が余るくらいなのですから、その姿も見ず音も聞かずに「バソン、ですか?バソンを演奏される?そ、それはなんとも珍しい。バソン、ねえ・・・バソンは、ちょっとねえ・・・」と言いながら唇の端に浮かぶ薄笑いを、何回目にしてきたことか。
ファゴットよりも演奏するのが難しい、というのはあくまで吹き手だけの問題で、はっきり言って音色や表現力の違い(どちらがいいか悪いか、ではなく)なんか気にしている人は吹き手以外にはほとんどいないにも関わらず、こちらがバソンを吹いている、と口にしただけで薄笑いとともに否定する。
この薄笑いの嫌ったらしさ、榎本さんもわかりますよね、榎本さんも以前、長管トランペットやウィンナチューバで同じような目にあっていた、とか。
私は、そんな榎本さんや、横溝さん(彼女も似たようなことをおっしゃっていた気がしますが、口数の少ない方なんで、本当のところはわかりませんが)灰田さんなど、同じ思いを共有できる仲間がいるこの楽団(オケ)が大好きなんです。
だから、みなさんとお会いできないのが本当に寂しくてたまらない。
すみません、つい長々と書いてしまいましたが、つまりは、いまみなさんはどうされているのでしょう?
知らぬうちに、あるいは、私が読むことができないメールなどで楽団(ちいケストラ)の解散が伝えられたのでしょうか?
メールなどやらない、バソン同様に「時代遅れ」(私は決してそう思ってはいません。ただ今は卑屈になっているだけです)な私がいけなかったのでしょうか?
この手紙が、無事届くことを祈念しつつ、ひとまず筆をおきます。
ご連絡を、お待ちしております。
トランペット&チューバ 榎本弘良 町役場職員
金山さんには本当に申し訳ないことをした。
手紙を読んで、すぐに金山さんにお詫びとともに事情を説明する手紙をお返しした。
ともかく矢継ぎ早に事件が起きたのだった。
そのうちのひとつ(小さい方だ)は、オスマンさん緊急手術並びに帰国問題は、ひとまず無事に解決した。
それに先立って発生した大問題は…いやまずは時系列に沿って説明せねばならないだろう。
それにしてもいろいろなことがあまりにも同時に起きすぎた三か月だった。
三か月前。
まずオスマンさんが倒れた。
仕事中に倒れて緊急搬送され、心筋梗塞のためにステント配置手術をその夜のうちに受けた。
手術は無事に終わったものの、一週間の入院期間中に、今度は母国のお母様が亡くなる。
退院したその日に大慌てで荷物をまとめて帰国したオスマンさんは、店に休業の張り紙をすることを忘れていた。
それだけでも貼っておけば金山さんも慌てずに済んだのだろうけれど、それをせずに帰国してしまったのは、状況的にやむを得ないとはいえ、いつも沈着冷静なオスマンさんらしからぬミスだったし、それに気づかなかった我々も同罪だった。
しかし、葬儀を無事終えたオスマンさんが近々無事に帰国してシャワルマ亭も再開することになる、というメールが届いたその日に、もうひとつの事件が起きた。
ショースケさんが、亡くなった。
それは仕事中のことだった、と池端さんは言った。
いつものようにショースケさんはその日、路上で警備員の仕事についていた。
池端さんはショースケさんの仕事現場が街のどこなのかについてきちんと把握していて、ほぼ毎日のように仕事終わりに楽団の打ち合わせをするのが常だった。
その日も、池端さんはショースケさんの仕事終わりを向いの喫茶店から眺めていた。
あと十分くらいで仕事が終わる、という時に、横断歩道の向こう側で赤い誘導棒を元気に振っていたショースケさんが、まるで風に吹かれてなびく柳のように揺れたかと思うと、そのまま受け身も取らずに路上に倒れた、というのだ。
ひっきりなしに行き交うクルマのあいだから見えたその様子は、スロー再生の動画を見ているような感じだったそうだ。
クルマに轢かれたとか撥ねられたというわけではなかった、と池端さんは警察にも証言した。
信号無視してクルマをかき分けて(本人談。そんなことが可能だとは思えないが)駆け寄って救急を呼んだ第一発見者である池端さんがそう明言したし、あとで警察も現場の監視カメラでそれを追認したそうだ。
急性心不全。
救急で運び込まれる途中で心肺停止となり、病院についた途端に医者が後方ドアを開けて乗り込んできて瞳孔を確認するなどして、その場で死亡を宣言したのだ、という。
心臓が止まっているから心不全。
それからの司法解剖でも、特に疾病のある臓器もみつからなかったらしい。
警備員というのは突然死の多い職業なのだ、と、町役場の警備員の人たちが以前呟いていたのを思い出した。
町役場の窓口で突然、何の前触れもなく老人がひとり倒れ、かけつけた救急隊員によって心肺停止が確認されたということもあった。
その当時私は公民館担当の職員で、ヴィオラの山中さんと初めて出会ったのも町役場の窓口で、だった。
全国的に有名なプロ楽団(オケ)の人がなぜこんな小さな町で定期的に公民館を借りる必要があるのか、最初はわからなかったのだけど、山中さんが高校時代の想い出とか、ショースケさんや池端さんの異能ぶりについて熱弁を振るうのを聞いているうちに、これは町役場の事業として支援するのも面白いかも、と思ったのだ。
まずなにより予算がほぼ、いらない。
場所も第二音楽室で充分となれば、空き部屋の有効活用になるし、その使用料さえ駅前活性化のためのコンサートを無料で定期的に行う、ということでチャラにすればさらに効率の良い文化活動になる。
何より、予算から何から、何事も巨大化することが近代化だと言わんばかりの大都市の文化事業計画を鼻で嗤うような、そのばかばかしさ加減が面白かった。
百人以上が必要とされる大曲を、わずか数人で(発足した当時はまだ、片手にも満たなかったのだ)でやってしまおうというその蛮勇というか無謀さというか、ともかく、知恵と勇気に。
そして実際に初めての駅前コンサート(正確には「改札前コンサート」なのだが)を聴いてみて、気付いたのだ。
なんだって人はあの「コンサート」という形式に耐えられるのだろうか。
何人もの(時には何千人もの)人が同じ方向を向いて座り、黙って(そうでないときもあるけれど)前方で演じられる「なにか」をひたすら見て聴いて、終わったら拍手して。
我々とは可聴周波数帯域の違う宇宙人があの様子を見たら、なにかの儀式ではなかろううかと思うに違いない、一種不思議な威圧感にあふれた時空間。
それがコンサート会場というもののもつ魔力で、その魔力をいや増すために、素人だろうとプロフェッショナルだろうとまずは大人数、大音量で圧倒しよう、というと考えるのは洋の東西南北を問わず、地球上ではありふれた行為のようだ。
そんな「ありふれた」行為にはあきあきしてしまったのが、彼ら「ちいケストラ」の人たちなのだ。
それがだんだんわかってきて、いつか私も仲間に入りたい・・・とは思ったけれど、仕事の関係上、町役場の人間が公民館使用団体に個人として参加するのは禁止されていた(そういう意味不明の役場内規則が、実はたくさんある)。
なので、山中さんとは会うたびにいろいろ情報交換をさせてもらう程度で満足していた。
ところが、ある日財務管理の小山部長がおかしなことを言い出した。
あの「ちいケストラ」を今後出入り禁止にするというのだ。
それだけではなく、駅前コンサートそのものも中止にするという。
さらには、私が「ちいケストラ」を不当に優遇しているというようなことが会議で取りざたされ、その真意を問われるまでもなく私は一方的に他の業務に回されることになった。
何の文句も言わなかったのは、公民館窓口係でなくなれば、私が「ちいケストラ」に所属するのは何の問題もなくなるからだった。
弦楽四重奏と木管五重奏が合体し、そこに「毛の生えたような」(ショースケさんの言い方によれば)少人数の中では、普通のトランペットでは音量の問題でいささか居場所に困りそうだ、と直観して、自分のコレクションの中から長管トランペットを持参した。
通常のトランペットよりも長く、豊かな倍音成分を持つそれは、時にはトロンボーンの音域にまで降りてゆくことが可能な楽器だった。
「これはいいね」
入団したその日、ショースケさんは私の音を聴いて言った。
「音が深い。音域も通常の短管トランペットの倍近くあるから、アレンジする際にも使いでがある。周波数特性的にも倍音が豊富で弦楽器や木管楽器の邪魔をしないし、ホルンと同じ長さだから、いわばホルンが日本増えたような使い方もできるし、もちろん通常のトランペットのようにも(トランペットそのものだから当然だが)使える。しかも、彼(私のことだ、そしてこれはみんなに向かって発言していた)はウィンナーチューバも吹けるというじゃないか」
ショースケさんはそういって、ひとり拍手した。
「ウィンナチューバって?」
と、ホルンの福澤君が言った。
もしかしたら食いしん坊の彼はあっちの「ウィンナ」を連想してしまったのかもしれないが、飯丘さんの書き込みでもあったように(そう、これまで長々と綴ってきたのは、実は「ちいケストラ」メンバーがこれまでさまざまなインターネット環境で書き込んできたデータを潜入して収集し、整理して並べ替えたものだ)もちろん食べる方じゃなくて、モーツァルトやハイドン、そしてベートーヴェンなどが暮らしていたあのオーストリアの古都。紀元十世紀から四捨五入して千年続いた「約千年王国(そんな専門用語ないけど)」である神聖ローマ帝国(その版図にローマは含まれてないのにその名前か、といつも思うが)時代から、文化的な中心都市だったあの古都で生まれ、愛された小型のベルを持つ低音金管。
わずか十人ばかりの「ちいケストラ」にはチェロとピアノ、そしてバソンとファゴットという、低音域を発音可能な個性豊かな楽器が沢山ある。
しかし、人数が少ないから常にそこ(低音)ばかり担当しているわけにもいかないし、ファゴットはオーボエも兼任(私同様、高音楽器と低音楽器を兼用するわけだ)また、トランペットだけを吹いているより、時にはチューバが活かせる方が、たぶん池端さんの編曲パレットに載せる絵の具が豊かになるかも、なんて自分では考えている。
役に立つかどうか、それほどの腕がどうかは別にして。
それにしても「ちいケストラ」は腕達者が多い。
トラヴェルソやアルバート式クラリネット、バソンやウィンナオーボエなど、いずれも扱いの面倒臭さでこの世から消されようとしている管楽器を縦横無尽に使いこなす手練れたち、さらに彼らを奇想天外に操る異能な編曲者(池端さんのことだ)の素早い手作業(パソコンソフトは使うにせよ)が産み出す、きわめて多彩な音色に恵まれた「ちいケストラ」。
実際に合奏に加わってみると、それは思った以上に、いや、想像をはるかに超えて楽しかった。
弦楽四重奏が、ピアノ五重奏が、そしてある時には大編成の管弦楽が、ものの見事に繊細かつ緻密な彫刻のようにくみ上げられていく現場に立ち会うことが出来るのは、アマチュア音楽家としてこの上ない喜びだった。
駅前コンサートでも、「ちいケストラ」は注目を浴びるようになっていった。
いい意味でも、悪い意味でも。
いい意味ではもちろん、ファンが増えたことだ。
「クラシックって意外に聴きやすい感じなのね」
「音色が素敵」
「少人数なのに迫力ある」
「うるさくない」
迫力あってうるさくない、というのは矛盾しているようにも思えるが、いろんな人がいる、というだけのことだ。
むろんこれらの言葉はちょっと検索賭けただけでひっかかってきた好意的な言葉で、悪意にあふれた評価ももちろんたくさん転がっている。
「作品への冒涜だ」
「偉大な作曲家への冒涜だ」
「クラシックを知らない連中」
「骨董品をもちだして喜ぶマニア」
こちらの方もいろんなことを言う人がいて、それは眺めているだけで面白かった。
そう、つまり私の仕事は、潜入すること。
潜入、といっても、誰かのデータファイルから重要なデータを盗んだり、書き換えたりするようなことはしない。
街の安全を図るため、ということで、新たに就任した若い町長が密かに発案した秘密業務だった。
何の権限もない、けれど、なんでもできる。
パソコンさえあれば。
あるいは、時によってはスマホでも。
町役場的には「閑職」というか、いわゆる「窓際」にしか見えない職場だった。
窓際を背にした(窓には常にカーテンがかかっていた)薄暗い部屋の中で、モニターに照らされながら黙々と仕事をするのは、私の性にあっていた。
そこにいるのは、さまざまな部署で「使えない」と烙印を押された「ゴミ」ばかりだった。
異動する際に、少なくとも私ははっきりそう聞かされた。
「あそこ、ゴミ捨て場だから。君のようなゴミ好きな人間にはちょうどいいのかもね」
そう吐き捨てるように言った人物は、小山大吉氏だった。
町役場に職を得たばかりの頃、私がトランペットを吹くということを知った同僚から紹介されたのが、小山氏だった。
彼もまた、トランペットを吹くのだそうだ。
それが最初の出会いだった。
私がちょっと変わった楽器を吹いてます、と言うと目を輝かして、
「どこの国のブランドで、マウスピースはどこの国のものを使っているのか」と訊いてきた。
いきなりこの種の質問をする手合いにはいまままでさんざんな目に合わされてきたので適当に応えれば・・・とも思ったが、この人は高級官吏だしもしかしたら・・・と思いつつ、それでも「いやいやいや」と膝裏に隠したスマホの録音スイッチをそっと押し、それからすべて正直に答えると「あ、それはゴミですね」と一言。
やはり案の定の展開か、と腹の底を引き締めたとたん、やはり案の定彼は薄笑いを唇の端に浮かべながら演説を始めた。
「まだお若いからおわかりにならないだろうが、楽器はいいものを使わなければ上手くなりません。いい大人が中古を使うのもおすすめはしません。トランペットに必要不可欠な高い音なんて絶対に出せません。ましてやそんな骨董品など。博物館に飾るならまだしも、実際に吹こうなんて人は、それこそ病院でアタマの中を調べてもらった方がいい。そもそも、いまどき時代遅れの長管トランペットなどを使っているとは。大作曲家先生たちの時代にはヴァルヴが開発されていなかったから長い管を使うことによって使用可能になる高次倍音をのためにそう書いていただけであって、きちんとしたヴァルヴがつくれるようになった現在では、そんなものを使う意味など、これはもう、まったくない。ないといったら、ない。しかもヴァルヴ付きの長管トランペットなど、まったく意味をなさない。なさないったら、ない。しかもチューバも吹かれるとか。トロンボーンと併用される方は軽音楽の世界には何人かいらっしゃるようですが、はあ、ああいう世界の皆さんはそれこそ勝手に併用でもなんでもされるがいい。汚らわしい。トランペットはその昔、貴族が自らの権威を誇るべく用いられた高貴な存在なのですぞ。それをよりにもよって、あの土管みたいにでかい無骨な下品極まりないマウスピースをもつチューバと持ち替えるとは、いやはやなんとも言いようがない。いや、いきなりいろいろ講釈してしまって、こういった高度な音楽的な会話は、まだあなたにはちょっと難しすぎたかもしれませんな。失礼。やはりまだまだお若い。かなり、お若い。おそらく力だけは有り余っているから、チューバなどという下賤な楽器を吹いてみたくなったのでしょうな。あんなものは下等な人種にまかせておけばいいのです。ほっとけ。それに人間、二兎を追うものは一兎をも得ずと昔から言うじゃありませんか。悪いことは言わない、みんなが使っているのと同じ楽器やマウスピースを使うのが、一番いいんです。ひとりだけ違ったものを使うのは、とかく全体の和を乱すもとになる」
以上は、こっそり録音した小山氏の言葉ほとんどそのままだ。
窓口来店客からトラブルの匂いがした際にはスマホの録音ボタンを押してしまうのは、もはや習い性となっていた。
ツッコミどころ満載のご高説であったけれど、それは幾人もの同じような年恰好の「大先輩」たちから聞かされてきた、ありふれた世迷い事にすぎなかった。
一昔前にはたぶん「正論」だったのだろうけれど、今や誰も(少なくともぼくの世代は)こんな粗雑な言葉に耳を貸そうとはしない。
いちいち反論するのも面倒だな、とその日は素直にうなづき頭を下げ続け、すべての言葉を背後にやり過ごしたつもりでいたのだが、思わぬ時にそれは真後ろから反響してきた。
いや、真正面からか。
「君ね、あの駅前でやっているおかしな楽団(オケ)ね、あれに随分好意的だそうじゃないか」
ある日、小山氏がいきなり呼びつけてきたので彼の執務室へ急ぎ向かい、ドアを開けるなり、真正面に座っていた小山氏は挨拶抜きでそう言った。
そして第二音楽室無料定期貸し出しなども挙げて、
「いろいろ調べさせてもらったよ。下品だ、通行の邪魔だという声も多数挙がっているいるあのような楽団を野放しにしているばかりか、優先的に公共施設を貸し出すとはなんたる不見識。そういえば君はなんだか骨董品を集めるのが好きだったよね。ゴミ集めが趣味か。それならそうと早く行ってくれればもっと君に合った部署に配属したのにね、これはこちらの不見識だった。というわけで、私の温情でそういう部署に廻ってもらうようにしたから、この辞令にあるタイミングで可及的速やかに異動を完了するように」
そこまで一気に言って辞令をこちらに放り投げ、一息ついて、
「ゴミはゴミ捨て場に、というのは大人の常識だからねえ。しかもあんな薄汚い格好をした労務者風情が指揮の真似事をしているような、そんなアナタ、ふざけた団体に我が町の貴重な資源を利用させるとはねえ。ゴミはゴミを呼ぶ、というが、まさにそれだね。ならばゴミはやはりゴミ置き場に捨てなければね」
小山大吉は(もう敬称略だ)そう言って薄笑いを浮かべた。
オレ(もう「私」なんて気取った一人称を使う気は失せた)のことは何と言われてもよかった。
オレは小山のその薄笑いが許せなかった。
もちろんショースケさんが亡くなったのは小山のせいではない。
しかし、オレにはまるでショースケさんはその「薄笑い」に殺された、ような気がしたのだ。
小山の、だけではない。
世間にたくさん溢れている、「ちょっと変わった存在を無視しようとする奴らが浮かべる「薄笑い」。
自分たちとはちょっと違う存在に出会った瞬間に浮かべる「薄笑い」。
それは、異なるものを自分から遠ざけたいという無意識のバリケードをあぶり出す力がある。
遺品整理のためにみんなで練習を取りやめ、ショースケさんの自宅を訪問した際に発見された手書きの日記の断片をつなぎあわせ、人力(つまりテキストのコピペではなく)で打ち込んでいくうちに、もしかしたらこれはショースケさんがやりたかったことかも知れない、と思うようになった。
たぶんショースケさんは出版社に入る前は、小説家かなにかを目指していたに違いない。
でなければ、くだくだといろんな紙に「自分語り」を書き連ねていた理由がわからない。
あれだけ耳のよい人が音楽の道を選ばなかった理由も、わからない。
いずれにせよ、今となっては本当のことはわからない。
しかしそれをなんとか理解しようとして、ショースケさんの残した「自分語り」の断片を合体させたり繋ぎ変えたり、ついにはオレが教え込み鍛え育てた生成AIの助けをかりて仕上げていくうちに、やつ(生成AIのこと)がショースケさんが言ってた「私小説」まがいの雰囲気に仕立ててしまった。
他のメンバーのブログやSNSなどを検索したり、ハッキングしたりするのはお手のものだから、みんなのデータを集めるのにそれほど苦労はしなかった。
苦労したのはオスマンさんのトルコ語からの翻訳だ。これは全面的にAIの助けを借りなければならなかったが、生成された文章にさらに手を加えた。
困ったのは、バソンの金山さんの部分だ。
彼だけはいわゆるデジタル環境が皆無(スマホもパソコンもなく、携帯電話どころか固定電話すら持っていない)で、いかにハッキングが得意なオレでも完全にお手上げ。
ショースケさんのように、警察立ち会いのもとでご自宅をくまなく探し回ることももちろん不可能だ。
しかし彼から先に挙げた手紙が届き、これで「ちいケストラ」の全員のコメントを揃えることが出来た。
すべてはショースケさんの想い出を固定しておくための作業だった。
おそらくこれ(まとまり次第ネットプリントで世界で唯一の小冊子に仕立てて、「シャワルマ亭」に置いておく。そう、いまあなたが手に取って読んでるのが完成形です)を読んだみんなは驚くだろうし、小川さんあたりは個人情報保護法への抵触を心配するだろうけれど、内容を見てもらえばわかる通り、いずれの部分にもその心配はない。
むしろ煩雑に過ぎるマニアックな部分はできるだけシンプルに、わかりやすく整理したつもりだ。
とはいえ。
オレは、もっともっとショースケさんと話がしたかった。
オレが一番最後に聞いた彼の言葉は、
「ここが俺たちのバイロイトになればいいな」
というものだった。
バイロイトというのはドイツ南部の片田舎にある町で、ここにはリヒャルト・ワーグナーが自分の作品(「楽劇」と彼は呼んだ)だけを上演するためにつくった劇場がある。
「バイロイトでは、楽団はステージの真下に潜っていて、音は地下から聞こえてくるんだ」
「行ったことないくせに」
と、あの日池端さんはまぜっかえしたけれど、本当はどうだったんだろう。
「あの穴から『ラインの黄金』が聞こえてきたら、ぞくぞくしないか」
ある日の練習終わり、お決まりの打ち上げでショースケさんは開いたままの地下室への入り口を見ながら、ジョッキ一杯の水を呑み干して呟いた。
「入口の蓋、練習中は開けない約束でしょ」
横溝さんが言った。
「いやさすがに、『ラインの黄金』はきついっすよ」
と、福澤君がフレッシュジュースを(生グレープフルーツをオスマンさん特製の機械で最後の一滴まで絞りつくしたもの)なめながら言った。
「だってあれ、ホルンが八本必要で、その真似はとてもぼくひとりでは」
「やったろうじゃないのさ」
そう、あの日はいつもより素早く、三杯目のクラフトビールを一気に飲み干した池端さんが宣言した。
「ちいケストラに、できないことはないっていうことを世間に聞かせてやろうじゃないの。確かにここからワーグナーか、あはは、インド料理屋の地下からワーグナー、あはは面白!」
「インドちがう、トルコです」
オスマンさんが池端定番の間違いに、これまた定番のツッコミを入れた。
みんなが、いつものように笑った。
そんな夜が懐かしい。
そんな夜はもう帰ってこない。
ショースケさんを囲んで練習し、ショースケさんを囲んで音楽的な、あるいは非音楽的な莫迦話に盛り上がった、あの日は。
しかし、ショースケさんが語りかけた夢だけはその後もオレたちは語り続けている。
言葉ではなく、それぞれの楽器で。
信じられないことに、池端さんは「ラインの黄金」からの抜粋を書き上げた。
ショースケさんが亡くなってから、ちょうど一年後のことだった。
そう、オレたちはショースケさん亡きあとも、「シャワルマ亭」での金曜練習と呑み会を続けた。
ショースケさん抜きで、つまり指揮者はナシで、北原さんのヴァイオリン、池端さんのチェロがショースケさんの代わりになり、音楽を導いてくれた。
オレたちは、黙々と練習を続けた。
それは闘い終えたアベンジャーズが黙々とシャワルマを喰い続けるあの映画のラストシーンにも似ていた。
ショースケさんがいるうちは、練習中には入り口を閉じておく、というのが不文律だったけれど、オスマンさんのアイディア(と、太っ腹?)で、練習中もそこを開けっ放しにするようにした。
ショースケさんはここを「ちいケストラ」のバイロイト劇場にしたい、と言ったからだ。
だから、毎月第四金曜日の夜、「シャワルマ亭」のBGMはクラシック音楽になる。
時にはワーグナー、時にはブルックナー、そしてバッハにマーラー、ベートーヴェン、グリーク、ブルッフ、シベリウス、ラヴェルにラロにドビュッシー、ショスタコーヴィチ、ヴェーベルン。
クラフトビールやオスマンさん手作りのいろんな料理に舌鼓をうつ客たちは、 ビールを呑むように、ごく自然にその穴から響いてくるクラシック音楽を楽しんでいたようだ。
地下ではオレたちが気ままに楽しく演奏していた。
ショースケさんはもういないけれど、どの曲を演奏していてもどこかで指揮棒を手に、あるいはピアノの前に腰掛け、静かに微笑む労務者風のその姿が、オレたちだけにははっきりと見えていた。
上のお客さんたちはそんなことは知る由もなく、それぞれがただただ自分流に音楽と料理を楽しんでいた。
正面を向いて黙ったまま、という、あのスタイルはここにはなかった。
じっくり聞きたい人は穴の近くに、BGMにしたい人はそこから離れて座り、思い思いに楽しむ。
オスマンさんはお客の周りを縫うように歩き、時には走り、注文を取り、足りなくなった料理を補充し、そしてティンパ・・・じゃなかった、太鼓(チョス)の出番になると地下に飛び込んで、穴から太鼓が響いてくる(不思議なことに、オスマンさんが必要なタイミングを逃したことは今までほとんどない)。
いやまてよ。
一度だけあった。
そういえばあの男が怒鳴りこんできたあの夜はさすがに。
「貴様ら、神聖なるクラシックを、なんと心得るのか!」
あの夜、突然店内に怒鳴り声がした。
地下にいた我々にもその声が聞こえた。
「きさま、というのは、尊敬語ですよね。怒鳴りながら使う言葉でしたか?」
オスマンさんが厨房から出てきて、静かな声でそういうのもはっきりと聞こえてきた。
ちょうどオスマンさんの太鼓(チョス)が鳴り響く場面だったが、オスマンさんが降りてこないのを不審に思ってオレたちは音を止めた。
そのとたんに聞こえてきたのが先のやり取りだ。
階段から顔をそっと出して店内をうかがってみると、怒鳴り声の主はあの小山大吉だった。
オスマンさんの大きな背中で隠れてしまったけれど、そのあともなにか喚いていたようだった。
しかし、すぐに駆け付けた警察官が小山大吉を取り押さえた。
オレたちは店内に上がり、その様子を静かに眺めていた。
小山大吉が連行され、サイレンが鳴り、サイレンが遠ざかり、店内に静けさが戻り、オレたちは地下に戻り、地下では演奏が、そして上では大小さまざまな宴会が再開した。
何事もなかったように。
結局小山大吉は、そう、あの高慢で頭の固い、いや、アタマのいいだけの莫迦(そういう手合いをオレは町役場で沢山見てきた。上から言われたことは完璧にこなすが、自分からは何もできない、足元のごみさえ命令なければ拾っていいのかどうかわからない、という人々)は、オスマンさんから営業妨害で訴えられ、判決が出る前に彼は町役場を追われ、その後はさすがのオレもわからない。
いや、検索すればわかるのだろうがそんなのは時間の無駄だ。
それより今は「ちいケストラ」だ。
すべての楽器は、それを使っている人間の脳髄の延長に過ぎない、という言葉がある。
そういう意味で「ちいケストラ」のメンバーたちを見直すと、いろんなことが見えてくる。
擦弦楽器はごく普通の、モダン・・・のように見えて、その弦はナイロンでもスチールでもなく、羊の腸を原料にしたものに最近統一したらしい。
ヴィオラに至っては、本体から弦まで手作りしている、世界で唯一の山中オリジナルがついこの間完成し、山中氏はここでだけ、それを使っている。
世界で唯一といえば管楽器も、そして太鼓も、いずれも商品として一時流通していたものには違いないけれど、今ではほとんどワンオフ状態だ。
そして極めつけは、楽譜だ。
これこそは世界のどこの出版社も扱っていない、この地下にしか存在しない世界で唯一のもの。
それが世界で唯一の楽器たちで奏でられ、世界で唯一の手作りビールや料理とともに、それを愉しむ。
床下をのぞき込み、あるいはその音を聴いただけで、普通には見かけたことのない編成、耳にたことのない音楽に、薄笑いを浮かべる自称「音楽愛好家」もまだまだたくさんいる(クラシックなやつらも、ジャズなやつらも、いろんな「音楽愛好家」と自称する老若男女のことだ)けれど、これを読んでいるあなたはそうでないことを切に願いたい。
というわけで、この本はいま地下で鳴っている楽団(オケ)にまつわるお話をまとめたものです。
ここまで読んでくれてありがとう。
これに懲りず、よかったらまた「シャワルマ亭」に聴きにきてほしい。
駅前交差点から歩いて三分。
ビルの谷間の、手作り感満載の飲み物食べ物が呑み放題食べ放題、手作り感満載の、世界で唯一のクラシックが聴けるレストランへ。
本文終了
ちいケストラの逆襲〜La Contrattacco di piccol'orchestra @bakarappa
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