​第6話:『崩れる仮面と、800万円の請求書』

​翌日の午後。

私は丸の内のオフィス街にいた。

夫・貴弘が勤める商社のビル。その向かいにあるカフェのテラス席から、サングラス越しに入り口を監視していた。

​手元には、新しく買ったスマホ。

昨日手に入れた20万円の一部を使って、身なりを整えた。

ボロボロだった服を捨て、黒のパンツスーツに身を包むと、背筋が伸びる気がした。

​午後二時過ぎ。

来た。

​黒塗りのワンボックスカーが、ビルの前に横付けされた。

降りてきたのは、昨日のスキンヘッドの男と、その部下たちだ。

彼らは躊躇することなく、回転扉をくぐっていく。

​(さあ、ショータイムよ)

​私は冷たいアイスコーヒーを飲み干した。

​***

​貴弘は、人生の絶頂にいたはずだった。

面倒な妻を追い出し、理想の容姿とテクニックを持つ「新しい杏奈」を手に入れ、義両親からの信頼(と金)も得た。

社内でも、大きなプロジェクトを任され、順風満帆だった。

​その時までは。

​「おい! 小早川貴弘はどいつだ!!」

​静まり返ったフロアに、怒号が響き渡った。

貴弘が驚いて顔を上げると、強面の男たちが受付を突破して、執務室に入り込んできていた。

​「な、なんだ君たちは! 部外者は立ち入り禁止だぞ!」

​上司が止めに入ろうとするが、スキンヘッドの男は一喝した。

​「うるせえ! 俺たちは債権回収に来たんだよ! 小早川の嫁、大谷美姫の借金800万! 利子込みで1000万だ!」

​フロア中の視線が、貴弘に突き刺さる。

​「……え?」

​貴弘は顔面蒼白で立ち尽くした。

嫁? 大谷美姫?

違う、俺の妻は小早川杏奈だ。美姫なんて名前の女とは関わっていない……と言いたいが、言えない。

今の妻の中身が「美姫」であることを、彼は知っているからだ。

​「な、何かの間違いじゃ……」

​「間違いなわけねえだろ! 昨日本人がウチの事務所に来て、『旦那が払うから会社に行け』って言ったんだよ!」

​男が貴弘の胸倉を掴み、名刺を突きつける。

​「可愛い奥さんじゃねえか。なあ? 整形して美人になったからって、過去のツケ踏み倒せると思うなよ?」

​「せ、整形……?」

​周囲の社員たちがざわめく。

「奥さん、整形なの?」「借金1000万?」「ヤクザ絡みかよ」

​貴弘のプライドは、粉々に砕け散った。

エリート社員としての信用。愛妻家の仮面。

すべてが、この土足で踏み込んできた男たちによって剥がされていく。

​「ちょ、ちょっと場所を変えましょう! 応接室へ!」

​貴弘は泣きそうな顔で男たちを誘導した。

すれ違いざま、同僚たちの軽蔑の眼差しが彼を射抜く。

彼の出世街道は、この瞬間、完全に絶たれた。

​***

​その夜。

私がかつて住んでいたマンション。

今は美姫が我が物顔で住んでいるその部屋は、修羅場と化していた。

​私はベランダ側の植え込みに隠れ、漏れてくる声を盗み聞きしていた。

一階という立地が、今は都合がいい。

​「ふざけるなッ!!」

​ガシャン! と何かが割れる音。貴弘の怒鳴り声だ。

​「会社にヤクザが来たんだぞ! 全社員の前で恥をかかされた! どうしてくれるんだ!」

​「知、知らないわよ! 私、そんな人たちに行けなんて言ってない!」

​美姫の悲鳴のような声。

​「嘘をつくな! 向こうは『昨日、あんたが事務所に来た』って言ってたぞ! お前の借金だろ! 800万ってなんだよ!」

​「そ、それは……昔の……」

​「隠してたのか! 俺の金で返すつもりだったのか!」

​「だって……タカ君はお金持ちだし、愛してるって……」

​「愛してるだと? ふざけんな! お前みたいな借金まみれの整形女、俺の人生の汚点だ!」

​パシンッ!

乾いた音が響く。叩かれたのだろう。

​「……痛いっ!」

​美姫が叫ぶ。

​「やめて! 顔はやめて! 崩れちゃう!」

​「崩れろそんな偽物の顔! 出ていけ!」

​「嫌よ! ここは私の家よ! あの女を追い出して手に入れたのよ!」

​醜い。

どす黒い罵り合い。

つい数日前まで「理想の夫婦」ごっこをしていた二人が、金と保身のために食らい合っている。

​私は暗闇の中で笑った。

ざまあみろ。

でも、まだ終わりじゃない。

​「……いたたた……」

​部屋の中から、美姫のうめき声が聞こえた。

​「鼻が……鼻が痛い……ズキズキする……」

​始まった。

強いストレスと、頬を叩かれた衝撃。

あのノートに書いてあった通りだ。

彼女の顔に使われている未承認のプロテーゼは、衝撃に弱い。

​「おい、どうしたんだよ」

​貴弘の怯えた声がする。

​「鼻……曲がってないか? なんか、赤黒くなってるぞ」

​「嘘……鏡! 鏡見せて!」

​「ひっ……! 気持ち悪っ……なんだよそれ、膿んでるのか?」

​「いやぁぁぁぁっ!! 私の顔が! 私の完璧な顔がぁぁっ!!」

​絶叫が響き渡る。

ガラスが割れるような、悲痛な叫び。

​私は植え込みから離れ、背を向けた。

予想より早かった。

ストレスが彼女の免疫力を下げ、時限爆弾のスイッチを押したのだ。

​彼女は必ず動く。

このまま顔が崩壊するのを黙って見ているわけがない。

あの闇医者の元へ走るはずだ。

​私はスマホを取り出し、あのクリニックの番号を表示させた。

先日予約した「大谷美姫」としてではなく、今度は「別の用件」で電話をかけるために。

​「……もしもし、保健所ですけど」

​私は鼻をつまんで声色を変えた。

​「そちらのクリニックに、無免許医療と未承認薬剤使用の通報がありまして。……明日の午前中、立ち入り検査に入ります」

​これで、医者は逃げる。

美姫が助けを求めて駆け込んだ時、そこには誰もいない。

いや、「私」だけが待っている。

​崩れゆく顔を抱えて絶望する彼女に、最後の仕上げをするために。

私は夜の街へと消えた。

明日は、感動の対面だ。

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