【短編小説】大阪万博、隣の席の生意気な"天才"
ポケットの物語
一話完結
蒸し暑い日本の夏の日差しが、万博会場の奇抜なデザインのパビリオンに容赦なく照り付けている。私、マーク・スペンサーは、この喧騒と未来的な建築物が混在する空間に、一人娘のエミリーを連れて立っていた。アメリカ、フィラデルフィアの私立小学校で教鞭をとる私にとって、異文化に触れることは教育の一環であり、夏休みを利用したこの日本旅行は、10歳になるエミリーにとって貴重な経験となるはずだった。
「お父様、次は吉本興業という日本のコメディが見られるパビリオンだそうよ 🎭」 エミリーはパンフレットを指さしながら、いつも通りの落ち着いた、しかし好奇心に満ちた声で言った。彼女の身のこなし、言葉遣いは、私の教育の賜物だと自負している。公共の場で騒がず、常に礼儀をわきまえる。それがスペンサー家の流儀だ。
「そうか、エミリー。日本のユーモアは我々のものとは違うかもしれない。文化の違いを学ぶ良い機会になるだろう 🧐」
薄暗い劇場内は、すでに多くの観客で埋まっていた。指定された席を探し当て、腰を下ろす。舞台はけばけばしいほどに明るく、意味の分からない日本語の音楽が大音量で流れている。エミリーは少し身を硬くしながらも、その異質な空間を興味深そうに見渡していた。
その時だ。通路を挟んだ隣の席に、一組の親子がやってきた。父親は50代だろうか、くたびれたTシャツに短パンというラフな格好。そして、その手に引かれた少年を見て、私は思わず息をのんだ。
プラチナブロンドのサラサラな髪、透き通るようなサファイアの瞳。まだ幼さを残しながらも、その整いすぎた顔立ちは、将来、多くの女性を虜にするであろうことを容易に想像させた。まるでルネサンス期の絵画から抜け出してきた天使のようだ。見るからに純粋なアーリア系の血を引いている。
少年は席に着くやいなや、私と目が合った。すると、彼は何のてらいもなく、にこっと笑い、小さな手をひらひらと振ってきた。 「Hello, sir! 👋」 その声は、高く、柔らかく、優しさに満ちていた。天使の外見に違わぬ、天使の声だ。私は不覚にも頬が緩みそうになるのを抑え、小さく頷き返した。
少年は次にエミリーに目を向けた。 「Hi! Where are you from? 😊」 人懐っこい笑顔に、エミリーは少し戸惑いながらも、私から教わった通りに丁寧に答えた。 「We are from Philadelphia, in the United States. 😌」 「Wow! Cool! 僕の名前はノア!よろしくね! 😄」 少年――ノアは屈託なく笑った。
(なんと愛らしい子だろうか。これほどまでに素直で、物怖じしないとは。きっと素晴らしい家庭環境で育ったに違いない)
その時の私は、まだこの天使が悪魔の翼を隠し持っていることなど知る由もなかった。
舞台が始まり、明石家さんま、という日本の著名なコメディアンらしい男が登場した。何を言っているのかさっぱり理解できないが、会場は爆笑の渦に包まれている。文化の違いを肌で感じるのも悪くない。そう思っていた矢先、隣から不穏な電子音が聞こえ始めた。
見ると、ノアが父親のジョンにぐったりと寄りかかりながら、巨大なiPadに夢中になっている。どうやらオンラインのシューティングゲームをしているらしく、イヤホンもせずにスピーカーからけたたましい銃声と、通信相手であろう子供たちの汚い罵り声が漏れ聞こえてくる。
「Go to hell! You son of a bitch! 💥」
ノアは天使のような顔に全くそぐわない言葉を、愛らしい声でいとも簡単に吐き捨てた。私は耳を疑った。7歳かそこらの子供が使うべき言葉ではない。ジョンは息子の頭を優しく撫でているだけで、注意するそぶりは一切ない。信じられない光景だった。
「エミリー、あちらを見てはいけません。舞台に集中しなさい 😠」 「はい、お父様 😥」 エミリーは私の意図を察し、こくりと頷いた。
ノアの行儀の悪さはエスカレートしていく。彼はさらにだらしなく父親の膝の上に寝転がり、履いていたクロックスを無造作に脱ぎ捨てた。そして、その小さな素足が、私のチノパンの裾を蹴ったのだ。一度、二度。彼に悪気はないのだろう。ゲームに夢中で気づいてもいない。問題は、父親のジョンも、だ。彼は息子の足が隣の人間を蹴っているというのに、ただただ愛おしそうにそのブロンドの髪を撫でているだけ。
(この父親は一体どういう教育をしているんだ…いや、教育という概念自体が存在しないのかもしれない)
ノアの素足は、爪が綺麗に切りそろえられており、清潔そうではあった。それが唯一の救いか。ジョンはノアの頬にキスをし、ノアはゲーム画面から目を離さずにそれを受け入れる。そのラブラブぶりは、親子の愛情というより、もはや共依存の関係のように見え、目を覆いたくなるほど倒錯的に私の目に映った。
その時、後ろの席から、ひそやかな、しかし明確なイギリス英語が聞こえてきた。 「Bloody hell... This is why Americans are so troublesome, isn't it?」 声の主は、私の上品なツイードのジャケットと身なりを見て、同じイギリス人だと勘違いしたらしい。私に同意を求めるように、慰めるように囁きかけてきた。
カッと頭に血が上るのを感じた。アメリカ人であることは私の誇りだ。しかし、今、この瞬間、隣にいるだらしない親子と同じ「アメリカン」というカテゴリーで括られたことに、猛烈な屈辱と怒りが込み上げてきた。
(我々は違う!断じて違う!)
私は後ろを振り返らず、しかし背筋を伸ばし、そのイギリス紳士に聞こえるように、静かだが毅然とした声でエミリーに語りかけた。 「エミリー、どんな時も、他者への敬意を忘れてはならない。それが我々、誇りあるアメリカ人のあるべき姿だ 😤」 後ろの席が少し気まずい沈黙に包まれたのを感じ、私は小さく溜息をついた。
教師として、この親子に一言注意すべきではないか。いや、しかし、他人の子供だ。それに、あの父親はまともに取り合ってくれそうにない。トラブルは避けたい。私の葛藤をよそに、ノアはますますだらしなく寝転がり、不安定な体勢でiPadを操作していた。
その時だった。
「いでっ! 😫」
ノアの手が滑り、重そうなiPadが彼の顔面に落下した。ごつん、と鈍い音が響く。ノアは額を押さえて小さな悲鳴を上げた。見ると、白い額がみるみる赤くなっている。自業自得だ。
しかし、ジョンの反応は私の想像を絶していた。 「Oh, my poor baby! Noah! 大丈夫か!? 😱」 彼は舞台そっちのけで息子を抱きしめ、赤くなった額に何度も何度もキスをした。 「痛いの痛いの、飛んでいけー! Daddy's kissで治してやろうね! 😚」 まるで世界が終わるかのような大騒ぎだ。甘やかすにも程がある。これでは子供が駄目になるだけだ。
ジョンに慰められて少し機嫌を直したのか、ノアは再び寝転がった。そして、その素足が、またしても私の足をぺち、ぺち、と軽く叩き始めた。
もう限界だった。
私は穏やかな、しかし有無を言わせぬ教師の口調で、身をかがめてノアに直接語りかけた。 「Excuse me, young man. 君の足が、私に当たっているんだが、気づいているかな? 🤔」
ノアはゲーム画面から一瞬だけ視線を私に向け、心底迷惑そうだという表情を浮かべた。 「うるさいな… 😒」
その一言で、私の理性は危うく切れかけた。しかし、それよりも早く反応したのは、父親のジョンだった。彼は私を睨みつけ、まるで手負いの熊のように牙を剥いた。 「おい、あんた! 俺の息子に何か言いがかりか!? 🤬」 「言いがかりなどではありません。事実を申し上げたまでです。あなたのお子さんの足が、何度も私に当たっているのですよ。親として、気づいて然るべきではありませんか? 🧐」 「はあ!? 子供の足がちょっと当たったくらいでガタガタ言うな! 小っちぇえ男だな! そもそも、お前がそんなに足広げて座ってるからだろうが! 😠」
支離滅裂だ。会話にならない。私は深く、深く溜息をつき、これ以上関わるのは無意味だと判断した。 「…もう結構です。議論するだけ時間の無駄のようですので 😑」 私はそう言い放ち、正面を向いた。ノアの足はまだ私のズボンに触れていたが、もうどうでもよくなってきた。幸い、清潔そうな足だ。それだけを心の支えに、この不快な時間が過ぎ去るのを待つことにした。
エミリーが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。 「お父様、大丈夫…? 😥」 「大丈夫だ、エミリー。世の中には、私たちの常識が通用しない人々もいる。それもまた、一つの学びだよ 😌」 娘の手をそっと握り、私は平静を装った。
そんな混沌とした状況の中、突然、劇場のスタッフがマイクを持って客席に下りてきた。観客に感想を求める企画らしい。スタッフはきょろきょろと客席を見渡し、そして、あろうことか、あの天使のような外見の悪魔、ノアの前で足を止めたのだ。
「そこのボク! 外国から来てくれたのかな? このサンマさんって人、知ってる? 😁」 マイクを向けられたノアは、億劫そうにiPadから顔を上げた。ジョンは「ほら、ノア!テレビだよ!」と興奮している。
ノアはマイクをじろりと見つめ、そして、こう言い放った。 「知ってるわけないだろ、こんなの! 🤷♂️」
会場が凍り付く。スタッフも苦笑いを浮かべている。だが、ノアは続けた。彼はすっと立ち上がると、急に表情を変え、口を尖らせ、妙な手つきを始めた。そして、まるで別人が乗り移ったかのような、低く、しゃがれた声で言い放ったのだ。
「This comedy is a total disaster! A complete failure! It's not funny at all! You're FIRED! (このコメディは完全な大失敗だ! 全然面白くない! お前はクビだ!) 🔥」
それは、ドナルド・トランプ前大統領の完璧なモノマネだった。声色、口調、特徴的なジェスチャー、その全てが驚くほどに巧みだった。一瞬の静寂の後、会場にいた欧米人観光客たちから、堰を切ったような大爆笑が巻き起こった。
「Hahaha! Brilliant! 🤣」 「That's hilarious! He nailed it! 😂」
さっきまで私に嫌味を言っていた後ろの席のイギリス人も、腹を抱えて笑っている。ジョンは「どうだ、俺の息子は天才だろ!」と言わんばかりに胸を張り、ノアは得意げな顔をするでもなく、ただ静かに席に座り直した。
そして、何事もなかったかのように、再びiPadの画面に没頭し始めたのだ。
私は、呆然としていた。あの行儀の悪い少年が、一瞬にして会場の空気を支配し、人々を笑わせた。彼の内には、破壊的なまでの無礼さと、創造的なまでの才能が、奇妙なバランスで同居している。
一体、この子は何者なんだ?
あの甘やかし放題の父親が、この才能を育てたのか? それとも、才能があるからこそ、手が付けられないのか?
教師として、私は混乱していた。ノア・という少年は、私の教育理念、私の理解の範疇を、あまりにも軽々と超えていた。
舞台ではまだ、明石家さんまという男が何かを叫んでいる。しかし、私の耳にはもう何も入ってこない。ただ、隣で再び始まったけたたましいゲームの電子音だけが、やけにクリアに響いていた。
私はそっとエミリーの方を見た。彼女は、目を丸くして、隣の席の不思議な少年をじっと見つめていた。私は娘の肩を抱き寄せ、小さな声で囁いた。
「エミリー。覚えておきなさい。才能は、必ずしも礼儀正しさと共にあるわけではない。そして、世界は…私たちの知らないことで満ち溢れているんだよ 😑」
大阪の夜は、まだ始まったばかりだった。
【短編小説】大阪万博、隣の席の生意気な"天才" ポケットの物語 @Pocket-Story
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