第3話:暗い記憶

 しょんぼりとうつむくアイリスを、ヒューゴは黙って見つめていた。

 八年ぶりに再会したアイリスの輝くような美しさに目を奪われていたのだ。


「……っ」


 ヒューゴは強い意志の力で、アイリスから視線を引き剥がした。


(俺は望みを叶えた)


 今や立場は逆転した。自分を買った少女を競り落として自分のものにした。

 だが、心は晴れなかった。


(なぜだ……)


 アイリスを見返すため、人脈とコネを総動員して闇オークションに参加した。


(これで借りを返せる!)


 そのはずだったのに。

 それだけだったはずなのに。


 鎖に繋がれたアイリスが舞台に出てきた瞬間、すべてが吹き飛んだ。

 神々しさすら感じるアイリスの姿に、ただただ見とれてしまった。


(変わっていない……初めて会った時から)


 十年前、自分の前に突如現れたアイリス。

 侯爵家の令嬢で聖女の力を持った特別な少女。


 凜としたアイリスは幼い少女ににつかわしくない落ち着きがあった。

 そして、思わず息を止めて見入ってしまうほどに美しかった。


(認めたくない……)

(俺を憐れんだ相手に、心を奪われているなんて)


 ヒューゴはぎゅっと拳を握った。

 いつもは心の奥底にしまっている暗い記憶が浮かび上がってくる。


 十年前のことを今も鮮やかに思い出せる。

 母親は父とヒューゴを見捨て、家を出ていった。


 その後は飲んだくれの父との地べたを這いずるような困窮した二人暮らしが始まった。


 父は働かないばかりかヒューゴの世話もせずに、いつもぶらぶらしていた。

 そのせいでヒューゴはいつもお腹をすかせていた。


 幼いヒューゴにできることは、盗むことだけ。だが、もちろん捕まって殺されそうになった。


(……最悪な記憶だ)


 空腹と恥辱と苛立ちと恐怖と――自分を含めて醜悪なものしかなかった世界に突如現れた美しいもの。それがアイリスだった。


 まさしく、漆黒の闇に浮かぶ光そのものだった。


(目に焼き付いている……)


 忘れたくても忘れられない幼いアイリスの姿。

 よく手入れされた輝く黄金色の髪、珍しい淡い紫色の瞳。


 真っ白な肌をしたこの世のものとは思えない、まさしく聖なる美少女だった。

 ヒューゴは初めて人に対して『眩さ』を感じ、同時に強烈な劣等感が込み上げてきた。


(惨めすぎる……)


 あのとき、ヒューゴは命を救われた安堵より耐えがたい屈辱を感じた。

 すべてを破壊したくなるような怒りに近い感情を、ヒューゴはまだずっと引きずっていた。


 ヒューゴはアイリスから目をそらせ、鎖を握った。


「行くぞ」


 アイリスに対するどうしようもない恋慕と苛立ち――相反する感情に引き裂かれながらヒューゴは歩き出した。



 アイリスはむすっとしたまま歩くヒューゴの後について、城の外に出た。

(……ヒューゴ、怒っている?)


 立派な屋根付きの馬車に乗り込むと、ヒューゴは車窓に顔を向ける。

 まるでアイリスのことなど、気にも掛けていないようだ。


 百万ギニーという大金を出して買ったというのに、興味を示す様子はない。

 無言のままが気まずく、アイリスは口を開いた。


「あのとき、貴方を守れなくてごめんなさい……」


 声は届いたはずだが、ヒューゴは反応することなくそっぽを向いている。

 アイリスはヒューゴを屋敷に引き取った時のことを思い出していた。


 引き取られたヒューゴは、侯爵家の使用人として働くことになった。

 だが、デレクの後妻でアイリスの義母であるエイダから、執拗なイジメにあった。


「こんな浮浪孤児を買い取るなんて!」


 エイダはヒューゴの出自も、アイリスが買ったという事実もすべて気に入らず、ヒューゴにつらくあたった。


「命があるだけ、ありがたく思いなさい!」


 粗末な食事に過酷な労働をみかねたアイリスがヒューゴをかばうと、エイダはいきり立った。


「おまえに指図される覚えはないわ!」


 義母のエイダは連れ子で実の娘であるデボラだけを可愛がり、アイリスを露骨に煙たがった。


 さすがにデレクがいるときは矛先を収めたが、デレクが多忙なことをいいことに、何かとアイリスにつらくあたった。

 そしてそれはアイリスの持ち物であるヒューゴにも波及した。


「私、お義母様に逆らえなくて……。あなたにつらい思いをさせてしまったわ」


 そして、八年前に父であるデレクが急死し、すべてが変わった。

 目のかたきにされていたヒューゴは、これ幸いと追い出されるようにして知人の城に預けられた。


「貴方を守れなかったこと……本当に申し訳なく思っているわ」

「別に……無力なガキだっただけだ」


 ヒューゴがちらっとアイリスの手に視線を向けた。


「……鎖がじゃらじゃらとうるさいな」

「えっ……」


 ヒューゴがおもむろにポケットから鍵を取り出し、鎖についている錠前を外した。

 重い鎖から自由になり、アイリスはホッと息を吐いた。


「あ、ありがとう……」


 ヒューゴの薄い金色の瞳が冷ややかにアイリスを見つめる。


「鎖を外したからといって逃げられると思うな」

「逃げるなんて……」


 あんなに大金を使わせてしまったのだ。しかも、恐ろしいキャラダイン公爵に競り落とされずに済んだ。


「感謝してるわ」


 あれほどの大金分の価値が今の自分にあるとは思えないが、できるだけ彼の役に立ちたいとアイリスは思っていた。


「ありがとう、ヒューゴ」


 頭を下げるアイリスに、ヒューゴが何か言いたげに口を開きかけ、また閉じた。

 一時間ほどして、馬車が止まった。


「下りろ」


 言われるがまま馬車を降りたアイリスは目を見張った。

 周囲を高い壁で覆われた、立派な城がそびえ立っている。


「すごい……これがあなたの城?」


「ああ、そうだ。シルバリウス城という。この辺りすべてが俺の領地だ」


 大金を使って自分を競り落としたことから想像はついていたが、ヒューゴは短い間にかなりの武勲を上げ、褒賞を受け取ったようだ。


(まだ二十一歳なのに、自分の力だけでこれほどのものを得るなんて……)


 アイリスは傍らのヒューゴを見上げた。

 ピンと背筋を伸ばし堂々と歩くヒューゴからは、ガリガリに痩せた浮浪児の面影はない。


(本当に立派になったのね、ヒューゴ)


 アイリスは八年という年月の重さを改めて感じた。


(私は……何か成長できたのかしら)


 頭を下げる門兵に軽く手を上げると、ヒューゴが城内に足を踏み入れる。


「あっ……」


 城に見とれていたアイリスはつまずいてつんのめってしまった。


 だが、倒れる前に力強い腕に支えられた。

 ヒューゴが抱き留めてくれたのだ。


「ありがとう……」


 目を合わせると、うろたえたようにヒューゴが顔を横に向けた。


「……気をつけろ」


 それだけ言うと、ヒューゴが歩き出す。

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