Silver Scale

九 空虚

第1話

 悲鳴と轟音、何かが砕け散る音が響き聞こえていた。

 恐怖に震える私を現実に繋ぎ止めていたのは、耳元で聞こえる母の荒い呼吸と、トクトクと早く脈打つ心音だけ。

 視界は母の手によって閉ざされている。その温もりだけが、幼い私にとって唯一の救いだった。


 不意に、体が宙に浮くような浮遊感と、激しい衝撃が私を襲い、気がつけば私は地面を転がり、母の手で守られていたはずの視界が開けていた。

 呆然とする意識を現実に引き戻したのは、左腕を焼く激痛だった。

 黒い炎が、まるで生きた蛇のように腕に絡みついている。振り払おうとしても消えず、見えない牙が肉に食い込み、毒が回るような不快感が侵食してくる。痛みと恐怖に泣き叫ぼうとしたが、喉が引き攣り、空気の音しか漏れない。

 朦朧とする視界の端、母が私を呼ぶ声がした気がした。

 薄れゆく意識の中、母の背中の向こう側に迫る、巨大な竜の咢が見えた。


「――いやぁあああっ!」


 伸ばした手が空を掴む。

 目に入ったのは、見慣れた天井だった。

 心臓が早鐘を打ち、背中にはじっとりと嫌な脂汗が滲んでいる。


「……また、あの夢」


 荒い呼吸を整えながら、私は乾いた唇で呟いた。

 夢はいつもそこで終わる。母が喰われる瞬間までは見ない。そう、私は見ていないのだ。あの日、里は壊滅し多くの人が死んだ。けれど、母の遺体だけは見つからなかったと聞いている。あの場所に、血痕ひとつ残っていなかったのだから。

 里の生き残りは言った。「骨も残らず焼かれたんだ」と。

 でも、私は信じない。母さんはきっとどこかで生きていて、いつか私を迎えに来てくれる。そう信じることで、私は今日まで生きてきた。


 ズキズキと脈打つ左腕を右手でさする。

 二の腕あたりに触れたのは、人の肌ではない、硬質な鱗の感触だった。

 腕輪のように鱗が生えた箇所から指先に至るまで、肌は赤黒く変色している。

 醜い左腕が、まるで今まさに焼かれているかのように熱を持って疼いていた。

 悪夢が連れてきた絶望感と、朝特有の倦怠感が重なり、指先一つ動かすことすら億劫に感じる。

 ベッドに投げ出していた体を無理やり起こし、冷たい水で顔を洗う。そして、変色した左腕を隠すように包帯を幾重にも巻きつけた。

 今日は午後から里へ降りる予定だ。狩った獲物の皮や、集めた山菜、薬草を売りに行かなければならない。


 サイズの合わないボロの古着を重ね着し、使い慣れたナイフと籠を手に家を出た。

 一歩外に出れば、そこには黒く焼け焦げた大地が広がり、少し行けば風化した瓦礫の山が広がっている。

 かつてここには里があった。けれど、十年前のあの日、竜の炎ですべてが焼かれ、今は不浄の土地として放棄されている。

 この家だけが瓦礫とならずに残ったのは、皮肉な理由だった。

 外から来た私たちの家は、里を僅かに外れる位置に建てられていたからだ。おかげで延焼を免れ、誰もいなくなった廃墟の傍らで、私は一人暮らしている。

 新しい里へ移り住むことなんてできない。あそこには私の居場所が無い。それに何より、ここを離れるわけにはいかないのだ。

 もし母さんが帰ってきた時、家がなかったら……私がここにいなきゃ、会えなくなってしまう。

 僅かな、縋るような希望。

 けれど同時に、胸の奥で冷たい疑念も渦巻く。

 もし母さんが帰ってきても、今の私を見てどう思うだろうか。魔物の腕を持つ私を、昔のように愛してくれるだろうか。それとも……。

 思考を振り払うように、冷たい風に頬を晒した。


「カルム、アルナ」


 名前を呼べば、私の背丈ほどもある大きな狼が二匹、姿を現した。

 白い毛並みのアルナが撫でてと言うように額を寄せてくる。その首をわしわしと撫でてやると、黒い毛並みのカルムはさっさと行くぞとばかりに視線だけ寄越し、静かに待っていた。


「じゃあ、今日もお願いね。二人とも」


 そう告げると、彼らは風のように森の中へと駆け出した。

 私も彼らを追うように森へ入る。

 彼らが狩りをしている間、私はもっぱら山菜と薬草集めだ。たまに兎を見つけても、仕留めるので精一杯だからだ。

 昼を少し過ぎる頃、いつもの合流場所に向かいながら、私は二匹の名を呼んだ。

 既に幾つかの獲物を運んできていたようだが、まだ狩りをしているのか、いつも待っているはずの場所に彼らの姿がない。


「カルム~? アルナ~?」


 もう一度呼んでも返事はない。普段なら、私の声が聞こえればすぐに駆け寄ってくるはずなのに。


「……仕方ない、先に家に置いてこよう」


 二匹のことだ、少し遠くまで獲物を追いかけているだけかもしれない。私は籠を背負い直した。

 その時だった。


「――っ」


 鼻を突いたのは、不穏な焦げ臭い匂い。

 その臭いに脳裏に蘇るのは、里に降りた時に背中で聞こえた村人たちの陰湿な会話。


『あのガキ、いい加減目障りだ』

『狼を従えてるなんて』

『魔物を引き連れて何を考えてるんだ?』

『また里が襲われるくらいなら、家ごと焼いてやろう』


「まさか……」


 心臓が早鐘を打つ。

 あの家がなくなったら……


「……ッ!」


 私は籠を投げ捨て走り出した。

 枝が頬を打ち、茨が服を裂くのも構わず、煙の臭いがする方角へ。我が家のある方角へと疾走する。

 お願い、無事でいて。間に合って。

 祈りはやがて、どす黒い殺意へと変わっていく。

 もし、もう手遅れなら。二人が手にかけられていたら。


 森を抜ける。

 そこは、私の家へと続く道の入り口だった。

 息を切らして飛び出した私の視界に、最悪の光景が飛び込んできた。




 地面から立ち上る焦げ臭い黒煙。そして、四つの人影。

 この辺りでは見たことのない、質の良い装備を身につけた集団が立っていた。

 彼らの足元、黒く焦げた地面の向こう側で、カルムとアルナが姿勢を低くし、今にも飛びかからんばかりに牙を剥いている。


「困ったな。随分と粘る」


 大剣を背負った男が、唸り声を上げる狼たちを前に、困り果てたように頭を掻いていた。

 その隣で、杖を持った耳の長い女が、杖先を向けたまま言う。


「どうする? もう一発、炎をお見舞いする?」


「これ以上はやめておこう。枯れ草に燃え移ったら大事だ。それに、何かを守ろうとしてるだけに見える」


 男の言葉など、私の耳には届かなかった。

 聞こえたのは「炎」という単語。見えたのは、魔法で焼かれた地面と、立ち上る煙。それらの事だけが頭をぐるぐると駆け巡る。


 あいつらが火を放った。

 二人を傷つけた?


 ――許サナイ。


 思考が白く染まる。「手遅れだったら」という恐怖は瞬時に沸点を超え、純粋な殺意へと昇華された。

 私たちに危害を加える敵は、もう排除するしかない。

 音もなく地面を蹴った。

 狙うは一番無防備に棒立ちしている大剣の男。背後から忍び寄り、逆手に持ったナイフを首筋めがけて振り上げる。


「おっと」


 男が振り返りもせず、ただ半歩だけ体をずらす。

 それだけの動作で、私の必殺の一撃は虚空を切り裂いた。


「なっ!?」


 勢い余って体が流れる。体勢を立て直そうとした私の腕を、男の大きな手がふわりと、しかし鉄万力のように掴んだ。


「危ないぞ、お嬢ちゃん。刃物はオモチャじゃない」


 視界が反転し、私は軽々と宙へ持ち上げられた。足が地面から離れ、逃れることのできない状況に焦りが湧き上がる。


「放せッ!」


 私が暴れるのと同時に、私の危機を感じ取ったカルムとアルナが激昂した。

 その巨体が弾かれたように動き、左右から男へ殺到する。


「フィーリア、防壁」

「もうやってるわ」


 魔法士の女が杖を軽く振る。

 瞬間、空中に幾つもの光る板が出現し、狼たちの突進ルートだけを正確に遮断した。

 ガィンッ、と硬質な衝突音が響き、二匹が弾き飛ばされる。

 それでもなお喰らいつこうとする二人の前に、光の壁が立ちはだかった。

 弾き飛ばされた二匹の姿に胸が潰れそうになる。

 腕を掴まれたまま逃れられない無力さも相まって、気が付けば暴れるのを止めてしまっていた。

 だが、その一瞬の脱力が男の油断を誘ったのかもしれない。腕を掴む手の力が、僅かに緩んだのを感じた。

 今だ。

 私は思い切り下へと体を捻りこんだ。


「あ?」


 ズルッ、と男の手から重い感覚が抜ける。

 私が着ているのは、冬を越すために重ね着した、サイズの合わないボロボロの古着だ。

 男が掴んでいたのは、その分厚い上着だけ。

 私は上着を脱ぎ捨てるようにして、その腕の中から滑り落ちた。


「おっと!?」


 男が驚きの声を上げる。ドサリと地面に着地した私は、振り返りもせずに走った。目指すは魔法の壁の隙間。

 狼を防ぐために作られた壁なら、私の小さな体なら抜けられるはずだ。


「待てッ!」


 背後で男の手が伸びる気配がした。けれど、私は泥を蹴って滑り込むように隙間を抜け――


「カルム! アルナ!」


 私は二人の元へと戻った。

 シャツ一枚の体に、冷たい風が突き刺さる。けれど、震えている暇はない。私はアルナの背中へとしがみつくように飛び乗った。


「走って!」


 私が叫ぶと同時に、アルナが弾かれたように駆け出した。だがまだ安心はできない。私は揺れる背中の上から、呆然と立ち尽くす男たちへ振り返り、精一杯の虚勢を張り上げて叫んだ。


「この先に来るな! 今度は容赦しない!」


 その言葉を合図に、アルナは風となって森を駆ける。

 一方、黒狼のカルムはその場に残り、男たちの前に立ちはだかった。喉の奥から地響きのような唸り声を上げて威嚇する。

 追ってくれば喉笛を食いちぎる――そう警告するような鋭い眼光。

 男たちが追撃の構えを見せないことを確認すると、カルムは鼻を鳴らし、翻って私たちの後を追ってきた。



          ***




「……行っちまったな」


 嵐のように去っていった少女と二匹を見送り、大剣を背負った男――傭兵団『ラスティキー』の団長ガレオスは、ポリポリと頭を掻いた。


「な、何だったんですか、あの子……」


 エリエスが剣を納めながら、困惑したように声を上げた。


「随分と警戒されちゃってますね。この先にあるのは放棄された里だけでは?」


 地図を取り出し確認している若手のスヴェンが尋ねた。


「そのはずだ。何にせよ今日は調査できなさそうだ。あの二匹はまだ俺たちを試す余裕があった。下手に近づけば、今度は間違いなくあの世行きだろうな」


 ガレオスは足元の少女が捨てていったボロボロの上着を拾い上げた。

 土汚れと、染み付いた獣の臭い。そして、冬を越すために何度も丁寧に繕われた跡。

 それをパンパンと叩いて埃を払い、ガレオスは自分の腕にかけた。


「団長、その服……ツギハギだらけですね。その服どうするんですか?」

「どこかに掛けて置けば取りに来るかしら?」


フィーリアが呆れたように聞く。


「多分すぐに取りに来る事はないだろうな。折を見て持っていくのがいいだろう。あの方面はいずれ入る必要があるし、こんな季節に上着なしじゃ、風邪をひいちまう」


ガレオスは苦笑いを浮かべ、少女が消えた先に目をやってから空を見上げた。日は傾き、森の影が不気味に伸び始めている。


「恐らく、この先に家があるんだろう。古い里に一人で住んでいるなら、里の連中と何かあったのかも知れん。……そろそろ今の里の方へ向かおう。まずは聞き込みと宿の確保だ」

「了解」


 傭兵たちは武器を納め、少女が消えた森の奥――里の跡地とは逆方向へと歩き出した。

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