ウシにはゆるされない
紫魚
第1話 天の女王
ピンクの髪に狼の耳をピンと立たせて、その耳先ははるか遠く2M。がっしりとした体格の後ろ姿にはっきりと見覚えがあり、声をかけてみた。
「二番?」
振り返った顔はアイスブルーの鋭い眼差し、近衛兵隊の二番狼殿(女性)である。しばらく無言で見つめられたのち、もごもご口を開いた。
「貴様、なんとかとか言う、悪魔だったな」
「なんにも中身がないよお姉さん。クリネラ。クリネラ・クリムゾン・スプラウト」
丁寧に自己紹介をしてやると静かに頷いた。なんだろう、このユルい感じ、近衛兵隊一番狼は相当な頭脳派でもないとバランスが取れないのではないか。
彼女は私を威圧感たっぷりに見下ろし、ちょうどよかった、と続ける。
「貴様、暇だろう」
「決めつけはよくない。……まあそうだね、こうしてアスモデウス大通りを行き交う魔族どもの様子を観察するのに忙しい。見てみろ、あの6輪車うまく交差点を曲がりきれずもう三十回は切り返して完全に交通を止めちまってキレた後続が赤コウラをガンガンぶつけてるが尚も切り返し続けている。あれが結局どうなるか見届けないことには気になって昼しか眠れないぜ」
「アニメ映画とか観るか?」
急に予想していなかった問いかけが降ってきて、つい呆けて「え?」と腑抜けた声をあげてしまう。
「アニメ映画とか、観る」
「ならば、その、今から、『スポンジ・ボブ ファミリー大救出作戦!!(The SpongeBob Movie: Search for SquarePants)』を見てもらえないだろうか」
「……『スポンジ・ボブ ファミリー大救出作戦!!(The SpongeBob Movie: Search for SquarePants)』を」
やぶさかではない。ここで交差点の馬鹿騒ぎを眺めるよりは有益な時間になるだろう、プランクトンの背丈くらいの差で。
「いいよ」なんでもないという調子に聞こえるように、努めて平静に請け負った。「それで、ちなみに、どうして俺なんかを『スポンジ・ボブ ファミリー大救出作戦!!(The SpongeBob Movie: Search for SquarePants)』にお誘いいただくことにしたの?」
筋骨隆々の女狼は少しもじもじして(困っちゃうなモテちゃうと、三番と狼隊の中で修羅場になっちゃったりしたらもう魔王の警備体制崩壊、第n次魔界大戦幕開け)、恥ずかしそうに小声で、
「初回入場者特典でステッカーを配っていて……パトリックが出たら交換してほしいのだが……」
「あげるよ」
やぶさかではない。虹色のゲイリーだろうがなんだろうがいくらでもくれてやる。
***
「三番。陛下が私室にお呼びだ」
東翼棟の地下で走っていたら五番から呼び出された。隣で並走していた七番までうんざりしたような苦い顔をしている。
「わかった」
さすがに汗を流して行かないと不敬だろう。シャワー。さて、どこまでお待たせしていいものか。五番は答えられそうにもない。
「……シャワー行ってくる、陛下は何か」
「特には。準備が出来たら来るようにとだけ」
では、いつも通り。
「覗くなよ」
「おえー」
七番が棒読みで答えて手を振った。
日々の業務でも体力トレーニングは一番気が楽だ。その現実逃避のひとときに水を差されて嬉しいわけはない。魔王陛下の直属部隊に所属して、直々の呼び出しに渋い顔をするなという話なのだが、生憎殺したいほど嫌いなのだ。
地獄にシャワールーム、あるだけマシである。湯が出るわけもない。マグマではないだけ重畳である。石鹸は持参していた。地獄のシャワールームなんかにボディソープなんか設置できるわけがない。そもそも最低限汗やら血反吐やらを流す程度で利用されるシャワーで、石鹸なんか持ち込んで三十分も冷水掛け流しで利用している奴は数えるほどしかいない。自分と二番だ。二番がなぜこんな底辺シャワーで粘っているのかは知らない、知っている方が問題がある。自分の使い方にも問題があるのでとやかく言う筋合いはなかった。
シャワーを終えて水気をきって、制服の方に袖を通す。冷え切った肌に長袖が心地良い、のは今だけだが。戦闘仕様の為、術式である程度の温度変化を緩和する――水気をきる機能はない。
そのまま地下を通って主塔の下まで至る。主塔の下部はマグマが垂れ流しで、熱気とかいう問題ではなく、生乾きの髪が一瞬で乾くし少しうねりが収まる。代わりに汗が浮いてくる。シャワーの意味がない。
今日の玉座の間(その奥に魔王の自室)は何だったか。42。やる気がないな。
玉座の間の奥、柱の陰の見えないところに魔王の私室への入り口がある。玉座の間の東西の壁面は無く、ただ無限に暗闇が続いているのだが、そこには急に扉があるわけである。一瞬魔が差して無言で入ってやろうかとも思ったが、ノックして参りましたと告げる。ひとりでに扉が開く。
入るとすぐに執務室と化した応接間があり(そもそも玉座の間が応接用の部屋ではないのか?)、無間に広がる落ち着かない玉座の間とは対照的な25平米くらいの空間に重厚な書斎机と応接テーブルセットと隙間にねじ込むように置かれたガゼルロッサのオフィス用デスク、存在する壁面は三方本棚になっていて、一面をガゼルロッサのファイルが占領している。魔王陛下はメインの書斎机の向こう、クッションのきいた椅子に背を預けて座っていた。体を捻って応接テーブルセットとガゼルロッサのデスクの隙間を縫って書斎机の前に進み出る。
「お呼びですか」
「来い」
ぞんざいに言ってそのまた奥に繋がる扉の向こうに立っていくので、書斎机と壁の隙間に体をねじ込んでついていく。どう考えても魔王本人も毎日この動きをしないと出入りができないのだが、趣味なのか。
遊戯室(使っているわけがない)、食事室(使っているわけがない)、本来の書斎、最も奥に寝室。
窓の外は赤く燃え立つ空が広がり、暗い部屋を夕暮れのように照らしている。
魔王はキングサイズのベッドの角の方に腰かけ、特に怒っているでも興奮しているとかでもなく、いつも通り。
「脱げ」
目を閉じて、魔が差してわざと「あーあ」とかため息をついてみるのを我慢して、まあ一番我慢しているのはここで回れ右して帰ることだ。さっき着た制服を脱ぐ。脱ぎ散らかすのもどうかと思うし、モタモタと畳むのも滑稽なので衣服は適当に丸めて床に転がして、脱ぎました、と言うかわりに黙って彼の方を見た。
脱いだからといって、脱いだっていうのに相変わらず死んだ魚みたいな目で黙って見られている。もう、何度目かも知れないので、こちらにも羞恥すらない。脱ぎ損というところか。
手招きがあって、そのベッドの角の所の、彼の目の前で床の上に膝をつく。全裸で正座している。白い指が顎を掬い上げて顔をあげさせられ、ようやくまともな会話。
「腑抜けているのではないか」
「滅相もない」
「元からか」
殺すぞ。
「アレノの方は把握しているか」
「静かなものです」
「不穏だな」
目を逸らすのは難しいので、強いて呼吸を乱さないようにするしかない。大したことのない程度になら騒がれる方がむしろ安心だ。いわゆる反乱分子の話である。
「ガンドウの方がじきに動くと聞いているが、お前、行けるか」
ガンドウの方と言ったら、ゲツテイのザナドゥ・クラブ、瑶池……
「仰せのままに」
ふん、と鼻で笑われた。
むしろ、自分なら信用ならない奴は遣わせないが、要は多分性格が悪いからなんだろう。
「お前はそれで、どうする。何のつもりで我が配下に収まっている。何の得があろう、わからぬな」
『わからぬな』じゃねえだろ。煽りやがって。
「先のない身です。過去に未練はありませんが、首の皮が繋がるならあえて振り翳しもしましょう。陛下の傍元であればまた、陰に怯えることもなく」
「さあ、いつそんな脅しをかけたものか……」
「陛下ではありましょう、このわけがわからないのを置いているのは」
面白いというように蛇の目だけすっと細めて、急に、みぞおちを蹴り入れられた。
そういう趣向なのは解っているが痛いに決まっている。竜種が革靴で全裸の腹蹴ってくるんだぞ。思わず体を丸める。声こそ堪えたが、意味のある行為ではない。
「そうだな。殺さずにおいた、そのような気分であったから。面を上げよ」
「は」
強いてまた視線を戻した。彼はやはり怒っているでも興奮しているでもなく、穏やかにうっすらと笑っている。
「死、などでは心は動かされぬと言うか」
「いえ、ただ、勅命であれば、抗わず」
脂汗が出てきた肌を固い手が撫でて、火傷跡の頬を通って、髪を引いて頭を持ち上げられた。
「恋愛ごっこにうつつを抜かしているとか聞いた」
「……誰がそのしょうもないことを陛下の耳に」
「ガゼルロッサだ」
「しょうがないな……」
ガゼルロッサなんかの名前が出てきたらしょうがないのだ。魔王がハハと軽く笑う。
「あのくず、クリネラ・クリムゾン・スプラウト。あれがいいのか」
「ほんの遊びですから」
「殺せるのか」
「こ、」
すぐに答えようとしたのに、喉が渇いて声が掠れて、妙に動転したような風になってしまった。つばを飲む。
「もちろん」
やにわに口を親指でねじあけられて、されるがまましていると舌を摘んできた。気持ち悪い。
「うつつを抜かしているようだ」
「い……」
「何の意味もない殺戮さえも私は命じる」
Why, I can smile, and murder whiles I smile,
開きっぱなしの口からよだれが垂れた。唾が溢れて噎せそうだ。
「同胞殺しさえも従うイヌを集めたが、イヌを殺すイヌが欲しいのではない。サタンという邪悪を代行する狼だ……悪辣な竜としてこの地に刻まれなければならない」
指が喉奥に侵入してきて、堪らずえづく。それでも口を動かすことは叶わないので、反動で鼻も出るし涙も出る、呼吸もうまくいかず体が震える。
また急に指が抜かれて頭が解放される。今度こそ背中を丸めてゴボゴボと咳き込みながら胃の中の何かを吐く。
「へ、い、か」
そのやんごとない寝室の床をゲロで汚しながら、つまらなそうな顔を見上げてやる。わざわざ時間を割いておいて大して悦びもしないのでは甲斐がない、互いに。
「その、あいつが、どう死んだって、あんたの何が邪悪、バカが死んだって、いずれ勝手に死ぬ……」
魔王は座ったまま器用に脚を伸ばして、頭を踏みつけて胃液の水たまりに沈めてきた。
「何の意味もないと言っている」
口の中を切ったのか、鼻血なのか、血の味がする。吐き気が止まない。
「あれは。死を喪った罪人。天の女王の招いた客人。お前が殺せるようにはならん」
足蹴にされながら意識を飛ばさぬように必死に聞いていた。だったら、そんなこと訊くなよと。
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