病棟の安楽椅子探偵は、リハビリ中の僕を走らせる

タロウ

第1章 バイタルサインは嘘をつかない

第1話「一階の天国、六階の牢獄」

病院には、天国と地獄がある。


 ——いや、正確には「天国」と「牢獄」か。


 入院初日の俺、日向カケルは、エレベーターの階数表示をぼんやり眺めながらそんなことを考えていた。


 致死性不整脈の疑い。


 医者からその言葉を聞いたとき、正直ピンと来なかった。自覚症状なんてほとんどない。ただ、健康診断で引っかかって、精密検査を受けたら「念のため入院して詳しく調べましょう」と言われた。それだけだ。


 でも「致死性」って言葉は、さすがにインパクトがあった。


 母さんは泣いた。父さんは黙り込んだ。妹は「お兄ちゃん死ぬの?」と無邪気に聞いてきて、母さんにまた泣かれた。


 俺は——Loss: 3。Apathy: 7。って感じだった。


 サッカー用語で言えば、まだ試合が始まった実感がない。ピッチに立っているのに、キックオフの笛が聞こえない。そんな感覚。


「六階です」


 エレベーターの機械音声が告げる。


 扉が開いた瞬間、消毒液の匂いが鼻を突いた。


 廊下は静かだった。異様なほどに。窓の外は五月の青空なのに、ここだけ時間が止まっているみたいだ。壁は淡いクリーム色。床はリノリウム。等間隔に並ぶ病室のドアと、奥で青白く光るナースステーション。


 そして、どこからか聞こえる電子音。ピッ、ピッ、ピッ……。心電図モニターの音だろう。命の音。それがBGMみたいに廊下に漂っている。


「日向くんですね。こちらへどうぞ」


 案内してくれた看護師さんは、四十代くらいの落ち着いた女性だった。てきぱきと病室まで導かれ、入院の説明を受ける。


 個室。窓際のベッド。備え付けのテレビ。小さな冷蔵庫。


「Wi-Fiは完備されていますので、パスワードはこちらに」


 ……へえ、意外と現代的だ。


「お食事は循環器内科の管理食になります。塩分とカロリーを調整したメニューですので」


 ……それは現代的じゃない。


「検査入院ですので、比較的自由に動いていただけます。ただし、激しい運動は禁止です。リハビリ室の利用は担当医の許可を取ってからにしてくださいね」


「あ、はい……」


 軽い運動は問題ないが、激しいスポーツは禁止。


 つまり——サッカーは、できない。


 わかっていたはずなのに、改めて言葉にされると、胸の奥がチクリと痛んだ。


 気のせいだ。不整脈の症状じゃない。たぶん。


  *


 午後、担当医との面談と諸々の検査を終えた俺は、許可をもらってリハビリ室へ向かった。


 エレベーターで四階まで降りる。リハビリ室は広くて明るくて、六階とは空気が違った。ここにいるのは「治る人たち」だ。骨折や手術後の回復期の患者さんが、理学療法士の指導でストレッチをしている。


 俺も軽くウォーキングマシンを使わせてもらった。走るのは禁止だから、歩くだけ。時速四キロ。散歩レベル。


 物足りなさが、また胸を刺す。


 つい三週間前まで、俺はグラウンドを全力で走り回っていたのに。


 リハビリを終えて廊下に出ると、甘い香りが漂ってきた。


 コーヒー。そして、焼きたてのパン。


 導かれるように歩いていくと、エスカレーターの先に開けた空間が広がっていた。


 一階。エントランスロビー。


 そこは——天国だった。


 スタバがあった。


 ガラス張りの店内で、お見舞いに来たらしい人たちがフラペチーノを飲んでいる。隣にはコンビニ。二十四時間営業の文字が眩しい。さらに奥にはレストランやベーカリーが並び、どこからともなくいい匂いが立ちのぼっている。


 普通の世界だ。


 病院の外と何も変わらない、普通の人たちの普通の生活が、ここにはある。


 六階の静寂と消毒液の世界から、たった五フロア降りただけなのに。


 俺はふらふらと自販機コーナーへ向かった。せめてジュースくらい買おうと思った。炭酸。甘いやつ。病棟の管理食じゃ味わえないもの。


 自販機の前でボタンを押そうとして——視界の端に、何かが映った。


 白。


 ひらり、と揺れる白い何か。


 反射的に目を向けた。


 少女がいた。


 自販機の影になった、人目につかない場所。壁にもたれるように立っている。


 最初に目に入ったのは、髪だった。


 長い。腰まで届くんじゃないかってくらい、長い黒髪。蛍光灯の明かりを受けて、青みがかって見える。それが白いパジャマの上に流れ落ちている。


 細い。


 恐ろしく細い。骨と皮しかないみたいな——いや、それは言いすぎか。でも、健康そうには見えない。肌は透けるように白くて、血管が浮いて見えそうだった。


 彼女の手には、紙コップ。たぶんココア。湯気が立っている。


 それを——こぼしていた。


 正確には、手がわずかに震えていて、縁からココアが一筋、流れ落ちていた。白い指を茶色く汚して、ぽたり、ぽたりと床に落ちる。


 本人は気づいていない。


 目を閉じているからだ。


 長い睫毛が頬に影を落としている。眠っているわけじゃない。何かを——味わっている? ゆっくりと息を吸って、吐いて。ココアの香りを、一階の空気を、自由を、噛みしめるみたいに。


 綺麗だ。


 俺は、気づいたらそう思っていた。


 病人だとか、不健康だとか、そういうの全部ひっくるめて——綺麗だった。絵画みたいだった。薄暗い自販機の光を浴びて、目を閉じて、ゆっくり息をする少女。病院という場所に似合いすぎていて、逆に現実味がない。


 どのくらい見つめていたんだろう。


 一秒か、十秒か。


 不意に、彼女の目が開いた。


 深い、群青色の瞳。


 俺と、目が合った。


「——ココア、零れてる」


 言われて初めて、俺は自分がどれだけ不審だったか気づいた。自販機の前で固まって、見知らぬ女子をじっと見つめている男。完全に変質者だ。


「あ、いや、その——」


「……心拍数、うるさい」


「は?」


 彼女はこちらに視線を向けたまま、怠そうに呟いた。


「そこ、聞こえるの。バクバクいってる。気が散る」


 なんだこの子。


 耳がいいのか。いや、そもそも心拍数の音なんて聞こえるわけない。たとえ本当に聞こえるとしても、初対面の相手に言う台詞じゃないだろ。


 でも——確かに、心臓はバクバクいっていた。


 自覚はある。綺麗な女の子を見つめてたら、そりゃ上がる。当然の生理現象だ。


「俺の心臓は俺の勝手だろ」


 口を突いて出た言葉は、自分でも驚くほど素直だった。


 彼女は一瞬、目を見開いた。


 それから——ほんの少しだけ、口の端が持ち上がった。


 笑った? いや、嘲笑だったかもしれない。よくわからない。


「……変なの」


 彼女はそれだけ言って、こぼれたココアを気にするでもなく、ゆっくりと歩き出した。


「あ、ちょっと——」


「ユラ」


 振り返らずに、彼女は言った。


「深澄ユラ。……覚えなくていいけど」


 そしてエレベーターの方へ消えていった。


 後には、ココアの染みだけが残された。


 俺は自販機の前に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


 深澄ユラ。


 変な名前。いや、綺麗な名前か。「深く澄む」に「揺らぐ」? 違うな、漢字は何だろう。


 何だあの子。


 綺麗だった。


 怖かった。


 でも——


 また会いたい、と思った。


 これが一目惚れってやつなのか、俺にはわからなかった。


 ただ一つ確かなのは、胸の奥で心臓がまだうるさく鳴っていること。


 ピッ、ピッ、ピッ……。


 腰に装着したホルター心電図が、きっと今の心拍数を記録している。


 明日、担当医に「自販機の前で心拍数が異常に上がっていましたが、何かありましたか」とか聞かれたらどうしよう。


 ——なんて、くだらないことを考えながら。


 俺は六階の「牢獄」へ戻るため、エレベーターに乗り込んだ。


 扉が閉まる直前、ココアの甘い香りが、一瞬だけ鼻をかすめた気がした。

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2025年12月28日 20:00
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