嘘で縛る夫へ。私は息子と幸せになります

月宮 翠

嘘で縛る夫へ。私は息子と幸せになります

王宮の北側にある離宮は、陽の差さない造りだった。

大理石は冷えきり、廊下はいつも静まり返っている。

かつて王妃として歩いたはずのこの場所は、いまのエリシアにとって――

ただ“息を潜める”ための箱にすぎなかった。


「……おかあさん」


小さな足音が近づく。

三歳の息子、リアムが眠そうな顔で彼女のスカートをぎゅっと掴んだ。

ふわふわの金髪が、朝の薄光にやわらかく揺れる。


「起きたの? 寒くなかった?」


エリシアが抱き上げると、リアムは首に腕を回し、

母の頬にちょこんと額を押しつけてくる。


その温もりだけが、エリシアを支えていた。


「……おとうさん、きのう、おこってた」


リアムの声は小さかった。

子どもなりに、あの“空気”を覚えているのだ。


アレクシス。

夫であり、王太子。

自己中心的で、気分ひとつで態度が変わる男。


彼は気に入らないことがあると、

机を乱暴に叩いたり、重いものを投げたりして、

周囲に圧をかけることをためらわなかった。


エリシアは、それに怯える自分が悔しかった。


――怖い。

けれど、怯えている姿を見せればつけ込まれる。


だから彼女は、いつも静かに、そして冷静に状況を見ていた。


「大丈夫よ、リアム。お母さんが守るわ」


そう告げると、リアムは安心したように胸に顔をうずめた。


その姿があまりにも小さくて、可愛くて、

そして――守らねばならない存在だと痛感する。



その日の午前。

王宮では珍しい来客があった。


エリシアに黙って味方をし続けてきた老重臣・バルトン卿が、

ひっそりと離宮を訪れたのだ。


「……エリシア様。お伝えしたいことがございます」


彼は誰にも聞かれないよう扉を閉め、低く声を潜めた。


「王太子殿下が、禁術書に手を付けております。

 しかも……外部に持ち出した可能性が高いと」


寒さとは別のものが背筋を走った。


「……確かな情報なのですね?」


「はい。証拠はまだ集めきれておりませぬが……

 殿下の側にいる“例の女性”リナが関わっているのは確実。

 殿下は最近、王妃であるあなたを妬ましい存在だと周囲に吹聴し――

 その言い訳に、あなたを悪く言う噂を広めている様子」


エリシアは目を閉じた。


またか。

彼はいつも、自分の過ちを隠すために人を犠牲にする。


だが、今回ばかりは違った。


“息子がいる”


エリシアの中で、静かだった心が揺れ始める。


「バルトン卿。

 ……私にできることはありますか?」


「ございます。

 殿下の不正を裏付ける文書の写しを……こちらに」


彼は懐から一枚の束を差し出した。

アレクシスが禁術書の在庫に不自然な改ざんを加えた記録。

外部との書簡。

そして、宮廷魔術師を名乗るリナと密かに会っていた証拠。


エリシアはその書類を受け取り、

震えそうになる指先を必死で抑えた。


――これは、終わらせるための鍵。


心の奥で、何かが静かに動き出した。


「……ありがとうございます。

 必ず、この子と……私自身を守ってみせます」


リアムの寝息が部屋の奥から聞こえる。

エリシアはその音をそっと胸に刻んだ。


守るべき未来は、ここにある。



その日の夜。

アレクシスは再び離宮へ訪れた。


不機嫌な足音を響かせながら、

まるで“妻と子に会いに来た”のではなく、

“所有物を確認しに来た”ように。


「エリシア。明日、話がある。

 お前は――覚悟しておけ」


低い声が、冷たい空気を裂く。


エリシアは一度だけ目を伏せ、

そしてゆっくりと夫を見返した。


「……はい、殿下」


その声は震えていなかった。

けれど胸の奥では、凍りついた痛みが広がっていく。


アレクシスが去ったあと、

リアムが寝室から小さな足音で出てきた。


「おかあさん……?」


エリシアはしゃがみこみ、息子を抱きしめた。


「大丈夫。

 でもね……明日は大事な日になるわ」


リアムは意味は分からずとも、

母の声がいつもと違うことだけは感じ取ったようで、

ぎゅっと、彼女の服を掴んだ。


その瞬間、

エリシアは決めた。


――明日、すべてを終わらせる。


自分のために。

そして、大切なこの小さな命のために。



---



翌朝。

離宮の窓に弱い光が差し込む頃、

エリシアは早くから机に向かっていた。


バルトン卿から受け取った証拠の束は、

そのまま置いておくにはあまりにも重かった。


――これを使えば、夫の罪は暴ける。

でも同時に、私とリアムの身も危険に晒す。


それでも、黙って耐え続ける未来よりはずっといい。

エリシアは静かに覚悟を固めていた。


「おかあさん……なにしてるの?」


起きたばかりのリアムが小さな目をこすりながら近づいてくる。

エリシアは微笑み、椅子から抱き上げた。


「お仕事をしていたの。大事な、大事なお話よ」


リアムは母の胸に顔をうずめた。

その温度が、迷いを確かな決意へ変えてくれる。



その頃、王宮本殿では別の動きがあった。


「エリシア様、また癇癪を起こしたらしいわよ」

「王太子殿下を困らせているって……」


廊下で立ち話をする侍女たち。

広がっているのは、根も葉もない噂話だった。


それを背後から聞きながら歩くのは、

淡い金髪の女性――リナ。


薄い笑みを浮かべ、

まるでその噂が“成功した作戦”であるかのように。


「ええ、その調子でいいのよ。

 エリシア王妃が王宮にふさわしくないと広めれば……

 殿下はますます私を頼るようになるわ」


周囲に人がいないのを確認すると、

リナは嗜虐的な笑みを浮かべた。


エリシアを孤立させれば、

禁術書の件もすべて“王妃の失態”にすり替えられる。

アレクシスがそう信じて疑わないことも、彼女には都合がよかった。


「殿下は単純で助かるわ。

 あの方が求めるのは、自分を肯定する人間だけ。

 私の言うことなら、なんでも信じてくださるもの」


まるで王太子を“操り人形”とでも言うように、

リナの声は冷たく、甘く、底意地が悪い。



昼過ぎ。

離宮の食堂では、エリシアとリアムが簡素な昼食を取っていた。


「リアム、スープは熱いから気をつけてね」


「はーい……」


リアムはぷくっと頬を膨らませながらスプーンを握る。

その小さな仕草が微笑ましく、エリシアの心を和ませた。


だが次の瞬間。


――ガンッ!


離宮の扉が強く叩かれ、エリシアの身体がびくっと震えた。

リアムが驚いて母の腕にしがみつく。


「……誰かしら」


侍女が慌てて扉を開けると、

そこには王宮の使いが立っていた。


「王妃殿下。殿下よりお伝えがあります。

 『今夜、謁見の間へ来い』と」


突き刺さるような言い方。

アレクシスの不機嫌が伝わる声。


エリシアは胸の奥に冷たいものを感じたが、

表情は乱さなかった。


「承知しました。

 リアムは……私が預け先を決めるまで、決して触れさせないでください」


使いは一瞬、意味を測りかねたように眉を動かしたが、

深く詮索せず、踵を返した。


扉が閉じられると、

リアムが心配そうにエリシアを見上げた。


「おかあさん、こわいの?」


エリシアは息子の頰にそっと触れた。


「……怖いときもあるわ。

 でもね、リアムを守りたいって気持ちは、それよりずっと強いの」


リアムはきょとんとしながら、母の胸に寄りかかった。


「ぼく、おかあさんまもるよ」


胸が締め付けられるほど愛おしい言葉。


「ありがとう。

 でもね、守るのはお母さんの役目なのよ」


エリシアは息子を抱きしめ、静かに目を閉じた。


“今夜”がすべての始まりであり、終わりになる。



夕刻。

離宮の外には怪しい影がちらつきはじめた。


アレクシスの側近の男たちが、

何かを見張るように立ち回っている。


――私が逃げないように、監視しているのね。


エリシアは悟った。


夫は、今夜――

自分を追放する気なのだ。


「……ふふっ」


思わず、小さな笑みが漏れた。


恐怖からではない。


“予定通り”だからだ。


アレクシスが追放を宣告する瞬間こそ、

彼自身の破滅が始まる。


すでに証拠は揃い、協力者もいる。

あとは――公の場で真実を晒すだけ。


「エリシア様。準備はよろしいですか?」

バルトン卿が小声で訪ねる。


「はい。

 私たちは、今夜……自由になります」


エリシアはリアムの額にそっと口づけた。


「おかあさん、かえってくる?」

リアムは涙目で聞いてくる。


「もちろん。

 お母さんは、必ずリアムのところへ戻ってくるから」


リアムは小さく頷き、

侍女に抱かれて部屋へ戻っていった。


その背中を見送りながら、

エリシアは深く息を吸う。


――もう、怯え続ける人生にはしない。


静かに、冷静に。

けれど、確かに強く。


エリシアは夜の王宮へ向けて歩き出した。


今夜、王宮に嵐が吹く。



---


夕刻。

 王城の奥にある客間の一室。公爵家令嬢であるレイナと、その夫である第二王子アレンの住まう部屋は、豪華さこそあれど、不思議なほど静まり返っていた。


 食卓には三人分の皿。

 レイナ、アレン、そして三歳の息子・リアム。


 だが、座っているのはレイナとリアムだけだった。


 アレンはいつも通り遅刻だ。


「……ママ、パパまたこないの?」

 小さな声でリアムが問う。


「ええ。お仕事……だそうよ」

 曖昧に笑って、レイナはスープをかき混ぜた。


 本当は分かっている。

 “仕事”と称して、女官や侍女を侍らせている噂。

 王族という立場を盾に、夜会や私室で好き放題しているという話。


 それでもレイナは、事実を息子に見せたくなかった。


「リアムは、たくさん食べて大きくなるのよ」


「うん!」


 リアムはぱちんと笑う。

 レイナの胸がぎゅっと締めつけられる。

 この笑顔だけが、今の彼女を繋ぎ止めているといってもいい。


 その時、ようやく扉が開く。


「……食べているのか」

 アレンが不機嫌そうに入ってきた。


「あなたが来ないから……」


「呼んでから食べろと言っただろう!」


 怒声に、レイナの肩がびくりと震えた。

 リアムは怯えて母の服にしがみつく。


「……リアムが、お腹を空かせていたからです」


「子どもに甘い顔をするな。ワガママになる」


 アレンは座り込み、何の礼もなく食べ始める。

 その横顔を見つめながら、レイナは気づいてしまう。


 この人は、家族というものを手に入れても、何一つ変わらなかった。


 愛情を返す気も、向き合う気もないのだと。


 リアムを守るためには、もう――。


「……レイナ」

 突然、アレンが低い声で言った。


「近日中に、王妃教育は一旦やめてもらう」


「……え?」


「お前は、目上への気遣いが足りない。王子妃として未熟すぎる。

 このままでは恥だ。しばらく行くな」


 突き放すような声音だった。

 レイナの胸がずきりと痛む。


 ――努力しても、全て否定される。


「……承知しました」

 平静を装い、頭を下げる。


 アレンは満足げに頷いた。


「よし。では次の夜会の件だが――」


 その瞬間、リアムがぽつりと言った。


「……パパ、ママにひどいこと言わないで」


 テーブルが、ぴしりと音を立てた。


 アレンの顔が、一瞬で怒りに歪む。


「レイナ、お前の教育のせいだ!」


「違います! リアムは――」


「黙れ!」


 怒号が響き、レイナの心がざわりと揺れる。

 リアムは震えていた。


 ――もう、これ以上は耐えられない。


 この夜、レイナの中で“ある決意”が静かに芽生えた。



---


翌朝。

 夜の喧騒が嘘のように、王城の廊下は静かだった。


 レイナは、リアムの手を引きながら歩いていた。

 行き先は、王城の奥にある古い書庫――人通りが少ない場所だ。


 表向きは“勉学の調べ物”。

 だが、本当の目的は別にあった。


「ママ、きょうはおべんきょう?」

 リアムが首をかしげる。


「ええ。でも、リアムは静かに絵を描いていてね」


「うん!」


 書庫の扉を開くと、ふわりと古い紙の香りがした。

 レイナは周囲を確認し、誰もいないことを確かめると棚から一冊の厚い本を取り出した。


 ――『離縁権に関する王国法典・貴族編』。


 ページをめくる指が震える。


 (……本当に、これを読んでいいのかしら)


 夫に知られれば、面倒どころでは済まない。

 だが、昨夜リアムが怯えた顔をした瞬間――心が決まってしまった。


 守りたい。何より自分の子どもを。


 法典には、王族・貴族が離縁する条件が淡々と記されている。

 その中の一項目を見た瞬間、レイナの瞳がわずかに揺れた。


 ――「王子としての責務を怠った場合」。


 (……アレン様。あなた、最近、政務の欠席が増えているわね)


 女官遊びや夜会通いに夢中で、会議を何度もすっぽかしている。

 それは“記録に残る事実”でもあった。


 レイナは深く息を吸い、閉じた。


「……準備をしないと」


 小さく呟いた声は、誰にも聞かれない。



「レイナ様」

 そっと声をかけたのは、側仕えのミアだった。


「昨日のご様子……大丈夫でしたか?」


 彼女はレイナの数少ない味方で、何年も側に仕えてくれている。

 だからこそ、隠しごとはしないと決めていた。


「ミア、お願いがあるの。アレン様の政務記録を……確認したいの」


 ミアの目が驚きに見開かれる。


「……それは……」


「ええ。簡単なことではないわ。でも、知りたいの。

 私とリアムが、このまま“王子妃”という名だけの牢の中にいていいのかどうか」


 静かな声だった。

 叫びでも、涙でもない。

 ただ淡々と、自分の未来を見据えた決意。


 ミアはきゅっと唇を結び、深く頷いた。


「……お任せください。誰にも気づかれないようにやります」


「ありがとう、ミア」



 その夜。


 アレンは帰ってこなかった。

 豪勢な香水の匂いだけが、廊下に残っていた。


 レイナは窓を閉めながら、月を見上げた。


「……リアム。ここより安全な場所に連れていくわ」

「ママ? どこいくの?」


「まだ、秘密」

 そっと抱き寄せると、リアムは安心したように目を閉じた。


 アレンの影が、もうこの子の未来を曇らせないように。


 レイナは静かに目を伏せる。


 ――離縁まで、あと少し。



---


翌日。

 王城の政務棟では、朝から妙な空気が流れていた。


「……第二王子殿下、また欠席か……?」

「前回の議案も未決のままだぞ」

「最近ひどくないか?」


 小声で交わされる噂。

 だが、それはもはや“隠された事実”ではなく、“共有された不信”になりつつあった。


 レイナはそれを遠くから聞き流しながら、ミアの報告を待っていた。



「レイナ様、持ってまいりました」


 ミアが差し出した封筒には、アレンの政務欠席日が細かく記録されていた。


 ざっと目を通したレイナは、静かにまばたきをする。


(……これは、想像以上ね)


 週に四度は遅刻。

 月の半分以上は“夜会”を理由に欠席。

 さらに――


「これは……女官長室からの苦情?」


「はい。殿下が特定の女官に過度に贈り物をし、勤務態度が乱れていると。王宮に正式に報告されております」


 レイナはゆっくりと息を吐いた。


(これほど揃っているなら……離縁の正当性は十分通る)


 リアムを守るための一歩が、確かに形になり始めていた。


「ミア、ありがとう。……でも、まだ油断はできないわ」


「はい。殿下の側近にも、最近焦りが見えます」


「……焦り?」


 レイナが首をかしげたその時――。



 ドンッ!


 扉が強く叩かれた。


「レイナ! いるんだろう!」


 アレンの怒鳴り声。

 リアムがびくりと跳ねて、レイナの後ろに隠れる。


「……どうぞ、お入りください」


 扉が乱暴に開かれると、アレンの目がぎらりと光った。


「レイナ、お前……何をしている」


 怒気を含む声。

 しかしレイナは、ただ淡々と問い返す。


「どういう意味でしょう」


「最近、俺の行動を探らせていると聞いた。

 お前、俺を疑っているのか?」


 レイナは動じない。

 ゆっくりとリアムの手を握り、静かに言った。


「――疑われるような行動をなさっているのは、どちらですか?」


 アレンの動きが一瞬止まる。


 図星だった。


 しかし次の瞬間、彼は怒りに任せて机を叩いた。


「レイナ! 王子妃のくせに俺に歯向かう気か!」


「私は、母として当然のことをしているだけです。

 ……リアムの将来が、あなたの不行動で潰されるわけにはいきません」


 アレンの顔がみるみる赤くなる。


「そんな理屈、王宮が通すと思っているのか!?

 俺は第二王子だぞ!」


「その“王子としての職務”を怠っているから、問題なのです」


 静かに言うレイナ。

 言葉はまるで氷のように冷たく、揺らぎがなかった。


 アレンは歯ぎしりしながら、レイナとリアムを睨みつけた。


「……覚えていろ。お前、後悔するぞ」


 それだけ言い残し、アレンは乱暴に扉を叩きつけるように出て行った。



 残された静寂。

 レイナは震えているリアムを抱き寄せ、ゆっくりと背中を撫でた。


「……怖かったね。でも大丈夫。ママが守るわ」


「……ママ、パパおこってる」


「ええ。でもね、間違っているのはあっちなの」


 レイナの声は小さいけれど、決して折れてはいなかった。


(もう、引き返さない)


 リアムの未来のため。

 自分自身のため。


 レイナの決意は、揺るぎないものになっていた。


 そして――


 アレンの焦りは、さらに大きな失態を生むことになる。


 それが、この後訪れる“決定的な事件”の始まりだった。



---


その晩、王城では大規模な夜会が開かれていた。

 各国の使節も集まる重要な場――王族として失敗は許されない。


 本来なら第二王子アレンも公務として参加するはずだった。


 だが、レイナは知っていた。

 ――アレンが「別の目的」で夜会に行くことを。



 夜会の会場は、豪奢なシャンデリアの光に照らされてきらめいていた。

 楽団の音色、貴族たちの談笑、外交使節たちの静かな会話。それは格式ある王城らしい雰囲気のはずだった。


 しかし。


「……殿下、あれをご覧ください」


「まさか……あれは……?」


 ざわりと、空気が揺れた。


 視線の先――

 アレンが、若い女官を片手に抱え、堂々と人前で酒を注がせながら笑っていたのだ。


 外交の場で、王子が侍女を侍らせている。


 しかも女官の服装は勤務中の制服のまま。


「殿下……その格好のままは……」

「目立ちすぎています……!」


 周囲の貴族たちが止めようとするが、アレンは鼻で笑うだけだった。


「いいではないか。夜会だぞ? 俺の好きにさせろ」


 外交使節が困惑し、他国の姫君たちは眉をひそめる。


 王族として“最悪の振る舞い”だった。



 ちょうどその頃。

 レイナはリアムを寝かしつけたあと、報告書を整理していた。


 そこへ駆け込んできたのは、側仕えのミアだった。


「レイナ様……! 大変です!」


「どうしたの?」


「今夜の夜会で……殿下が……人前で、侍女を……!」


 ミアは言いにくそうに唇を噛んだ。


「外交使節の前で、です。王族として致命的な不敬とみなされ……すでに評議会へ報告が……」


 レイナは静かに目を伏せた。


(……やはり、やってしまったのね)


 この時点で、アレンの立場は危うい。

 ただの不真面目ではなく“国際的な問題を起こした王子”になってしまった。


 ――これで離縁の準備は、ほぼ整った。



 夜会の終盤。


「殿下、もうお引きください! これ以上は――」


「離せ! 俺は王子だぞ!」


 側近が止めても、アレンは酔って聞く耳を持たない。


 その時――


「第二王子殿下!」

 場内に響く大声。


 王国宰相が険しい顔で現れた。

 場の空気が一瞬で凍りつく。


「外交の場で侍女を侍らせるとは……何を考えておられる」


「な、なんだその言い方は。俺は王子だぞ!」


「だからこそ問題なのです。

 本日あなたが行った行為は、国際礼儀に反し、王国の信用を傷つけました」


 アレンの目が見開かれる。


「……は?」


「王族としての職務放棄、度重なる遅刻、夜会での不敬行為。

 本件はすべて記録に残ります。評議会が正式に調査に入るでしょう」


 ざわめく会場。

 外交使節たちの冷たい視線。


 アレンは、初めて自分の失態の大きさに気づいた。


「ま、待て……これは……レイナが……あいつが俺を悪く――」


「殿下。責任転嫁は見苦しいですよ」


 宰相の一言で、アレンは完全に黙った。



 夜会は混乱したまま終わり、翌朝には王都中に噂が広がっていた。


 ――第二王子、外交の場での醜態。

――王国宰相、正式に調査を宣言。


 レイナは報告を聞き、胸の奥で静かに思った。


(……これで、決定的ね)


 リアムを抱き寄せ、優しく背中を撫でる。


「ママ、どうしたの?」


「ううん。……もうすぐ、あなたを前みたいに怯えさせることはなくなるわ」


 柔らかい声。

 しかしレイナの瞳は、確かに未来を見据えていた。


 ――離縁と身分剥奪を求める準備は、整いつつある。


 そして次章、“運命の日”が訪れる。



---


王宮に戻ったレイナを迎えたのは、アレンの不機嫌な声だった。


 「遅い。どこを歩き回っていた?」


 レイナは息子リアムの肩をそっと抱き寄せた。

 アレンの声を聞くと、リアムはいつも少しだけ怯えるのだ。


 「図書室で資料を借りていただけです。明日の会議のための――」


 「言い訳は聞いていない。俺の妻なら、俺の前に最優先で立て」


 その言葉に、レイナの胸がひやりと冷えた。

 以前は優しかった。

 だが今は、何もかも自分中心の物言いになっている。


 アレンはレイナの手首を掴み、引き寄せようとした――その瞬間。


 「……やめて」


 小さな声がした。


 レイナの後ろに隠れていたリアムが、震える手でアレンの服の裾を掴んでいた。


 「ママ、いたいのやだ」


 アレンは動きを止めた。

 まさか三歳の子に止められるとは思わなかったのだろう。


 レイナはそっとリアムを抱き上げる。


 「リアム、ありがとう。でも大丈夫よ」


 アレンは苛立ちを隠せず、舌打ちをした。


 「……いい。用が済んだ。下がれ」


 その背中を見つめながら、レイナの心に決意が固まっていく。


 (もう、この人のそばにいたら……リアムまで壊れてしまう)


 離縁の準備は進んでいる。

 証拠も揃い始めている。

 王宮の重臣たちの中にも、アレンの横暴に眉をひそめる者が増えていた。


 ――今日。リアムの声で止まったあの瞬間。


 レイナは初めて“恐怖より怒りが勝った”のを感じた。


 この子だけは、絶対に守る。


 レイナはリアムをぎゅっと抱きしめ、静かに目を閉じた。


 「もうすぐよ、リアム。もうすぐ全部終わるから」


 その言葉は、まだ誰にも聞かれていなかった。



---


レイナはリアムを女官に預け、王宮の小会議室へ向かった。


 今日は“ある人物”と会う約束があった。

 離縁に向けて、どうしても押さえておきたい事があったからだ。


 レイナが椅子に腰を下ろすと、静かに扉が開いた。


 「お待たせしました、レイナ様」


 姿を見せたのは、アレンの直属侍従である青年、カークだった。

 彼はいつも無表情だが、今日はどこか疲れたような顔をしている。


 「急に呼び出してしまってごめんなさい」


 「いえ……むしろ私のほうが、これをお渡ししたくて」


 そう言ってカークは、分厚い書類束をレイナの前に置いた。


 「……これは?」


 「アレン様がここ数ヶ月、王宮外で行っていた取引の記録です」


 レイナは息を呑んだ。

 そこには、通常の王族が絶対に触れてはいけない“私的な金銭の流れ”が事細かに書かれていた。


 (こんなに……? どうしてカークが、ここまで……)


 レイナが戸惑っていると、カークが静かに口を開いた。


 「……正直に申し上げます。

 私は見ていられなかったのです。あの方があなたをどれだけ軽んじ、リアム様にまで冷たい目を向けるのか」


 レイナの胸が痛んだ。

 自分の苦しさを、誰かが“ちゃんと見ていた”という事実が、涙を誘いそうだった。


 「でも……なぜ今?」


 カークは少しだけ視線を落とした。


 「アレン様は、あなたを“問題の元”と見なしています。

 本気で、離縁した後にリアム様まで屋敷から外すつもりでした」


 レイナの指先が震えた。


 ――この人はもう、夫でも父親でもない。


 それがはっきり分かった。


 「……ありがとう、カーク。この記録があれば、私は動けるわ」


 レイナは書類を胸に抱きしめた。

 これでようやく、アレンが“自分の力だけで”崩れていく準備が整ったのだ。


 その時だった。


 「レイナ様、お知らせがございます!」


 侍女が慌てて部屋に飛び込んできた。


 「アレン殿下が――」


 「アレンが?」


 侍女は息を整えて答えた。


 「外部商会との不正が発覚し、王宮の監査室に連行されたそうです!」


 小会議室に、静かな波が走る。


 レイナは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸った。


 (……やっと、動いた。)


 カークの持ってきた決定的な証拠と、王宮内部の監査――

 これでアレンの“仮面”はもう保てない。


 レイナは静かに立ち上がった。


 「リアムのところへ戻るわ」


 ――彼女の歩調は、これまでで一番ブレていなかった。



---


王宮内はざわついていた。


 アレンが監査室に連行されたという知らせは、瞬く間に広がり、重臣たちが慌ただしく動き回っている。


 レイナはその喧噪から少し離れた廊下を、静かに歩いていた。

 腕の中には、まだ幼いリアムが抱かれている。


 「ママ、きょうはどこいくの?」


 「大事なお話をしに行くのよ。でも……リアムはずっとママのそばにいるからね」


 リアムは安心したように小さく頷いた。


 ――これだけはゆるがない。

 レイナが守るべきものは、この小さな命ただひとつ。


 ◆


 監査室の前。

 重厚な扉の前で、文官たちが資料を抱え、出入りしていた。


 扉が開いた瞬間、室内の空気が外へ漏れ出す。


 冷たい緊張。

 低く抑えられた声。

 何かが崩れていく予感。


 やがら、戸口に護衛が立ち、アレンが姿を現した。


 乱れた髪。

 わずかに荒い呼吸。

 そして何より――“自分に起きていることが理解できていない”ような、困惑した瞳。


 レイナを見ると、一瞬驚いた表情を浮かべた。


 「……レイナ? なぜここに――」


 レイナは微笑み、リアムを抱き直した。


 「あなたに、伝えることがあって来たのよ」


 アレンは眉をひそめる。


 「今、俺は監査中だ。こんな時に来てどうする。後にしろ」


 その言葉に、レイナは首を横に振った。


 「後にはしないわ。これは“今”伝えるべきことだから」


 アレンは苛立ったように息を吐いた。


 「……なんだ。その子どもまで連れて」


 レイナは静かに言った。


 「アレン。私は正式に離縁を申し出ます」


 廊下の空気が止まった。

 書類を抱えていた文官が、動きを忘れたように固まる。


 アレンはレイナを見つめたまま動かない。


 「……冗談だろう」


 「冗談ではないわ。あなたの行いは、もう夫としても父としても許されるものではない。

 私はリアムと生きることを選ぶ。あなたの元には戻らない」


 アレンの手が震えた。

 怒りか、焦りか、プライドが崩れる音か――

 レイナにはもう、それを読み解く気もなかった。


 「レイナ。お前……俺を見捨てるというのか?」


 レイナは一歩踏み出し、やさしく、しかし迷いなく言った。


 「いいえ。あなたが先に“家族を見捨てた”のよ」


 アレンは言葉を失った。


 周囲の重臣たちが次々と視線を交わす。

 この場での離縁宣言は、もはやただの夫婦のもめごとではない。

 王族としての立場さえ揺るがす行為だ。


 レイナは深く一礼し、その場を離れた。


 アレンは伸ばしかけた手を、宙で止めたまま――ただ立ち尽くしていた。


 ◆


 扉を出ると、リアムがレイナの胸に顔をうずめた。


 「ママ、こわかった?」


 レイナはふっと笑った。


 「少しだけ。でもね……これで全部、変わるのよ」


 リアムを抱きしめながら歩くレイナの背筋は、これまでで一番強く、しなやかだった。



---



アレンが監査室へ連行されてから三日。

 王宮は前代未聞の騒動に包まれていた。


 外部商会との裏取引、私的流用、そして家族への冷酷な扱い――

 どれも証拠が揃い、隠す余地はなかった。


 ついに、国王の口から正式な言葉が告げられる。


 「アレンの地位を当面停止する」


 王宮中にその声が広がった瞬間、レイナはそっと息を吐いた。

 終わった、というより――“終わりに向かって進み始めた”という確かな実感だった。


 リアムはレイナのスカートを握り、ぽつりと呟いた。


 「ママ、あのおじさん、もうこわくない?」


 レイナはしゃがみ、目線を合わせて微笑んだ。


 「もう怖くないわ。これからはずっと、リアムと一緒に安心していられる場所で暮らすのよ」


 リアムはほっとしたように胸に飛び込んできた。


 ◆


 王宮での離縁手続きは速やかに進められた。


 アレン側には抗議の余地がほとんどない。

 彼自身が積み重ねた不正と、周囲への横暴がすべて裏目に出たのだ。


 ――ざまぁと言うには、静かで、しかし確実な転落。


 レイナはただ淡々と、必要な印にサインをし、証人の前で“家を出る権利”を得た。


 手続き後、侍従長が深く頭を下げる。


 「レイナ様、おつらいことも多かったでしょう。どうか、これからは……」


 「大丈夫よ。私はもう、後ろを振り返らないわ」


 その言葉は、嘘ではなかった。


 ◆


 午後。

 レイナとリアムは荷物を積み、小さな馬車に乗って王宮を後にした。


 新しい家は王都の端にある、小規模な屋敷。

 決して豪華ではないが、陽当たりが良く、庭も広い。


 馬車が止まると、リアムは興味津々で身を乗り出した。


 「ここが……ぼくのおうち?」


「そうよ。今日からここが、私たちの家」


 扉を開けると、温かい木の匂いがした。

 王宮の冷たい石造りの廊下とは違う、ほっと落ち着く空気。


 レイナはゆっくり家の中を歩き、窓から差し込む日差しを手のひらで受けた。


 (こんなに……明るい場所で暮らすの、久しぶり)


 リアムは庭に駆け出して、転びそうになりながら笑っている。


 「ママ! ここ広い! ぼく、いっぱい走れる!」


 レイナも思わず笑った。


 「ええ、いっぱい遊んでいいのよ」


 その時、背後で小さな気配がした。


 振り返ると、カークが立っていた。

 あの時、証拠を渡してくれた青年だ。


 「レイナ様。新しい生活のため、最低限の設備と護衛体制を整えておきました。

  ……ここなら、安心して暮らせるはずです」


 「本当に、ありがとう。あなたがいなければ、ここまで来られなかったわ」


 カークはわずかに微笑んだ。


 「あなたとリアム様のために動くことは、当然のことです」


 その言葉に、レイナは胸があたたかくなった。


 ――もう、孤独ではない。


 リアムの笑い声が庭に響く。

 太陽が沈みかけ、家の中に金色の光が差し込む。


 レイナは小さく息を吸い、静かに呟いた。


 「ここから……新しい人生が始まるのね」


 そう言った横顔は、以前のように怯えていなかった。

 強くて、しなやかで、母としての誇りを宿していた。



---


新しい家での生活は、驚くほど穏やかだった。


 朝は鳥の声で起き、リアムと朝食をとり、庭で遊び、午後はレイナが家事や依頼書の整理をしながら、リアムは絵本を読む。


 ――王宮で過ごしていた日々とは、あまりに違いすぎた。


 レイナは何度も、胸の奥が温かくなる瞬間を感じていた。


 「ママ、みて! おはな、さいてる!」


 リアムが庭で摘んだ小さな花を見せてくる。


 「きれいね。リアムが見つけてくれたから、もっときれいに見えるわ」


 リアムは嬉しそうに笑い、レイナの手の上に花を置いた。


 ――この子を守るためなら、どんな道でも歩ける。


 そう素直に思えた。


 ◆


 そんな穏やかな日々が続いていた頃、王宮から使者が訪れた。


 レイナは玄関で迎える。


 「レイナ様、お伝えすべきことがあります」


 分厚い封筒が差し出される。

 そこには王家の紋章が押されていた。


 「アレンの件でしょうか?」


 使者は静かに頷いた。


 「監査の結果、アレン殿下は正式に地位を剥奪。

 王宮からの出入りも制限され、すべての私的資産も調査下に置かれました」


 レイナは目を閉じ、息をゆっくり吐いた。


 ――あれほど、すべてを自分の思い通りにしようとしていた人が。


 「……それで、アレンは?」


 「ご自分の状況を、まだ受け入れられないようです。

 ですが……これ以上、レイナ様へ接触することも不可能になりました」


 それは、レイナにとって“完全な自由”を意味していた。


 レイナは深く礼を述べ、封筒を受け取った。


 ◆


 夜。

 レイナは封筒を開き、中の正式書類に目を通した。


 そこにはアレンの失脚が確定したこと、

 そしてレイナとリアムの安全が王家によって保障されたことが書かれている。


 リアムはレイナの隣で、スヤスヤと寝息を立てていた。

 子どもの安心した寝顔は、何よりの贈り物だった。


 (これで……すべて終わった)


 レイナはそっとリアムの髪を撫でながら思う。


 アレンのざまぁは派手ではない。

 けれど、彼が欲しがっていた“力も立場も家族も”すべて、自分の手で手放した結果だった。


 あの日アレンがレイナを軽んじ、リアムに冷たい視線を向けた瞬間から――

 この終わりは決まっていたのだ。


 レイナは窓の外を見上げた。

 月が静かに浮かんでいる。


 「リアム……明日もいい日になるわね」


 レイナが微笑むと、眠っているリアムが小さく指を動かした。


 その小さな手を、レイナは優しく握った。


 新しい日々は、まだ始まったばかりだった。



---


とうとう、この日が来た。


レイナは深く息を吸い込み、朝陽を浴びながら鏡の前に立った。

頬には薄く紅をのせただけ。それでも、かつてアレンに怯えていた頃よりずっと強い顔をしている。


「……もう、大丈夫よ」


隣の部屋では、リアムが木の積み木で遊んでいた。

レイナの姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせる。


「まま!今日、おでかけ?」


「ええ。少しだけお仕事。でもすぐ戻るわ」


そう言って抱きしめると、あの小さな手がぎゅっとレイナの服を掴んだ。

それだけで、もう十分に戦える気がした。



---


◆王宮・大広間


アレンは余裕の笑みを浮かべていた。

今日、自分が“被害者ヅラをした妻”を裁く場だと思っている。


だが――その油断こそが、終わりの始まりだった。


白い大扉が開き、レイナが姿を現した。

軽やかなドレスに、ゆるくまとめた髪。

表情は calm。

怯えていたころの面影はどこにもない。


(……なんだ、その顔は)


アレンは無意識に歯ぎしりした。


王太子エリオットが前に出る。


「アレン・グランツ。これより、あなたに対する“家庭内暴力”および“家族への財産搾取”について審議する」


「は? DV? 財産? 俺が妻に? そんなわけ――」


アレンが言い切る前に、王太子が手をあげた。


「証人、入れ」


重い扉が再び開く。

そこに立っていたのは――使用人の初老の女性。

アレンが最も舐めてかかっていた相手。


「……あなたは?」


「レイナ様の元侍女でございます。旦那様からの暴言、暴力……毎晩のように聞いておりました」


アレンの顔色が変わる。


「な、なんでお前が……お前、口外したら家族を……!」


王太子が冷たい声で告げた。


「脅しの証拠、すべて録音されていたようだ」


アレンの目が大きく見開かれる。


続いて、レイナが静かに一歩前に出る。


「あなたに怯える生活は……もう終わりよ、アレン」


その声は震えていなかった。



---


◆証拠の提示


・アレンが侍女を脅す録音

・レイナの腕や背中の傷の診断書

・アレンがレイナ名義の財産を勝手に引き出した記録

・パーティーで女性と抱き合っていた証人の証言


次々と並ぶ証拠に、貴族たちはざわつく。


アレンは唇を噛み、机を叩いた。


「違う!これは全部、レイナが俺を貶めるために――!」


「アレンさん」


レイナは静かに言った。


「私があなたを貶める価値なんて、もうどこにもないわ」


アレンの目が揺れた。


「あなたを愛していた頃の私は、もういないもの」


まっすぐなその言葉は、アレンの胸へ鋭く刺さった。



---


◆夫の終わり


王太子が最後の判断を下した。


「アレン・グランツ。あなたは婚姻契約の破棄、財産の返還、そしてしばらくの謹慎処分を命じる」


アレンの顔から完全に血の気が引く。


「は……?謹慎?俺が……?」


「当然でしょう。あなたはレイナ様にも、子どもにも危害を加えた。それを国は許さない」


レイナは淡々と最後の一言を告げた。


「さようなら、アレン。

あなたにもう、私の人生を壊させない」


大広間の扉が閉じる。

その音が、アレンの“断罪”の終わりだった。



---


アレンの断罪から三日後。

レイナは久しぶりに、胸の奥に重い石がない朝を迎えた。


まだ薄暗い部屋の中で布団がもぞもぞ動き、

小さな顔がひょこっと覗く。


「……まま、おきた?」


「おはよう、リアム」


言った瞬間、レイナの腕にぱたぱたと抱きついてくる。

その温かさだけで、胸の奥がじんわり満たされる。


「きょうも、いっしょ?」


「ええ。もうずっと一緒よ」


あの人に怯えて泣く夜も、急に怒鳴られる心配もない。

ルカをかばうために自分の身体を盾にする必要も――もう一切、ない。


レイナはようやくその事実を噛みしめるように、

小さく息を吐いた。



---


◆新しい家


王宮から少し離れたところに、

レイナとリアムは小さな家を与えられた。


庭もあるし、陽当たりもいい。

三歳の子どもが思いっきり走り回るには十分。


「まま、みて!!おはながさいてる!」


庭で跳ね回るルカの声が風にのって響く。

その姿を見ているだけで、レイナの胸はほどけるように柔らかくなる。


(もう、泣かせたくない)


アレンから逃げたかった理由はひとつ。

この子だけは、守りたかった。



---


◆仕事の再開


レイナはもともと非常に“頭の切れる女性”だった。


アレンに抑えつけられていた頃は気づかなかったが、

各家から「ぜひ相談に乗ってほしい」と依頼が舞い込んでくる。


それは、貴族間の交渉、調査、書類整理など、

レイナが得意とする分野ばかりだった。


「レイナ様、あの件ですが――」


旧知の貴族が訪ねてきた。


「その条件で問題ありません。こちらも資料をまとめておきます」


堂々と話すその姿に、相手は素直に敬意を払う。

数年前まで震えながら夫の顔色をうかがっていた人間とは思えないほどだ。



---


◆夜、二人だけの時間


仕事を終え、リアムを寝かしつけたあと。

レイナは机に向かい書類を整理していた。


ふと、ドアがこつん、と叩かれる。


「まま……ねむれない」


レイナは微笑んで手を止めた。


「おいで」


小さな体がぎゅっと抱きついてくる。

レイナはルカの背中を優しく撫でながら、静かに窓の外を見た。


“こんな当たり前の夜”が、夢みたいだった頃がある。


「リアム。

あなたがいてくれたから、私はここまで来られたのよ」


「まま、ぼくがまもる!」


「ふふ……頼もしいわね」


そのやり取りだけで、胸が温かくなって涙が滲みそうになる。



---


◆レイナの決意


リアムを寝かしつけたあと、

レイナはそっと自分の手を握り締めた。


(私たちはこれから幸せになる。絶対に)


夫に怯える過去は終わった。

見下され、押し込められ、心を踏みにじられた日々も。


もう二度と戻らない。


ここからは――

レイナとリカムのためだけの、新しい人生。



---

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嘘で縛る夫へ。私は息子と幸せになります 月宮 翠 @Moon_Sui3

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