落ちぶれた聖女令嬢は、幼なじみの騎士団長に溺愛される
佐倉ロゼ@『のろ恋』1巻発売中
第1話:売られた令嬢
「アイリス」
ヒューゴの甘いささやきに、アイリスはぶるっと体を震わせた。
彼の長い指が赤く染まった頬を、金色の髪を
「……っ」
あまりの心地良さにアイリスは吐息をもらした。
目の前にいるのは、輝く漆黒の髪と金色の目をした奇跡のように美しい青年、ヒューゴ・ナハト。
アイリスが幼い頃に買った少年は、今や爵位まで授かった若き騎士団長に成り上がっていた。
(こんなに素敵な人が婚約者だなんて……)
(まだ信じられないわ)
「愛している」
こらえきれないように、ヒューゴが言葉をもらす。
「私も――」
言いかけたアイリスの唇は、ヒューゴの唇でふさがれた。
「ん……っ」
ヒューゴが唇を離すと、アイリスの額にそっと口づける。
「ずっとこうしていたい……」
ヒューゴに抱き寄せられ、アイリスはその胸に顔をうずめた。
「私も……」
ヒューゴの鍛え上げられた体に包まれているだけで、幸せでいっぱいになる。
こんな風に愛し愛される関係になれるなど、夢にも思っていなかった。
なぜならほんの数ヶ月前、アイリスは売られて闇オークションにかけられたのだ。
そこでアイリスはヒューゴと八年ぶりに再会した。
(冷ややかな
互いの気持ちを確かめ合うまでの波乱に満ちた道のりを、アイリスは懐かしく思い浮かべた。
◇
「さあ、おまえの番だ。行け!」
背中を押され、アイリスはよろけるように舞台へと歩き出した。
アイリスの歩みに合わせ、手と足につけられた鎖がじゃらりと音を立てる。
舞台の中央はライトで明るく照らされており、アイリスはまぶしさに目を細めた。
思わず手で目を覆いたくなったが、鎖が重くてうまく手を動かせない。
鎖には逃亡を阻む意図もあったが、それよりは見世物的な意味合いの方が大きかった。
アイリスに自分は『奴隷』だと思い知らせ、客たちを喜ばせるための演出だ。
(アイリス、しっかりするのよ。自分で選んだ道じゃない)
己を鼓舞し、小さく震えながらもアイリスはしっかと顔を上げ、熱気に包まれたオークション会場を見回した。
仮面をつけた客たちは軽く五十人を越えるだろう。
皆、一様にアイリスに好奇の眼差しを向けている。
落ちぶれた貴族の令嬢を値踏みしているのだ。
そう、ここで行われているのは人身売買を含む闇オークションだ。
郊外の森の奥、うち捨てられた貴族の屋敷で密かに行われている。
客たちは選ばれた裕福な人間たちで、男性はタキシード、女性はドレスに身を包んでいる。
いずれも身元を隠すため目元を仮面で覆っており、さながら仮面舞踏会の様相を呈していた。
だが、ほとんどの者が互いに誰かは知っていた。何せ参加するには多額の費用とコネが必要なのだ。
他言無用の書類にサインをしてあるため、互いに素知らぬ振りをしているだけだ。
アイリスが舞台の中央に立つと、仮面をつけた司会の男がアイリスにさっと手を向ける。
「さて、今回の目玉商品、十九歳の貴族の令嬢、アイリス・カークウッドです!」
よく通るその声に、客たちの熱い視線がアイリスに注そそがれる。
「ご覧ください、この美しい金の髪と薄紫色の瞳を持つご令嬢を!」
客たちが薄笑いを浮かべてアイリスを見つめる。
「彼女は哀れにも実家である侯爵家が没落し、売りに出されました!」
アイリスはぐっと手を握った。
父が亡くなってから、カークウッド侯爵家は転がるように落ちぶれていった。
領地や事業のことなど興味がない義母に意見しようにも、アイリスの言葉など届かなかった。
「アイリスは『奇跡の聖女』とも呼ばれる予知の能力持ちです!」
それも過去の話だ。
アイリスの予知のおかげで領地は災害被害を最小に抑えることができたが、父が亡くなった十歳の頃から力は発現していない。
「滅多に出ない高貴な
アイリスは屈辱に顔を歪めた。
聖女の力と呼ばれるこの人ならざる力は、純潔の乙女でなければ消えるとされている。
(私は確かに純潔だけれど……力はもうない)
だが、それでも『聖女で純潔の貴族の令嬢』という肩書きだけで欲する者もいる。
アイリスは、客たちの中でもひときわ熱い視線を送ってくる男を見つめた。
(キャラダイン公爵……)
仮面をつけていてもわかる、印象的な波打つ栗色の長い髪。
ハドリー・キャラダイン公爵で間違いないだろう。
年齢はアイリスの倍、三十八歳になる。
彼には『喪服の紳士』の二つ名がある。
これまで娶った妻は五人。全員が結婚して一年ほどで亡くなっているのだ。
いずれも若くしての突然死とされている。
だが、どうやら毒殺されたらしく、金と権力でもみ消したとのもっぱらの噂だ。
そして、キャラダイン公爵はアイリスを欲しがっていた。
なぜなら『聖女』を妻にすることを望んでいたからだ。
だが、貴重な能力持ちの聖女令嬢は本来なら大事に育てられ、申し分のない縁談を受ける。
裕福とはいえ、悪い噂の立っているキャラダイン公爵家に嫁とつぐ聖女令嬢などいない。
そのため、カークウッド侯爵家が没落するや否や、アイリスに何度も求婚の申し込みがあった。
立場が弱い相手ならば、自分の好きなようにできると考えたからだろう。
だが、アイリスは他の縁談と同様、頑かたくなに断った。
結納金目当ての義母たちからは散々なじられたが、アイリスはまだ聖女である自分にすがっていたかったのだ。
だが、もはや相手を選ぶ余地すらない立場に落とされた。
資金繰りに行き詰まったカークウッド家は、土地と屋敷を売るかどうかの瀬戸際まで追い込まれたのだ。
父の思い出の残る屋敷と領地を失いたくなくて、アイリスは義母に請われるまま闇オークションに出ることになった。
アイリスは最前列に座ったキャラダイン公爵から、そっと目をそむけた。
(彼に
喉の奥が
自分の体や命が金を持った他者に委ねられていると思うと、屈辱と絶望が込み上げてくる。
司会の男が意気揚々と声を張り上げた。
「さあ、皆様ご参加くださいませ!」
すっと司会が人差し指を立てる。
「一万ギニーからスタートです!」
「五十万ギニー」
間髪入れず手を挙げたのは、キャラダイン公爵だった。
(ああ、やっぱり私は……)
目の前が暗くなっていく。
いきなり提示された破格の値付けに、場内がざわめいた。
競りは通常、少しずつ上げていくものだ。
いきなり大金を提示するのは、ライバルたちを意気消沈させ、なんとしてもアイリスを競り落とそうという意気込みの表れだろう。
五十万ギニーあれば、大きな屋敷が一つ買える。たかだか奴隷の女一人にポンと出せる金額ではない。
「五十万ギニーの方が出ました! 他にいらっしゃいませんか?」
司会がガベル――オークションハンマー――を握りながら言う。
競りの終了を告げるガベルが今にも振り落とされそうだ。
キャラダイン公爵の口角が上がる。もはや競り落としたと確信しているのだろう。
今にも心臓が破裂しそうに痛み、アイリスはきゅっと目をつぶった。
「百万ギニー」
澄んだ声に、アイリスははっと目を開けた。
手を挙げているのは真ん中辺りに座っているタキシード姿の若い青年だ。
薄暗い場内でも目立つ
提示された桁違いの価格に、しん、と会場は静まり返った。
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